かごめ
二ノ前はじめ@ninomaehajime
かごめ
咳を何度も繰り返し、その中に
日が高い時刻に
まだ生に未練があるのか。皮肉げに笑い、口元を拭う。
咳の音を響かせながら、森の中を歩き回った。
枝木のあいだをすり抜けて、歌声が耳に届いた。
かごめ かごめ
少女の歌声だった。美しく澄んでいる。深い
かごのなかのとりは
いついつでやる
その不思議な歌に足が引き寄せられた。どうして森の中で若い娘が歌っているのだろう。迷い子でも入りこんだか。
今まで立ち入ったことのない森の奥へと導かれる。
正しくは、太い幹に彫刻された女の
どこの物好きが彫ったのだろう。男はその彫刻を観察した。顔を寄せると、横一文字に彫られた目がわずかに開いた。ごくごく単純な細工の向こうから、確かに視線を感じた。
これは彫り物ではない。男は泡を食って尻餅をついた。採取した薬草を籠から飛び出し、地面に散乱する。こけつまろびつ逃げ出した。あの歌声が追いかけてくる。
うしろのしょうめん だれ
無我夢中で森の中を駆け抜けた。やがて妙な感覚に見舞われた。それほど広くはないはずなのに、
やがて疲れ果て、足を止めた。
かごめ かごめ
耳の中で繰り返される。何もかもが妙だった。おおよそ半日を
いついつでやる
あの松の大木の前まで戻ってきた。いつの間にか歌声は止んでいる。その幹には変わらず少女とも老女ともつかぬ晴れ着姿の女が佇んでいる。
「お前の
意を決して話しかける。しばらく反応はなかった。
「俺をここから出せ、化け物め」
やがて女の顔面に
「は――」
長い間があった。
「あの歌を歌っていたのはお前だろう。何とか言え」
興奮して、肩で呼吸する。やがて幹の表面の女が次の言葉を発する。
「じ――」
また沈黙があった。いや、よくよく見れば空洞の口が少しずつ形を変えている。男は一考した。まさか、この木の化け物は喋るのに時間がかかるのか。
そう考えた彼は、辛抱強く待つことにした。何にせよ、この森から抜け出す糸口は他にない。耳に意識を集中させる。そうして拾い上げた言葉は、次の通りだった。
「は、じ、め、ま、し、て」
聞き終えた後、男は怒りを通り越して呆れ返った。自分を得体の知れない場所に閉じこめておいて、初めましても何もあったものではない。
近寄る勇気はなかったため、小石を拾い上げて投げつけた。女の
「ふざけるな。その顔面を削られたくなかったら、俺をこの森から出せ」
まがりなりにも意思疎通ができる相手とわかったからか、男は強気に出た。松の木の女は反応を見せず、静かに佇んでいる。本当に顔面を削ってやろうかと思って、止めた。木彫とはいえ、女の顔を傷つけるのは気が引けた。
舌打ちをし、大股でその場から離れる。背後でまた歌声がした。
かごのなかのとりは いついつでやる
はたと気づいて口を押さえる。あの奇妙な松の女に出会ってから、一度たりとも咳が出ていない。激しく体を動かした直後は発作に見舞われるのが常なのに、全力疾走した後でさえ息を切らすだけで済んだ。男は深く考える。
まさか、この森では時が止まっているのか。仰ぐと、日の高さが変わらない陽光が揺らめいていた。
「お前は何がしたい。俺を閉じこめて、何の利がある」
籠を下ろして、老樹の前で
「か、ご、め」
幹の表面に刻まれた女は、少し嬉しそうに笑った気がした。
男は頭を掻く。まるで目的がわからない。少しでも抜け道を探るために、長い時間をかけて対話を
「なあ、かごめ。お前はいつからここにいるんだ」
「は、じ、め、か、ら」
「ここでは時は過ぎないのか」
「か、わ、ら、な、い」
「どうやったら出られる」
「わ、か、ら、な、い」
ここまでの会話を
「もしやお前が閉じこめたのではなく、俺がここに入りこんだのか」
木の中の女は、わずかに軋みながら小さく頷く。
男は頭を抱えた。この得体の知れない木の化け物が自分を閉じこめたのではないとすれば、いよいよ抜け出す
また
ここでは時が進まない。ならば、自分が
別の自分が問いかける。ここで永遠の時を生きるのか。この延々と続く森の中で、あの尽きることのない歌声を耳にしながら。繰り返される歌を、久しぶりに意識した。
かごのなかのとりは いついつでやる
気づけば、男は駆け出していた。叢を揺らし、歌声の
血走った目で、地面に落ちていた石を拾い上げた。松の木の幹に駆け寄り、
能面じみた顔の前で、その手が止まる。指の中から石が落ちた。
「なあ、頼むよ。かごめ」
そのまま幹に彫られた女の晴れ着に
「長く生きられなくてもいい。俺は人として死にたい。故郷に骨を埋めたいんだ」
その
すぐ頭上で何かが軋む音がした。泣き腫らした目で見上げる。わずかに幹が震えていた。男は驚いて飛び退く。今まで同じ姿勢だった女の立ち姿が、少しずつ変わっていく。幹に
大きな亀裂が走った幹の中で、真横を指差した女が言った。
「む――」
「こ――」
「う――」
その言葉を聞いて、呆然としていた男が目を見開く。傷ついた松の女に尋ねた。
「向こうに行けば、出られるのか」
顔面まで罅割れた女はかすかに頷く。男は立ち上がった。彼女が指差した方向へ走り出す。背後からあの歌声が送られる。その声は以前よりもしわがれていた。
かごめ かごめ
木立のあいだを駆け抜けるうちに、森の様子が変わっていることに気づいた。日が傾いている。時が進んでいるのだ。男は確信し、足を緩めなかった。
かごのなかのとりは いついつでやる
草木の
よあけのばんに
つるとかめがすべった
森を抜けて目にした光景に、
外界の様子が大きく
その場に立ち尽くしていると、道の向こうから何かが向かってきた。そちらへ
今のは何だ。呆然としていると、今度は
童の一人がこちらを指差した。
「あの人、変な格好」
「時代劇の撮影?」
「ねえ、おじさん。大丈夫?」
気づけば、童たちが目の前にいた。同じ人の皮を被っているのに、自分とは全く異なる生き物に見えた。
違う。ここは自分が知っている人の世ではない。
木々のあいだを駆けるうちに、あの聞き慣れた歌声が耳に入ってきた。足がそちらへと引き寄せられる。あの立派な松の木の前まで戻ってきた。幹に入っていた亀裂は、痕跡だけを残して塞がっていた。
以前と同じ佇まいで、かごめが言った。
「お――」
まだ一文字なのに、何を言おうとしているのかわかった。
かごめ 二ノ前はじめ@ninomaehajime @ninomaehajime
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