ある男とピンク色の犬の話
深見萩緒
ある男とピンク色の犬の話
ピンク色の犬がいる。
そんなものはいない。あなたはそう思っただろう。あなたの精神は常識と固定観念の檻に囚われているので当然だ。四角四面の凡庸な感性しか育めていないことは、現代に蔓延る過剰な平均化教育の結果ともいえ、凡庸なあなたに責任はないので安心してほしい。
あるいは、「ピンク色の犬もいるかもしれない」と思っただろうか。あなたは人の言葉を鵜呑みにしすぎる。少しは自分の頭で考えて判断しなければ、オレオレ詐欺や闇バイトの良いカモになるだろう。
あるいは、「ピンク色の犬だっていて良いじゃないか」と思ったかもしれない。なんと傲慢な言い草だろう。「いて良い」とは何事か。あなたの許可などなくとも、ピンク色の犬は存在するのである。どうせ普段からマイノリティに関心を向けるふりをして多様性に共感のある自分カッコイイ、などと悦に入っているのだろう。虫唾が走る。
ともかくピンク色の犬がいる。いたのだ。ピンク色の犬、つまりピンク犬は、ピンクゆえにほかの犬たちからいじめられている。本人、いや本犬も、いじめられることは仕方がないと思っていた。なぜならピンクの犬など普通ではない。ここであなたは、人には散々常識と固定観念だの凡庸な感性だの詐欺被害者候補だの傲慢だの言っておいて、お前は「普通」の一言で済ませるんかいと思っただろう。思っていないのだとしたら、あなたはもう少し他者からの悪意に敏感になった方が良い。
話を続けよう。ピンク犬は普通ではないゆえにいじめられている。話は、阿久津という男がこのピンク犬を保護するところから始まる。
保護といっては少々阿久津に都合が良すぎるかもしれない。阿久津はただ、ピンク犬のピンクの首に首輪をつけただけだった。
今でこそ犬という犬が室内で飼育され、屋外で飼おうものなら鬼か悪魔かと批判され罵倒され中傷される時代であるが、阿久津の生きた時代はそうではなかった。犬が室内に足を踏み入れようものなら「この犬っころ!」という罵声と共に蹴り出されるのが常であった。阿久津ももちろんそのクチで、ピンク犬を決して家に上げようとはしなかった。もっとも阿久津こそ他人から「この犬っころ!」と罵声を浴びせられるタイプの人間で、彼の家というのも犬小屋に負けず劣らずの掘っ立て小屋だったのだが、ボロに引っ掛かったわずかのプライドが阿久津にもあったのだ。
掘っ立て小屋の裏に杭を打ち込んで、阿久津はピンク犬をそこへ繋いだ。ピンク犬は杭に繋がれて一度だけヒンと鳴いたが、その一度のほかは少しも鳴き声を立てず大人しいものだった。野犬の仲間たちの機嫌を窺いつつ、群れの最後尾にひょこひょことついて行く生活にうんざりしていたのかもしれない。であれば、飼い犬になった方がいくらかましだと判断したのだろう。
阿久津は人間性においても社会性においても下から数えた方が早いような男だったが、動物には優しかった――などということも特にない。室内飼育をしないのは時代柄だとして、しかし博打に負けたときやホステスにあからさまに馬鹿にされたときなどは、ピンク犬を蹴っ飛ばすことで鬱憤を晴らすのだ。
ではなぜ阿久津は好きでもないピンク犬を飼い始めたのか。それはもちろん金儲けのために違いないと、あなたは思うだろう。珍しくも、その想定は正解だ。阿久津はあちこちから金を借りていたし、親族や友人らにも金を無心するありさまだった。おまけに怠惰酒飲み博打好きとくれば、首が回らなくなるのも当然というものである。
阿久津は愚鈍だが、ピンク犬が何らか金を生み出すだろうとその程度の知恵は絞り出せた。ではピンク色の犬を使って、阿久津はどのように儲けるつもりだったのか。どうかあなたの知恵もお貸し願いたい。
あなたは考える。見世物にすればいい。さあ寄ってらっしゃい見てらっしゃい。世にも珍しいピンクの犬だよ。ところがどっこい、それでは考えが甘いのだ。動物に対する愛護や庇護に満ち溢れた時代に生きるあなたには、想像がつかなくて当然かもしれないが、残念ながら阿久津の生きた時代において、ピンク色の動物というのはあまり珍しいものでもなかったのだ。なにせそこいらのちんけな夏祭りで、ピンク色のひよこやらうさぎやらが売られていたのである。緑とか青とか黄色とかもいた。これらはかわいそうに着色料のスプレーを振りかけられ、スプレーを乾かすためにと熱風を浴びせかけられ、ダニやらノミやら乾癬やらが蔓延した木箱にぎちぎちに詰められた命たちである。そんなわけでピンクの犬でございとやっても、へえ手間かけて色付けたんだねえと解釈されるのがせいぜいなのである。
次にあなたは考える。売ってしまえばいい。生体のままでも毛皮でもいい。見るやつが見れば、染め物のピンク色とは全く違うことが分かるだろう。価値の分かるやつに、高値で売りつければいい。マニアとか、動物の研究者とかでもいいだろう。しかしそうもならなかった。なぜなのか? この点については、時代背景はあまり関係がない。単純に、阿久津が
阿久津はピンク犬を手元に置いておくことにこだわった。誰かに売り払ってしまえば、阿久津より遥かに頭の良いその誰かは、阿久津の頭ではとうてい思いつかない名案により、ピンク犬を使って更なる金儲けをするだろう。ピンク犬の所有権を売り渡してしまった愚かな阿久津は、それを歯噛みしながら見ているほかないのである。阿久津はその光景を想像し、想像の悔しさに歯噛みをし、決してピンク犬を手放すまいと心に決めるのだ。
自分ではない誰かが金を儲けたからといって、それは「得をしなかった」であり「損をした」とは違うはずだ。しかし阿久津に限らず多くの人間は、恐らくあなたもであるが、「得をしなかった」と「損をした」とを容易に混同する。凡庸なおのれの力量を勘定に入れず、天地が引っ繰り返ってもできなかったであろう得を皮算用し、「ああ損をした損をした」などとのたまうのである。
例に漏れず莫迦な阿久津も、その莫迦な理論をもって「おれは損をしたくない」と躍起になり、誰になんと言われようとピンク犬を手放さなかった。やがて阿久津の行動範囲内の人間が、やあ阿呆の阿久津がまたけったいな犬を連れてるよとにやにやからかうようになったころ、阿久津は生まれ育った町に見切りをつけて、ピンク犬を片手に放浪の旅を始めたのであった。
放浪の旅などと言えば聞こえは良いが、ご想像の通りそれは放浪というよりも浮浪に近いうろつきだった。ピンク犬は文句も言わずに阿久津のあとをついてまわった。リードというには粗末が過ぎる麻縄を首に結わえられ、時おり苛立った阿久津に強く引っ張られ、その時だけはヒンと小さく鳴いた。
阿久津は全国津々浦々を歩き、さあ寄ってらっしゃい見てらっしゃいをやった。どこへ行っても、人々の反応は大して変わりはしなかった。そのたびに阿久津はチェッと舌を打ち、小銭のひとつも投げてよこさない群衆を口汚く罵った。そしてピンク犬を引きつれて、また次の町へと向かうのだった。
その日限りの生活を阿久津は続けた。頭の出来は悪くとも体は人並みに丈夫なのだから、日雇いの仕事にでも就けばいいものを、阿久津はピンク犬を使い楽をして金儲けをすることにいやにこだわっていたので、そうすることもなかった。ドヤ街の隅でしゃばしゃばの雑炊をすすり、残りの汁をピンク犬に舐めさせる。犬猫に塩分は厳禁との見地が現代では一般的に広がっているが、当時は誰も気にしておらず、人間の残飯を当たり前のように与えていた。もちろん時代背景に関係なく、阿久津は犬に残飯を与えるタイプの人間であったし、そもそも阿久津が口にしているのも残飯のようなものだった。
阿久津とピンク犬はほとんど同じものを食べて生きた。バランスのいい栄養素どころか必要なカロリーすら摂取できない日々の食事に、一人と一匹はみるみるうちに痩せ細っていったが、そんなことを気にするものはどこにもなかった。痩せた浮浪者もピンク色の犬も、たいして珍しいものではなかったのだ。
ここまで読んだあなたは、この小説は結局何が言いたいのだと苛々していることだろう。どうしようもない駄目人間と、いじめられのけ者にされた犬との感動の絆でも書きたいのか。どうせお涙頂戴だろう。起承転結もなくだらだらと情報量の少ない長文ばかり連ねやがって。などなど、思っているに違いない。
あなたの心に阿久津やピンク犬への同情など微塵もない。阿久津はともかく、かわいそうなピンク色の犬には少しくらい心を寄せてやってもいいのではないかと思うが、あなたはそれすら放棄する。
なぜなら、ピンク色の犬なんていないからだ。
放浪のすえにとある港町へ辿り着いた阿久津は、とうとう力尽き薄暗い路地裏に倒れ込んだ。博打狂いが最期に流れ着くのは、場末の港町だと相場が決まっている。そういった意味では阿久津の生き方は非常に生真面目であったのかもしれない。阿久津の人生は駄目人間としては模範的で、博打に狂い酒に溺れ殴り殴られ行き倒れるまで、きっちりとパターン通りだった。ただひとつ、ピンク色の犬の存在だけが彼の人生の中で唯一イレギュラーなものだったのだが、それも彼の人生を変えるには至らなかったのだから、結局はいてもいなくても同じだったのだ。つまり、ピンク色の犬なんて最初からいなかった。
噛み終えたチューインガムや痰やゲロと一緒になって、阿久津は路地裏にへばりついた。へばりついたまま、二度と剥がれることはなかった。その無価値な命がついえる間際に、阿久津は震える手で、ピンク犬の首から麻縄をほどいてやった。ピンク犬は悲しげに阿久津の頬を舐め、骨と皮ばかりになった体で阿久津に寄り添い、決して離れようとはしなかった……などということはなく、何年かぶりに自由になった首を後ろ脚でぼりぼり掻いた。そして一度ヒンと鳴いて、阿久津の方など見向きもせずに、その場を立ち去った。
ピンク色の犬なんていなかった。やがて阿久津が死ねば、ピンク犬と共に各地を放浪した日々の記憶もなかったことになる。阿久津の寄ってらっしゃい見てらっしゃいに寄って行って見て行った人々は、「ああピンクの犬ね。あの頃、動物に色をつけるのが流行ってたよね。時代だよね」としか思っていない。よしんばあなたのように人の言葉を鵜呑みにしすぎ、自分の頭で考えて判断をしないカモ人間がいたとして、それもその人間が死んでしまえば、やはりピンク犬の存在は死の彼方へと消えていってしまう。
ピンク色の犬なんて、どこにもいなかったのだ。
浮浪児たちが阿久津の死体から靴やコートをはぎ取っていった。麻縄はひどく汚れていたし、もうほとんど千切れかかっていたので、阿久津の死体と共に放っておかれていた。千切れかけた麻縄を、ピンク犬はなぜ自ら引き千切ろうとしなかったのだろう。ピンク犬は阿久津の傍にいたかったのだと主張したがる、感動ポルノ中毒者もいるだろう。いやそれはピンク犬が学習性無力感に陥っていたからだと分析する、インターネット精神科気取りもいるだろう。ただそこに引き千切られなかった麻縄があるだけで、あなたたちはこうも好き勝手に事実を歪曲することができるのだ。どうとでも好きに妄想するがいい。
いや、この問答すら無意味なのだ。ピンク色の犬なんて始めからいないのだから。阿久津という男が死んだ。生涯、ピンク色の犬がいると主張していた。それだけが真実だ。この結論をあなたが気に入るかどうか、私には分からない。ただ真実というものは、得てして無味無臭で無意味で無価値なものだ。この小説がどのようなものであったか、あなたはすぐに忘れるだろう。少しの苛立ちと不快感はしばらく残るかもしれないが、この小説を読んだことすら、あなたは忘れてしまうだろう。もちろん阿久津のことも、ピンク色の犬のことも。
だけれどピンク色の犬は、本当にいたのだ。私だけがそれを知っている。
おわり
ある男とピンク色の犬の話 深見萩緒 @miscanthus_nogi
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