エピローグ 灯篭流し
(古代を思わせる夢から醒めると、常世物=橘が心地良く香る夜であった)
江戸時代初期の古学者・下河辺長流の詠んだ歌。常世と床夜がかけられている。彼の研究は江戸時代後期の国学の隆盛の先駆けとなった。
――2016年8月。
夜の街から漏れ出す明かりに気圧され気味であったが、それでも色とりどりの灯篭が街の中の川を流れていく。
赤色や橙色、青色の灯篭、中にはピカチュウやジバニャンが描かれた灯篭もある。それらが発する鮮やかな光が川の水面に照らし映され、夜闇の中に不思議な色彩を形作っていた。河川敷は灯篭流しの情景を眺める人々でにぎやいでいた。
「本当に川に流しているんだね。初めて見た」
スマートフォンで写真を撮っていたTシャツ姿で茶髪の若い男がそういうと、連れ立って一緒に立っていた浴衣姿の黒髪の女が「そんなに珍しい?」と口を挟む。
「俺の実家、新興住宅地だったからさ。そういえば盆踊りもなかったな」
そう答えながら茶髪の男はもう何枚か写真を撮る。
「私は地元だし子供の頃から灯篭流しを見てたけど、その頃から見てもずいぶん変わってると思うよ。流す場所も繁華街の近くの河川敷に変わったし、屋台はたくさん出るようになったし、流した灯篭はゴミになるから何百メートル先の下流で回収だし」
女は後ろを向き、ずらりと並んでいる屋台の一つを指さす。
「流す灯篭はそこで五百円で買えるし」
指さした先を男も見ると、屋台の一つで灯篭を売っていた。どうやら観光客はそこで灯篭を買って好きな絵を描いたりして川に流す事ができるらしかった。
「だけどまだ、続いてる」
スマホをしまった男は苦笑いしながら自身もその屋台に近づいていく。並べられていた灯篭の一つを手に取り、屋台の番をしていた老人に千円札と共に差し出す。
「これ下さい」
「――おつり、五百円ね。絵が描きたいならペンを貸すよ」
「いやいいです。……一つ聞きたいんですが、どうして灯篭を川に流すんです?」
「んー……俺も別に詳しくはないんだけどねえ。送り火だし、お寺さんだと施餓鬼だって言うよ。昔は灯篭を小舟に乗せて南無阿弥陀仏とか南無妙法蓮華経とか書いて野菜なんかと一緒に川に流したんだよ。今じゃあ灯篭も簡単な物だし、川を汚すから食べ物も流さないけどね。兄ちゃん、若いのにこういう物に関心を持つのは珍しいね」
「あはは、大学の課題で必要なもんで色々調べないといけないんですよ。あ、お話ありがとうございました」
茶髪の男は老人に軽く会釈し、買った青色紙の灯篭船と共に再び女の所へと戻ってきた。
周りでは浴衣姿の家族連れなどがにぎやかに灯篭を川に流している。彼らも手持ちのライターで短い蝋燭に火を灯し、灯篭の中に固定する。青い紙越しに光がぼんやりと滲み出てきて、これもなかなか神秘的な色彩を放っていた。
その灯篭を川に静かに浮かべる。軽く手で突いてやるとそのまま緩やかに流れに乗って行き、他の多くの灯篭と同じようにゆったりと川を流れて行き始めた。
男と女は屋台で買ったかき氷を片手に河川敷を話しながら歩いている。
「そういえば、再来週から沖縄行くんだっけ? おまけに交通費は大学持ちで。羨ましいな」
「そーでもないよ。考古学の村上先生の発掘の手伝いをやらされるだけだしなあ。たぶん延々穴掘りか雑用だよ」
「アハハ――あの人たしか縄文土器が専門でしょう? 沖縄で何を発掘するの」
「なんでも海沿いの横穴から先史時代の土器やら棄墓が出てきたらしい。で、悪い事に米軍基地移転の候補地にぎりぎり重なるか重ならないかの微妙な場所だから面倒が起きる前に早急に調査したいと」
「へー、それで人文系の学生の暇そうな学生に片っ端から声かけてたんだな。私はバイトあるから断っちゃったけど」
「俺、考古学は専門外もいいとこなんだけどね」
「じゃあなんで請けたの? あ、暇人なのはよーく分かってるんだけど」
「話によると、その棄墓のすぐ傍の洞窟から先史時代よりはだいぶ後の骨が二つ出てきたらしいのだよね。一つは所持品からして旧日本軍の兵士だとすぐ分かったんだけど、もう一つがだいぶ古い。科学鑑定待ちだけど三山成立前後じゃないかって話もある。全然時代の違う骨が同じ洞窟から並んで出てきたらしい」
「それは――例えば戦争中にたまたま迷い込んだ兵士の遺骨だったりしないの?」
「戦史によるとその辺は日本軍が展開してた筈がない地域なんだってさ。まあ末期戦の頃は指揮も崩壊してたからあんまりアテにならないけどね」
「なんだか不思議だね。その人に一体何があったんだろう」
「たまたま見つけた墓穴に入り込んで幻覚でも見ながら死んだのかも知れないし、また違う事があったのかも知れない。――その骨がすごく気になって、行ってみる事にしたんだ」
「へぇー……そういう事なら私も参加してみようかな。どーせ人数は足りてないだろうし」
ふと再び川の方へ目をやると、自分が流した灯篭は他の物と入り混じってどこに行ったのか分からなくなっていた。祭のアナウンスはちょうど太平洋戦争の戦没者追悼のメッセージを流している。
なんとなくと思う。――この灯篭は一体どこへ流れて行くのだろうか。下流でボランティアが回収してるとかそんな話ではない。
仏教の時代になると灯篭船は地獄道や餓鬼道に堕ちた縁者を救うための船になった。戦争が終わると灯篭船には戦没者への祈りも乗せられるようになった。現在はどうだろう? 我々が乗せている想いが何にせよ、沢山の灯篭船がそれまでの人々の想いを乗せて連なるように川を流れて行く。自分も含めて、どこに何を乗せるつもりで川に船を浮かべたのか。一般的には施餓鬼だとか帰るご先祖様を乗せる船だとかいうが、川の先にある場所といえば……。
ヒュルルル――ドン――ドン
ぼんやりと空想に耽っていた男は音と光によって現実に引き戻された。夜闇の中に赤や黄色の鮮やかな光が舞っている。それは空に焚かれる巨大な送り火――打上花火だった。周りの人々も空を見上げながら歓喜の声をあげていた。
川には色とりどりの灯篭が流れ、その淡い光が水面でもまた揺らめいている。空には花火が乱れ咲く。たぶん日本のどこにでもまだかろうじて残っている情景だ。
ずいぶんと〝近代化〟してはいるが、それでも確かに何かが続いている。何処かから来た――何処かへ行く。古代から脈々と続く、今の我々の心をも奥底から揺さぶる幻想が。
「――? あれ、なんで泣いてるの?」
「え?」
スマホで花火の写真を撮っていた女からそう言われ、男ははっとして自分の顔をさわる。たしかに頬を伝って涙の筋が垂れていた。自覚は無かった。
「おかしいな、目にゴミが入ったわけでも――って、君もだよ」
「え?」
女も自分の顔を触り、本当に涙が出ているのに気づいて同じようにきょとんとした顔をしていた。しばらく二人で訝しがっていたが、とうとうその理由は分からなかった。二人が困惑している間にオレンジ味のかき氷はすっかり溶けてしまっていた。
幻想ニライカナイ―海上の道― ハコ @hakoiribox
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