終章 幻想ニライカナイ

 最後に大きく息を吐いてようやく落ち着きを取り戻した宮田は身を起こし、周囲の様子を見渡す。

 四方は全て海に囲まれ陸地らしきものは影も形も見えない。霧もすっかり消え去り、幾つも居た筈の軍艦やボートもいつの間にか姿を消していた。今はもう帆を張ったクリブネが向かい風を切りながら進んで行くありえない光景がそこにあるだけだった。


「帰らなかったのですか? もうきっと、あの洞窟が見つかったでしょうに」

 呑気に海を眺めている彼に、私は思わず苛立った声で問う。すると彼は答えた。

「ああ。見つけたよ。だが行かなかった。俺には浦島太郎のように海辺で侘しく歌を詠むなんて真似はできそうにないしな」

「けど!」

 巫山戯ふざけるような言い回しに対し、自分は大きな声を出した。それに気づいて幾分声を落としたが、しかし強い口調で続ける。私は怒っていた。

「けど、貴方は、宮田様は帰る事ができたのに。帰ればまだまだ沢山の事ができたし色々な事を知る事だってできたのに――何故? どうして?」

「何故って……まァ一番の理由は貴女と一緒に居たかったのだがね」

 思いもよらないような答えに私は面食らってしまい、それ以降の言葉を続ける事はできなかった。

 まさか本当にそれだけの理由でこの男は死者の海を越えてきたのか。自分がどぎまぎとしているのを知ってか知らずか、彼は逆にこう尋ねてきた。


「じゃあ、何故貴女は一人で船に乗ろうと思ったんだね」

「それは――この舟は私を迎えに来たモノだし、私は舟を待っていた。それに……」

「それに?」

「――何よりも、私は死者。冷たい洞窟で朽ち果てている骸骨。貴方は暖かく血も通っている生者。海を渡ってニルヤに往くのは私だけでいい。貴方は早く帰るべきだと思いました」

 私は死者。そう口にした時、微かに唇が震えているのが自分でも分かった。私とこの男にはそういう決して超える事の出来ない隔たりがあるのだ。だから別れていくしかないのだと思っていた。

「まるで黄泉比良坂だな。俺はイザナギのように洞窟を抜けて帰るべきだったか」

「そこまで分かっていたのに、何故戻ってきてしまったのですか? 死者の傍らに居たって貴方も一緒に朽ち果てるだけなのに……」

 嗚呼。私が寂しさに囚われて惑わしたくせに。何をいまさら言っているのだろうか。

 私は彼らの言葉で言うところの黄泉津大神ヨモツオオカミなのかも知れない。訪れた者を絡め取り自らの傍らに未来永劫縛りつけておきたいと願う、暗い冥府の女だ。この男は帰してあげたいと思った筈なのに結局私の元に舞い戻ってきてしまった。

 私に交わった者はみんな死んでしまう。私は狂人どころか魔物ではないのか。脳裏に何百年の間の思いが一気にこみあげ、はらはらと涙がこぼれだした。


 その時だった。彼は急に横たわる私の背中と足を支えるようにして抱き上げて私を持ち上げたのだ。彼と私の目線の高さは同じになった。私の視界は船縁の外側にまで一気に広がる。

 微かに紫がかって見える雲、海と入り混じるような蒼色の空、水平線いっぱいまで拡がって見える鏡のように輝く海。そして切り抜けるような風ではためくこの舟の白い帆がよく見えた。それは淡い光によって彩られた端厳きらぎらしい光景。光充つ海だった。


「――此処は埋め棄てられる地の底ではないんだ。黄泉よりももっとふるいし、彼方と此方を隔てる黄泉比良坂も無い。何処までもつながる海なんだ。生者も死者も海上の道を通じて交歓し合えるし、お互い思ったよりずっと近くに居る。それこそが常世の国、根の国、妣の国――そしてニライカナイの最初の姿だった」

 私を抱いたまま彼はそう言う。

 その瞬間、私にもなんとなくわかった。此処は地の底に埋め固められ、小さなオトヂキヨくらいしか這い出られなくなるようになる前の、幻想の海なのだ。

 私達の観念が二つの境界の狭間に千引岩を置き、生と死が永遠にわかたれるずっと前の情景なのだ。

 光充つ海を眺めながら彼はニヤリと笑い、語る。

「ポリネシアの民話で面白い話を聞いた事がある。――昔、人間は誰も死ななかった。しわくちゃのお婆さんに対して子孫がこう聞いた。お婆さんはしわくちゃになるまで歳をとったがこれからどうなるの? と。するとお婆さんはこう言った。そうさねえ、それならこれから死ぬ事にしよう、と。――それからお婆さんは動かなくなった。これが人間が死ぬようになった始まりであると。なんだってはじまりは素朴なものだな」

「あらあら……」

 私はクスクスと笑いながら、ふと思った。昔々……どのくらい昔なのかは分からない。死者と生者に一切の区別を持たない時代がたしかにあった。そうしてきっと誰かが言ったのだろう。「姿が見えなくなってしまった人達はどこに行ったのだ?」と。

 そしてきっと誰かが答えたのだ。「見えなくなった人達はきっと彼方あちらにいるんだろう」と。その時からきっと〝何か〟が見えるようになったのだ。彼らが指さした海の向こうに、何かが……。


 この海に連なる最初の幻想について思いを巡らせていると、いつの間にか私はまた微笑んでいた。生も死も明も暗も曖昧な幽冥の海の中で私は尋ねる。私を抱く暖かい腕の男に。

「やはり幻だと思いますか? ニルヤカナヤも常世の国も」

 すると例の勿体ぶった言い回しを以て彼は答えた。

「そうだな……昔の歌人は常世を歌に詠む事も多かったが、多くは夢にかけた言葉あそびだ。常世は〝床夜〟すなわち全て夢幻だと。宝船が夢と結び付けられているのはそういう事だ。確かに全ては幻なのかも知れんよ」


 なるほど。たしかにニルヤも常世も夢幻なのかも知れない。だけれども……。もう少し尋ねてみようかと思ったが、彼はこう続ける。

「――人間の奥底から湧き上がる情念こそが幻を生んだ。幻想とは、知り得る限りの事を紡いでその幻になんとか形を与えようともがいてきた人間の姿に他ならない。幻想に向き合う事はそれを抱いてきた数多の人間――そして自身と向き合いつながる事なのではないかと俺は思う。決して無意味な事ではない」

 はるか遠くともつながれる。向き合える。その言葉を聞いて、私は何故かとても嬉しくなった。

 彼は「まだまだ探究は途上だし、幻を追い回すうちに身を持ち崩した人間も多い」と述べた後「ああ、俺も多分そっちだな」と呆れるように言い、苦笑いしてみせた。

 それに応えるように「私もです」と相槌を打ち、私達は一緒に笑った。



 まばゆい光はますます強くなっていく。視界が滲み思わず目が眩む瞬間があった。

 しかし不思議と不快感はない。ただ白んだ世界に自分自身さえ溶け出しそうな感覚があった。幻視の前後にはよくこういう光の瞬きに悩まされた。あの時はただただ恐ろしかったが、今は何故だか心地よささえ感じている。

 光の中で互いを見失わないように強く抱いてもらう。それにも安心感を覚えた。

 彼は最後にこういう話をした。それは私が聞かされた知らない話の中でも一番不思議で一番ドキドキする話だった。

「不思議な思いがある。貴女は自分が俺を手繰り寄せたのだと言ったが、俺は俺で自ら貴女の元を目指していたような気がするよ。暗い部屋でまどろんでいた時も、馬に駆って暴れ散らしていた時もいつも貴女の姿を渇仰していた気がする。――おかしなことを言っている自覚はあるが、確かにそういう気がしてならないのだ。その気持ちに突き動かされた……そう答えるのが一番正確な気がする」

 その言葉を聞いて私はとても驚いたが、同時にとても嬉しかった。

 海を渡ったスサノオが厳父へと変貌を遂げたように。ヒルコがエビスになって戻るように。祝女が一度死に、火を受け継いで復活するように。もしかしたらこの人もまた――


「私も、貴方にまた会えるのをずっと待っていた気がします。もしかしたらずっと前から知っていたのかも知れません。海岸から去って、また海岸で出会える事に」

 真っ白な光に身体も頭も満たされながら、私達は精一杯の声で最愛の人と語らっていた。


 今此処にあるのは煌く光、涼やかな風、常世の浜の浪の音、そして柑橘の香り。

 神話の時代以前から我々が魅せられ追いかけ続けてきた風景に違いなかった。

 私達は海上でどこまでも交わり合っていく。

 光充つ幻想のニライカナイはすぐそこにあった。





  結局するところ、我々の根の国思想は変化せずにはいなかった。

  ……今でも気をつけて見るとこの伝説は幾つもの筋から辿って行かれそうに思うが、我々の来世観は本来はそう陰鬱な、また一本調子のものでなかったようである。死んで地獄に堕ちるほどの悪いことをした覚えもなく、さりとて極楽へすぐに迎え取られるという自信もない者が実際には多数だったためもあろう。あれほどねんごろな念仏法門の説教絵解きがあったにもかかわらず、まだ日本人の魂の行くさきはそう截然たる整理がついていなかった。そうして種々の雑説俗説の並び行われたという中でも、だいたいに明るくまた自由で、笑いも楽しみも事を欠かず、来たり還ったりのできる処のように、想像するものの多かったのは、やはり上古の習わしの名残とも見られる。

  ……そういう議論は端折ることにして、とにかくに我々の根の国が単なる凶地ではなかったことは、南の島々のニルヤカナヤと比較することによって、一段と明らかになるだろうというのが、私などの期待するところである。

   ――柳田國男『海上の道』(昭和三十六年)――

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