二十九 ヒルコ

 暫くの間、宮田は波打ち際に跪いたまま身動ぎもせずじっとしていた。マヤの乗ったクリブネはとうに霧の中へと姿を消してしまったが、痺れと脱力感が強く身動きすら取る事ができなかった。

 それでもやがてよろよろと立ち上がり、暫くは呆けたようにまだ海の方を見つめていたが、聞き取れないような小声で何か呟いてふらつきながら海からあがってきた。

 海水を滴らせ砂浜に深い足跡を残しながら、宮田は重い足取りでまた小屋の方へと向かっていく。呻くようにぶつぶつと呟き続けながら、宮田は梯子を上り小屋の中へと入っていった。

「……俺は浦島太郎か? こんな浜に一人残されて」

 此処に来てからずっと置いたままにしていた鉄帽を被り、あの小銃を再び拾い上げた。小屋から出て行こうとする時、ふと何か役立つ物があるのではないかと台所を覗き込んだ。見渡してみると漂着物の缶詰や乾燥野菜に混じり、マヤが作っていた芋餅の蒸篭が棚の中にあった。蓋を開けてみると時間が経ち過ぎていたのだろう、痛んで少し厭な臭いを放っていたので慌てて蓋を閉めた。糧食類は色々あったがどういうわけか全く食欲が湧く気がせず重荷になりそうにさえ思えたので、結局缶詰一つすら持たずに台所の戸を閉めてしまった。

 結局最初に持ってきた物だけを手に持ち、宮田は再び岩壁の前にやって来ていた。そこにはどれだけ探しても再び見る事が叶わなかった、現世うつしよと此の海岸を繋ぐあの洞窟がたしかに開いていた。

 おそらくこの洞窟をくぐれば、また元来た場所に戻る事ができるのだろう。夢幻の時間は終わる。もしかしたら折口先生や篤胤もこの海岸を覗き込んだ事があったのかもしれない。いや、高名な著述家達だけではない。我々の奥底にひっそりと眠る幻想を覗き込んだ時、誰しもこの海岸を見ている筈なのだ。

 神話・伝承・名も無き人々が繋いできた民俗・そして幻視者達の物語。様々なものが重なり合っておぼろげに浮き上がらせ続けてきたイメージこそ、この海岸であった。我々は何百年も何千年もこの幻想に魅せられ続けてきたのだ。この幻は海の向こうへのきらぎらしい憧憬であり、我々はその果てを常世の国・妣の国などと呼んで祝ぎ、ニライカナイなどと呼んで愛おしんできた。

「……そうして俺もまた数知れない幻視者の一人になった。唯、それだけだ」

 そうして夢は終わり幻は消える。彼女も俺を幻の海岸から帰すために海の向こうへと去って行ったのではないか。何もかも消えていったのだ、自分ももう此処から去るだけだ。未練がましい思いを振り切るかのように、宮田は洞窟の中へ向かっていく。

 するとその時、洞窟の奥の暗がりの足元に何かがきらりと光るのが見えた。



                ◆



 洞窟の中から此方をじっと見つめている者の目が反射で光っていた。それはまたもや、ネズミであった。ネズミは立ち上がったような姿勢のままじっと留まって此方を見ていた。

「またネズミか。――本当に何処にでも現れるのだな」

 その姿をみとめた途端、宮田の脳裏に妙な疑念が生まれた。

 元よりネズミの貌の区別などつけられる筈がないのだが、此奴は自分をこの海岸に導いたあのネズミに違いない。確信に近い思いがあった。

 そしてあの夕暮れの海岸でマヤが向こうに流していたのもまた、同じネズミだったような気がしてならなかった。ネズミはせわしない動きでちょろちょろと宮田の足元へ近づいてくる。そうして足元から、まるで何やら言いたげに思える視線を送ってきたのである。

 ――ネズミは知恵者なのだと俗に言われてきた。ネズミには人の言葉が分かり屋根裏や床下からいつも聞き耳を立てているので直接名前を呼んではならぬ。ことに悪口を言ったり駆除の相談をしているのを聞かれるとたちまち聞きつけて恐ろしい仕返しをしてくる。そういう俗信は昭和の東京にさえ残っている。

 東京ではネズミをヨメサマ、オフクサンなどと呼んでいた。これは明らかに忌み言葉の一種であり昔の日本人がネズミを畏怖していた名残をよく示している。東北地方ではウエノアネサマ、ウエノカミなどと呼んだが沖縄でも同様にネズミをウエンチュ(上の人)、ウエガナシ(上の神)などの言葉で隠し呼ぶ習慣があった。これはネズミに対する信仰がやはり沖縄から東北まで連なっていた証左であろうと考えられている。

「日本ではネズミは大黒様の従者、根の国の使いと言われてきた。多産と豊穣をもたらす動物と信じられ同時に忌み嫌われ……沖縄でも同じだ。ニライカナイから来た尊者と尊ばれながら同時に悪戯者の太陽テダの子オトヂキヨだと言われ、海へと流し棄てられた……」

 海へ流された太陽の子が尊者として栄光と共に帰ってくる――太陽の子――日子。目の前に現れた小さな尊者の姿を見ながら、宮田は突如浮かんできた着想にハッとした。

 ヒルコとオトヂキヨには少なからず通じ合っている点がある。生まれ損なった不具の子として忌まれ、船に乗せて流され、そして帰ってくるのだ。海に流されて以降のヒルコの消息は記紀では触れられていないが、民俗信仰の中には容易に見出す事ができる。


 ――エビス。恵比寿、夷、戎など様々な文字を当てられるが定説はない。神話に登場しない由来不明の神だが民衆からの信仰は非常に篤く、大黒様と並んで最も広い信仰を得てきた神の一つだといえる。今日では釣り竿を持ち折烏帽子を被った、商業と漁業を守る七福神としての姿がよく知られている。

 エビスという言葉には「遠くから来た者」という意味合いがあるようで日本全国の海村で海から流れ着いた流木やクジラ、果ては水死体までをエビスと呼んでいた形跡がある。漁師が海上で漂う水死体を見つけた時は「エビスドン、お乗りなさい」などと声をかけながらその水死体を拾い上げ、家に持ち帰って供養して自分の家の墓に入れてやるという風習もあった。それはエビスが自分を選んで遠くから流れてきたからであり、迎え入れる事によって運が向くのだと信じられていた。

 一方でエビスという言葉は古くから「遠くから来た者」への蔑称としても使われてきた。蝦夷(エゾ・エミシ)という言葉もそうであるし、東夷アズマエビスという言葉は中世には王朝から見た辺境の地である東国に住む武士を蔑む言葉として使われた。幕末の攘夷主義者達もまた西洋人の事を指して東夷と呼んでいた。宝船に乗って現れる福神と憎々しい外来者。日本人はその両方を常にエビスと呼んできたのである。

 ――そしていつの頃からか、人々の間では神話の中のヒルコと由来不明の遠来伸エビスは同一神なのだと信じられるようになっていった。蛭子と書いてエビスと訓ぜられるのはそのためである。エビス様はお耳が悪いので参詣時には鳴り物を叩かねばならない、お足が悪いので境内で走ると気を悪くするなどの伝承も不具の神ヒルコと重なる部分があるだろう。


  エビスシンカウ……那覇市顔見世前の夷子堂の起源は社伝に由ると「日秀にっしゅう上人、創めて此堂を建てゑびす殿を安置す。ゑびす殿は生れて四体全からず、三歳に至るも走り歩くこと能はず、其状蛭児の如し。父母小舟に載せ碧海に流す。即ち龍宮に到り七八歳に及ぶやたちまち手足剛健なり。是に由て望郷の念起り、一日帰郷の事を龍王に告ぐ。龍王曰く、今や汝の貌巳に全し帰郷を許すと。前時に臨み龍王、漁舟納税並に商売事の管掌せしむ。鰐魚ガクギョに駕し帰郷す。後世の人尊信して市の神となし、必ず堂を市場に建つ」と。

   ――中山太郎『日本民俗学辞典』(昭和八年)――


 海上の果てに流されたヒルコが龍宮へ行き、福々しいエビスになって帰ってきた……いつの頃からか言い出されたこの伝説は一切の根拠が無いにも関わらず広く受け入れられてきた。それは日本人が漠然と抱き続けてきた海の向こうの幻想にぴったり重なり合う物語だったからではないか。

「……ヒルコは海彼の常世に行き、再生し、また此方に戻ってきた。常世は往くだけの世界でなく、還ってくる場所でもあるんだ。そうじゃないのか?」

 宮田はうっすらと微笑みながらネズミ――あるいは太陽テダの子オトヂキヨに話しかける。

「お前はどうなんだ? ニライスクとやらを通って懲りずにまた悪戯に戻ったのか? お前だけは海の向こうの消息に通じていると信じられた。お前はエビスか、ヒルコか、それとも……」

 当然ながら小さな悪戯者は何も答えない。ただじっと彼の顔を興味深げに見ているだけだ。

「海の向こうに去ったモノはいずれ還って来る。善いモノ。寄り来るモノ。常世浪と神風に乗って還って来て……」

 何度も自分の前に現れては消えていったネズミをじっと見つめ、宮田は深く息を吐き出した。そして

「――ええい! クソ!」

 突然大声をあげ、手にしていた小銃を岩肌の上に放り投げる。ガチンという甲高い音が響き、それに驚いたネズミは飛び上がるようにして洞窟の中へと引き返していった。

 宮田は苦々しい表情を浮かべたまま振り返り、マヤが消えていった海を睨み付けていた。

「いづこにも有なれども幽冥ほのかにして現世うつしよとは隔たり見えず――明るい海の彼方も暗い洞窟の先も同じ場所だ。それならば俺は……」

 海上にはまだ例の霧が立ち込めてはいたが既に消えゆくように薄れ始めていた。そして向こうへ往く死者の船ももうまばらになっていた。



                 ◆



 ――波の音が聞こえる。だけど長い間砂浜の上で聞いていた音とはずいぶん違う風に聞こえる。クリブネに打ちつけられる響くような水音で、まるで心臓の鼓動のようにも感じる音だった。少しだけ揺さぶられるのも心地が良い。

 そして此処にいるととても良い香りに包まれていた。それは舟に使われたクスノキの香りと自分の着物に絡みついたシークワーサの香りが混じり合ったもので、これもとても心地良かった。

 葦の敷き詰められた船底で唯一見えるのは蒼い空で、そこに見える雲がゆったりと足元に流れていくのが、この舟が何処かへ向かって進んでいる事を教えてくれていた。

 私はついに舟出した。かつて彼らが補陀落とか常世と呼んだ場所を目指して出航したのと同じように。長い間、私はテダバンダでまどろんでいたようなものだ。まどろみながら視た夢の中で私はいつも遊び歩いていた。夢幻には時間も空間も関係ない。アツタネとかオリグチとかいう人にも、スサノオノミコトにも会っていたような気がしてくる。

最後に出会った宮田という男。色々な物を携えてやって来て私に教えてくれた。私は愛おしくてたまらなくて彼を抱き寄せ続けていた。しかしそれももう御終いだ。私の幻想と共に溺れさせるのはあまりに可哀想だ。

 私は煌びやかなニルヤカナヤへ去っていく。彼は元来た道を帰っていく。それで良いのだ。去り往く者の海路はいつも独りだ。それで良い。


 今まで静かにおだやかに揺られていた舟が突然ガクリと揺れた。茫洋の真ん中で何かにぶつかるとは考えにくい事だし、岸にたどり着いたとも思えなかった。どうにも不可解な事だったが、身を起こす事もできず流される儘の自分にはどうする事もできない。釈然としない気持ちのまま自分はただ船底に横たわるだけだ。

すると再び大きな揺れが起きる。今度は先ほどより力強く揺れ、しかも船体が右寄りに少しだけ傾いているのが分かった。まるで海中から何かが掴みかかり舟を沈めようとしているようだ。

「何かいるの?」

 いまさら魔物マジムンが出てきたとしてもたぶん大した事ではないのだが、やはり少し気味が悪い。自分は舟底に横たわったまま、船縁ふなべりごしに居るだろう相手にこう言う。

「そこに居るなら上がってきなさい」

 その言葉に応えるように、船縁に四本の指がかけられるのが見えた。間を置かずしてもう四本の指もかけられる。海から来た者は両手をこのクリブネの縁にかけ、掴まっているらしかった。そうしてすかさず両手の力を以てその身を持ち上げ、転げるようにして舟の中に入り込んできたのである。

 姿を現した全身ずぶ濡れの闖入者の姿を見た自分は思わず声をあげてしまっていた。

「――どうして? どうして来てしまったんですか?!」

 それは魔物などではなかった。泣きそうな顔をしている自分を傍目に闖入者――宮田邦武は疲労困憊と行った様子で敷き詰められた葦の中にうずもれていた。彼はぜーぜーと荒い呼吸を続けていたが、やがて体を震わせ漏れ出すような笑い声をあげ始めていた。

「死ぬ気になれば……なんでもできるものだな」

 宮田の噴き出すような笑い声が静かなクリブネの中に響いていた。

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