二十八 常世の国

 静かな海岸に乗り上げるように到着したのは真新しいクリブネであった。

 クリブネには白い帆がかけられ櫂のような道具は積まれていない。そして誰も乗っていない。無人船だ。

「様子を見に行こう。一緒に来るか」

 こくりと頷いたマヤを再び抱きかかえ宮田はその船に近づいていく。

 近づくとまるで新築の家のような匂いが微かにする。それは木の香りでありこの船がまだ新しい事を示していた。よく見れば帆も真っ白でまるで新品同様であった。

「……これは、おそらく香りからしてクスノキだろうな。ニューギニアなどでは今でもクスノキの丸木船が使われているし、日本でも弥生時代には既に同様の船が使われていたらしい。民俗学者の調査によれば江戸時代に作られたクスノキのクリブネが近年まで使われていた例さえある。そのくらい丈夫で船材向きとされてきた木だ」

 日本書紀の一書ではスサノオは根の国に渡る前、浮宝フネを作るために自らの眉毛を抜いてクスノキに変えたとされる。南洋の多くの国々と同じように古代日本でもクスノキの船が作られていた事が窺える一節だ。

 目の前に現れたクリブネをじっと見ていると、また連想が働きだす。

「スサノオが作ったクスノキの船……いやそれだけではない。クスノキの船は他にも重要な場面で登場してくるんだ。鳥之石楠船トリノイワクスブネ――またの名を天鳥船アメノトリフネ

 古事記によると、天鳥船はイザナミが死の直前に生んだのだという。イザナミは天鳥船を生み、オオゲツヒメを生み、カグツチを生み、そして死んだ。

 食物神も火神も多くの民族の創世神話に登場する最も根源的な神だ。イザナミの最後の神生みの場面は日本神話の中でも最も古く根源的な部分を残しているのではないか。そしておそらく、彼らとともに語られる天鳥船もまた根源的な存在だったのではないかと思う。――古事記では天鳥船は大した活躍を見せないのだが、日本書紀に於いてはまた象徴的な働きを見せている。

 一書に曰く、イザナミは太陽と月を生んだ後に蛭子ヒルコを生み、その後にスサノオを生んだ。そして両親は泣きわめくスサノオに「お前は遠い根の国に行け」と宣告し、一方で蛭子はトリノイワクスブネに乗せて海へ流し捨てたと云う。

「スサノオもヒルコもクスノキの船に乗った。言い回しが違うだけで、どちらも船に乗って海の向こう――根の国へ行ったんだ」


 マヤはしがみついていた手をそろそろと離し、ゆっくりと手を伸ばしていた。力が入らない腕を無理に伸ばしたのが良くなかったのだろう、バランスを崩してしまい危うく腕の中から落ちそうになってしまった。宮田は転落しそうになった彼女を慌てて支え直す。

 どうやら彼女はこの船を触ろうとしているようだった。角度をつけて近づけてやると、彼女は舳先の辺りをそっと撫ぜた。そしてこう言う。

「この舟に乗って海を渡った……一体なぜでしょうか」

「スサノオは泣き叫んで現世に災厄をもたらし、蛭子は足腰の立たない不具の子。どちらも望ましい子で無かったという事を示している。蛭子という字も手足の萎えた姿が蛭に似ているからだともいうが……」


 水蛭子ヒルコは上代に水蛭に似たる児をいひし称なり。……彼の虫に似たるをかく云に就て二の意あるべし。其は手足などもなく見る形の似たるを云か。……手足などもあれど弱く凡て萎々なえなえとあるが似たるを云にもあるべし。

   ――『古事記伝』――


「ヒルコという言葉はたしかに水蛭と結び付けられてきたが、しかし手足が無い生物など他にも沢山いるのに何故水蛭なのか。これについては江戸時代の滝沢馬琴が面白い説を書いている。いわくヒルコは本来は日子ヒルコ……日の女神と対になるような日の男神だったという説だ。天照大神の別名に日霊ヒルメというのがあるし辻褄が合わない事もない。馬琴は知る由も無かったろうが、もしも船に乗るヒルコが日の神なら諸外国の〝太陽の船〟神話と重なるのも興味深い点だろう」

 自分の話を聞いて、マヤは何やらぼそぼそと呟いている。

「禍を起こす不具の子が舟に乗る。日子……まるで……」

 何か考え至った事でもあるのか。そう尋ねようとしたちょうど同じタイミングで彼女は宮田の顔をまたじっと見つめた。そしてマヤは力強い口調でこう懇願してきた。

「私も、この舟に乗りたいと思います。この舟に乗せてください」


                 ◆


「お……おい何を言ってるんだ。こんな櫂すらない船に乗り込んだってどうしようもないだろう?」

 突然の申し出に困惑したがマヤは此方をじっと見たまま続ける。

「この舟は現に誰も乗せずに此処まで来ましたし死者の舟はいつも誰も舵を取らないのに進んで行っています。――それにこの舟は、私を迎えに来たのだと思うので。きっと死者の舟のように導いてくれると思うのです」

「待て――待て。一体何を言っているんだ。貴女はまだ死んでなんて……」

「いいえ。まだお気づきにならないんですか? 幾百年もこんな場所で無為に過ごしてきた女が本当に生者だとお思いですか? いいえ、貴方だって私の正体を見た筈。あの戸板の上に転がる骸骨を」

 自分の中であくまで明確に答えを出さずにいた問題をガツンと叩きつけられたような感じがする。何も言えなくなった自分に対し、マヤはまたあの嘲るような調子でこう続ける。

「それとも、貴方がお撃ちになったから死んだと言った方が信じやすいでしょうか?」

 ぞっとする。全身の筋がひきつるような感覚があった。あの暴発の瞬間のガクンという手応えを思い出し、自分の表情がこわばっているのが分かった。

「冗談です。貴方が今抱いているのはとうに死んだ女の幻。もしかしたら魔物マジムンかもしれませんよ? ……さ、早く舟に乗せて下さいませ」

 もはや何も言い出せず、自分はマヤを抱いたままクリブネの側面へと近づいていく。海水が軍靴の中にしみこみ微かな不快感を覚える。

 よく見るとクリブネの底には干した葦か何かが敷き詰められており、さながら寝床のようになっている。宮田はその寝床の上に、静かにマヤを横たわらせた。

「嗚呼。なんだか良い気持ちがします」

 マヤが本当に心地よさそうに嘆息する。

「私は随分長い間こうして舟が来るのを待っていたんですよ。嗚呼嬉しい。貴方は私の中にあって鎖のようになっていた想いを幾つもほどいてくれました。それは多分、こうして舟が来た事と無関係ではありません。――ありがとうございます」

 わなわなと震える両腕をゆっくりと動かし、マヤは胸下辺りでそっと指を組む。葦の敷き詰められた船底で寝そべる姿は、棺の中に納められているようにしか見えなかった。

「不思議な縁です。ずっと昔一緒に考えてくれた人が居たけれどどうしても分からなかった、胸の中で鳴響く細波さざなみの音色の正体。それをもう一度一緒に考えてくれる人にまた海岸で出逢えました。不思議な縁――いいえ、もしかしたら私が手繰り寄せていたのかも知れない」

 戦場の洞窟。西陽を浴びた寝床。一九五二年の夜路。いつも自分に縋るように現れた骸骨。離すまいと追ってきたあの骸骨。今はあの骸骨とマヤが滲んで重なるように見えていた。

「私を縛る鎖はもう在りません。貴方を縛る鎖ももう在りません。今度はきっと、お帰りになれると思います」

 その言葉にはっとして、自分は思わずあの岩壁の方に目をやった。

「……洞窟が、ある……!」

 あれだけ探しても見つけられなかった外界と此処を繋いでいる洞窟、自分が出てきた真っ暗な穴が、岩壁にまたぽっかりと開いていた。

 その瞬間、強い風が海の向かうから吹き付けてきたのが感じられた。今までの優しい風とはどこか違う荒々しささえ感じる風。そうして風に打たれている間中、身体が痺れたかのように動けなくなった。手足どころか首を動かす事も声を出す事も出来ず、まるで石か土塊にでもなったような心地であった。

「さようなら。――今度はザクロをお食べになりますように」

 切るような風がゴウゴウと吹き抜ける中、マヤがそういった事だけは何故かはっきりと聞き取れた。

「……マヤ!」

 風が少し和らぎ、声だけが絞り出せた。

「行くな、……ええい、クソッ!」

 渾身の力を振り絞り、宮田は身体を捩じるようにして振り返った。無理矢理な力を込めてしまったのでそのまま海水の中に倒れこむ。バシャリと派手な水音が立った。

 頭まで水浸しになった宮田が慌てて立ち上がると、まるで最初から凪いでいたかのように風は止み波も静かになっていた。そしてすぐ真後ろに居たはずのクリブネは消えていた。

「おい! 待て! ……待ってくれ!」

 宮田は海に向かって大声で叫び走り出そうとしたが、足に力がはいらずへなへなと両手をつくようにして海の中に膝をついた。

 彼の視線の先、水平線の辺りにはたしかに白い帆を張ったクリブネが見えていた。追い風も受けず櫂も無い筈のクリブネが、マヤを乗せてゆっくりと霧の中へ消えていくのが見えた。

「……行ってしまったのか? ニライカナイへ――根の国へ――常世の国へ」

 宮田は呆然としながら、立ち上がる事もせず海と霧を眺め続けていた。

 時の止まっていた海岸の時間が、たしかに動き始めていた。

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