二十七 神風

 そうして俺達はまたあの小屋の奥まった寝室に戻ってきていた。

 籠ったような臭いが相変わらず立ち込めているが這うように吹き込んでくる風だけが微かな心地よさを与えてくれていた。

「ずっと一緒に居たような気がいたします。懐かしい夢、恐ろしい夢。その始まりから終わりまで……」

「俺も様々なものを見たよ。――あれが幻視か。いいや、彼方が幻かなんてもうどうでも良い事だ。ともかく貴女と同じものを見て、今同じ場所に居る。それだけだ」

「おかげで昔から不思議だった悪戯ネズミの穴のお話の答えが見つかった気がします」

「待て待て。あれは一つの可能性の話だ。辻褄を合わせてみただけでまだ何も証明しては……」

 苦笑いをしながら訂正しようとする自分の言葉を遮り、マヤは続ける。

「あの……一つだけお願いがあるんです」

 マヤが懇願するようにそう申し出た。何か恥ずかしそうな様子であった。


                ◆


 宮田は今、明るい陽の光を全身に浴びながら砂浜の上を歩いていた。

 マヤは宮田に両手で抱きかかえられ、縋りつくようにくっついている。彼女は眩しく感じられるほど真っ白な着物に着替えていた。

 鮮やかな日差しと白い砂浜、それに白い衣がよく映えていた。そうして衣からはシークワーサの芳醇な香りが漂い、それが海風によって心地よく吹き散らされていた。

「海――雲――そして風。じっと眺めているといつも悲しい気持ちがこみ上げてきたのですが、それでもやっぱり好き。連れてきてもらって良かった」

 マヤは抱きかかえられたまま、上目遣いでこちらを見つめそう言った。

 彼女は海岸に出たいと望んだ。自分は全身をできる限り拭き清めてやり、箪笥から新しい衣を出して着替えさせてやった。

 むせかえるような臭いが籠った小屋の奥に比べれば、たしかに海岸はとても心地よかった。また、気持ちの良い風が吹いていた。

「……此処に来てからずっと風が吹いていた気がする。いや、風は何時でも何処でも吹いているのだろうが。今までこんな風に気に留めた事はなかったな」

 マヤを抱きかかえたまま宮田はじっと海の方を見た。寄り来る波と風はたしかにいつまでも此方に向かって来ていた。


 ――『丹後国風土記』逸文には、おそらく最も古い形であろう浦島太郎の物語がある。

 昔、水江みずのえ浦嶋子うらしまのこという釣人が五色の亀を釣り上げ、その亀が美しい神女になった。神女と浦嶋子はたちまち通じ合い、蓬莱トコヨの宮へ移り住んで夫婦となった。

 トコヨでの生活は幸福に満ちていたが浦嶋子はふと故郷の様子が気にかかり、三年ぶりに故郷の村へと帰った。――しかしトコヨから帰ると現世では数百年が過ぎ去っており、浦嶋子はあっという間に孤独になってしまった事に気が付いた。

 取り乱した浦嶋子は神女から預かった箱を開けてしまう。すると途端に中に満ちていたかぐわしい香りと舞い上がり、浦嶋子はたひまち老人になった。同時にトコヨに通じる道も閉ざされてしまった事を悟った浦嶋子は咽び泣きながら歌を詠んだ。

  常世辺とこよべに雲立ち渡る水の江の浦嶋の子が言持ち渡る

 (常世の海辺にも雲が差し掛かる。私の声も届いておくれ)

 するとなんと神女の声が確かに聞こえてきた。それは返歌であり浦嶋子にはこう聞こえた。

 大和辺やまとべに風吹き上げて雲離れ退き居りともよ吾を忘らすな

 (大和の海辺に風が吹き雲は流されていく。それでも私を忘れないで)

 これを感じ取った浦嶋子は恋しさに抗えずさらにこう歌ったという。

  子らに恋ひ朝戸を開き吾が居れば常世の浜の波の音聞ゆ

 (あの娘を想いながら朝戸を開いた。常世の浜辺の波の音が聞こえた)


 浦嶋子は常世には波の音が響く浜が在り、この世の雲が流れていくとも詠んでいる。大和に海岸が在るように常世にも海岸が在る。そして同じ風が吹き同じ雲が流れていく場所と考えられていた。大和この世常世あの世は渚を挟んで対峙する相似の世界であると、古代の日本人は空想していたのである。

 宮田はマヤをゆっくりと砂浜の上に寝そべらせた。そうして自分もその隣に座り、読み聞かせのように語る。

「――日本人は、海の向こうから寄り来る波を常世浪とこよのなみと呼んで尊び愛でてきた。多分こういう気持ちの良い風と共に来る波だったのだろうな」

「トコヨノナミ……」

「そう、常世から来る波だ。日本書紀によれば皇女・倭姫命ヤマトヒメノミコトの体に天照大神が降りてきて自らの依代よりしろとした。ヒメは大神を鎮座させる場所を探して旅に出る。やがて伊勢国に辿り着くと大神はヒメの口を借りてこう言った。――この伊勢国は神風が吹き常世浪がいつも寄る国だ。小さいが美しい国だ。私はこの国に居たいと思う、と。この託宣が伊勢神宮創立の起源だという。つまり伊勢――ひいては日本そのものが神風と常世浪が寄り来る国であるわけだ」


  ……時に天照大神、倭姫命におしへて曰はく、「是の神風かむかぜの伊勢国は、則ち常世浪の重浪しきなみする国なり。傍国かたくに可怜うまし国なり。是の国に居らむと欲ふ」とのたまふ。故、大神の教のままに、其の祠を伊勢国に立てたまふ。……則ち天照大神の始めてあまより降ります處なり。

   ――『日本書紀』垂仁天皇記――


「神風というと我々はどうしても勇ましいイメージを抱いてしまうが、本来は常世浪と共に打ち寄せる優しい風の事だった。それこそ浦嶋子が見て涙したような……」

「――何故だと思いますか?」

「え?」

 マヤがじっと目を閉じたまま、問いかけてくる。

「何故、その大神は神風の吹く場所を気に入ったのだと思いますか?」

 改めてそう聞かれると……分からない。何故天照大神は神風を好んだのか――考えあぐねてしまい、やはり答えは浮かばない。

「いや、分からないな。貴女には分かるのかな」

 自分が白旗を上げるとマヤはうっすらと目を開けて得意げに笑い、それから答えを示してきた。

「島建国建のお話を覚えていますか? 島建国建が泥から作った作った最初の男女は子を作る事ができなくて、太陽テダが男を風上に女を風下に住ませろと助言すると風が仲立ちして子供ができました。アマミキヨもそうです、風に吹かれる事で子供を授かりました。もしかしたらヤマトの大神が神風を喜んだのも同じ理由なのではないでしょうか。そこがイヌチの風がたくさん吹く場所だから……」

 ――いのちの風?

「……そういえば南島には泥で作った人間に風を当てたら命が宿り生き始めたという形の創世神話が多くあるな。それこそ聖書では塵から作ったアダムに鼻から息を吹き入れて人間にしたというし、風を息と見て生命の根源と見なすのは普遍的な発想かも知れない。……なるほど」

 しかし、もしも神風が命の風という意味だったとしたら我々は随分と皮肉な取り合わせを作ってしまったものだ。脳裏には此処に来る直前に見た特攻機や霧の中を音もなく進んでいく船の情景が浮かんでいた。

 深くため息をつき、宮田はマヤの顔を見る。

「よく思いついたな。神風という言葉に決まりきったイメージしか持たない俺にはどうにも出なかった着想だ。宣長の事を笑ってはおれんな」

「私達は昔からイヌチが終わったマブイは煙になってニルヤへ飛んでいくと言っておりました。同様に命はニルヤから来るのだとも。ニルヤカナヤが常世と重なるのならば、風に込められた意味も同じではと思ったのです。本当にただの思いつきですよ」

「なるほど。そこは琉球人と日本人の見てきた他界の違いと言えるか。イザナギ神話もスサノオ神話も彼方と此方がどれだけ隔たれた世界なのかを強調しているし、大国主が根の国へ渡り見事帰ってきた話が日本書紀から書き落とされたのも、当時の知識階級には既に違和感のある話と受け止められていたからなのかも知れん。――しかし沖縄ではそうではなかった。断絶した恋慕の世界としての常世と、往来の在り得る世界であるニライカナイ。二つを重ねて見る事で初めてより古い形が見えてくる……」

 ――沖縄で最も古い霊地の一つである波上ナンミン宮はかつてはニライカナイに通じる場所として崇敬されていたと伝えられている。ニライカナイの波の音さえ聞こえるほど近いから、そこは波上と呼ばれるのだと。この情景もまた、浦嶋子の云う「常世の浜の波の音」なのではないだろうか。

 顎の下に手をやり感慨にふける宮田に、マヤはこう言う。

「蒐集して比べて、今まで見えていたはずなのに初めて見える世界がある。不思議だけど面白い」

「面白いだろう? だから止められんのだよ。――勿論思い付きで終わらせずに検証していかなければ学問とは云えんのだがね」

「それは大丈夫。それはきっと叶います」

 マヤは強気な口調でそう断言し、さらに続ける。

「――最初はあの方の再来のように思いました。神を視ずに神を知ろうとするお人。私やあの方にも似た――しかし貴方は私やあの人ではまだ見れなかった世界を知っている人でした。遥か遠くの国から伝わってきたお話。身近にあっても気に留めなかった物語の欠片。宝石のようなそれらを並べてみるとおぼろげだった幻に少しずつ色彩と輪郭が浮き上がってくる。とても面白い発見でした」

 虚空に向けたまま、彼女は嬉しそうに語っている。いいや誰が発し、誰に語り、誰が聞いているのか。何もかもが曖昧だ。それが神ガカリというもので、自分はそれを静かに聞くだけだ。曖昧な幻の中で苦痛を濁らせ恍惚と多幸感に沈んだまま最期の時が来る。その方が彼女にとっては幸福なのかも知れない。

「勿論、何もかも見えたわけではありません。納得のいかない事もあるし、まだ分からない事も沢山あります。だけど……」

 しばらく押し黙った後、彼女は一瞬ふと正気にかえったかのような表情になり、そしてほんの少しだけ頭を此方側に傾け、こう言った。

「だけど――同じようなお話があちこちにあって、それを同じように不思議に思っている人が他にも居た。独りではなかった――それだけで私は今、とても嬉しいです」

「……独りではない、か」

 言葉を返してやりたいのに詰まる。どうにも続ける事ができなかった。

 ――孤独の感情。我々が海の向こうの常世の国に思いを馳せる時、そこには圧倒的な孤独感があったのではないだろうか。自身と比べて相対的に無限に等しい海と対峙する時、人は大なり小なり孤独感を感じるのではないかと思う。その情動もまた、海彼の常世への憧憬と無縁ではないのかも知れない。

 折口信夫は熊野の海の果てに仰ぎ見た「我が魂のふるさと」への懐郷心ノスタルジーの根源を解き明かそうと煩悶し続けたし、平田篤胤は異端の学者として最も冷遇された時期に宣長の坐す海の幻を見た。その切ない情動はスサノオが泣きじゃくった時代まで連なり続けている。

 そうして自分と彼女は今、おそらく彼らが踏み込んだ場所の最も近くにいるのだろう。



 ふと気が付けばまた海上に霧が立ち込めてきている。そうしてその霧の中からまた幾つも船が現れる。太陽の照り輝く方へと無数の船が音もなく進んでいく。

 その船団の中から一艘、航路を外れて離れている船がある事に宮田は気が付いた。離れているそれは小さな木造の船で、それも一本の木を削り出して作った丸木舟であった。

「あれは……クリブネというやつか? こっちへ来るぞ」

 そのクリブネは波の音と共にゆったりと二人の居る海岸へと近付き、やがて砂浜に静かに乗り上げた。

 驚いている宮田を尻目に、マヤはぽつりと呟いた。

「嗚呼――舟が来た。どれだけ待っても来なかった舟が、遂に」



  なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな

  長き夜の遠のねふりの皆目醒めざめ  波乗り船の音の良きかな

   ――宝舟回文――

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