二十六 妣の国
砂を踏みしめ自分はマヤの元に駆けていく。夕焼けの中で足元の砂が崩れよろけてしまったが、彼女の前までたどり着いた。
マヤはうっすらと微笑みながらこちらを見ていた。その着物には汚れ一つ付いていないし、立ち姿は生気に満ちていた。
「――傷は良いのか?」
「傷? さて、何のことでしょうか」
つまらない事を聞いてしまった。
「いや、何でもないんだ……。貴女は此処で何をしているんだ?」
マヤは手にしていた草舟をそっと差し出し、こう言った。
「舟を、作っておりました」
「随分と小さな船だな。一体誰が乗るんだね」
彼女はそっとしゃがみ、掌を砂浜の上へと差し出した。すると今までどこに潜んでいたのやら、いつの間にか小さなネズミがその掌の上に乗っていた。ネズミはせわしなく辺りをキョロキョロ見渡していたが彼女の掌から降りようとはしなかった。
「オトヂキヨがニルヤに帰るのです。悪戯ばかりする
――オトヂキヨ。沖縄の虫送りの祭文等にその名が残る神である。太陽が生んだ中で最初の子だとも末っ子だとも言われ、ネズミはオトヂキヨの子だとも化身だとも言われる。鼠害の甚だしい時は祝女の祈祷と共にネズミが海へと流された。そうする事でオトヂキヨはニライカナイへと送り返され、鼠害が静まるのだと信じられていた。
ネズミはニライカナイの住民であり、ニライカナイからの使者に他ならなかった。
ネズミはマヤの掌の上をチョロチョロと動き回っている。彼女はもう片方の手の人差し指でネズミを撫でたりつついたりしながら弄んでいた。「可愛い」などと囁いている姿を見ていると自分の表情もいつの間にか和らいでいた。
「ネズミというのは人間が最も古くから悩まされてきた害獣にも関わらず、不思議な崇敬を受けてきた。日本でも俗に大黒様の使いだなどと言うしな。作物を食い荒らす害獣が同時に農耕の神の使い――不思議な動物だ」
――大黒天。その直接の由来はインドのシヴァ神であり、密教における仏法の守護者・大自在天である。大黒天は大自在天の化身の一つだとされている。
しかし民間における〝七福神〟としての
そして大黒様に対する信仰は本来は大国主に対する信仰であったと考えられている。大国主が袋を担いでいた事は因幡白兎神話でも語られているし小槌と米俵はいずれも根の国に縁が深い宝物である。
――そしてネズミはその大黒様の使者として広く崇敬を受ける動物であった。
「――これらの性格は大国主の根の国神話と関連づいている。何よりもネズミは大国主を救った動物だ。ネズミという名前も
「ですが」
マヤがあいかわらずネズミを手の内で撫でながら、こう言う。
「ネズミは、良い事だけをもたらしてくれる相手ではないのです。時には我々の生活を立ち行かなくなるまで破壊していく動物――ひどい悪戯っ子です」
「――だから、悪戯の過ぎる時は海へ帰す……ニライカナイへと。しかしネズミはまた現れる。帰しただけで滅したわけではないのだから」
「私達は皆、ニルヤからは離れられないのですからね。良い事も悪い事もあそこからやってきます。離れられないのなら受け入れるしかないし、悪戯が過ぎるならできるだけ静かに帰ってもらうだけです」
「まさに根の国か」
話の途中でマヤはネズミをそっと草舟に乗せた。そして渚の向こうへと歩いてゆく。彼女は腰が沈む深さまで海に入ると、その草舟を静かに水面に浮かべた。
不思議な事に船上のネズミはじっと海の向こうを見たまま動かず、草舟は引き潮に乗ってゆっくりと沖へ向けて流れていきだした。
夕陽で黄色く輝く海上にシルエットのように浮かび上がる草舟。自分の目にはそれが、夕陽に向かって進んでいく小さな補陀落船のようにも見えた。
「ニライカナイへ行き、また帰ってくる。根の国からの使者、ニライカナイからの使者……ネズミはそう見なされていた。地の底にも海にも通じていると信じられたからだろう。中世の文献にはネズミの群が大洋の真ん中を泳いでいるのを漁師が目撃したという話がしばしば記されている。事実譚か伝説かは分からないが、とにかく海を渡る動物でもあると信じられていたらしい」
自分の言葉に、マヤが海の方を向いたままこう応えた。
「ご存知ですか? 海に送り出したオトヂキヨはまた地の底から現れると言います。だから私達はネズミをニルヤソコモイ――ええとニルヤの尊者などとも呼ぶんです。ニルヤに渡った悪戯っ子が穴の中から尊者に変わって現れるのです」
「日本ではネズミの穴に行った正直爺様の真似をした意地悪な爺様がおむすびを押し込んでその穴に入り込む話があるぞ。たいそう恐ろしい目に遭わされたそうだから怖い処だ」
自分が軽口のような口調でそう言うと、マヤはくすくすと笑いながら振り返り「招かれない客は何処でもそうなります」と言った。
さて、果たして自分は招かれてやって来た客だったのか。
やがてマヤはさばさばと海から上がってきた。夕陽の方も水平線の向こうに消えていこうとしている。
「――ニルヤカナヤは仄暗い洞窟の奥にあります。海の果ての太陽の下にもあります。私にはその意味が分かりませんでしたが、少しだけ何かが見えた気もします。遠い遠い場所だけどすぐ近く。清らかだけど恐ろしい。忌まわしいけれど懐かしい――あれ、なんだか何も分かってない気もしますけどね」
「
「そういうものでしょうか……」
「そういう説明し難く離れ難い恋慕の情の向かう先を、古人は〝妣の国〟と形容したんだと俺は思う。妣の国の幻想はスサノオの時代から一貫して我々の心を突き動かしてきた。常世という言葉は衰退しても海の向こうの夢は幾度も新たな形で復活してきた。龍宮、補陀落浄土、大東亜共栄圏――そういう果てしない幻想は我々を恋い焦がれさせ突き動かし続けてきた。良くも悪くも、な……」
マヤはふらりと自分に抱きつき、そのままこう言う。
「幻に良いも悪いもありません。幻なのですから。それを見た者がどう捉えるかです。幻に溺れるか、狂ってしまうか、それとも」
それだけ言うと彼女はそのまま自分の胸元に顔をうずめてきた。自分もそれに応えるように彼女を抱き、その髪をそっと撫でた。例の柑橘の良い香りがした。
「――また抱いてほしいのですが、もう時間がありません。夢はさめます。幻は消えます。それだけは分かっている事です」
夕陽は完全に沈み海も砂浜も暗くなっていく。滲んだように黄色く曖昧な世界が消えていく。
視界は消えて波の音だけが澄んでよく響く。そうしてまた、一陣の風が海の方から吹くのが感じられた。
…………
子らに恋ひ朝戸を開き吾が居れば常世の浜の波の音聞ゆ
――『丹後国風土記逸文』――
……この
――『日本書紀』垂仁天皇記――
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