二十五 根の国

 沖縄では混濁した他界・ニライカナイは未だ受け入れられ続けている。勿論〝龍宮〟などの言葉に置き換えられている事はあるが、観念としては未だに未分化である。

 しかし日本でははるか昔から常世国・妣の国・根の国・黄泉国などの分裂が既に始まっていた。光り輝く常世国が海上のニライカナイの純化した姿であり、此処のような薄暗い洞窟のニライカナイは根の国黄泉国というところか。

 日本人の他界観は最古の古典の時点で既に混乱が見えている。例えば本居宣長も述べたように黄泉コウセンという文字は漢語であり、これは大陸人が考えた地下深い死者の世界の情景である。イザナギが黄泉から逃げ出す際に桃を投げて鬼女を撃退する話などには濃厚な大陸の宗教観が見える。我々の先祖が自分達の信じてきた「ヨミ」に黄泉という文字をあてた時から、その文字に付随する陰惨で腐敗に満ちた地下の国というイメージが付与され、混乱は始まっていたのである。

 もう一方の常世国はどうかといえば、これはある種の文芸語であった。記紀の中では「常世国から来た者」「常世国から帰ってきた者」「常世国に去った者」らの話はあるが、では常世国が具体的にどのような場所かと語られる事はなかった。光り輝く素晴らしい場所である事は語られるが、具現化される事はないのである。

 江戸時代の国学者達も賛美されるだけで何一つ語られる事が無い常世国には疑問を抱いていたようで「外国の事を漠然とそう呼んでいたのではないか」などと推論を立てていた。

 果てが見えない海の向こうに向けた憧れや浪漫自体に与えた最大級の雅称という事なのかも知れない。

 ――あふれる光に彩られた実態の見えない常世国。漆黒の地の底に埋め固められた黄泉国。おそらくその両方ともかつて日本人が見ていた一つの他界の姿に違いない。しかしそれはいわば一面を強調された姿だ。そうして別々の名で呼ばれ続けるうちに、離反した二つの場所として考えられるようになったのだろう。


 日本人の意識の原初に近い〝の世〟はやはり「根の国妣の国」なのではないかと思う。

 ポリネシアの悪戯者の英雄神マウイに最も近い我が国の神は、やはり英雄神スサノオであろう。

は妣の国根の堅州国に罷らむとおもふ。故、哭くなり」と言って泣きじゃくり数々の禍を引き起こしたスサノオは高天原を下り、数々の文化英雄的振る舞いを通して人間世界に文化を与え、最後に根の国へと渡ったとされる。

 ――不思議な事に、憧れの妣の国根の国へ渡った後のスサノオを描いた神話は極めて少ない。あれだけ丹念に異伝を蒐集した日本書紀は根の国に渡った以降のスサノオについて一切書き残していない。何らかの政治的意図があり正史からは省かれた神話なのだとも言われている。

 古事記によれば、根の国に渡ったスサノオはそのまま根の国の支配者となっていた。そして彼は日本神話に燦然と輝く大神の義父になるのである。


 葦原色許男アシワラシコオ――「現世の醜い男」と呼ばれたその神は兄弟から幾度も命を狙われ死んでいた。しかしその度に母の助力で生き返る事に成功し、兄弟達の追走をかわす為に紀伊国の熊野へと逃げ込んだ。

 そこで熊野の神から「スサノオが居られる根の国へ行きなさい」と助言を受けたので、シコオはその通りにして根の国へと渡って行った。

 根の国へと渡った色許男はスサノオの娘である須勢理毘売スセリヒメと通じ合い恋をする。そしてヒメはシコオをスサノオに引き合わせた。

 スサノオはシコオに対し「毒蛇の居る部屋で寝よ」「蜂と百足の居る部屋で寝よ」などの試練を課すが、ヒメの助力によりそれを乗り越える。さらにスサノオはシコオを焼き殺そうと草原の真ん中で火を放ったが、彼はこれをネズミの助力によって救われる。

 火の中でネズミが現れ「内はほらほら、外はすぶすぶ」と歌うのでついていくと地面が崩れ穴に落ち、そのおかげで火を凌いだのである。

 こうして様々な知恵と助力により試練を乗り越えたシコオはやがてヒメと共に根の国を脱出する。その時彼らは根の国の宝である剣と弓と琴を盗んでいった。

 逃げる彼らを追うスサノオは黄泉比良坂よもつひらさかに差し掛かると、やがて大声でこう叫んだ。

「貴様の持って行く剣と弓で兄弟達を平らげて大国主オオクニヌシになれ! 現世の支配者になるがいい! 俺の娘を妻にして現世を栄えさせろ! ――この馬鹿野郎め!」

 それはシコオの力を認めたスサノオからの言祝ことほぎであった。

 こうして根の国の試練を乗り越え帰還したシコオは霊力と現世を統べる力を手に入れ、大国主――日本の最初の統治者として君臨するようになったのである。


 この話は死者の国へ踏み込み征服した英傑譚としても読めるし、異郷へ渡り多大な幸福をつかんだ話とも読めよう。

 根の国を祖霊の坐す場所と捉えるならばそこは桃太郎やマウイが訪れた場所と同系の試練の場所だとみる事ができる。自分の祖父と戦い火を手に入れたマウイのように、祖霊たる鬼と戦い宝物を手に入れた桃太郎のように、シコオは根の国の王者となったスサノオと対決し乗り越える事によって大国主となった者なのである。

 根の国の「根」とは「木の根のある地下の国」という意味ではなく、地元を表す根所ねどころや本拠地を表す根城ねじろという言葉と同じ意味の、物事の根源である事を表す言葉である。沖縄では集落の宗家を根所ニーショ、その家系の人間を根人ニーチュと呼んだ。根は先祖と強烈に結びついた言葉であった。

 興味深い事に、大国主の根の国渡り神話は典型的なシャーマニズムの幻視譚との類似性がある。シコオは最初は真っ赤に焼けた大岩によって焼け死に、次は矢により射殺される。火で焼かれる幻と鋭利な物で突かれ苛まれる幻はシャーマンが経験する通過儀礼として最も普遍的なものだ。

 シャーマンは幻視と現実の区別を喪失した中でそれを体験し死の世界に赴く。そうして死の世界と対峙し克服するのだ。彼らは幻の中で生と死の境を乗り越える力を身に着け、復活する。そして人の命を救う事も現世の在り様も自在に采配できるようになるのだという。――とすれば死と復活を繰り返し力を増した大国主もまたそういったシャーマン、あるいは〝森の王〟のような存在であったのかも知れない。

 ――そしてそういう試練と克服の他界である根の国を古人がどういう風に想定していたかといえば、仏法ではそこを地獄と同一であるとも説いたし神道家達はそこは黄泉国と同一であり地下深くだとも説いた。しかしそれは「根」、そして何よりも変質した後の「黄泉」の文字に引きずられたイメージだと云えよう。

 日本各地で今も行われている人形流し・雛流しの民族は海――そしてその先の根の国へ厄を流す儀式であったと言われるし、『南島雑話』は奄美大島の島民が「スサノオ尊天下にましまして、此の大海原沖津小島に汐の中宿りなしたまいて竜宮に宮居なしたまふ」と伝えていたと記している。神道の大祓祝詞も罪穢れが最後に流れ着く根の国が海彼の果てにあると伝えている。これらは地の底の陰惨な世界と化した黄泉と同化する以前の根の国の記憶を微かながら今に残している例であろう。

「本居宣長も黄泉が後付けであると知りながら根の国を地底から切り離して考えてみる事はできなかったし、それを切り離す事に挑戦した平田篤胤は根の国は月にあるなどと飛躍してしまった。――彼らの時代にはまだ、民衆の文字に興せない信仰を観察するという発想はなかった。どれだけ焦がれる気持ちに突き動かされてもそれだけでは足りなかった。古典にどこまでも忠実であるか自らの中から湧く直感に頼るしかなかった。――世界の国々に様々な似た神話があり、殊に南洋の島々に兄弟のような神話があり、すぐ近くの沖縄ではそっくり同じようなニライカナイをずっと見ていた。そうした事を知る事ができて初めて我々は麗しい常世、懐かしい根の国についてある程度の探究ができるようになったのだと言える――少なくとも俺はそう考えている」



 長い語りを終えた自分は深く息を吐き、再びそっと彼女の顔を見た。死者は動かないし話もしない。たしかにそうだ。だが、なにかが通じ合う。

「後ろを見ろだって?」

 自分はそのままにふらりと振り返る。ぼやけたような黄色い光が差し込む、自分が入ってきた洞窟の入口が相変わらずそこに在った。逆光になり見え難いが入口に置いてある鬼餅がシルエットのように黒く浮き上がっている。そしてその傍に餅よりもさらに小さな――小さな何かが居る事に気付いた。滲んだような視界で見え難いがそれは

「ネズミ……」

 ネズミが一匹、立ち上がったような恰好で鬼餅の匂いをかいでいるように見えた。

 そしてネズミは自分が見ているのに気が付くと跳ねるように彼方側――洞窟の外側へと走って行って姿を消した。

「あれについていけば良いのか? ……分かった」

 声のままに自分はまた歩き出す。

 そういえば自分はネズミに招かれるようにしてあの不思議な海岸に辿り着き、そして彼女に出会ったのだった。


 のそのそと洞窟から這い出すと――そこは同じような夕陽が照らしている黄色い海岸だった。洞窟の中で感じた仄かな明るさから見れば目も眩むような眩しさ。だが相変わらず優しい、溶け混じるような光だった。

 しかし此処は入ってきた高台の岩場とは明らかに違う場所。砂浜だ。

 そうしてその水際に彼女が鮮やかな青色の着物を纏って立っていた。

「マヤ!」

 自分は彼女の名を叫んで砂浜を駆ける。

 その声に気づいたのか、彼女はふっとこちらに目を向け、そして微笑んだ。

 彼女の手には大きな葉っぱを折って作った、青々とした草舟が握られていた。

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