付録

作中発句一覧


 作中に出てきた発句と簡単な解説です。前句付けの二句は省きました。また作者考案の句も省いています。解説と言うよりはほとんど作者の感想なので、話半分でどうぞ。



● 風寒し破れ障子の神無月  作者 宗鑑  季語 神無月(冬)


 今、こんな句を作ったら「寒し」と「神無月」の季重なりじゃないかと言われそうですが、当時はそんなやかましい事は言いません。「破れて紙が無い」と「神様が居ない」を掛けた駄洒落の句であるのは一目瞭然ですね。

 元は自画像の賛として書かれた句で、滋賀県草津市の屋敷跡には句碑もあります。



● 野ざらしを心に風のしむ身かな 作者 芭蕉  季語 身にしむ(秋)


 この句が冒頭にあるので「野ざらし紀行」と呼ばれていますが、野ざらしって「しゃれこうべ」ですからね。言わば「ドクロ旅日記」これはちょっとよろしくない。なので甲子吟行かっしぎんこうとも呼ばれてます。

 白骨になる覚悟をした身に風がしみる、それでも旅に出るのですから、相当な気合いです。だったらもっと暖かい季節に旅立てばいいのにとも思いますが、そうなると今度は暑さが身にこたえるとか詠むんでしょうね。昔の人は大変ですね。

 伊賀市芭蕉の森公園に句碑があります。



● さまざまのこと思ひ出す桜かな 作者 芭蕉  季語 桜(春)


 笈の小文に収められた一句。故郷の上野に戻った芭蕉は、かつて仕えていた主君の息子に花見に招かれ、この句を詠みます。となれば、思い出すのは二十五才で夭折した元主君の事だったのでしょう、きっと。

 因みに、この句を詠んだ時、伊良湖を抜け出した杜国が上野に来ています。この後、二人で吉野へ花見に行くんですね。春は花見の季節です。

 上野公園天守閣東脇に句碑があります。



● やあしばらく花に対して鐘つく事 作者 維舟  季語 花(春)


 古今和歌集や謡曲の言葉を引用して作った句らしいです。やあしばらく、なんて当時流行っていたのですかね。今で言うところの「今でしょ」みたいなもんでしょうか。ああ、これも古いですね。

 作者の維舟さんは金持ちの商人だったのに、俳諧に金を使い過ぎて、すっかり貧乏になったようですよ。趣味に金を掛けるのもほどほどにしないとね。



● 旅に病んで夢は枯野をかけ廻る 作者 芭蕉  季語 枯野(冬)


 有名な句なので解説不要ですね。作った後に門人の支考を呼んで、ああでもないこうでもないと考える辺りが、いかにも芭蕉さんです。作中では詠んだ直後に亡くなっていますが、実際には死の四日前の句です。わざわざ病中吟とつけているところを見ると、まだまだ死ぬつもりじゃなかったのかも。

 句碑は作中の義仲寺の他、終焉地の大阪や故郷の伊賀にもあります。



● 花の雲鐘は上野か浅草か 作者 芭蕉  季語 花の雲(春)


 其角編の俳諧撰集「続虚栗みなしぐり」に収められた一句。昔は寺の数だけ鐘があって、鐘の数だけ時を知らせる音がゴンゴン鳴り響いていたのかな、と思って調べてみたら、時の鐘を知らせるお寺は決まっていたみたいで、江戸には数カ所設置されていたようです。

 花見をしながらではなく、深川の芭蕉庵で詠んだ句。浅草寺の三匠句碑を始めとして、あっちこっちに句碑があります。



● 菜の花や月は東に日は西に 作者 蕪村  季語 菜の花(春)


 蕪村七部集のひとつ「続明烏ぞくあけがらす」に収録。蕪村・樗良ちょら几菫きとうの三吟歌仙の発句。

 発句  菜の花や月は東に日は西に  蕪村

 脇句  山もと遠く鷺かすみゆく    樗良

 第三  わたし舟酒債さかて貧しく春くれて  几菫

 蕪村はむしろ画家としての側面が強い人で、生計も絵を売って立てていたみたいです。蕪村の発句は絵画的なんて言われますが、この句なんかまさにそれ。子規が大喜びしそうな写生句です。

 実際問題として、昇る月と沈む日を同時に見ようと思ったら、地平線が見渡せるアフリカの大平原くらいしか思いつかないんですけど、蕪村は六甲山地の麻耶山で詠んだそうです。山の上なら見晴らしもいいですね。

 句碑は淀川の蕪村公園の他、関西に多くあります。



● 元日や家に譲りの太刀帯かん 作者 去来  季語 元日(新年)


 子供の頃は大晦日が近づくと、金箔が剥げ落ちたボロボロの仏具なんかをせっせと磨かされたものですが、この句に登場する先祖伝来の太刀もそんな感じの骨董品なのかなあ、って勝手に考えています。

 新しい年に古い太刀を着けて奮い立つ去来さんなのでした。続虚栗の中の一句。



● 一つ脱いで後ろに負いぬ衣がえ 作者 芭蕉  季語 衣更(夏)


 これも笈の小文の一句。杜国と共に吉野から奈良へ向かう旅の途中で四月朔日になったので、一枚脱いで衣更えってことにしておくよ、と芭蕉が詠めば、「吉野出でて布子売りたし衣がえ」と杜国が返しました。背負わないで売ればいいじゃんってことですかね。不要な物は金にして有用な物を手に入れる、実利的商人気質満載です。まあ、実際、杜国は商人なので無理ないですけど。

 和歌山県粉河寺こかわでらに句碑があります。



● 鎧着て疲れためさん土用干 作者 去来  季語 土用干(夏)


 これも続虚栗の中から引っ張ってきました。其角がまとめただけあって、面白い句が多いんです。去来は太刀だけでなく鎧まで持っていたんですねえ。彦根藩士の許六もびっくりですよ。

 物置を片付けていると昔遊んだゲームソフトなんかが出てきて、よし久しぶりにやってみようと、コントローラーを握ったら、すっかりコツを忘れていてまるで歯が立たないってのと同じで、去来も土用干しの為に蔵から出してきた鎧を見て、ちょっと重さを実感してみたかったのでしょう。

 今と違って軽量合金なんかありませんから、昔の鎧って相当重かったんじゃないかなあ。体を鍛えず俳諧なんかに現を抜かしていたら、たとえ着用できても重きに泣きて三歩あゆまずってとこですね。



● 夕立や田を見めぐりの神ならば 作者 其角  季語 夕立(夏)


 其角が東京墨田区の三囲神社で詠んだ句。句碑もそこにあります。本文中に詳しく書いてあるので、ここでは省略します。翌日雨が降ったなんて出来すぎですけど、この手の話ってファンタジックでいいですよね。色々と想像を掻き立てられます。



● 風流の初めや奥の田植え唄 作者 芭蕉  季語 田植え唄(夏)


 奥の細道、須賀川の章段の一句。白川の関を越えて、陸奥の風流に感じようと意気込む私の耳に聞こえてきたのは田植え唄。結構なもてなしありがとう。というご挨拶です。挨拶した相手は等躬とうきゅうというおじさんで、宿のお世話をしてくれた当地の実力者。当然俳諧連歌の席が設けられました。この発句に続いて、

 脇  いちごを折って我がまうけ草   等躬

 第三 水せきて昼寝の石やなをすらん 曾良

 と続いていきます。歌仙連歌なのでこの後にまだ三十三句続きます。興味のある方は自分で調べて楽しんでくださいね。

 句碑は多いんですよね。詠んだ場所である須賀川の十念寺を始め、東北、北陸、関東に点在。因みにこの句は猿蓑にも収められています。



● 西風に東近江の柳かな 作者 許六  季語 柳(春)


 許六のいた彦根は琵琶湖の東。そこに生えている柳が琵琶湖を渡ってきた西風をお出迎えしているよ、って感じですかね。勉強不足でこの句の詳細はよくわかりません。

 東風こちは春、南風はえは夏、となれば西風は秋かと思うのですが、そもそも季語じゃないようです。でも涅槃西風ねはんにし彼岸西風ひがんにしは春の季語なんですねえ。この辺、引っ掛け問題で試験に出そうです。要注意です。

 で、この句の西風も春のお彼岸前後に吹く西風なのでしょう。涅槃から吹いてきた風を柳が出迎えている……ちょっと怪談っぽくなってきましたね。

 


● 五月雨をあつめて早し最上川 作者 芭蕉  季語 五月雨(夏)


 奥の細道、最上川の章段の一句。もう書く必要がないくらい有名な句ですね。最初は「早し」じゃなくて「涼し」だったんですけど、梅雨の季節に涼しいってどうかなあ、ちょっとご亭主の一栄さんに、媚を売り過ぎすぎじゃないかなあ、と芭蕉さんが考えたかどうかは知りませんが、とにかく「早し」に変えて正解だったと勝手に思っています。

 この俳諧連歌の席に居たのは四人で、

 五月雨を集めて凉し最上川  芭蕉

 岸にほたるを繋ぐ舟杭    一栄

 爪畠いざよふ空に影待ちて  曾良

 里をむかひに桑の細道    川水

 と初日に一人一句ずつ詠み、翌日、残りの三十二句を詠んで一巻の歌仙「さみだれを」に仕上げています。

 これも句碑は多いですねえ。大石田の高野一栄宅跡の歌仙碑が新しくて読みやすいでしょうか。



● 鷹ひとつ見つけて嬉し伊良湖崎 作者 芭蕉  季語 鷹(冬)


 笈の小文の中の一句。小説の中では杜国に会ってすぐ詠んだことになっていますが、実際には翌日です。杜国の住まいは岬から離れていて、一泊した後、越人も連れて三人で岬まで行って詠んだのです。

 伊良湖は歌枕のひとつで古来から鷹の名所なんですね。今でも数十羽程の鷹柱が見られるようです。長野県の白樺峠も鷹の名所ですね、歌枕じゃないですけど。因みに鷹は冬の季語ですが、鷹柱、鷹渡る、は秋の季語です。ややこしいです。

 伊良湖の芭蕉句碑園には、寛政五年と昭和五十八年の新旧の句碑があります。



● 時は今雨が下知る五月かな 作者 光秀  季語 五月(夏)


 「土岐は今天が下知る五月かな」と書くと、かなりヤバイ事になる句として有名ですね。本文中にもあるように、本能寺に攻め込む直前、光秀が愛宕山で開催した連歌会の発句。この時、第三を詠んだ連歌師の紹巴は、後になって、秀吉に「お前、知ってただろ」とネチネチ言われたみたいですが、それを切り抜けて彼の子孫は徳川家の幕府連歌師になっちゃってますから、世渡り上手ですな。

 まあ、攻め込む直前ですからね、この句を詠んだ時には光秀も腹を決めていたでしょう。でもその気持ちを詠んだかどうかはわかりません。紹巴も知っていたのかどうかはわかりません。歴史なんてそんなもんですね。

 愛宕神社に句碑があるかと思って調べてみましたが、ないみたいですね。どこかの偉い人様、一本建ててみてはいかがでしょう。



● 星崎の闇を見よとや啼千鳥 作者 芭蕉  季語 千鳥(冬)


 笈の小文、鳴海での句。鳴海は歌枕で千鳥の名所。昔は鳴海潟っていう海浜が広がっていたらしく、きっと千鳥も沢山いたんでしょうな。星崎は鳴海潟近くの地名。運悪くこの夜は月が見えなかったのでしょう。今と違って月が出てなきゃ、夜の戸外は真っ暗ですからねえ。月が見えなきゃ闇を見ろとは生意気な千鳥ですね。多分何匹かは捕まって焼鳥になっていると思われます。

 この発句による歌仙が完成した時、記念にみんな(芭蕉と鳴海六俳仙)で塚を作ったんですな。それが千鳥塚でして、今も当時のままの姿で鳴海の千句塚公園に残っています。わざわざ塚を作るなんて、よっぽど嬉しかったんでしょうね。



● 伊良湖崎似るものもなし鷹の声 作者 芭蕉  季語 鷹(冬)


 笈の小文には収められていないものの、その時に伊良湖で詠んだ句。もうひとつ、伊良湖の鷹の句として「夢よりも現の鷹ぞたのもしき」なんてのもあります。

 まあね、「鷹が見つかって嬉しい~!」とか「伊良湖の鷹の声は一味違うね」とか「一富士二鷹って言うけど、やっぱり現実の鷹が一番」とか、遠足に来た小学生みたいなはしゃぎっぷりなんですけど、要するにこの時の鷹=杜国なんでしょうな。



● 秋風やしら木の弓に弦張らん 作者 去来  季語 秋風(秋)


 名古屋の医者で門人の荷兮かけいが編纂した俳諧撰集「曠野あらの」の中の一句。因みに曠野は芭蕉七部集のひとつです。

 「しら木」は「白木」もしくは「素木」でしょうね。白木ならば、人生の各年代を、青春、朱夏、白秋、玄冬なんて言いますから、秋と白を掛けて詠んだってことでしょう。

 秋風のことを素風と言いますから、素木ならばこちらと掛けたのでしょうな。色なき風なんて言い方もあります。

 漆を塗ってない弓のことを白木の弓と言うそうです。漆を塗るのは湿気を防ぐ為ですが、秋になって空気が乾燥してくると防湿の必要もなくなり、白木の弓でも大丈夫だねって去来さんは言いたいのかな。

 今はグラスファイバー製のグラス弓とか、カーボンファイバー製のカーボン弓とかが学生が使う弓の主流みたいです。軽そうですね。



● 秋海棠西瓜の色に咲きにけり 作者 芭蕉  季語 秋海棠(秋)


 西瓜も秋の季語なんですけど、この句は秋海棠を詠んでいますからそっちになります。この句を知るまで、シュウカイドウなんて植物、聞いたことも見たこともありませんでしたよ。ベゴニアの仲間だそうです。

 この句、芭蕉自身が残しているわけじゃないんです。十哲のひとりの支考の著書に東西夜話ってのがあるんですけど、その中で、

「そうそう、秋海棠って言えばさあ、昔、師匠が湖南の曲翠亭にいた時、水鉢にこの花が咲いていたのね。そしたら、『この花を詠んだ句ってまだないよな』とか言いながら、『秋海棠西瓜の色に咲きにけり』なんて言い捨てるわけ。確かに、花の色は洗ったら落ちちゃうようなみずみずしさよね」

 という記述があるので、そんじゃ芭蕉の句にしとこうという事になり、現在に至っているようです。

 別に支考の話を疑う訳じゃないですが、芭蕉の句にしてはあまり面白味がないなあと感じますね。きっとテキトーに詠んだんでしょう。括弧の中が女言葉なのは支考がそーゆー趣味の人だったとかではなく、書きやすかったからです。



● 月薄きもし魂あらば此のあたり 作者 牧童  季語 月(秋)


 牧童のお友達の楚常そじょうが二十六才で夭折した時の追悼句。この時、弟の北枝は「来る秋を好けるものを袖の露」と詠み、二人のお友達の一笑いっしょうは「うそらしやまだこの頃の魂祭り」と詠みます。

 ところが、楚常が亡くなった五ヵ月後に、一笑も三十六才で亡くなるんですなあ。翌年、奥の細道の旅で金沢に立ち寄った芭蕉は、一笑の死を知って「塚も動け我が泣く声は秋の風」なんて大泣きの句を作っちゃいます。

 と、本題の句からは全く関係ない話ですね。すみません。この句についてはよく知らないからです。でも薄い月と漂う魂の組み合わせが、幽玄な雰囲気を醸し出していて、結構好きな句のひとつ。



● 竹の子の力を誰にたとうべき 作者 凡兆  季語 竹の子(夏)


 猿蓑に収められた一句。前詞に「豊国にて」とあるので、豊臣秀吉を祀った豊国廟で詠んだものなのでしょう。既に五代将軍綱吉の時代ですからね、豊国廟は荒れ放題。でも竹の子は力強く生えている。人の権力は知れてるけど自然の力って凄いなあ、ってとこですかね。

 猿蓑では、この凡兆の句の後も竹の子の句が続いています。竹の子三連荘状態。

 たけの子や畠隣に悪太郎    去来

 たけの子や稚き時の絵のすさび 芭蕉

 タケという名の人がいたら、その子供は竹の子ですね。お竹さんなんて沢山いそうだからなあ。きっとその子供は「やーい、たけのこ」とか言われてからかわれたのでしょう。と、勝手に想像しました。

 豊国神社に句碑があるかと思ったのですが、無いみたいです。凡兆程度の知名度では駄目ですかね。



● 一竿は死装束や土用干し 作者 許六  季語 土用干(夏)


 衣食住なんて言いますが、昔は衣服も貴重品でして、皆さん、夏の土用にはきちんと虫干しをして、長持ちさせるように頑張っていたのでしょうね。そんな様々な衣服が干された土用干しの光景の中に、白いさらしの経帷子が風に揺れている竿がある。おお、あれは死装束か、って感じですかね。ちょっと怖いですね。

 でも備えあれば憂いなし。人間いつ死ぬかわからない。天災に備えてカンパンを買い込んでおくように、死装束の準備も怠ってはいけません。しかもカンパンは結局使わず、賞味期限切れになることが多いのですが、人の死は間違いなく、百パーセントの確率でやってきますからね。死装束は決して無駄にはなりません。買いです。買うべきです。今なら、夏の土用特別セールで三割引で御奉仕させていただきますよ、旦那、どうですか、新しい死装束を一枚。へっへっへ。うむ、流石は近江商人、口がうまいのう、なんて妄想してみました。



● 書いてみたり消したり果ては芥子の花 作者 北枝  季語 芥子の花(夏)


 北枝の辞世の句。彼は十哲のひとりと言われてはいるものの、あんまりパッとしないんですよね。二回ほど火事に遭って住居も転々として、晩年の暮らしぶりも良くわかっていないようです。

 金沢の心蓮社という寺院に墓と句碑がありますが、刻まれているのはこの辞世の句ではなく、続猿蓑に収められた「しぐれねば又松風の只おかず」の句。どうしてこの句を選んだのかなあ。

 何度も書いたり消したりして、その結果は芥子の花。自分の人生を謙遜しすぎていると思うんですけど、芥子の花びらみたいな慎ましい一生だったのかもしれませんね。



● あち東風こちや面々さばき柳髪 作者 伊賀上野松尾宗房  季語 東風(春)


 京都の季吟の元で一所懸命に俳諧のお勉強をしていた、芭蕉二十四才の時の句。季吟の息子の湖春が編纂した撰集「続山井やまのい」に収められています。当然、芭蕉なんて号はまだありません。作者名は「伊賀上野松尾宗房」です。仰々しいなあ。かなり肩肘張ってますね。

 貞門派らしい言葉遊びの作風。

「『あち東風や』の五文字だけで、あっちこっちに春風が吹いている情景を描いた俺って凄い! なんて若い時は思っていたけど、今、読み返してみると恥ずかしいなあ、黒歴史だよ」

 と芭蕉さんが言ったとか言わなかったとか……え、言ってない? 失礼しました。



● 数ならぬ身とな思いそ魂祭 作者 芭蕉  季語 魂祭(秋)


 浪化ろうか編の撰集「有磯海」に収められた一句。寿貞尼が亡くなったのが六月二日。それを芭蕉が知ったのが六月八日。そして七月十五日、二人の故郷である伊賀上野で盆を迎えた時に、寿貞尼の死を悼んでこの句を詠みました。

 魂祭りは、帰ってきた先祖の霊を迎え、もてなし、送る、一連の行事。つまりはお盆の行事のことです。でも、祖霊信仰は仏教伝来前から日本にありました。既に縄文時代には石を並べて祀っていたようですしね。日本人の根っこにある考え方なのかもしれません。芭蕉さんも帰ってきた寿貞尼をもてなす為に、この句を詠んだのかなあ、なんて思う訳ですよ。

 寿貞尼が芭蕉にとってどんな女性だったか、これはもうわからないままの方がいいんでしょうね。わからないからこそ、この句が発する芭蕉の慟哭が一層激しく感じられる気がします。

 この句を詠んだ三か月後、寿貞尼の後を追うように芭蕉も亡くなります。

 伊賀上野の愛染院に句碑があります。



● 淋しさの底抜けて降るみぞれかな 作者 丈草  季語 みぞれ(冬)


 どうしたって丈草という人には、世捨て人という印象が付いて回るんですよね。芭蕉が亡くなって三年間喪に服したと聞いただけで、ほえ~と溜め息が出るのですが、その後も仏幻庵に籠もってひたすら師の追善供養をし続けたと聞けば、ちょっと遣り過ぎでしょうと思ってしまいますよ。しかもこの供養、自分が死ぬまで続けてますからね。人生捨ててるなあと思わないでもないです。

 でも考えてみれば滅私奉公って日本人は好きですからね。今は流行らないけど家庭を顧みない会社人間も、自分の人生、捨ててるようなものですから、丈草の生き方に文句を言える筋合いじゃないでしょうな。むしろ、それだけ敬愛できる人間に出会えた丈草は、人と人との繋がりが希薄な我々よりも、余程幸せ者だったと言えるのかもしれません。

 と、句とはまるで関係のない話ですみませんね。「底抜けて」なんて感性は、やっぱり詩人の丈草だなあ、世捨て人じゃなきゃなかなか出て来ない言葉だなあと思います。

 許六、李由編の「篇突へんつき」に収められた一句。

 


● 梅一輪いちりんほどの暖かさ 作者 嵐雪  季語 梅(春)


 これは有名ですよね。嵐雪の名は知らなくても、この句を聞いたことのある人は多いでしょう。

 梅だけなら春なのですが、嵐雪門下の百里編の追善集「遠のく」には寒梅の題でこの句が収められているんですな。そうなると冬ってことになります。冬だと白梅かなあ。いや、むしろ冬に暖かさを感じるのだから紅梅なのかも。花の色で色々と考えちゃいますね。あ、ここ駄洒落です。笑っていただく所ですからね、よろしくお願いします。

 いちりんと平仮名で書くのがいいですよね。色々な漢字を当てはめて、色々な暖かさを想像できます。一厘とか一淋とか一凛とか。ここは駄洒落じゃないです。笑わなくてもいいですよ。

 服部家は淡路島出身の武家。そんな訳で句碑も淡路島の自凝島おのころじま神社にあります。嵐雪二百五十年祭記念建立だそうです。因みにオノコロ島ってのは、イザナギ、イザナミが国造りに当たって最初に作った島の名です。当然、この神社に祀られているのはこの二神です。縁結びのご利益もあるみたいです、ありがたや。



● この下にかく眠るらん雪仏 作者 嵐雪  季語 雪仏(冬)


 小説の中では、臨終間際の芭蕉と嵐雪が大阪で相対するというトンデモ設定でしたが、実際には嵐雪は江戸で師の訃報を聞きました。まあ、容態が悪いくらいの情報は耳に入っていたと思うんですけど、この二人、あんまり仲がよくなかったらしく、嵐雪は江戸に留まったままでした。

 でも、死んだとなったら話は別。芭蕉の死から十日後の十月二十二日、雪門一同で追善句会を行って、直ちに上方目指して出立。十一月七日夕刻、ようやく義仲寺に到着した嵐雪が、師の墓前にひざまずいて詠んだのがこの追悼句です。その胸中はどんなものだったのでしょうねえ。

 其角編の芭蕉追善集「枯尾花」の下巻に、嵐雪の墓参文と共に収められています。

 


● ぬけがらに並びて死ぬる秋の蝉 作者 丈草  季語 秋の蝉(秋)

 

 芭蕉七部集のひとつ「続猿蓑」に収められた句。空蝉と蝉が並んで死んでいるんですね。しかも蝉のくせに季節は秋。ああ、暗い、もう生きていくのが辛くなるくらいのこの暗澹たる雰囲気は、いかにも丈草作って感じです。

 空蝉うつせみ現身うつしみと掛けて、無常観漂う人生そのものですから、「ほらほら、うつつに過ごしているお前の人生なんて、死と隣り合わせなんだぞ。儚いだろう、空しいだろう、ふっふっふ」と耳元で丈草に囁かれているようで、キーボードを叩く指の力も抜けていく気がしますね。



● 寒くとも火になあたりそ雪仏 作者 宗鑑  季語 雪仏(冬)


 お下品な(失礼)作風の宗鑑にしては、ちょっといい感じの作。


「寒いからと言って火に当たっていると、そのうち溶けちゃうわよ、雪ダルマさん、うふ。そんなに寒いのなら、火になんて当たらずにこっちに来て。私があたためてア・ゲ・ル」

 翌日、雪ダルマは水になっていたそうです。(了)


 失礼、また悪乗りしました。しかし、もうこれ童話の世界ですよね。雪だるまや雪ウサギが溶ける話の原点は、この句にあるんじゃないかとさえ思えちゃいます。宗鑑、侮れませんな。



● 憂き我をさびしがらせよ閑古鳥 作者 芭蕉  季語 閑古鳥(夏)


 嵯峨日記の中の句。猿蓑にも収められています。

 この句は最初「憂き我をさびしがらせよ秋の寺」だったんですな。奥の細道の旅を終えて伊勢に向かう時、曾良のおじさんがいる長島の大智院に泊めてもらった、その時の挨拶代わりの句。この寺の句碑にも、「秋の寺」で刻まれています。

 それが二年後、去来の嵯峨野の別荘、落柿舎に滞在した時に、秋の寺を閑古鳥に変えて書き付けています。滞在した時期が四月から五月にかけての夏だったってのもあるんでしょうが、どうして変えたのか、詳しい理由はわかりません。

 でも、閑古鳥が鳴くと確かに寂しくなりますね。会心のギャグを飛ばしたつもりが、笑い声は一切起こらず、場は静まり返り、閑古鳥だけが鳴いている状態になると、穴があったら入りたくなるくらい寂しくなります。えっ、それはちょっと違う? ただの例え? そうですか、すみません。

 句碑は、閑古鳥に詠み直したとされる金福寺(蕪村の墓所)の他、多数あり。

 


● しらじらと砕けしは人の骨か何 作者 杜国  季語 なし


 芭蕉七部集の第一集「冬の日」に収められた一句。

 蕉風の確立はこの「冬の日」によって成されたと言われています。実際、この歌仙を興行した場所とされる名古屋のテレビ塔の近くには「蕉風発祥の地」なんてモニュメントまで出来ているんです。気合い入ってます。凄いです。

 まあ、でも確かに面白い歌仙なんですよね。あんまり面白いのでアニメにもなっています。五人組の女子高生が放課後に楽器を演奏するアニメじゃないですよ。平成十五年、川本喜八郎監督で製作された連句アニメーション「Winter days」某動画サイトでも観られますので興味のある方はどうぞ。

 冬の日は歌仙五巻です。この句は芭蕉発句の歌仙の二十五句目、その前後は、

 冬がれ分けてひとり唐苣とうちさ    野水

 しらじらと砕けしは人の骨か何 杜国

 烏賊はえびすの国のうらかた  重五

 冬枯れの野に分け入ってもトウチサが生えているだけだよ。あれ、草の他にも骨が散乱しているぞ、人の骨じゃないか。骨って言えば、普通の占いは骨を使うが、えびすの国ではイカを使うらしいぞ。ってな感じ。

 この句を読んで思い出すのが、詩人中原中也の「骨」って詩。

 ホラホラ、これが僕の骨だ、

 生きてゐた時の苦労にみちた

 あのけがらはしい肉を破つて、

 しらじらと雨に洗はれ

 ヌックと出た、骨の尖。


 それは光沢もない、

 ただいたづらにしらじらと、

 雨を吸収する、

 風に吹かれる、

 幾分空を反映する。

         詩集『在りし日の歌』昭和十三年 から抜粋

 まあ、共通する言葉は「しらじら」しかないんですが、雰囲気が似ているなあと思いましてね。中也は多くの短歌も残しているので、冬の日くらいは読んでいたはずです。ちょっとは影響されたんじゃないかなと思う訳です。



● 手の上に悲しく消ゆる蛍かな 作者 去来  季語 蛍(夏)


 曠野あらのに収められた句。前詞に「妹の追善に」とあるように妹への追悼句。

 去来には九人の兄妹がいたそうで、その中のひとり千代(俳号千子)も芭蕉の門人でした。去来と千代は結構仲が良く、一緒に伊勢詣でなんかもしてるんですな。その様子は「伊勢紀行」として去来自身が書いています。

 しかし人生一寸先は闇。この伊勢の旅の二年後に、千代は嫁ぎ先で亡くなってしまうんですねえ。きちんと辞世の句も残しました。「もえやすくまた消えやすき蛍かな」それを受けて去来が詠んだのが掲出句です。

 目の中に入れても痛くないって言葉がありますが、去来にとって妹の千代は、手の平に乗せても重くない妹だったのでしょうか。医術の心得がありながら、為す術なく消えていく命を見守っているようで、ちょっとした切なさがありますね。

 蛍を詠んだ追悼句では、龍之介が亡くなった時にお友達の蛇笏が詠んだ「たましひのたとへば秋の蛍かな」が有名ですな。去来のこの句をちょっと意識していたんじゃないのかなと思わないでもないです。

 悲しみに沈む去来に芭蕉が送った句もあります。「無き人の小袖も今や土用干」あんまり慰められないなあ。う~む。



● 日の道や葵傾くさつき雨 作者 芭蕉  季語 五月雨(夏)


 葵も夏の季語で季重なりですが、ここはさつき雨を取るべきでしょう。猿蓑に収録。

 俳句では、葵だけだと普通は立葵を指すようで、「この印籠が目に入らぬか」の双葉葵や、ゴッホでおなじみの向日葵などではないようです。雨に濡れて傾く葵、傾いている方向にお日様があるのだろうって感じでしょうか。



● 師のかげに星落ちにけり伊良湖浜 作者 杜国  季語 星落つ(秋?)


 杜国の墓は伊良湖岬から数キロ離れた海音寺にありまして、その寺にこの句を書いた短冊が収められています。勉強不足でそれくらいしかわかりません。更に勉強不足なことには季語がわからないんですよね。

「流星」とか「星走る」とか「星飛ぶ」が季語なので、落ちる星も言ってみりゃ流れ星のことだし、これでいいんじゃないかと思うんですが、これらは秋の季語なんですよ。

 この句は恐らく芭蕉が杜国を訪ねた時に詠んだのでしょうけど、それって十一月の話ですからね。思いっ切り冬です。秋の季語じゃおかしいですよね。「星冴ゆる」なら冬の季語なんだけどなあ。それとも回想で翌秋に詠んだのかなあ。無季の句なのかなあ。どうなんでしょう。

 まあ何にしても芭蕉への杜国の思慕がよく分かる句ですね。土井晩翠の「星落秋風五丈原」じゃないですが、落星=人の死ですからね。師のかげに隠れるようにひっそり死んで行きたいと、杜国がつぶやいているような感があります。

 杜国の屋敷跡は杜国公園として整備されて、地元の人にも愛されています。杜国がここに住んでいなかったら、芭蕉もわざわざ足を運ばなかったでしょうからね。杜国さまさまです。



● しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり 作者 蕪村  季語 しら梅(春)


 蕪村の最期の句。彼は摂津に生まれ、後に江戸へ下り各地を転々。五十九才で京都の仏光通りに居を構えて、ここが終焉地になります。住居跡には石碑も立っています。

 蕪村が逝ったのは十二月。となると、この句の梅も寒梅で冬の俳句ってことになりますが、「こは初春と題を置くべし」と言い残していったので、春の俳句になっています。

 ようやく蕾が開いて白梅が咲いた。これからは闇夜に白い梅が浮かび上がるような夜明けを、毎日迎えることになるのだろう。てな感じに考えていたこの句ですが、最近は変わりましてね。これから毎日が白梅の輝く夜明けばかりになるのに、それを見ることもできず私は旅立つのだ、なんて、少々残念な気持ちを感じるようになってきました。これも年のせいでしょうかね。

 蕪村はこの句の前に二句、詠んでいます。

 冬鶯むかし王維が垣根哉

 うぐいすやなにごそつかす藪の霜

 王維は詩人で文人画の祖と言われるお方。画家の蕪村としては芭蕉と同じくらい尊敬していたのでしょう。その王維さんの家の垣根にいる鶯に自分を見立てていたのでしょうかね。藪でごそつく鶯なんて、死を前にして悶々としている心境が感じられます。で、この二句に続くのが白梅の句ってわけです。

 これら三句を枕元で書き留めたのが呉春という弟子。蕪村の弟子なので一応句も詠んだのでしょうが、この方はもうほとんど画家です。この最後の句から得た印象を白梅図屏風という作品に仕上げて、今も残っています。本格的ですよ。



 以上、独断と偏見とちょっと悪ふざけの解説でした。本当はもっと格調高く書こうと思ったのですが、性格的に無理でした。

 小説中、史実とは異なった記述や、キャラ付けの為に、登場人物に作者のご都合主義的性格を背負わせるなど、色々無茶なことをしています。大きな気持ちで許していただければと思っております。

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言霊の俳諧師 沢田和早 @123456789

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