Philophobia(愛され恐怖症)後編
八重子は幼いころの記憶はトンとないものの、毎週月曜日の朝礼で6年間歌わされた校歌だけは不思議なくらいよく覚えていた。
その校歌の歌詞の一番初めに出てくる紀の川は八重子の実家から徒歩20分くらいのところにあり、夏になると二人の兄たちと父の4人で実家で飼っていた柴犬を洗ってやりに行ったことを思い出していた。
校歌には「清く澄んだ紀の川」とあったが、30年前の日本なんて、環境に今日のようには取り組んでおらず、あるいは取り組み始めた頃だったので、川も美しくなかった。自宅ではなく、川でなぜチロを洗っていたのか理由は分からない。
家族のようにペットを可愛がるのが当たり前の世間で、八重子の自宅に連れられた血統書付きのその柴犬は今から考えると可愛がられているようにはどう逆立ちしても思えない。
「これはチロの大好物や。」と父が言って犬のチロに与えるものはさんまの骨などを混ぜた白米、いわばこれが本当の残飯と言うものばかりを与えられていた。
一時、鯛の骨を与えたときなどは、喉につっかえたその骨を吐き出すのにチロはとても苦しむことになり、それ以降は父も「チロに鶏の骨はやったらあかん」とお達しを出したのだった。
サンマや小魚の骨のおかげか、チロは父の小金儲けの為の交配で、数回に渡り合計10何匹以上の子犬を産んでも骨粗しょう症など関係ないという立派な骨太だったけれど、毛がふさふさになる冬場でもあばら骨はくっきりとしていた。それが理由かどうかはさておき、チロは八重子が小学生高学年に上がった時に死んでしまい、八重子が帰ってくる前にと父が紀の川の河川敷のどこかに勝手に埋葬してしまった。
死体もなく死んでしまったと告げられ、八重子はどのように「死」を理解すれば良いのか分からなかったけれど、空っぽになった隙間風が吹き込むチロの小屋はいつまでもいつまでも主不在で、死ぬというのは2度と帰らないことと納得したのだった。
今から思えば、チロももっと違う家に貰われていれば、違う人生があったんだろうと申し訳なく思える。
チロを譲ってくれた方や、チロの母犬がチロの一生を知ったら、それこそ、そんなはずじゃなかったと思うのかもしれない。八重子にしてみれば、ぼんやり別れるほど納得のいかないのにはなく、
もっときちんとチロに別れを告げ、心の整理というか、区切りをつけたかった。
そんなことを考えているうちに八重子の足は自然と川辺の方へと向かていた。
堤防の陸側に以前あった鮎の養殖場は、八重子が随分来ない間に、太陽光パネルの発電所になっていて、時代の変貌を感ぜずにいられないものの、
田畑と川の間に突如として現れた現代感たっぷりな事業は流行とは無縁のこのとちには未来感たっぷりと言った方がしっくりしていて、言ってみれば、浮いてるのだ。
八重子が小学、高学年だった頃、アメリカ人と日本人のハーフで宮下エミリちゃんという女の子が転校してきた。
エミリちゃんは土にまみれた浅黒い田舎の子供と違いとても色白で、濃い茶色の瞳は日本人に近いけれど、
丸く大きく、くっきりした二重で、光沢のある美しい栗毛は、裁縫の裁ち鋏で祖母によってガタガタに切られた八重子のそれとは違ったとてもオシャレなおかっぱ、今で言うならばお洒落なボブで、とても似合っていた。
こんな閉鎖的な、ど田舎に転校して来たエミリちゃんはいつも1人で、誰かと話をしている姿を八重子は見たことがない。当時のど田舎の公立の小学校に英会話教室などという洒落た習い事に通う子供はいるわけも無く、言葉の壁が最大だったのだろう、結局、誰一人として友達を作らぬままエミリちゃんは程なく転校して行った。
頻繁に行ったり来たりしてきたは言えど、離れていた20年という時間の中で、八重子自身、自分が日本人離れした常識と
畑の横に停められた軽トラックの窓に映ったレイバンのAVIATORのサングラスをかけた自分が、あの時のエミリちゃんと重なって見える。
どこにいても、八重子にしてみると日差しの強い日にはサングラスをかけるのが当たり前のことだけれど、こんなど田舎で車の運転か駆け出しのヤンキー以外でサングラスをかけてる人間なんていない。
「キミは自分の常識が世界の常識だと思っている。」
怒りを抑えながらも諭すように言った彼の言葉は八重子の胸に突き刺さった。
八重子自身が気づいていないだけで外見も内面ももはや日本人ではないのかもしれない。
形や理由は変わってしまったけれど此処はいつの時代も八重子の居るべき場所でないような気がして、急に寂しくなった。
かと言って、外国が自分の肌に合っているとも思えない。
若い時は、若さというパワーが全てを跳ね除け、
何をするにも好奇心があって、源泉の分からない原動力が溢れていた。年齢を重ねた今、それらが枯渇したわけではないけれど、こんなはずじゃなかったのにという気落ちと正体のわからない何かに追いかけられるような焦燥感に度々苛まれるようになる。
ピーピー豆と呼ばれるカラスノエンドウが足元に生い茂る勾配を登ると、川が見えた。
同じようにピーピー豆が生える勾配を降りて水辺へと降りて行く。
八重子が小さいときはこんなに整備されていなかったように覚えているが、具体的にはどこが変わったかと言われても答えられないような気もする。
八重子は草場に腰を下ろしてみた。
やっぱり幼いころの目線で灰色に近い川面とその向こう岸に見える緑の土手、何一つそこにある物は変わっていないようにも思える。
変わったのは景色じゃなくて自分の目線で、気づかぬこと、忘れていた事、わざと見ない物が増えただけなのかもしれない。
こんなはずじゃなかったと思うことは、目線を変えてみてみれば当然の成り行きで、必至な結果だったのかもしれない。
足もとに茂るピーピー豆を一つもぎ取ると、房を少し切り開くとふわりと青臭い匂いがする。幼いころ、これを吹きながら下校した。
豆を爪でそぎ落とすと、八重子のマニキュアを落とした爪と指先の間が緑に線を引く。
フ――――。フ―――――。
昔のようには鳴らない。大人になるというのは、できたことを忘れ、できることを増やしていくことなのかもしれない。
八重子は何度吹いてもならないピーピー豆を捨て、もう一つ房を摘んだ。
フ―――。フぃーーー。ピ――――。
ピーピー豆と呼ばれるだけの理由を示すように、ピ――――となる。
お帰りと言ったかのように、鮒が川面で跳ねた。
何も変わっていない。自分も変わっていない。ただ、変わったと思って、自分で見えない境界線を引こうとして、誰からも距離を取ろうとしていただけなのかもしれない。
ピーピー豆の中に点在するように咲く小さな紫の花で羽を休める黄色の蝶も、高く舞い上がり、青空をしったつもりでも、ひとたび、羽を休めて止まれば、孵化した時と同じ目線に戻り、緑と呼応する。私もそれで良いのではないのか。八重子はピーピー豆の上で呼吸するかのように羽を広げたり閉じたりする蝶をしばらく見ていた。時が止まるように風が止んだ。蝶はひらりと緑に別れを告げ、またヒラリ、ヒラリと舞い始める。八重子はしばらく彼女を目で追った。
****
一日一歩、二日で二歩、3歩歩いて二歩下がる。結局、何歩進むんだ。
逃げ込む様に入った立ち飲み屋で
女も、酒も普通が良いんだ。
なのに、なんで八重子は分からないんだ。
婚活サイトで会った八重子は自分にはもったいないほどの美人だった。
婚活などしなくても、アイツを欲しがる男なんて沢山いるだろう。
無防備に背中を曝けて寝息を立てている八重子の肌に滑らせた火照りが両手に蘇る。
「すいません。おかわり。」空になったサワーのグラスを両手で握る。
どうして、婚活サイトなんかに居たんだ。
1年という付き合いの中で、八重子と別れる、別れないの話になったのは初めてじゃない。3歩歩いて3歩さがるような付き合い。
少し分かり合えた、もっと仲良くなりたいと思えた矢先から、斧で滅多切りにするような八重子に文章はウンザリしている。
言葉を扱う仕事をしていて、そのパワーを知る反面で言葉など何の意味もない事も知っている。
だからこそ、マメにラインを返信したり、時間を無理やり作って会って態度で示しているつもりなのに、八重子には伝わらない。
この歳で遠距離なんてする予定じゃなかったけれど、好きになってしまったんだから仕方ない。オレだって会いたいときに会える融通のきく仕事と海外なんかじゃなくてできれば都内に住み、いつでも会える距離にいる女と出会いたかった。
重ねた両手の上に額を載せて寝ている八重子が一番無防備で可愛いらしい。美しい女に可愛いなんて、矛盾があるのかもしれないけれど、文章だけが見られるこの無防備さは誰にも見せたくなく、同じ姿を過去に他の男たちが同じ事を思っていたとしても、
離れているとその見えない羽をバタバタとはためかせ、羽を散らす。傷つけたこともあったから勝手な言い分だとは分かっているけど、ひらり、ひらりと羽をオレの心に積もらせなくても八重子以上にいい女はいないと今は思っている。一緒にいる時は羽を休めても、離れるとまた羽毛を飛ばすのだから、いっそオレが齧り取って解放してやりたい。見えない羽を噛みちぎると、八重子がくすぐったそうに体をよじらせた。
太ももや二の腕は肉がついているのに、コルセットを付けていたのかと思うほどくびれた腰から上は、骨っぽいといわんばかりに細く、そのアンバランスな体型も文章だけが知る事実で文章にはその不完全さが愛おしくもあり美しいのだ。
腰から確かめるように浮きだったあばらを指を這わせる。
文章は八重子の首筋に鼻をうづめ、匂いを嗅いだ。
同じソープを使ってさっき体を洗いあったのに、この女は違う良い匂いがする。シャボンの泡ですべる指先で触れてやる箇所でいちいち体を捻じらせ、文章に絡みついては「大好き」と吐息を漏らし、シャワールームが暑くなる。見えるからダメという八重子の首に舌先を付けて吸い付くと、
八重子は白鳥が毛繕いするように鎖骨に顎を埋めた。
もう一度匂いを嗅ごうと吐き出した息が八重子の肌を刺激したのか、
八重子が体を反転させ文章を抱きしめた。
「大好き。」文章の髪に細い指を入れ、下唇を挟む様に口づけをする。
「すいません。さっきのお替り、氷多めで!っていうか、グラス一杯に氷もらえます?」
八重子を抱いたのはもう10日も前なのに余韻が文章の細胞の中に居座り続ける。
「お前さ、俺たちの業種は、普通の女には理解できないよ。」
3分前にテーブルを拭いたおしぼりで口元を拭くワイルドな先輩の
「そうっすかね。でも、この女が普通のオンナじゃないんすよね。」
口を拭いたおしぼりでまたテーブルを拭いて、枝豆を口に入れる。
綺麗好きなのかワイルドなのか線引きがないのも男らしい。
「お前さ、同じ業種の女と付き合った方が楽だよ。」
同業者と結婚し、嫁の浮気で離婚した進が言う言葉に何の説得力もない。
「探してる女の子、知ってるからさ、一度あってみたら?連絡しとくからさ、LINEするよ。」
メイトドットコムで数年費やしたことが3秒で決まってしまった。
出会いなんて、もしかするとそんなものかもしれない。
サヤの中の二つ並んだ枝豆を見て、あばら骨から親指が乳房に差し掛かった瞬間、息継ぎをするように開いた唇の上に並んだ二つにホクロを思いだし、
グラス一杯に入った氷を鷲掴みで出されたばかりのサワーに投入した。
*****
八重子は家路についていた。
長時間散歩をしたせいでお腹もすいたし、喉もカラカラだったが、田舎にはコンビニは都会ほど点在しない。
家に帰る途中に新しくできた喫茶店に立ち寄った。
和歌山発信の喫茶店のチェーン店で、可もなく不可もない。
こんな田んぼと国道の間にできた喫茶店で、カーペンターズのclose to youを奏でている無人電子ピアノがやけに八重子の中では不釣り合いに思えた。
八重子はオール デイ モーニングセットを頼み、
トースト、ゆで卵、サラダにランチ並みのサラダ、ヨーグルト、デザート、コーヒーとオールデイ ランチ&ブレックファストと言った方がよさそうなポーションを頬張っていると、
「何してるん」背の高い男が無粋に八重子のテーブルに座った。
「コーヒー。」
「なんや。お兄ちゃん。」八重子の二番目の兄だった。禿頭を隠すようにかぶってきたハンチング帽を脱いだ。
「お前、何してるんよ。おかん、探しとったで」出された紙のおしぼりで顔を拭く2番目の兄を横目に八重子は黙々とパスタを食べる。
「お兄ちゃん。パン食べる?こんなにいっぱい食べられへんわ。」
「これ食べたら、どこ行くんよ?」就職が決まり、日系の航空会社の内定を辞退しマレーシアへ行くと親に告げたクリスマスが過ぎた日の夜、出て行けと言われ、行く当てもないのに自転車に跨って家の門を出ようとした。
あの日も同じように、「どこ行くんよ?」と兄が声をかけてきた。事情を説明するとどこまでももう一台の自転車で付いてくるので、2人で夜通しカラオケに行ったことを思い出した。
「さあ。広島の兄のところへ観光がてら行こうかな。尾道の方に友達もおるし」
「そうか。」
パスタをフォークに刺す手を見ている。
「なんか、食べる?」
「いや、お前、年取ったなと思ってな。」
「手と首に年齢が出るっていうわな。もう40やもん」
「お前、40なん?」兄からすると妹はいつまでも楓のように小さく柔らかい手をしてると思っているのだろう。
「そうやで。お兄ちゃんも年取ったやろ?」今年46になる兄は公務員試験に落ちまくりニートのような生活を実家で送っている。心配すべきなのは自分の道なのに、お節介にも妹の将来について案じているらしい。
「そうか40か。オカンも年取ったやろ。お父さんも元気にしてるけど年取ったで。」紙コップに入ったコーヒーが主流になった時代に、ソーサーに乗せられたドリップコーヒーがカチャンと音を立てて置かれた。
「お前の気持ちも分かるで。僕も嫌やもん。でもお父さんもオカンも先長くないやん?お前も大人にならんといかんのちゃうかなって思う。」砂糖とクリームをたっぷり入れてスプーンでかき混ぜた。透明感のある漆黒のコーヒーはクリームと砂糖で優しい茶色になり、キリリとした香りからほのかに甘い優しい香りにかわる。
「大人になるって何やろな?」八重子はサラダに入ったトマトの下手を持って口に入れた。
「いろいろ我慢することが大人になることなんかな?お兄ちゃん。私の何が悪いんやと思う?」
兄は足を組み、すするコーヒー越しに八重子のパンに手を伸ばす。
「八重子はな、自分の常識が全ての常識やと思う癖がある。しかも残念なことにその常識が普通とはズレていて、お前はそれに気づいてない。そんなんやったら、あかんのちゃうかなぁ。海外で生活してきたから、自分の意見を通そうとする癖が付いたんかもしれんな。お前とは思春期の頃、話するきっかけなかったから、それが海外生活のせいなのか分からんけどな。」
5つ歳が離れたこの兄は八重子が折檻をされる間、四畳半の違う隅でおやつを食べていた。兄は高校を出ると東京に進学し、公務員試験に何度も敗れ、実家で試験勉強するという名目で和歌山に帰ってきて10年が経とうとしていた。
兄は兄なりに何か心に閉まったものがあるのかもしれないが、話をするきっかけが無かったのは物理的に離れて暮らしていたせいではない。
八重子が中学3年になったころから、実家では両親と祖母、そして八重子の4人だけの生活が始まっていた。
八重子を溺愛してた父は八重子に手をあげることはなかったが、あるいは、無かったからこそ、父親が酒に酔って暴力的になった時、八重子の母親は真夜中であろうが何であろうと八重子を呼び、父親を止めてくれるように言うのだった。
泥酔してロジックを失い、目が座った大人を諭すのは簡単なことではない。
でも、毎晩のように繰り広げられる、酔っ払い暴力オヤジを論破しないことには、八重子は母と共に家を追い出され、小さな軽自動車の中で一晩を明かすことになる。八重子の努力虚しくそうなった場合「お母さん、もう別れる。家出て行く。」という、金切り声で泣くヒステリックな母を締め切った小さな車の中で論破するために夜を明かすことになるのだった。
母親のヒステリックなアフターショックは家を出されようが出されまいが必ずあり、八重子にとって落ち着く夜など、どの日も無かった。
八重子は父親に対して、溺愛してくれる父を慕う反面で、のっぴきならない憎悪が少しずつ植え付けられていく。自分を溺愛してくれる人間から愛と言うより、人間性そのものに疑問を持ち、自分に注がれる愛情が実は存在しないのではないかと時々思うのはそのせいかもしれない。
そう、裏付けることは、八重子が中学生の頃に起こった。
期末試験がせまったある放課後、あぶない
八重子は実家でいつ爆発するか分からない父が晩酌する食卓で夕食を共にするのがとても嫌で、極力避けていた。
八重子の父親は学校の教師をしていたということもあり、帰る時間が時々かさなることがあった。
「八重子、帰ってたんか?」
「うん。」テレビから目を離さない。
「何見てるんや?こんなくだらないもん観て。お前、もっと勉強したらどうよ?テレビ学校へいくわけやないやろ!」
ヤバい。酔っている。八重子はだんまりを決めるしかない。
「えー?お前、返事くらいしたらどうよ?」もともと大声の父親の声が拡声される。
「ごちそうさま。」食べかけの焼きサンマを流しに出して、台所を出た。
「おまえ、くそ生意気に。」母が出し放していた、と言うより、元よりこの家に何かの場所、誰かの場所などないが、手元にあった掃除機のパイプ部分を振り上げ八重子の太ももを殴りつけた八重子は痛さのあまり、しりもちをつく。
「えー?お前はくそ生意気や!」片手を畳みの上につき、自分を殴りつける鬼に八重子は恐怖と言うより、憎悪の目で睨みつける。
「なんや、その眼は!」二度目はパイプを振り下ろす。
いくら溺愛していても、人間は豹変する。殴りつける父の目に愛なんてものはない。堪えていた涙が強烈な痛みのせいでこぼれ落ちるまで父親は殴り続けた。
「八重ちゃん。どうしたの?そのあざ?」
テニス部だった八重子に同級生の部員がスコートのすぐ下にできたあざを指して驚いている。
「親に殴られた。」
一斉に笑い声が上がった。
「またまた!八重ちゃん。おもしろい!」
本当に親に殴られたんだ。なんで分かってくれないの?
「バレた?昨日、ちゃりんこでこけてん。」
「うそ!大丈夫?」
嘘の方が本当に聞こえる。どうせ、本当の事を言っても誰も分かってくれない。だったら、何も言わない方ががっかりしなくて済む。
言えば期待する。期待すれば、期待がかなわないで落胆し、どうして分かってくれないんだと言う怒りや悲しみを感じる。だったら、黙っていた方が、これ以上怒りや悲しみを抱えなくて済むのかもしれない。
そんな生活を八重子は大学を卒業するまでこのメンバーで続ける事になり、そんな事をこの兄は、兄だけではない、誰も知る由もない。
まだ、八重子のあざがくっきりと太ももについているとき、
一番上の兄が、なぜか帰省していた。八重子の母ですら気づかない、或は知らぬふりをしていたのかもしれない、青と茶色、紫、緑と混ざった色のあざに気付いた。
「お前、その足、どうしたん?」兄が八重子の足を指した。
「お父さんにやられた。」
「そうか。」兄は関心なさげに、テレビのチャンネルを変えた。
その夜、例のごとく、八重子の父親が泥酔して帰宅し、兄とにらみ合うことになった。
襖戸を頭を下げて通らないといけないほど背の高い兄に、父もよほどの覚悟がないと手を出そうとしない。
「八重子。ちょっと来て。」台所に呼び出したのは兄だった。
「お父さん。コレ、あんたがやったんか?」兄が八重子を前に押し出した。
父は八重子の太ももを一瞥して、訝しそうに冠した安い日本酒を煽っている。
「あんたには、僕は小さいときから散々やられてきた。」
徳利を冠するために火にかけられた湯を入れた鍋が沸々と言っている。
「あの時の事を思い出したら、僕はあんたを殺したい気持ちや。」
鍋に入ったお湯がボコボコと言い出す。
「せやけど、コイツに今度こんなことしたら、あんたを殺すだけじゃ足らんぞ!」とテーブルの下にあった日本酒の一升瓶を振りかざした。
「あかん!」声を出すよりも先に八重子は兄の腕に抱き着いていた。
ビシャッ。残り少なくなった日本酒が一升瓶の中で跳ね踊る。
「出て行ってくれるか。くそ生意気な。出て行け!あほんだらが、生意気なこと抜かして」
兄は一升瓶を板張りの床に静かに置き、ボコボコと気泡を生み出し続ける鍋の火を消し、そのまま家を出て行った。法曹界を目指す長兄は法律のお世話になるようなことは絶対しない。しかし、これが彼のできる限りの威嚇で、八重子を護る術だったのかもしれない。それから、兄が法曹界に見事というか、執念で入るまで、この家に帰ってくることはなくなった。
八重子のアザは、10日ほどで消えた。
八重子は大人になっても、どうして父親はこんなになるまで酔う必要があるのか、心に何を抱えているのか、
どうして両親は3人の子供が成人している今もなお共に忌み嫌いあいながら共に生活するのだろうと言う疑問の答えを探そうとすることがある。
たとえ、血がつながっている親兄弟でも、分かりえないことはある。それを無理に分かる必要はない。そんなことに時間を費やすと言うより、使われるのであれば、去ることを選んだ方がある意味、懸命で、数少ない自己防衛手段なのかもしれない。兄の中で、何かが遠く昔に吹っ切れていて、静かに去ることを選んだのだろう。
「僕の知り合いで司法書士してる独身の男の人いるから、一回会ってみたら?」
「お見合いですか?」
「相手の人は僕が良く知ってる人。こんなええ人おらんやろって言うくらいいい人やで。会うだけ会ってみたら?」
文章も、舌の根乾かぬ間に、出会いを探しているのだろうか。
「そうやね。」
*****
サクラの蕾がいっぱいいっぱいに膨らむというのに、急に真冬の寒さに戻った上野に文章は居た。サクラも咲くべきなのか縮むべきなのか腕組みをし隣近所の蕾と会合をしている。数日前、先輩の進に言われた紹介を結局断り切れず、八重子とももう続けて行くのは無理だと思い始め、と言うより、八重子の情緒不安定さに仕事や生活を乱されることを終わりにしたいと思っていた。
「
「進さんの紹介で。。。」
「あ。こんにちは。」
「はじめまして。今日はよろしくお願いします。」
「あ、初めまして。ですよね。ごめんなさい。初めまして」
初めて会うのだから、それが当たり前だ。一年前に八重子と会った時、初めましてはお互いに言いあわない約束で出会った。でも、あの時、そんな約束が理由で初めまして、と言わなかったのではなく、初めて会ったはずの八重子に初めて会ったような感覚を不思議と抱かなかったので、自然と初めましてが口から出なかった。
「ごめんなさい、ぼーっとしてて。」
「花粉症ですか?私も去年くらいから始まりましたよ。」
「そうなんですか、自分も花粉症で、辛いですよね~。」
花粉症であればぼーっとしていることが許されるのか。実際花粉症で悩まされているが、悪いことばかりではないもんだ。花粉症人口が増える中、辛さや不憫さを理解してくれる人も増えた。なってみないとこの辛さは分からず、八重子も理解できない派の1人だ。
上野駅の改札を出て、濃いピンクに萌える蕾で灯りが灯ったような公園を仕事の話をしながら東京美術館で開かれているボッティチェリ展に向かう。
チケットは志保が仕事仲間から回ってきたというので、言葉に甘えた。
都内で、海外の美術品が展覧される週末の館内はかなり混み合う。
志保は文章の後ろにずっとくっついてあれこれと感想を述べ、文章の感想も熱心に聞いてきた。
「美術館は一人で回りたい。」八重子がそういうので、一緒に絵を観に誘ったことが無い。
「一つ一つ、時間をかけて観たり、もどったりしてね、自分の時間でまわりたいもん。」
ときどき、子供のような喋り方をするが、一緒にいるときは穏やかで静かな女だ。
八重子と厳かなところに出かけると、いつもより静かにその瞬間の中に居た。
明治神宮を案内した時、木々から零れる冬の日光をあつめるように空を見たり、足元に敷かれた玉砂利を踏む音を聞きながら心を洗うように歩き、通り過ぎる外国の旅行者を観察して一人でクスッと笑ったり、その瞬間と自分の呼応を楽しんでいるようだった。そんな八重子を後ろから隠し撮りした写真は文章のスマホの中にまだ眠っている。
八重子と、もし、美術館に来たら、同じように、絵画から漏れる微々たる絵の具の匂いが調整された空調のなかに漂う中、静かに周り、観覧者の様子を見てはまた驚いたりして、屋外に出たときに秘めていたものが爆発するように感想を言い出すのだろう。
八重子は時折、1人で訪れた美術館や読んだ本の感想をラインで堤防が決壊したように送って来るのだった。しかし、一緒に映画や芝居を観ても、まるで興味が無かったかのように、意見や感想を言わない。
宗教画にはあまり文章は興味がないものの、先に進むにつれ、全体的に茶色っぽい絵画の中で生える赤と青の色遣いに少しづつ目を取られた。
八重子がこれをみたら、多分同じことに気がづくんじゃないか、背景があるからこその色の映え方を素人目のくせにオレにあれこれ意見を言いたくなるんだろう。共に同じ時間や空間にいないからこそ、伝えたい。逆を言えば、共に同じ空間や時間にいて同じものを見ているから意見を言わなかったのかもしれない。今、感じている色遣いの感想を八重子に伝えてやりたい、発見を八重子に聞いてほしい。
「文章さん。宗教画はお嫌いでした?」
「あ。そんなことないですよ。花粉症で。」
志保は納得した顔でコーヒーを飲む。
「どうして、いままでご結婚されなかったの?」
おそらく、宗教画のうんちくよりも、これを聞きたかったのだろう。
「ま。仕事が忙しいっていうのもあるし、この仕事を理解してくれる人ってなかなか居ないでしょう?」
「原稿が上がらないとか、素材がボツになったとか、土日もないですしね。クライアントのクレームとか付き合いとかね。約束してもドタキャン当たり前。ウチも同じ感じですよ。私も彼と別れて随分になりますし。文章さんは?」
上野公園内のカフェはどこも長蛇で、駅近くのカフェに座った。
今日は異常に寒いが、天気が良いからテラス席にしようという志保の提案で、陶製の丸テーブルのある席に並んで座っている。
乾燥した空気に、甘い香りが運ばれた。
「良い匂いですね。香水。何使ってるんですか?」
「コレ?」八重子と同じ香水を志保は付けていた。でも、八重子からするそれとは何かが違う。
「オレ、付き合ってる人がいたんですよ。でも、もう無理かなって。LINEとか1000回くらい送って来るんですよ。異常でしょ。」
1000回という数字に志保が噴き出した。
「高校生ですか?」
「40歳なんですよね。LINEストーカーでしょ」
すくむ様に志保がコーヒーを飲む。
「でも、なんか自分もついつい返しちゃうっていうか、無視できないって言うか。。。直ぐに自滅的になって、別れる、別れるっていったりね。」
「それで別れたんですか?」
志保がカップを置いて覗き込む様に
「ええ、まあ。」
「なんで、そんな人と付き合ってたんですか?」
今日会ったばかりの人に八重子の事をそんな人と言われるとソレが指す悪い方の意味に反論したくなる自分に少し驚きつつも、
まあそんな人間と言われても仕方ないところもあると、どっちつかずな自分がいる。
1年経った今も理由が分からない。拷問のようにLINEを送って来ては喧嘩になり、オレの事情なんて全く理解しようとしない。
大好きだとベッドの上では言う癖に、普段は足が短いだの、パンツが食い込んでるだの、顔が好みじゃないだの、チッチェー男だの言いたい放題というより、むしろオレに喧嘩を売っている。
「理屈じゃない。『好き。』じゃないですか?」
八重子と一緒に居るときは、向かい合わせのテーブルでも隣に座りたくて、店員や他の客にどんな風に見られようと、八重子が嫌がっても隣で飯を食った。二人に距離を与えるテーブルが嫌いなのだ。
一緒に居るときは1分1秒だってできるだけ近くに居たい。
いい歳になってしまって、好きだと四六時中言ったり、手を繋いで道を歩いたりすることなんて恥ずかしくて出来ないけれど、近くにいたいという気持ちはオレなりにある。
「ブロックしたんですよ。」ラインも、八重子も。
横並びに座る志保とは、それ以上距離を詰めたいと思わない。
むしろ、テーブル席で対面式に座らなかったことを後悔していた。
「別れたの最近じゃないんですか?」
「え?進さんから何か聞いてるんですか?」
志保が文章のスマホに目をおとす。「さっきからずっと気にしてるようだから。ブロックしたのに。」
「いや、本当にブロックはしたんですよ」
「デリートしたわけじゃないんでしょ?絵の感想より彼女の話をしてる方が迷惑なのに楽しそうですよ。」
消去はしていない。
「ブロック解除したいんじゃないですか?」
萌える蕾ばかりのはずなのに一片、薄いピンクの花びらがハラリハラリとテーブルに落ちた。
「理屈じゃないですよね。」
*****
「私な。好きな人がいるねん」現在進行形の話を兄にするのは初めてだ。
アダムと別れたとき、激ヤセしたことを指摘され彼氏の存在を話したのが最初で最後で、あれから12年も経った。
「それで、その人とは結婚すんの?」兄たちは、親の血を受け継がなかったのか、あるいは、受け継いだから反面教師なのか、穏やかだ。
おそらく八重子だけが浮足立っているのかもしれない。
「結婚っていうかな、もうLINEしないで。って言われてな・・・・」
「あかんやん。」
「せやねんな。」
「そしたら、お見合いしたら良いやん。」
兄がまたコーヒをすする。
「ええ話やとは思うけれど、止めとく。こんなに好きな人おらへんから。なんで、自分がこんななんやろって思うねん。時々。ハチャメチャ。っていうか」
「ハチャメチャって?」
「お兄ちゃんに言うの嫌やけどな、この人を大好きであることをみんなに走って伝えたいくらい好きやねんけど、本人の前になると生意気口っていうか悪口って言うか、要らぬことを言ってしまう」
「お前、亜香里ちゃん覚えてる?」
あかりちゃんとは八重子の近所の同級生で一風変わった子だった。
「あの子、八重子と一緒によく遊んでたよな?
なんか、少林寺拳法とかそういう武術みたいなんに凝っててさ。」
当時、北斗の拳という漫画や不良少女、スケバン刑事というドラマが絶頂期で、女子の間でも武術の真似っこが流行していた。
亜香里ちゃんは、それにかなりはまっていたようで、一緒に遊ぶと太極拳のように手足を動かして見せてくれた。
「僕らが亜香里ちゃんをからかったら、亜香里ちゃんはかならず太極拳の型みたいなのを真剣な目つきで見せだしてな、闘おうとするねん。亜香里ちゃんなんてお前と同じ年やから5つ下やん?そんな子を虐めたりするわけないんやけれど、おもろいし、可愛いからからかうやん?
今のお前はあの時の亜香里ちゃんやな。誰もお前と闘おうなんて思ってないのに、お前だけ1人で型とって。ありもしない敵に挑むみたいな。そんなん、あれは亜香里ちゃんが幼かったから笑い話やけれど、お前40になってそれはキツイな。」
空になったコーヒーカップを確認して、水を飲む。
「ま、お母さんとよく似てるもんな、お前。
人の意見に流れやすくて、感情的って言うか。
でもな、自分が変わりたいと思ったら、少しずつやけれど、変われるもんやで。大人になるって言うのは自分の意思で少しずつ変わっていきたいと思い、変わって行くことやと思うよ。」
Why do birds suddenly appear
Every time you are near?
(あなたが近くにいるとどうして鳥たちは突然現れるのかしら?)
Just like me, they long to be
Close to you
(私と同じように、あなたのそばにいたいのね)
再び無人ピアノがカーペンターズを奏で始める。
冬の寒さいなか自転車で着いてきた日のように、
兄は今日も心配して私を探し回っていたのじゃ無いか。
テーブルに運ばれたアイスレモンティーに八重子はガムシロップを少し入れた。
「うわ。甘いわ。」
******
「このサクラは東京のなかで一番初めに咲くんだってタクシーの運転手さんが言ってたよ。」先月通りすがりに満開だった上野駅の近くにある桜の木が急に見たくなり、志保と別れたあと文章は一人で歩いていた。
交番の近くに咲くそのサクラは、既に6割が散っていてところどころ緑が萌え出している。地方出身で東京のことなんか何もしらない八重子がこのサクラのことを誰と一緒の時に教えてもらったんだろう。
春はもうここに来ていると言うのに、風は冷たく、西の空がすこしずつ茜色になっていく。
八重子は今、日本にいるはずだけれど、何をしているのだろう。
理屈じゃない、まだ八重子に会いたい。
*****
次の日、朝早く起き八重子は新幹線に飛び乗った。
新幹線に乗って遠出するなど、本当に何十年ぶりだ。
八重子は家族旅行なる物をしたことが無い。楽しく温泉に浸かって観光してなんていうのがどういうものかよくわからない。
旅行というのは一人で行くものだというのが定着しすぎている。
地上からみる日本は上空の地形の美しさとはまた別で、シンプルに美しい。遠く上から見ると雲がかかって空気の影響でグレーががって見える山脈の緑も、同じ目線で見ると緑がまぶしい。
新神戸を出たあたりから田舎景色が広がる。田舎景色には特別新鮮味はないけれど、いつ見ても長閑な風景は心が和む。
新幹線は静かでガタゴトと動くこともなく快適だ。こういう旅行をもっとすべきだと、目的地には程遠い車内で既に満足していた。
広島駅に到着して、八重子はタクシーに乗り、平和公園から徒歩20分ほどの場所にあるホテルに向かった。
ちんちん電車と呼ばれる路面電車は車体は新しいもののレトロな街の風情を演出している。
ホテルにカバンを預け、八重子は原爆ドームのある平和公園へ向かった。
サクラの蕾がいっぱいに膨らむ季節にしては真冬並みの冷たい風が吹き、平和公園に続くその大通りはまっすぐな一本道を何も考えずに歩く。
広島の街並みを、走る車を、空を見ながらすべてと呼応をしたい。
歩くことで頭を空っぽにしてすべてがリセットしたくて、新しいことで頭を占拠したくてiPodも耳に入れず風景を楽しみながら20分ほどひたすらまっすぐ歩くと、ホテルのフロントで聞いた通り、平和公園に到着し、思ったより広いこの公園の向こう側に原爆ドームが見えた。
原爆ドームに向かう途中にある資料館に八重子は立ちより、大きな衝撃をというより、言葉にならない物が気管を詰まらせる。
次第にそれは涙にかわり、資料室を後にする。
言葉にならない想いを伝えたくてスマホを手にするが、伝えたい相手にはラインをブロックされている。
繋がらない想いをどうしても伝えたくて珍しく
八重子と文章はFBでも繋がっていない。
でも、公開投稿にしておけば、もしかすると
風で翻る日の丸の向こうに見える原爆ドームを写真に収め、投稿をしたためる。
収められた資料や写真は投稿するには心が痛みすぎます。
でも、それを知る必要がないわけではない。
痛みを想像し、ありふれてはいるかもしれないけれど、祈りを捧げましょう。
宗教、あなたの出自の背景に関わらず。
命の前に私たちは何一つ変わりはないのだから。
原爆ドーム前から八重子は路面電車に乗り、厳島神社を目指した。
民家の間を通り抜け、地元に密着した路面電車は新幹線とは違い、地面の凹凸や、カーブを素直に伝えてくれる。
車内に中国からの観光客が乗務員に安芸への行き方を訪ねているものの、乗務員とはなかなか意思疎通ができない。
こんなとき、
そんなことを想っている間に、外国の客が多いのだろう、乗務員のつたない英語と勢いで中国人観光客は納得したようで席に座った。
安芸へはフェリーで移動し、干潮がくる夕方前まで散歩した。
満潮時は遠くから眺めるゆえに、風や波に耐えて立ち続けることなど見えず、その神秘的な美しさに魅せられる。
干潮時には近くから見上げるダイナミックな大きさと、神秘的に見えた大鳥居は傷がつき、いろんなことに耐えていた力強さが覗える。
人間だって、同じことだろう。
どんなに儚いように見えても芯が強かったり、その逆もある。
人間なんて、外見などでは中身など図り切れない。
文章のチャラチャラした印象が強烈すぎて、彼の繊細な心や八重子の悪態に対する辛抱強さは彼が口にしない愛から来ていたことにようやく気付いた気がした。
*****
「
昨日のお見合いの結果を聞いたのだろう、進むから電話がかかってきた。
「へへへ。すんません。」
「好きなようにすればいいと思うけれど、文ちゃんももうすぐ、45だろう?そろそろ、考えた方が良いんじゃない?」
4月8日で45歳になる。
「ま、また飲みに行きましょうよ。」
進さんには申し訳ないけれど、しばらくは誰とも見合いをしたいと思わない。志保と言う女性が悪いわけではない、まだ八重子が自分の細胞一つひとつに存在して、誰と居ても愉しいと思わないのだ。
身体に出来た小さな不具合をはじめは不憫だと思いながらも、時間が過ぎるとともに、その不憫を楽しいと思い、不具合がようやくなくなると思う頃に、寂しさを感じるような。そんな、毒性の強い女なのかもしれない。
「言ってたチケット、アシスタントの子に渡しといたよ。」
「すいません。今度払いますね。」
八重子が行きたがっていた芝居のチケットを進さんに譲ってもらった。
「良いよ。文ちゃんの誕生日祝いね。でも、仲直りして紹介しろよ。今度!」
全部バレている。長い間、仕事を一緒にしてきた先輩だ、バレない方がおかしいか。
文章はLINEのブロックを解除した。解除したは良いが、これまで無視を決め込んできたので何とメッセージを送って良いか分からない。
そろそろ、休みも終わってマレーシアへ帰る予定だろう。
八重子からのメールを開けてみる。
*****
豪華な前菜の盆には魅せるために折られたサクラの枝が添えられていた。
蕾のモノ、7分咲の花、綺麗ではあるが、なんだかかわいそうな気がする。蕾には蕾の美しさがあるけれど、咲くことも散っていくサクラに悲哀を感じる。
「お前、結婚しないの?」
広島に住む長兄が夕飯をご馳走してくれると言うので、八重子は八丁堀の割烹のテーブルに兄と向き合っている。
「しない。というか、相手がおりませぬ。」
「婚活してたんじゃないの?」
和歌山で生まれ育ったくせに、東京生活が長かったこの兄は関西弁を全く話さない。
「してたね。」
「どうなったのか?と聞いてるんだよ。」
法曹界にいるせいか追及が手厳しい。
「お兄ちゃんの婚活は?」
ウンザリした顔で兄がビールを手にした。
「お前さ。その性格直した方が良いよ。質問を質問で返すとか、僕はお前と論争するつもりないから。どうしてそんなに直ぐに構えるの?」
ビールを一気に飲み干し、お替りを頼む様に八重子に指示をする。
「みんながお前の敵じゃないよ。確かに、僕は幼いころ父から言われなき虐待を受けていたから、お前が祖母から受けている折檻を知りながらも、助けてやることはできなかった。自分のことでいっぱいだったから。
だからと言って心配していないわけじゃないんやで」
珍しく関西弁が出たかと思うと、兄は涙を流した。
いつも、強面で、傲慢な兄が急にポロポロ、ポロポロと泣いている。
「兄として、守ってやれてたら、そんな風に1人で肩ひじ張った性格にならへんかったんじゃないかと思うんや。」
兄は眼鏡をはずして小さな目を手で押さえた。
お代わりを持ってきた店員が驚いたように兄を見るので、
「花粉症、今年はひどいですね。サクラ花粉て流行るらしいですよ」八重子が空のグラスを店員に渡す。
「申し訳御座いません。サクラお下げしましょうか?」
「あははは。冗談です。サクラのせいじゃないですよ。ただの花粉症ですから」
店員はすみませんとだけ言ってテーブルを離れた。
人間なんて、語らないだけで、心の中にあることは推し量れないものだ。
ソレが見えたとき、自分の過ちや至らなさに気が付きどうしようもない後悔に襲われる。
ソレが見えたときでは、もしかするとすべてが遅いのかもしれない。
一体同じ過ちを何回繰り返せば大人になるのだろう。
「八重子。親に感謝せなあかんで。あんな親でも。兄から言うのはおかしいけれど、お前はとても見栄え良く産んでもらった。そのことだけでも良いから感謝しないとダメや。感謝することから、愛されてると言う事に気づくはずやで。それを怖がったらダメや。お前が思ってるほど、みんなが八重子を突き放してきたわけじゃない。人に頼って、もっと甘えたらええんやで。兄にも甘えたらええんや。」
数少ない幼いころの八重子の記憶の中で、雨の日に傘もささず8つ上のこの兄が八重子の幼稚園の迎えに来てくれたことを思い出していた。
八重子はこの兄がとても不得手で、結局兄とは帰らないと駄々をこねて兄は傘もないまま、そのまま帰って行った。
今思わなくても、幼い八重子の目にもとても悲しい背中だったと強烈に記憶に残っている。
「お兄ちゃんな。今日は、八重子が広島まで来てくれて嬉しかったで。頼ってくれたような気がしたから。」兄は運ばれてきたビールを嬉しそうに飲みだした。
当時中学生くらいだった兄だから、親に言われたからと言っても、八重子を愛していなければ迎えなどに来なかっただろう。
雨の中を傘もささずに。もしかすると、幼稚園で迎えを待つ八重子を思って急いできたから傘を持っていなかったのかもしれない。あの後、ずぶ濡れになった兄がどのように、どのような気持で来た道を戻ったのだろう。
八重子の前の盆に置かれたサクラが雨が降ったようにしょっぱい雫をはじいていた。
サクラは散らずとも役目を終えたと言わんばかりにお盆の上で咲き誇っている。
人はしてもらったことは直ぐに忘れてしまうけれど、されたことだけは覚えている。
してもらったことだけを集めて人を見ることができたら、してくれた親切や好意の背景にある努力や思いを想像することができたら、もっと豊かになれたのに。けんかも戦争も起こらないのかもしれないのに。
八重子は急に、
翌日、八重子は和歌山へ帰る途中、尾道に住む大学時代の友人に会うべく、広島から在来線に乗っていた。
新幹線とは違い、もっと身近でゆっくりと風景を楽しむことのできる窓の外を見ながらゆっくりとゆっくりと、本当の自分に近づいていく。
赤いアウディの横に立ち
瀬戸内海を臨む広島に生まれ、瀬戸内海以外の七つの海へも航海できる女の子に育てと両親が七とつけてくれたらしい。
「結構遠かったじゃろ?」広島弁のような関西弁のような、可愛らしいイントネーションが心地よい。
「初めての土地やから、電車の外見てると楽しくて、あっという間だったわ。」
「そう?それは良かった。それでは、傷だらけの車ですが、福山をご案内します。」
「お世話になります!」
学生時代は七と一言も話したことが無かったが、ある時、大学の共通の友人の結婚式で隣り合わせにテーブルに座ったのだった。
その友人の披露宴で、あろうことか八重子は演説や歌を歌うではなく、余興を一人ですることになっていた。ピン芸人や落語家じゃあるまいし、と言うか、そんな芸能人が来るような披露宴に出席したことなど無いけれど、1人でよりによって余興って聞いたことないぞ、と八重子は思いながらも親友の晴れの席に花を添えてやりたいと思う気持ちもあり引き受けたのだった。
その余興は、CAの披露宴では鉄板の寿アナウンスというもので、新郎を機長、新婦をCAとみたてて離陸し、永遠の幸せ行くという、普通に聞くとかなり寒い内容で、通常はCA仲間とするのだが、同席者にCAはおろか知り合いがいなかった為、八重子は一人ですることになっていた。
思考を重ねた結果、紙芝居風のアナウンスをすることにしたものの、1人ではカバーしきれないことがあり、当日、たまたま披露宴で隣り合わせになった人間にアシスタントをお願いし、それが七だった言うわけだ。
七との出会いを思い出すたびに、たまたまは運命で、運命とは偶然だ。たまたまが重なることが縁ではないかと八重子は思う。
たまたまテーブルに座り合わせただけでは、ここまで仲良くならなかった。たまたま、八重子が余興を頼まれていて、たまたまその余興を一人ですることになり、たまたま手伝いが必要だったから、たまたま隣り合わせた七にお願いした。反対隣の同席者ではなく、右隣にいた七に。
初対面で、うまく呼吸を合わせてサポートしてくれた七は物静かだが、周りを観察しながらエッジの利いた配慮ができる人で、それからマレーシアに遊びに来たり、歌舞伎を一緒に観に行ったりという関係だ。
「何にもないところでびっくりしたじゃろ?どこへ行きたい?」まっすぐ前を見て運転する七がチラッと八重子見る。
「何も考えずに来てしまったから、七ちゃんが連れて行ってくれるところならどこでも。」
「そしたら、八重ちゃん昨日、
昨日、八重子は安芸を登ったのではなく、スティックを持ちリュックを背負った人たちをすれ違うトレッキングコースに、トレンチコートとコンバースのスニーカー、デニムというとてもふざけた格好で迷い込んでしまい、二時間ほど彷徨っていた。そのおかげで今日は激しい筋肉痛に見舞われていたのだった。
「足、相当痛いんちがう?」七が笑いを堪えて運転を続ける。
「七ちゃん。鋭いわ。」
「そしたら、一気に車で尾道の上まで上がろう。歩くの嫌じゃろ?」
尾道のノスタルジックな景色も正直見たかったが、この筋肉痛では歩ききれないだろう。
「さすが七ちゃん!」
空が天まで届きそうに高く広がっていて、ドライブには最高の天気だった。
車を止めて、千光寺を目指す。千光寺に着くまでの道のりは晴れ澄んだ今日の空のようにスッキリしていたのに、千光寺の周辺は大勢の観光客でごった返している。
「なんもないやろ?」所狭しと並んでいる造船所を眺める八重子を七は隠し撮りしている。「美人さん、パパラッチじゃ。」
「美人さんて。」
「八重ちゃんのほとんど化粧してない顔、ベッピンさんやと思うんよ。」
昨夜、兄と飲みすぎて腫れた目を隠すためにサングラスをかけた顔をそむける。
「よく、言うわ。」
千光寺公園には沢山の桜が植えられているが、今年はどの桜も蕾がこれ以上膨らみを堪えられぬと言わんばかりに膨らんでいる。
開花はいつかと心待ちにしてるのは人間だけではないのかもしれない。
七は、弾けそうな蕾を写真に収めていた。
「八重ちゃん。私、離婚することにしたん。」
七と知り会った時は既に既婚者だったので、八重子は七の旦那に会ったことがない。
「結婚して、10年。すれ違ったままじゃったし」
七と旦那はこの10年、家庭内別居を続けている。既婚という言葉に執着し、そんな婚姻生活に意味がないように八重子は兼ねてから思っていたので、七の決意に良かったと思う反面、急に何があったのかと心配にも思う。でも、桜の向こうに広がる空を見つめる七はまっすぐと、吹っ切れた目をしている。
「今仕事の企画で、心理カウンセリングの講義を見学することがあってな」
七は、福山で大きな造船所の人事などをしている。その関係で、エゴグラムなど、人間の心理に関する講義を受講したのだと言う。
「受講してな、自分が今幸せだと思えない場所にいる意味がない思ったから。過去の10年は変えられんけれど、これからの10年は自分が思うように変えられる。例年じゃったら、もう満開でもええくらいやのに、今年の桜はのんびりよ。私も、周りの事気にせんと自分の好きなようにしたらええんじゃ思って。」
田舎に暮らすと、自分だけの意思で離婚したり、別れたり出来ない事があるのかもしれない。
「蕾でも、遅咲きでも、桜は桜じゃけん。」七が嬉しそうに言い、「ほらっ。」スマホに収めたマイペースな遅咲きの桜を八重子に見せた。
「八重ちゃん、お腹すいた?ちょっと早いけれど晩御飯で瀬戸のネタでお寿司つまんで帰らん?」七が電話をかけだす。
エゴグラムか。自分の中に漠然とある不安が一歩何かに近づいている気がする。
海側へ車を飛ばし、宮崎駿映画の舞台になった場所などを観光した後、福山駅の駅裏に車を止めた。
「八重ちゃん。フェイスブック、いっぱいあげとったね。今日の写真も彼も見てくれる取ると良いね。」
「彼とはFBで繋がってないねん。」
「なんで?繋がってるバレたらあかん関係なん?実は不倫とか?」
「まさか。」驚き気味に七を見る。
「そしたら何で?」
FBで繋がってしまったら、彼の毎日の様子を知りたくなってしまう。知ってしまったら嫌なこともあるかもしれない。それに、別れたときに悲しい気持ちになるのが何よりも耐えられない。
「私には分からんわ。離婚を決めた私が言うのも何やけど、離婚しようと思って結婚する人間はおらん。別れへん、別れたくないっていう覚悟がないんやったら、つきあわんかったらええ。相手にも失礼じゃ。彼の事好きじゃないの?」
開店準備のために、看板を出したり、酒屋の配達人が生ビールの樽を荷卸ししている車をよけながらすし屋に向かう。
「相手は、八重ちゃんがエエ言うとるんじゃろ?八重ちゃんは愛される覚悟を決めたらええんじゃ。八重ちゃん、幸せになってええんじゃよ。」
すし屋の入り口で七が振り返って、後ろについて止まった八重子に笑いかけ、また前を向き、引き戸を開けた。
「こんばんは~。マスター。ベッピンさん。連れてきたで。サービスして。」
「ほ~。用意はできとるよ。」丸坊主で厳ついこのすし屋の大将は、その風貌とは真逆で、びっくりするほど自分の趣味について良くしゃべる人だった。
「ワシ、エイちゃんが好きで好きでたまらんのよ。」近々、矢沢永吉が福山でコンサートをするらしく、矢沢ファンの大将は近々とはいえ、まだ数週間先に行われるコンサートへの意気込みを客サービスそっちのけで熱く語る。
「ワシ、思ったことは、なんでも叶う気がするんよ。特に最近な、いろんな人がお客さんが来てくれるんよ。それは誰か言えんけれどな、そんな世界もあるんや、思ってな、びっくりしとるんじゃ」
関西弁に似ているようで、違う広島弁が八重子にはとても可愛く聞こえる。
「ネガティブなことは考えたらいけんから、ええことばっかり考えてな。エイちゃんが福山
八重子もサービス業だが、客そっちのけでこんなに話す店主を見たことが無い。しかし、このマイペースと前向きなパワーが寿司を超えて八重子に発信されていく様だ。
「お姉さんもな、ポジティブになんでも考えといかんけんな。がんばってな」大皿に乗ったあこうという瀬戸内の魚の酒蒸しを狭いカウンターに載せる。「サービスじゃ。」
「マスターやるやん!」七が手を叩いて喜ぶ。
酒蒸しをほぐしながら、八重子は共通する不思議なことを考えていた。
アダムと別れて心ふさぎ込んでいたころ、飛行機でたまたま隣り合わせになったおばあさんに頻りに話しかけられた。そのおばあさんは後日、会社へ八重子宛に航空安全のお守りを送ってくれた。
別の時でふさぎ込んだ顔をしているとき、タクシーの運転手がしきりに八重子に優しく話しかけてくれる。今日のこのマスターだって意味があってかどうかわからないけれど八重子に必要以上にポジティブなパワーをカウンターの向こうから送り出している。
「どうじゃ?うまいですか?」
黙々と身をほぐす八重子を横から七が、前から大将が覗き込んでいる。
「美味しいです。優しい味がする。」
「ほりゃ、良かった。ラヴ注入しといたけんの」大将が大きな声で笑い、「マスター古い。」七が満足そうにお茶をすする。
「福山に来たときは、また寄って」
大将の大きな声に送られて店を出た。
「七ちゃん、さっき言ってた何とかグラム?」
「エゴグラム?」
すっかり夕陽でオレンジも紫になった空を後ろに、福山駅へ車を走らせていた。
「それ。自己診断とかできるかな?」
八重子は漠然な不安が形になるというぼんやりした確信を持ち始めていた。
「あると、思うで。後でリンクを送ってあげるわ。」
七は緑の窓口に一番近い地下の駐車場入り口で八重子を下した。
「八重ちゃん。文さんとやり直せたら、今度は素直に、可愛くするんやで!八重ちゃんも幸せになってええんじゃよ。」走り去った車はルンルンと言っているようだった。
日曜の夕方の新大阪行き新幹線の自由席は旅行客で込み合っていた。
何とか、となりの開いた席に八重子は座り込み、スマホを取り出す。
さっそく七が送ってくれたリンクを人差し指でタップする。
外が暗くなり、景色も見えない窓は八重子の顔をハッキリと映している。
自己診断は35項目の質問をイエス・ノーで答えるものだ。
八重子はその項目の28項目が該当した。
診断は、かなり高い可能性でアダルトチルドレン。
ー他人や兄弟姉妹といつも比べられたり、差別をされた
ー批判され、いやみや皮肉を言われたり、容姿についてからかわれた
ー「こんなにしてやってるのに」「あんたのためだ」と恩を着せられた
ー能力以上のことを要求された
ー 勉強や進学などで、親の指示が当たり前だった
ー 表面だけ良くふるまい、他人の目を気にした家族だった
ー学歴や肩書き、地位が重視された
ー家族に、外部に漏らしてはならない、いろいろな秘密があったり、隠し事があった
ー親の愚痴を聞かされた
ー自分の年に合わない家事をさせられた
ー両親の世話や調停役をした
ー親がアルコールなどの依存症
ー身体的虐待、精神的虐待、家庭内暴力が頻繁に起き、体の安全が脅かされた。またそれを、誰にも言うな、と脅された
ー親が酔うと暴れるなど、何がいつ起きても不思議ではない状態だった
ー祖父母、両親、親類の間にいさかいが絶えずあった
ー親に怒りの爆発が頻繁にあった
ー精神的に追い詰めるおしおきがあった
全てが八重子に該当しているように思った。いや、全てが該当していた。
父親が酒乱で家庭内暴力が絶えなかったこと、八重子が祖母から折檻を受け、その事を隠すために、父の素行を人には言ってはいけないと祖母から厳しく口止めされていたこと。
母を助ける努力をしても、翌日の祖母からの折檻があったこと。両親の調停役だったこと。
自分の年齢には適当でない家事をさせられたこと・・・。
八重子が高校生に上がること、祖母の老人性痴ほう症が進み、働きに出ていた母にかわり、通常の洗濯や夕飯の支度に加え、祖母の世話もしていた。
呆けてからと言うもの、折檻では憎さが晴れなかったと言わんばかりに、祖母は八重子だけに「泥棒。」と言い、隣近所に言いふらした。もちろん、八重子は何も盗んでいない。
今から考えると、あれだけ折檻されて地獄を見せられた相手に、献身的とまでは言わずとも、当たり前のように世話をしていたのは何故なのか八重子はこの歳になってようやく疑問に思う。
アダルトチルドレンが陥る特徴として、
自分に自信がもてない。
自己感情の認識、表現、統制が下手。 自分にはどうにもできないことに過剰反応する。孤独感、疎外感を感じることがあり、感情の波が激しい。
衝動的なためのトラブルが多い。
隠さなくて良いことを隠してしまう。他人に依存的。
周囲に対して支配的。過剰に自責的。
と書かれていた。
八重子は電池が切れたように、シートに身体を沈めた。
すっかり夜になった景色を背景に八重子を写す新幹線の窓を見ながら、
八重子は驚きというよりも、やっぱりという安堵感に包まれる。
愛され恐怖症の原因は自分の中にあったのだ。
文章が私を愛していないのではない、自分がありもしない不安を作り上げて、壊そうとしている。そしてそれを全て文章のせいにしている。
吐き出したため息で、窓が曇った。
「アダルトチルドレン。」仕方ない。七が言ったように、過去は変えられないけれど、この先は自分のさじ加減で変えて行ける。
アクセスしたページのの最後に、「これを自分の意思で読んでいるあなたは、克服に近い。原因を知ることによって自分を客観視し、アプローチしやすい。」と書かれている。
実際、八重子自身、カウンセリングが必要だとも思わない。
何となく前から漠然と抱いていた不安の原因が分かり、これからどのように向き合うべきなのか、青写真はできている。
時間はかかるかもしれない、でもゆっくり、確実に。
新幹線は徐々に速度を落とし、間もなく、新大阪に到着する。
*****
八重子はマレーシアへ帰る飛行機に乗っていた。
飛行機は定刻通り、関西空港を経つ。
「やえちゃん。実家どうだった?」
たまたま帰省が一緒だった同僚の志田が
機内で出されるおつまみのピーナツをポイポイと口にいれながら八重子に話しかけた。
「まあ、いろいろだったけれど、濃い内容だったかな。」
「志田ちゃんは?」
ピーナツが空になったのか、志田がスマホを取り出し動画を再生しだした。
「地元の友達に誘われてステージを観に行ったんだ。」
それは、ラップでステージに上がった二人がお互いの悪口を言いあうという勝ち抜きのライブだった。
志田は興奮気味にその興奮を教えてくれるが、八重子にはただの悪口をポップに言ったからと言って悪口は悪口にしか見えず気分が良いものではなかった。
「オレはキミの挑戦者じゃないんだよ。」少し前に文章に言われた言葉が涙をこぼした兄の言葉と重なるように聞こえた。
八重子は動画を再生し続けるスマホを志田に返す。
「やえちゃん。あれ?気に入らなかった?」
いつの間にか余分にもらっていたピーナッツを志田ちゃんがポイポイと口に運ぶ。
「え?すごく、勉強になるわ。いろんな意味で。でも、私はイイかな。ありがとう。」
「あれれれ?八重ちゃん、いつもみたく意見や感想言わないの?」空になったピーナッツの小袋を丁寧に小さくまとめながら志田ちゃんが外に青空が広がる窓にのけぞる。
「そう言うのが好きな人もいるんだね。って思うだけ。」
「八重ちゃん。濃い1週間だったんだね。」一体、いくつ貰っていたのか、志田ちゃんが新しくピーナッツを開けだした。
「志田ちゃん。本当にそのピーナッツ好きだね。」
「ほら!いつもだったら、そんな不味い物なんで好きなの?って言うじゃない。どうしたの?」
「どうしたのって言われても分かんないな。」八重子は透明のプラスチックに入った白ワインを飲み干した。
ワインのせいか、空中に居るせいか、体が軽く感じた。
降り立ったクアラルンプールはエルニーニョ現象の影響を受け、灼熱地獄だった。
締め切った自宅は鬱蒼としており、ベランダの窓、寝室の窓、窓と言う窓を開け放って歩く。ベランダに置いた空のプラスチックの植木鉢は暑さのせいで溶けて形を変えている。
ベランダの向こうに太陽がオレンジ色にまた明日と八重子に言っているようだ。
「なんだこれ?」荷ほどきし始めたスーツケースの中に入れられた見覚えのない薄茶色の紙包みは金山寺みそだった。
和歌山、湯浅の名産品、金山寺味噌は味噌の中にウリやナスが一緒に漬けこまれていて、冷やしたサラサラの茶粥と食べる最高のマリアージュは大人になって分かった。
都内や大阪、神戸に支店を持つ和歌山発祥の割烹料理店ではクリームチーズと金山寺味噌をのせたキュウリを出してくれたことがあり、
それを食してからというもの、八重子はよくホームパーティをするときのフィンガースナックとして振舞っており好評を得ている。
金山寺味噌の包装紙に「母より」とマジックで書かれている。
母なりのゴメンナサイのつもりなのだろう。
「明日は茶粥を作って食べるか。」
1週間着続けたコートをハンガーにかけてやる。
小さな小さな白いバドミントンの羽がついていた。よく見ると、タンポポの綿毛だ。
「こんなところまでついて来ちゃったんだ。」
八重子はそれをつまんでベランダへ出、手の平に載せフ――――――っと吹き飛ばしてやった。
勢いよく出た、チリのような羽はオレンジ色の光の中でふわりと舞い上がり、沈み、またふわりと舞い上がった。どこまで行けるかは分からない。でも遠くまで来たものだと、思っているのかもしれない。
八重子はスマホを手に取った。指先で弾く言葉は決めている。
これ以上に愛したいと思う男は他に居ない。
「愛してる。」
送信。
勢いよく飛び出すメッセージは、綿毛のように、ふわりと舞い上がり、沈む。そして、また舞い上がる。
ゆっくり、ゆっくりと心に重ね落ちてくれる。
熱風がベランダに吹き込む。
送り出したはずの綿毛が青いペンキがところどころ剥げ、錆びたベランダの柵の向こう側に引っかかり、白い毛を震わせながら身動きを制されている。
八重子は綿毛をもう一度、飛ばしてやろうと熱く熱されたベランダの手すりに掴まり、もう片方の手を綿毛へと伸ばす。
もう少し。
あと少し。
八重子の中指の爪先にソレは弾かれ、風に押し出され舞い上がる。
八重子の体が沈む。
錆びた鉄柵の接着部分が「く」の字の逆を描くように少しずつ少しずつ曲がる。
バランスを崩した八重子の体重が加勢し、前に身体が放り出された。
チリのように白く小さな綿毛とともに宙に浮く。
八重子の体で作られた風で綿毛が高く舞い上がる。
こんなはずじゃなかった。
白い綿毛が、ゆっくりと朱色の太陽に熱された白いコンクリートに横たわった体につもる。白いコンクリートにみるみるうちに赤の花びらが敷かれる。
ふわり、ふわりと...。
白い綿毛が舞い落ちていく。
愛してた。
完
愛してた 我是空子 @--y--
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