NOW OR NEVER

「入籍したんだ。」

足が宙ぶらりんのジェトコースターが滑落する寸前で故障したかのように、力を入れようにも足に力が入らない。電話を握る手に全ての力が注がれていて、受話器から聞こえる彼の声に全ての神経が集中されていた。

1年前に別れたというのにアダムとは、毎日とはいわずとも、頻繁に連絡を取り合っていた。

もともと、アダムがスイス、香港、シンガポールと赴任先を転々としながら続いた6年の遠距離恋愛だったから、別れたと言う事実と朝昼夕晩とかかって来る電話の終わりに彼が言っていた「愛してるよ。muwah muwahチュッ チュッ」を聞くことが無いことを除けば何も変わらないような気がしていた。

いや、何も変わらないと自分に思い込ませながら、彼とやり直すことを信じて待っていた。

「時期を見て家族だけの食事会をしようと思ってる」

ヤエコには理解しきれない現実を突きつける声は6年間毎日聞き続けたと言うのにやけに事務的に聞こえた。その声は誰かの名前を呼ぶためにこれからは使われ、その彼女には事務的には聞こえないのだろう。

「そうなんだ。」ありったけの強がりを言葉に載せた。


「おめでとう。お幸せにね。って言えばいいのかしら」それ以外に言うべき言葉は一つもない。

「DEARはイイ人できたの?」

「食事に行く人くらいなら居るけれど、答えは残念だけれどNOよ」

考えてみると互いの名前を呼び合ったことはない。

アダムは私をいつもDEARと呼び、ヤエコはアダムをYOUあなたとしか呼んだことが無かったけれど、英語での会話で名前を互いに呼び合うなんて、日本語で話をするときほど多くはない。

「ハハハハ・・・」アダムが豪快に何千マイルも離れたところで笑っている。

「DEARは僕以上に素敵な男は見つからないよ。」

もしかすると、そうなのかもしれない。アダム以上にイイ男を見つけることはできないだろう。



アダムとはこの土地に引っ越した初めの月に出会った。

ヤエコが並んだスーパーのレジで財布の中のコインに視線を落とした目を上げると、2つ先のレジからまるで愛おしいものを見つけたように優しい目で見ている男がいた。

ヤエコは笑顔で軽く会釈をして、気に掛けることも無くスーパーの向かいにあるガラス張りのパン屋へ立ち去った。

食パンを買って冷凍しておけば1週間は朝食に困らない。

この独り暮らしが始まるまで実家で暮らしていた。

学校の教師をしてた父は朝から茶粥とみそ汁、目刺しと漬物と決めていたので、幼いころから別段美味しいと思わない茶粥を毎朝食べていた。

洒落気づく高校生のころ、朝食にはパンを食べるという友人たちに影響されて、食パンなるものを似合いもしないのに食べるようになった。

洒落っ気などという言葉とは無縁の実家で一番それっぽいカタカナの夕食と言えば、ビーフシチューくらいだったように思う。

ビーフシチューと言うと、とても立派なものを想像しそうだが、台所の狭さには不釣り合いなほど大きな食卓に出てくるのはカレーの下ごしらえにビーフシチューのルーを投入しただけで、具はカレーと全く変わりなく、付け合わせも白米だった。

過程も具材も同じと言う事で、続くことがよくあったように思う。

だからこそ、ロシア民謡"1週間"を変えて歌っていたのだろう。

月曜日はビーフシチューだ、火曜日はホワイトシチュー、テュリャテュリャテュリャテュリャテュリャテュリャリャ

テュリャテュリャテュリャテュリャリャリャー

水曜がハヤシライスで、木曜日はビーフカレーだ、金曜日もも1度カレー、土曜はカレーうどん。


いつか、茶粥を食べたいと思う年齢になるのかもしれないが、

今は、一人暮らしの朝はトーストが一番手っ取り早く、洗い物も少なくて良いし、自由を手に入れた証の一つだと大袈裟だけれど大真面目に思っているのだ。

ホテルパンや雑穀入りのパンを大量にトレーに載せてレジの順番を待つ。

大量に何かを買ったり作ったりする性格は、月曜から木曜をシチューからハヤシライスを食べてきたことができないからだろう。

「キミはひょっとして日本人なの?」ヤエコの後頭部高いところから声がする。

「ぼくはシンガポールから引っ越してきたばっかりなんだ。」

レジの順番を呼ばれ、前後に並んでいた男と横並びになった。

横目でその男を見上げた。満面の笑顔で私を見ている彼に作り笑いを返した。

初めて暮らす海外で、話しかけて来る男など怪しい以上の何者でもない。

「アダムって言います。」

肘まで丁寧にロールアップされた袖から差し出された右手は血流が見えるように血管が浮き、自信がみなぎっていて、断ることを許さない。

ヤエコはてんこ盛りになったトレーを左手とお腹で支えながら右手を差し出す。力一杯握りしめた手は少し汗ばんでいた。

「キミ、英語が分からないの?」

「聞こえてますよ。」

少し嫌味の入った言葉が口を飛び出し、解かない握手で結ばれた手にわざとらしく目を落としてやる。

「あはははは。失礼。何も言わないから、英語わからないのかと。名前を聞いても良い?」きつめに握った握手を解く。

「ヤエコよ。」両手でトレーを持ち直した。

「ヤ エ コ。」注意深く発音し、まっすぐな歯を見せて笑った。

「キミも最近越してきたの?僕は2週間前に引っ越してきてね、今日はゴミ箱を買ったんだ。」

どこにでもあるグレーの金網状バスケット型のごみ箱を持ち上げてみせた。見せびらかす必要のなど全くない。

もう片方に持った白いトレーには何も載っていない。

「もしよかったら、情報交換のために電話番号交換しない?」

嫌です。と言わせない雰囲気がアダムにはあった。

一言で言えば、今の今会った知らない人間に買ったばかりのごみ箱まで話題にする、ここまで強引かつ好印象で気さくな雰囲気ハンサムな男を見たことがなかった。いや、そこに田舎っぺぽい素朴さを感じたのかもしれない。アダムは空のトレーをヤエコが会計を済ませた後に返却し、ヤエコが立ち去るのをニコニコしながら見送った。

ヤエコが数回振り返ってもアダムは同じ場所に立っていた。

ヤエコの中で何か灯った気がした。

理由はない。理屈じゃない。腹で何かがワサワサと広がったような気がした。


そんな風に半ば強引に電話番号を交換させられたものの2日、1週間、2週間経ってもアダムからは一向に電話はかかってくることはなく、3週目になった夜、意を決してヤエコから電話をした。

あの日はアダムの勢いに負けてしまったが、引っ越したばかりの空っぽの家に帰って冷静に考えてみれば、あれは単なるナンパではないか。

ナンパした相手をお茶にも誘わず、連絡先だけを手に入れて、放ったらかしというのは一体どういうことなのか?

そう思っているうちに、ヤエコはレシートの裏に書き留めた数字を押し始めていた。

トゥー―ッ トゥー―ッ トゥー―ッ

「もしもし?」

「電話に出ることができないので電話番号とお名前を留守電に名前と電話番号を残してください。」

相手が話すことを許さないように留守電のメッセージのアダムが話し出したので、電話をそのまま切った。

留守電なるものがとても苦手で、相手に関わらず、留守電になると電話を切ってしまう。

独りごとを言うことは違和感がないのに、相手の居ない、形の見えない箱の中に声として気持ちを残すことにとても抵抗があるのだ。

中学生の頃、好きな男の子の自宅に電話するとき、取り次いでくれる向こうのお母さんと話すような緊張感がある。

「卓也は今、お風呂に入ってるけれど、何か伝えましょうか?」

伝言など無い。ただ、本人と話をしたいだけだ。そんな事、好きな男の子の母親に伝えられるわけがない。

それに留守電は、いつ聞いてもらえるか分からない自分の気持ちを離れた場所で待つ自分がもどかしく、過去に残した自分の声、そこにいない自分の声を聞かれるのが恥ずかしい。

受話器を置いてソファーに寝転がり、自分から電話をかけたことを、あるいは、相手が捕まらないのに電話をしてしまった自分に後悔し始めたとき、電話が着信ベルを放った。抱きだした後悔を保留にしたまま起き上がり、電話を取る。

「もしもし。」

「ヤエコ。電話をくれたでしょ?」

1度しか会ったことのない電話の向こうの人間が誰であるか瞬時に分かった。

「どちら様ですか?」

今さっき、電話をしたばかりで何を言っても隠せないのは分かっているけれど、貴方の電話を待っていたわけではないと芝居がかった台詞が用意したわけでもないのに口を滑り出た。

「アダムだけれど・・・。」

「ああ。どちらのアダムかしら?」

「パン屋で電話番号を交換したアダムだよ。」

「ああっ」ビックリするくらいのワザとらしいセリフ。

「さっき、電話くれた?」

不在着信missed callの履歴から電話をかけた事実は消去でないのだから、かけたと言わなければ逆におかしいのにどうしても認めることができない。

電話をかけたことを認めたくないのではなくて、電話をかけたことを認めたくない。

「今、台北に仕事で来てるから、着信履歴、国際電話だと番号が出ないんだ。でも、さっきの電話、キミからの電話だったんじゃないかと思ったんだ。」

「台湾からはいつ帰る予定なの?」

「今日の夕方の便なんだけれど、ご飯でもいかない?いつが良いかな?」



私たちは深く愛し合っていたと思っていた。

ヤエコは自分の生い立ちを話したのはアダムが初めてだった。


夕陽が沈み、昼間の喧騒とは打って変わったように波の音だけが聞こえる旅先のバリ島のビーチに置かれたテーブルの上で、海風に吹かれて倒れそうなキャンドルの火が斜めに立っていた。

「それでもヤエコはヤエコだよ。ヤエコの過去や家族の理由で僕がヤエコを嫌いになると思うなんてバカだな。」ヤエコの手をとって潮風で湿った白いテーブルリネンの上に載せた。

夜の真っ黒な海が優しく月光を包む様に、アダムはヤエコの手を優しく握りしめた。

「DEAR 泣いてるの?」

「違うわ。潮風で砂が目に入っちゃったんだわ。ロマンティック ディナーなんて嫌だって言ったのに。」

「お部屋に帰ろうか?」

風が止んだのかテーブルのキャンドルは柔らかに灯っている。

「ビーチを歩いてお部屋に帰ろうか?DEARは本当にビッちゃんだから。」

ビッちゃんとはアダムがヤエコを時々呼ぶあだ名だった。

BITCHに親しみを込めた彼なりの和製英語らしい。ヤエコが素直になれない時、アダムがお手上げになった時、アダムはヤエコをビッちゃんと呼ぶ。

目に砂など入っていないことも、ヤエコが人前で泣きたくないことも、アダムには全てバレている。

「散歩して帰る。おんぶして。」

「ビッちゃんみたいなデカいお尻、おんぶなんて出来ないよ」

とはいうものの、家でワインを飲みながらDVDを見ていると直ぐに寝てしまうヤエコを抱き上げてベッドへ運んでくれていることを知っている。

「0.1トンに言われたくない。」

アダムは出会った時よりも20キロ近く太り、あと数キロで100キロの大台にのる。水泳で鍛えてきたせいか、身長があるせいか、不思議と巨漢には見えない。

アダムが握ったヤエコの右手にキスをする。

暗い闇のような海があるから月が綺麗に見えるのか、

月があるから暗い闇も穏やかに見えるのか、

月があって暗い闇のような海面に星のような月光を反射させるのか。

一方がかけると成立しない、両方の融合があって新たな美を生み出す。

ヤエコの闇をアダムが包み込む。ヤエコにはアダムの何を輝かせてやれるのだろう。アダムが自分の生い立ちを受け入れてくれた安堵を手に入れた共に、彼は自分には出来すぎた人なのではないかという不安も手に入れてしまった。

プライベートビーチに置かれたテーブルから部屋までは結構な距離がある。海からヤエコの赤い花柄のワンピースの裾と短く切りすぎた髪に潮風が吹き付け、ヤエコはとっさに髪とワンピースの裾をおさえた。

アダムが大きな手のひらを出す。

手を繋ごうと言う合図だ。

「繋がないわ。」

「どうして?」

「いやだから。」

いま手を放すと、髪がぼさぼさになって不細工になってしまう。

「どうして嫌なの?」

「そんなの、理由なんてないわ。嫌なものは嫌なの」

自分はアダムには不釣り合いな気がするのだ。こんな良い人に私では不釣り合いな気がして、不安に潰されそうなのだ。

「now or never?」(今か一生なしだよ)

「I say "never"」(一生なしよ)

「no regrets?」(後悔なしだよ?)

「no regrets」(後悔なんてないわ)

「ビッちゃん」アダムが強引にヤエコの右手を取り、もう片方の手でヤエコのショートヘアの髪をグシャグシャとかき乱す。

「髪がグシャグシャの方がセクシーだよ」大きな声でアダムが笑った。


二つの融合が織りなす新たな美なんてものを求めてるわけではないと言わんばかりに、その大きな笑い声は海と月の間を駆け抜ける。

それからもヤエコはアダムと一緒に寝ていると、急に泣き出すことがあった。

アダムはそのたびにヤエコを抱きよせて「傍にいるよ。」とヤエコが泣き止むまで起きていてくれるのだが、

そう言われれば言われるほど、今度は彼は自分にはもったいないと思い始め、涙が止まらなくなるのだった。




アジア諸国の男性は、お母さん子が多い。

良く言えばお母さん想いの息子が多いのだ。

アダムも例外ではなかった。にもかかわらず、華僑の人間が一番大切にしている春節の休みも、お母さんには内緒でヤエコと一緒に過ごすことが多かった。

ヤエコの誕生日と春節が重なったある年、ヤエコはファミリーディナーに行く羽目になってしまった。

「ヤエコ。その時計」ヤエコの誕生日がバレンタインと近いため、毎年、2つを1つにまとめ、1つだけ素敵なものを買ってくれるという約束になっていて、その年は時計だった。

「その時計。お母さんには絶対に僕が買ったなんて言わないでね。」

さっき買ってもらったばかりの時計がヤエコの左手に座っている。

「分かったわ。」ヤエコが見せびらかすように、運転中のアダムの顔の前に左手首をだした。

「DEAR。すごく似合ってる。買って良かったね。」

アダムはこの上ない嬉しそうな顔で運転を続けた。


アダムの実家はシンガポールでは極々標準だ。

一度、お母さんたちが長期の旅行に出かけている間、風の入れ替えにと、彼と一緒にお邪魔したことがあったが、物の少ない、比較的質素な家庭で育ったことがうかがえた。

彼自身も質素なのだけれど、良いものには惜しみなくお金を使う癖はどこからやってきたのだろう。

数年前に購入したコンドミニアムにはわざわざヨーロッパからスピーカーやプレイヤーを取り寄せ、料理などしないくせに大理石のまな板がキッチンに放置されていた。二人で訪れた旅先で仏像を買うと言い出した時には、それを止めるのにかなり苦労したことを覚えている。

お母さんたちが留守の間にお邪魔したことがあったとはいえ、お母さんに会うのは初めてで、ヤエコはかなり緊張していた。

日系の食品会社に勤めるアダムの妹や親せきが仲良く話しかけてくれたのと、91歳になるおばあちゃんがヤエコの顔を撫で、親指を立てて「グ―――!」サインを何度もくれた以外、アダムのお母さんとはただの一言も言葉を交わすことはなかった。


お母さんたちが住む公団からアダムのコンドミニアムに戻る道は両サイドに青々と木々が茂っており、中央分離帯にはハイビスカスなどの花が置かれている。

近代化された小さな島国は細部まで計算されつくされていて、心地が良い。道を走る車はマレーシアのそれらとは違って、どれも綺麗に磨きがかかっている。数年前にアダムが買い替えたホンダの四駆は彼の綺麗好きのおかげもあってか、いまだ新しい皮の匂いがする。

愛車を大切にする男は女性を大切にするという持論がヤエコにはあった。

実際に、ヤエコの父の車はタバコ臭が酷く、タバコの灰が飛び散っていても気にする様子がない。

「お父さんは運転うまいやろ!」と自負する運転は、遊園地のコーヒーカップを回すときにかかる遠心力がまっすぐな道でかかっているような運転で、ヤエコをいつの時も例外なく激しい車酔いへと誘った。洗車はいつも子供達任せで自ら車を大切にしている様子を見たことがない。

母に対する態度も同じか、それ以下のように思う。

「DEAR。ドアが外れるよ。」

助手席のドアをの雑に閉めたヤエコに言い、助手席に駆け寄る。

「大げさよ。日本車はそんなやすい作りじゃないわ。」

「女性を扱うように優しく閉めろよ」

ドアを閉め放つのではなく送るように閉めて手を離すのだ、と何度もデモンストレーションして見せた。

「わかった?」

「ちっちゃい男だな。」呆れていうヤエコに「ビッちゃん。乗せてあげないよ!」とアダムがムキになる。

「okay。分かったわ。もういいでしょ?」

車のドアの閉め方に限らず、アダムに色んな注意を受けながら女性としてヤエコは磨かれた。


「お母さん。私のことキライなんじゃないかな」片づけを手伝うという私を無視して台所へ消えたお母さんを思い出しながら、ヤエコは遠くの電光表示を見ていた。

「そんなことないよ。でも、お母さんは僕が同じ華僑と結婚することを昔から望んでいるから」

前の車が少しブレーキを踏んだのか、テールランプが数回赤く光った。

同じ華僑でも、その先祖の出身によって微妙に言葉が違い、性格も異なるという。その為か、他の血族と交わることを嫌う閉鎖的な考えも残っている。

「おばあちゃんが可愛らしかったわ。何を言ってるかはさっぱりわからなかったけれど」

「かわいいよね。DEARに很漂亮ヘン ピャオリャン(とても美人)と言ってたよ。」

1人くらい、見方が居たことにヤエコはホッとした。

「ヤエコ。これからシンガポールに来れる全ての土曜は、僕とファミリディナーに出て欲しい。良いね?」

あの怖いお母さんに睨まれながらご飯を食べるのは正直なところ、避けたいところだ。

「月に1度くらいじゃダメ?」

「隔週に1度。」

ヤエコだって毎週土曜にシンガポールに来れるわけじゃない、ここはイエスと答えて知らぬふりをすれば良いのだ。

「分かったわ。」

アダムが左手をハンドルを放してヤエコの右手を取り口づけた。

「危ない」

「大丈夫だよ!みんなに見せてやるんだよ。ほら!見て!僕はこんな綺麗な人にキスすることができるんだよ」

「バカだと思われるよ。止めなさいってば。」

「あははは。ビッちゃんだな。now or never?(後悔なしだよ)」

「as always, I say NEVER.」(いつもと同じよ。絶対にナイわ!)

「no regrets?」(後悔なしだよ?)

「never regret」(絶対後悔しないわ)

アダムは力強くヤエコの手を握り続けた。ヤエコは肩越しにまっすぐ前を見たアダムを見た。この手を私も放したくない。



そんな約束も結局果たされないまま、アダムはスイスへ移動が決まり、その後は香港へとシンガポールに帰ってくることも無くなってしまった。

彼の香港での生活も2年目になったある日、アダムからの電話が鳴る。

「DEAR。一緒に香港で住まないか?」

「急にどうしたの。私の仕事は?仕事辞めて香港で何するの?」

アダムとはいずれ結婚したいと思っている、でも、仕事を辞めて香港に行って、うまく行かなかったらどうするという不安が先に立った。

「心配なら、無給休暇で来れば良い。仕事を辞めるなら、しばらくは遊んで暮らせばいい。ジムに行ったり、広東語を勉強したり、日本にも近くなる。」

知らない間に、アダムは二人で住めるアパートを契約し、引っ越しを決めていた。

「無理よ。急に。」

結婚しようと。ひとこと言ってくれれば、急でも構わない、むしろ嬉しいのに、アダムはその一言をいつまでも言わない。

「クリスマスには会いに行くよ。指輪を探しに行こう。

Dear, love you too much, and you know that, right?」

(過ぎるほどに愛してる。知ってるだろ?)

「分かっているわ」

「love me?」(愛してる?)

「さあ」

「now or never?」(言うなら今だよ)

「never and no regret」(言わない。後悔なし)


真夏のクリスマスの国でアダムとヤエコは指輪を探していた。

でも、結局、気に入った指輪は見つからず、指輪も、全てが反故になった。


「DEAR, 春節にはシンガポールへ帰るよ。」

「分かったわ。私は、日本へ帰るわ。」


何かが、全てが崩れ出していた。気づいているのに、手を出せなかった。

アダムが全てを修正してくれると思っていた。

ヤエコの帰省中、ヤエコの実家付近では珍しく粉雪が舞っていた。

ヤエコはコートも羽織らず、あてもなく自転車を闇雲に漕いでいた。

それでも足りず、立ち漕ぎしたり、上半身を低姿勢に競輪選手のように行先もなくペダルを踏み込む。

寒さを全身に感じたい。何だか分からないこの状況を寒さで麻痺させてしまいた。どれだけペダルを踏みしめても前に進むには限度がある。

粉雪がヤエコの目の中に飛び込み、ブレーキをかけた。


「ヤエコ、謝らないの?」

毎日、例外なくかかって来る昨夜の電話は原因もわからないようなことで喧嘩別れとなり、それでも今朝アダムがかけてきた電話で喧嘩の続きをヤエコが吹っ掛けたのだ。

「どうして、私が謝るの?アダムが謝るんでしょ?」

「dear, 今回だけは謝って。一度でいいから。キミは僕を愛しているのかい?」

「謝らないわ。」

「じゃ、もう終わりにしよう。」

「分かったわ」


そんな事をいっても、また今夜も電話をくれるのだと思っていた。

しかし、いくら待てども、電話は鳴らなかった。

次の日も、次の日も。


2週間の休暇の3分の1が過ぎた頃、ヤエコは絶えられず、香港へ行くことを考える。

香港まで数時間のフライトだ。行きはまだ良いとして、もしうまく行かなくて、アダムが許してくれなくて帰りのフライトを泣きながら帰って来るなんて出来やしない。


アダムからの電話はそれ以降、一度もなく、2か月が経とうとしたバレンタインの日に、明日荷物を取りに行くとメールが届いた。

昼間に現れたアダムは、少しも変わらないと言うのに、目に見えない変化が二人の距離を目に見えるように開けている。

「DEAR, 行くよ。」気が付くとアダムの荷造りは終わっていた。

「話もしないの?」

いつもなら、三人掛けのソファーの真ん中にどっしりと座り、左手でソファーをパンパンと叩く。隣においでという合図だ。

今日は、1人掛けのソファーに浅く座り、両肘を膝の上に置いて、両手を組み祈っているようだ。

うつむき加減で、アダムが泣きながら許しを請っているようだ。

「DEAR。毎日、毎日、香港に来てくれることを待ってたんだ。一度だけ、一度でいいから折れて欲しかった。キミを愛してたから、これからもずっと愛していたいから、一度だけ折れて欲しかった。」

アダムは眼鏡をはずして右手で目を抑えた。

「わたし。毎日、香港へ行こうと思った。謝ろうと思ったの。でも、あなたが許してくれなくて泣きながら帰る自分を想像したらそれができなかった」

だから許してほしいなどというのは都合の良い話だろう。

それを口にして、ヤエコは自分が一番愛しているのはアダムではなく、自分自身であることにこの時、初めて気が付いた。

ヤエコが帰省するときは、「ひどい親なのかもしれないけれど、DEARを世に生み出してくれた人だから。」と言って会ったことも無いヤエコの両親にお土産を持たせてくれた。ヤエコの友人の家の水道が調子が悪いと言えば、すすんで修理をかって出た。英語が不得手のヤエコの友人にも愛想よくと言うより、むしろ誰より楽しんでお酒を交わしていた。アダムはヤエコが大切にする全てを、あるいは、ヤエコが大切にすべき全てを自分の大切なもののように愛しんでくれた。でも、ヤエコは同じことがアダムにはしてやれなかった。

おそらく、アダムはそれを分かっていたのだ。だから、1度だけ、1度で良いから自分を愛して欲しいと思ったのかもしれない。


ヤエコは部屋を出たアダムをエレベーターまで追いかけるのが精いっぱいで、閉まるエレベーターの扉の前に自分でも驚くほど聞き分けよく部屋にもどる。

ガチャンと締めた部屋のドアのカギはヤエコの涙の部屋のカギを開けたかのように一筋、一筋と溢れだし、ドアの前にしゃがみこんで声もなく泣き続けた。


彼を失った悲しさ、当たり前だと驕っていた自分への憤り、自分を保身するあまりに何もできなかった臆病さ。


白いタイル張りの床に涙の水たまりができていた。

その水たまりを雑巾がけをしながら、また涙が出た。


大切なものって何だったんだろう。

探し求めていた大切なものって何だったんだろう。


買うことのなかったダイヤの指輪でもない、婚姻届けでもない。

結婚しようというありふれた言葉じゃない。

大切なものは既にヤエコの手の平ににしっかりと握られていた。

目に見えないソレは、握っていても気づかない。自分の体温と同化して、あるかどうかすら次第に分からなくなっていた。

ソレを温めていたのか、ソレに温められていたのか。

今、ソレが手の平から零れ落ち、感じていた温度がどんどん失われ、手の平に寒さを感じた。


愛はここに確実にあったんだ。

愛してたんだ。


Now or Never?

後悔している。愛していると言わなかったことも、手を繋がなかったことも、謝りに行かなかったことも。全て後悔している。



「DEARともう呼ばないで。」

「どうして?理由はないけど、どうしてもって言うんだろう?」

アダムがいつもの屁理屈がはじまったとばかりに電話の向こうで笑う。

「違うわ。私はもうあなたのDEARじゃないわ。あなたのDEARは結婚する彼女でしょ。」

「このあいださ、彼女が妹にヤエコのこと聞いてさ、妹もヤエコが綺麗な人だったなんて言うもんだから、後ですごく喧嘩になったんだ。」

そんな事を聞いても嬉しいわけがない。

「そう。もう電話もしないわ。喧嘩の原因になりたくないし、彼女に申し訳ないわ。」

アダムが本気の沈黙を決め込んだ。6年も付き合っていたのだから、彼の考えることは手に取るように分かるつもりだ。

「never?」(2度と?)

「neverよ」

「no regrets?」(後悔しないの?)

「never regretよ。でも忘れないで、あなたとの6年を後悔などしてないわ。感謝してる。それと、連絡をしないからと言ってあなたを愛さないわけじゃない。この先も貴方を愛しているわ。あなたには私よりちょっぴりだけ幸せでいて欲しいと願ってる。」

「どうして?」

「だって、あなたがもっと幸せになることを祈って別れたのよ。そうじゃないと私たちの別れは無駄だわ。」

「no regrets」(後悔なし)

「never regret」(決して悔やまない)


暫くして、アダムと彼女の晴れ姿の写真が送られてきた。

ボンベイサファイアのジントニックを片手にきっちりと折られた紙飛行機をもう片手にベランダに出る。

西日が射し、風のない一日の終わりだ。ジントニックを飲みながらしばらくツルツルした紙飛行機を眺めてみる。

少し風が吹く気がした。ヤエコは紙飛行機を放ち、その顛末を見届けることなく、ジントニックのグラスを持って部屋に入った。



5年が経ち、大学時代の友人を訪ねてヤエコは北京に降り立った。

この5年の間、恋人という恋人は見つからず、なんとなく過ごす日が続いていた。

降り立った北京は天気が悪いのか良いのか、空気汚染でどんよりしている。排気ガスでこれだけ曇っているのだから石炭がくべられる冬場、どれだけ空気が悪くなるのか想像もしたくない。初めて来た土地なのに、ワクワク感が全くない。訪れたことのない国に行ってみたいというだけの理由で大学時代の友人が住む北京に来ており、友人の仕事が終わるまで、毛沢東博物館、天安門広場など市内観光をして時間をつぶしていた。紫禁城の

大和殿に入った時は、映画ラストエンペラーで歩く幼いころの溥儀に何千人、何万人の家来、重臣が頭を下げるシーンを思い出し、その時代を想像してヤエコは鳥肌を立てていた。長い時間が経ち、その様子は人の想像の中でしか生きていない。時間が経つと言うの儚く虚しい。

王府井大街を一通り見てまわり、タクシーを拾うために大通りに出たとき、黒塗りのセダンが通り過ぎた。

金持ちなんて沢山、北京にも沢山いるだろう。

でも、何も変哲のないその黒いセダンが通り過ぎるほんの一瞬に懐かしい人を見た気がした。

「まさか。そんな偶然があるわけない。」

自分の妄想を打ち消すように大振りに手をあげてタクシーを止め、ホテルの名前を告げた。

そろそろ仕事が終わる友人からの電話を待つ携帯電話が鳴りだす。

「もしもーし。」

「もしもしー。」

怪しい日本語。聞きなれた懐かしい声。

「DEAR。今どこにいるの?」

その声が誰であるか直ぐに分かった。

「どちら様ですか?」

「僕だよ。アダム。」

低めの心地よい声。忘れるはずがない。

「どちらのアダム?」

「DEAR 今、北京に居るんじゃない?」芝居をしているのを見抜いているようにアダムが続けた。

「どうして?」

「どうしても、そう思うんだ。今、僕も北京にいてキミを見た気がしたから。」

「どこで?」

「王府井大街近くの大通り」

ヤッパリそうだったのだ。

「どこ?なんてところ?そんなところに居るわけないじゃない。」わざとらしい演技もむなしく、けたたましいサイレンで灰色の空を蹴散らすように救急車が横を通り過ぎ、アダムを乗せた車の方面へ去って行く。遠ざかるサイレン音と引き換えに暫くすると近づくサイレン音が携帯の受話器から聞こえ出す。

「DEAR。やっぱり北京に居るんだね。どこのホテルにいるの?8時に迎えに行く。」

人の予定も聞かずに相変わらず強引に電話を切った。

会うべきか、否か。今更、会ったところで、彼の幸せな結婚話を聞かされて何が楽しいのか。

最高の笑顔で肩を並べた写真の真ん中にまっすぐ折り目を入れて作った紙飛行機を思いだしていた。


8時を過ぎた頃、ホテルのロビーにヤエコは立っていた。行くか行くまいか頭が割れるほど悩んだ挙句、ここで行かなければ幸せ話を聞かされるのが嫌で逃げたと思われると困る。投げつけられた果たし状を受けて立とうと思ったのだ。

無駄にきらびやかな調度品がセンスなく並ぶロビーで携帯電話で誰かと話をしながらアダムは立っていた。

5年も経ち、アダムはさらに貫禄が付き、雇われとは言えど社長然としている。相変わらずネクタイははせず、第一ボタンは外されていて、白髪がとうとうお目見えしたようだけれど髪形も昔と全く変わらない。

眼鏡の奥に優しいながらも強い芯のある目をしていた。

「DEAR。ああ良かった。来てくれて良かった。」

アダムは大きく手を広げ、ハグをした。あの時と同じ懐かしい香水。


そう言えば、アダムは沢山の香水も贈ってくれた。

空港で販売員に言われるがままに買ってきては香水の名前にこじつけたメッセージを言うのだ。

「RUSH。I rush into you(君に駆け込む)という意味さ。」ある時は「Romance。My romance is you(僕の恋はキミさ)」と聞いている方が恥ずかしくなることを大真面目に言っていた彼を懐かしく思い出した。


「ご無沙汰ね。」

アダムは左ひじを九の字に折った。ヤエコはその腕に右手を通す。

通したヤエコの右手にアダムが右手を添えた。

ヤエコがどうしても手を繋ぐことを拒んだときに、3歩先に行って、アダムがこの手段で腕を組むことを催促してきたお茶目な姿を思い出した。

全てが懐かしく、ヤエコは吹き出してしまった。

「おかしいね。MY DEAR.」


「中華は嫌だと言うと思ったんだけれど、モダンチャイニーズの店を予約したよ。」

「そう。」乗り込んだ車は運転手付きの昼間に大通りでヤエコの目の前を通り過ぎた物だった。

アダムが北京語で行先を言い「谢谢您」中国語で最も丁寧にドライバーに礼を告げた。いくつになっても、身分が上がっても、とても礼儀正しいところは変わらないようで、ヤエコはホッとする。


車が止まった店は、すっぽりと緑の葉っぱで壁がおおわれ、モダンチャイニーズの絵画などがかけられた間接照明の店内は、アンティークなチャイニーズ ファニチャーがセンスよく配置され、映画、花様年華に出てきそうな艶かしい雰囲気があった。結婚してしまった元恋人との旅先で偶然の再会。今起こっている事実を言葉にすると、映画さながら、不実な香りで満ちている。


テーブルに座るとアダムがマッドフィッシュの白をオーダーした。

自宅でご飯を食べるときに好んで飲んでいたマッドフィッシュは果実味の余韻がありながらドライで、マレーシアやシンガポールのように暑い気候に良く冷やしたそれは爽やかな風をもたらしてくれた。

今日みたいな暑い夏の北京でもこのワインは清々しい風を吹かせてくれるだろう。


「それで、明日何時の飛行機なの?」

「フライトで来たわけじゃないわ。」

「ホリデーだったの?中国に?どうして?あんなに嫌いだったじゃない。」

「友人がここに住んでるのよ。」

「友人と約束あったんじゃない?」

テイスティングにアダムに注がれたグラスを取り上げ口に含む。

「悪いことしたね。」

「好。」ワインの意見を待っているウェイターに向かってヤエコが答えた。

「アダムは北京で何してるの?」

「アジア地区担当だから、出張だよ。たまに来るんだ。」

ワインが少しずつ回り、懐かしいはずのディナーはまるで昨日の続きのように楽しかった。

ボトルもさかさまになり、コーヒーを頼もうかとヤエコは最後の一口を口にした。

「DEAR。そのホクロ。」

飲み干したワイングラスをテーブルに置く。

ヤエコの顔をキャンドルが下からゆらゆらと照らしていた。

「ゴミがついていると思って僕がおしぼりで拭いてあげたの覚えてる?」

この男は、デートしたての頃、ヤエコの唇の上に並んだ2つのほくろをゴマか青のりだと思ったらしく、ごしごしとおしぼりで拭いてくれたのだ。

「これでしょ?」

ヤエコが唇を抑える。

「覚えてるわ。おかげで、ほくろが取れるどころか、刺激を受けて大きくなったんだから。慰謝料を請求したいところよ。」

アダムはヤエコに口づけした後、いつも必ずもう一度ヤエコの唇の上に2つ並んだホクロにキスをした。

アダムが言うには上唇の上にホクロがあるのは浮気性なのだと。会えない間、心変わりしないでという願いを込めてホクロにキスをしていたのだろうが、6年の間、別れた後も、心変わりなど一度もしたことがない。もしかすると、その呪いは解けずにいるのかもしれない。



アダムが出会った時のように愛おしい目でヤエコを見つめる。

「DEAR。その時計。まだ使ってくれてるんだね。」

アダムから贈られたその時計はあの日から今日まで寸分も狂うことなく時間を重ねながら、ヤエコがどんな時間を過ごしてきたか一緒にみてきた証人。ヤエコは時計を隠すように手首を下にして時計の位置を戻す。

「アダムもそのペン」変わらず胸のポケットに挿されたペンはヤエコがアダムの雇われ社長就任のお祝いに贈ったものだ。

「ウェンディーに全て家を空けている間にDEARとの思い出の物は捨てられたんだけど、コレはココに入ってたから唯一、手元に残ったよ」そう言って胸ポケットからペンを取り出した。

黒い漆のようなそのペンにアダムの名前が刻印されている。プレゼントした時は新品だったペンもあちこち傷がつき、掘られた部分が白かったイニシャルは黒く味が出た。

そのペンも彼の歴史の証人なのだろう。

華僑の習慣ではペンや時計を贈り物にするのはタブーと言われている。

どちらも「死」を連想させるかららしい。当時、互いにどちらかが死ぬまでと冗談とも本気とも取れぬ話をした事をふと思い出し、

左手をテーブルの上に差し出した。この時計もたくさん傷がついて随分いい味が出たもんだ。

「何かが違うね。」右手でアダムが頬づえをつく。

「ずいぶん痩せたように思ったんだけれど、歯を矯正したんだね。」

付き合っているころ、アダムが費用を全部だすからと、何度も矯正を勧められたが、当時はなぜか、矯正なんてしたいと思わなかったのだ。

「気づいた?歯を4本も抜いてね。ほら、あの神経除去してセラミックを被せた歯も抜いたのよ。」

「あの歯も抜いたの?じゃ、あの時に抜いちゃえばよかったね。」

神経がいかれてしまった歯痛で2晩眠れないヤエコに電話で付き合ってくれたことがあった。結局、しぶしぶマレーシアで歯医者に行くことになったのだが、最終的には日本で治療を続行し、セラミックを被せるのにかなり高くついたというくだらない話だ。

「本当に。無駄だったわね。まだ、矯正器具は付いていてね、あと、1年くらいで外れれば良いかなって思ってる。」

「裏側矯正なんだ。」

「そうよ。」裏側からの歯列矯正は外からは分からない。改良でブラケットが小さくなったとはいえ、舌がブラケットやワイヤーに時々挟まったり、擦れたりと不快なことが多く、費用も通常のものよりもかかる。でも、ヤエコは人生の中で一番有意義な金の使い方だと思っている。人の気持ちなど神様の前で誓っても、婚姻届などという紙に判子を押しても別れたり、

いくら睡眠を削って努力しても夢破れることがある。

確実に結果を得られる何かが欲しかった。

なんでも良かった。少しずつ着実に目に見えて変化する自分を楽しみながら、裏切らない結果び向かって生きたかった。1日を、1週間を、1年を過ごす理由が欲しかった。

「DEARますます綺麗になったね。矯正したからじゃない。DEARは歳を取ればとるほど綺麗になって行く人だよ。」

若さが全ての美しさだった20代を知る人に歳を重ねたことを褒められるのは照れくさい。

「そんなこと言ってもディナーはアダムの驕りよ」

「ダメか!」

「女に払わせるなんてありえないわ!」

「ああ、ビッちゃんだな。」アダムが豪快に笑う。


空いた皿を下げにテーブルに近寄ってきたウェイターに礼を言うヤエコを懐かしむ様にアダムが見ている。


「離婚したんだ。」フチなしのメガネの奥の目の二重がハッキリ見えた。

なんとなくそうではないかと察していたが、やはりそうだったのか。


空になったワイングラスの足を撫でていた指が止まった。伏せていた目を上げてはいけない気がして、そのまま空のグラスを口に指をかけグラスを斜めに倒してみた。

「今更言っても仕方がないけれど・・・」

6年も付き合ったヤエコと別れて数か月後に他の女性と付き合いをはじめ、1年未満で結婚を決めたのは、アダムのお母さんが陰にあったことをその時初めて知った。

日本人のヤエコとの結婚を大反対していたアダムの母親は、ウェンディ―というシンガポール人で同じ種族の女性、見合いをさせたのだった。

ウェンディーはアダムが隠し持っていたヤエコの写真を見つけてはビリビリに破り捨て、嫉妬し高速で走る車の助手席から急に飛び降り、空港でCAを見ていたという難癖をつけては座ったばかりの飛行機を降りて帰ってしまったり、会ったことも無いヤエコの影に嫉妬して結婚生活を続けていたらしい。

「お互いにクタクタになったよ」アダムが珍しく険しい表情をした。

「綺麗な人なのにね。会ったこともないし、近くにいるわけでもない私に嫉妬するなんてどうかしてるわ。」

「Dear。ウェンディーを見たことないでしょ。」

「よく言うわ。ウェディング フォト、100枚くらい添付メールで送りつけてきて、焼きました写真だってご丁寧に送ってくれたでしょ。とことん私に"やり直すことはない"と言いたいんだと思ったわ。2人でこんな風にハート作ってたわよ。こんな感じかしら....。」

両手で作ってみせたハートをアダムが壊す。

「My Dear。送ってないよ。写真なんて。」


そういえば、写真が送られてくるかえに、シンガポールからの着信があった。どの時も屋外からかけられたようなノイズが後ろに聞こえた。

ヤエコが出ると、何度かは無言、一度だけBITCHと聞こえるか聞こえないほどの女の声がした。

「最近結婚した別の元彼と間違えちゃったわ。恋多き女だから、わたし。失礼。」今さら証拠なきことを言っても意味がない。

キッチリと折り目をつけて飛ばしたあの紙飛行機を飛ばした時、ヤエコは気持ちに整理をつけたのだ。


女の嫉妬は怖い。同時に救われないような痛みに苦悶をヤエコも知っている。

吐き出せば吐き出すほど取り返しがつかなくなる。

きっと彼女も全てを失って気づいているはずだ。


そんな結婚生活はうまく行かず、結婚2年目で離婚をすることになり、財産分与などの型が付いたのはほんの最近で、不幸続きにも、全ての型が付いたころにお母さんが子宮がんで亡くなったことなど、アダムは一通り話した。

「ヤエコは?良い人見つかった?」


この5年の間、ヤエコはヤエコでアダムの影と共に生活をしていた。

沢山の思い出が詰まるアパートも、何ならマレーシアという土地を出て行ってしまえば良かったのだろうけれど、なんだか逃げ出し、負けを認めるようになるのが嫌で、同じ場所で同じように暮らしていた。

それは自分で自分に課す拷問のようでもあった。アダムと同じ香水の匂いがすれば涙が零れだし、アダムという同じ名前の人に会うと、名前がどうしても呼べなかった。

まさか彼の誕生日である4871(イギリス式に8月4日1971年)をいまだに全ての暗証番号にしていて、8月4日には毎年心の中で「おめでとう」と言っているなんて言えるはずもない。

もちろん、もともと、アダムの生年月日を暗証番号にしたわけではない、

ヤエコが学生の頃アルバイトをしていたファミレスの電話番号の下4桁が4871で、4871しわないと語呂合わせで覚えていたのを使っていた。ひょんなことでそれがアダムに知れ、ヤエコもアダムの生年月日など知っているはずもなかったので、お互いにびっくりし、

もしかするとある種の運命を互いに感じていたのかもしれない。

どれだけ時代が近代化されても、こんなくだらない偶然に運命を感じるのだから、人間なんていつまでたってもアナログなのだ。

でも現実は偶然なんてで、運命などというものは存在しない。

「独りで居るのが楽だわ」とありったけの強がりを口にした。


「DEAR」アダムがテーブルの上に手を置く。「来週シンガポールに帰るんだ。マレーシアに行くよ。」

テーブルに置いたアダムの手に自分の手を重ねればこの5年は埋まるのだろう。

彼の影と共に生活した5年をヤエコは思い出した。

リクイッド ダイエットのようにお酒だけを口にして過ごした日々。

朝から晩までジムで自分を虐め、体をどれだけ疲れさせても眠れず、体重がどんどん減っていた。

「DEAR。まだ僕を愛しているかい?」

愛している。

あの時の貴方を今でも愛している。考える必要などない。

いや待てよ、今、目の前にいる彼と腕を組んでエスコートされてもドキドキしなかった。腹の下の方にざわめきもを感じなかった。

理由はない。理屈じゃない。長い時間を経て再開して、灯る火を感じなかった。


愛してた。


ヤエコはアンティークな木製の椅子の背もたれにも上半身の全体重をゆだね、深く腰を掛け、腕組みをしてテーブルの上で揺れるキャンドルを見た。

良く見ると、このキャンドルは蝋燭ではなく、電気製の蝋燭だった。

影だと思っていたのは蝋燭ではなく、蝋燭なものだったのかもしれない。

「マレーシアは自由の国だから、来たければ来ればいいんじゃないかしら。お互いに都合が合えばご飯に出も行きましょう。でも、」

「でも?」

アダムが両掌をテーブルの上に置いた。

「私は貴方のDEARじゃない。DEARにはなれないわ。あなたを愛してるわ。あの時のあなたを。

時間が経ちすぎた。」

電気の蝋燭はぶれることなく光を放っている。

「今言えるのは、あなたをということだけよ。」


あの時、泣き崩れて飛行機に乗る自分を想像するがあまり、自分を愛して体裁を気にするがあまり、香港行きの飛行機に乗ることができなかった。

彼をではなく、自分をそれ以上に愛していた。

それが全ての答えだ。

5年経った今も、彼を愛する以上に自分自身を愛すだろう。

「やり直したとしても、この5年を思い出して私は辛くなる。それは将来的にお互いにとって良いことヘルシーじゃない。そう思うの。」

テーブルに置いた手を結んだ。「regret後悔」と言った。

never決して」あの時のようにヤエコが答える。

「no, All the regret is mine. that is what I am saying.」(違うよ。全ての後悔は僕にある。そう言いたいんだよ。)

「いいえ。あなたも私も後悔はなしよ。愛される喜びを私に教えてくれた。別れる痛みも教えてくれた。その痛みがあったからこそ気づいたことがあって成長できた。あなたに感謝してる。」

テーブルの上で結んだアダムの拳をヤエコは力強く包む。

「it's all about timing. (全てはタイミングね)」

アダムがヤエコの手を握り返す。

Sadly悲しいけれど



電気の蝋燭がコンスタントに灯っている。

この電気の蝋燭のように半永久的に気持ちが続くなら、

風や、湿気にも左右されず、蝋燭の中に埋められた芯の長さにも関係なく

毎分毎秒変わらずいられたら良かったのかもしれない。


「お客様。そろそろ」ウェイターが気まずそうにアダムに閉店を声をひそめて告げる。

気が付くと、他の客は帰り、テーブルに置かれた全ての電気蝋燭は消されていた。

「行こうか?」

「そうね。」

2人が去り、テーブルの上に2人の間にあったそれも消える。

香りも煙も立てずに。

ほのかに温められたろうそくの周りの空気もいずれ消えていくだろう。

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