Philophobia (愛され恐怖症)前編
こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃなかったんだ。
八重子は声に出ているのではないかと思うほど、心の中で大声で自分に話しかけながら歩いていた。
かぶりを入れそうになる自分を制するために両手をジーンズのポケットにギュッと差し込み、小学生の頃よく歩いた狭い学道路を当てもなく、うつむき加減で足を前に出し続ける。
言っても何も解決されないことは八重子自身が一番よく分かっている。
「お母さん。人は人。私は私やから!私はお母さんの人生を満たすために生きてるわけじゃない!」
入れ歯を取るとトリック絵の老婆のように老け込んでしまった母の顔を睨みつけるように大声で言い放ち、家を出た。
歳をとったせいか、覇気のない母の目が悲しそうにも見え、吐き出した言葉に後悔を感じながらも、何を言っても言い返してくる母から逃げるために、やり場のない自分の気持ちを消化するためには外に出るしかないと、財布の中の千円札をジーンズのポケットに押し込んで家を飛び出た。
小学生の頃は、家から学校まで遠く感じたのに、170センチ越えの巨体になってしまった八重子の足には学校はとても近い距離になってしまった。
あの頃、小さかった八重子の赤いランドセルには教科書以上に重いものが毎日詰まっていて、毎日の登下校、足取りが重かったように覚えている。
「お母さん。ガンだと思う。お母さんが死んだら、お前にお金を残しちゃるから、一度よく聞いといて。」
八重子が1人暮らしを始めてから毎月必ず1度は届く泣き落としのメールに加え、会うたびに聞かさせれるこの文句は「死」を絶対的必要条件としているわけだから聞いていて気分の良いものではない。初めの方は、いつか必ず起こり得る「死」を想像し悲しくなることもあったが、何年も何年も一言一句変わらない文言を聞かされ続けた結果、あまり気に留めることも無くなった。
八重子が30歳のころ、母の子宮内に腫瘍が発見されたと言うときが1度目のウェーブだった。
医師の話によると、腫瘍は摘出してみないと悪性か良性かは分からないというのに、母は毎日のように「お母さんはガンで余命幾ばくもない」というメールで寄越すので、さすがに、八重子も休暇をとり、実家に帰省したことがあった。
手術前日に病院へ出向くと、病室で知り合った人に猿回しの猿のように八重子を病室の隅々まで挨拶をさせた。八重子が表面的な挨拶を交わし、お辞儀するたびに、観覧者は「CAさんは違うわ。ホンマに綺麗な人や。」と言い、「そんなことないんよ。」と口では八重子の母も言うもののまんざらでも無いような顔をしていた。
結果、腫瘍は良性で、事なきをえたわけだが、半年にわたり、子宮がんだと聞かされていた八重子にしてみれば、安心したのが半分と、肩透かしを食らった気分が半分と何とも煮え切らない気分だった。
八重子が血尿が出たときも、椎間板ヘルニアだと診断されたときも、心配するどころか、この母は八重子に洗濯だの、夕飯の支度だの言いつけ、心配するそぶりも見せたことすらないので、正直なところ肩透かしが8割と言ってもバチは当たらないはずだ。
ーお母さん、このまえ、駅で倒れて救急車で運ばれました。最近、体に自信がありません。-
また来た。
そろそろ梅が咲くだろう時期に八重子の携帯に同じ内容の着信があった。
どうせ、またいつもの話で大した話のようにも思えないけれど、さすがに救急車と聞くと現実味を帯び、その時が迫っているかのようにも思え、八重子は実家に帰省することを決めたのだ。
八重子が勤める会社は会社再生を申請した。再生したと言っても社名が少し変わったくらいで実質はなにも変わらない。
新会社へは流れで入ってしまったけれど、その後どんどん会社の規模は縮小し、給料大幅カット、待遇劣悪になっただけで、八重子だけではなく上司、同僚を含める会社全体の士気が下がり続けている。
そんな中、気が付くと1年以上、有給も取らず(実際には人手不足の為に取れず)単調な仕事を毎日こなしている自分がバカバカしくなったのと、自分の心のバランスも崩れ出していることに気づいていたので休暇を申請していたのが、良くも悪くも、そのタイミングで母からのそのメールが届いた日に休暇の申請の許可が下りた。
出来れば、自分自身のリフレッシュの為に、その1週間を有意義に、有効に使いたかったが、母から来た泣き落としメールを無視できるほど八重子も鬼娘にはなれなかった。
しかし、帰宅1日目にしていろんな意味で後悔することになるとは八重子自身も誤算だった。
小学生のころ八重子が毎日通っていた田畑と玉ねぎ小屋だけが左右一面に広がっていただけだったの学道路は、ところどころ幅が広くされていたり、土地が売却され、新しく幸せそうな可愛らしいお家が立ち並んでいる。
「こんなど田舎でも変化があるのに、この20年、私はいったい何しとったんや・・・」
結婚しない自分。先行きままならない仕事。自分の口からも同僚からも文句しか聞こえない職場。言葉にできないような異常な両親。自分の人生についてかっこたる計画を立てたことはなかったから達成感も達成できなかった悔しさもないけれど、何となく「こんなはずじゃなかった」としか今は思えない。なんとなく描いてるだけで具体的に文字に起こしたり、絵にしたりできるような目標や夢見た人生などないけれど、こんなはずじゃなかった。
八重子が帰省を決める数週間前に、友人との決別を誓った。
彼女とは10年ほどの付き合いだったが、自分がどれほど良いように使われていたかと言う事と、八重子の唇の上にあるホクロまで刺青で真似てきた彼女の執拗なまでの模写癖を脅威に感じ、距離を置いた方が良いと思ったのだ。
今から考えると、映画「危険な情事」の監督も腰を抜かすようなことが、よくもまあ現実にあったもんだと思う。
八重子は日頃から、人との付き合いなどと言うものは電車に乗っているようなものだと思う。
一緒に申し合わせて同じ電車に乗り合わせたのに目的地に着くまでに喧嘩や心変わりで途中下車する人間もいれば、途中乗車して、たまたまボックス席で向かい合わせに座ったのが縁で終点まで話し込む。
話す機会が実際に無かったとしても、目的地まで同じ車両、同じ電車に乗り合わせると言うのは「縁」と言うものだ。その彼女とは縁が簡単に言ってしまえば無かったのだと思う。
そう思えば、心も楽だし、彼女に対して腹を立てたり、残念に思ったりすることもない。若いころは腹が立って仕方なかったようないざこざも、万物全てに対して、大人になると若いころは信じることなど無かった「縁」という、年寄りだけが好んで使うような一言で納得がいくのだ。
「大人」と思いながら、八重子は身体的に年ばかりくってしまったが、精神的にはどこも大人になって無いようにも思え、ポケットから両手を出して腕組みをしてみた。
田舎の日本家屋が並ぶ住宅地を1分ほど歩くと左右に畑がひろがる小道に出た。
昔はコンクリートで適当に作っただけのように見えた道はアスファルトに変わっていたが、道の両隣は一面に広がる田畑はまだ健在で、乾いた土の匂いがほのかにする。
道と畑の境界は両側とも小さな用水路が流れていて、畑に近い方にタンポポが低いところで存在を主張するように小さく咲いていた。その真横で半人生早咲きだったのか真っ白でまんまるな綿帽子が佇んでいる。
ふうっと吹いてやれば風にのってどこかへ飛んでいくのだろうが、この綿帽子も私と同じで誰かに吹かれて飛ばされるよりも、種を持った一つ一つの綿が自分のタイミングで飛んでいくことが幸せなのではないかと八重子は思った。
ここに咲いているタンポポだって、飛ばされて自分で此処に立派な根を張り、青々とした緑の葉をひろげ、菊も驚くような鮮やかな黄色の花を咲かせ、また綿となって飛んでいくわけだから。
タンポポの黄色い花の下で手を伸ばすように広がる緑の葉を見ながら、知らない人の家の塀の下に生え出た紫の赤紫蘇を急に八重子は思い出してた。
「お母さんな。小っちゃい子供、孫が欲しいんよ。小さな子供。」
母は犬や猫を欲しがるように言った。
15年ほど前も「お母さん、犬が欲しい」と頻りに言うので、寂しさを紛らわせる足しになればと、子犬を買えるだけの現金をなけなしの貯金を崩して母に渡した。しかし、次に帰省した際、その時のお金は新品のテレビに様変わりしてあり、母はスクリーンに時々映る犬猫を見て楽しんでいることを知ったのだ。
ある時は「お母さん、かばんが欲しいんよ。」と八重子自身でも自分にすら買ったことのないような高級ブランドの名前を言った。
少しでも親孝行になればと思い、ボーナスを全てそれにつぎ込んで母に渡したが、母はほんの数回使っただけで、今やタンスの肥やしとなり、八重子が買い与えたことも母の記憶などにはない。
今は、長兄から買い与えられた新車を近所、知人に自慢することが日常の楽しみの様だが、元来、片付けがまったくできない母は、新車虚しく、購入2年未満だというのになんとも異様な臭いを閉じ込め、家に入りきらない空き箱や何だを乗せている始末だ。
つまるところ、母は、子供ですら金額で自分への愛情を量る傾向があり、お金をより沢山積んでくれた子供が最優秀賞というわけだ。
とは言うものの、いくらお金を積んでも孫は手に入らないと分かっているようで、お金を積んで娘をとにかく結婚させて孫を得ようと企んでいるかのように、話す機会があれば自分の健康話とセットでその話をする。
年老いて行く両親を目の前に、世間が人間として当たり前だろうという幸せを与えてやれないことが、子供として不義理ではないのか、言ってしまえば、これ以上の親不孝者は居ないのではないかと、八重子だって思わないわけではない。子供は私だけではないのに、同じ文句を少なくとも過去15年の間言い続けるところをみると、娘には遠慮がないのかもしれない。
「私だって、子供や家族が欲しくないわけでもない。」
八重子は心の中でつぶやいた。
「お母さん。私から孫を望むのは止めて。そういう望みは兄たちに託してください。」
どうしようもできない事から一気に逃れるためにこれくらい言うしかないと、口から出た一手だった。
「あんた、もう生理、上がったんか?」
驚いた口調で極端な結論へ行きつく母のあまりの不用意な言葉に、八重子の眉間に彫刻のようにハの字を浮かべた。
「そんなわけないやろ!」
あとから考えると、閉経しましたと言った方が、母もぐうの音も出せず、いくら何でもこの先、何も言えなかったのではないかと思うが、そこまで用意良く返せなかったことに自分の頭の固さを痛感した。
「八重子。まだ諦めたらあかんで。お母さんの知り合いの人は40歳で結婚してな元気な赤ちゃん産んだわ。その人な、そらもう、幸せそうにしてるわ」
「お母さん。私はもう40歳なんです。
私の人生は私が決めます。それが、幸せであろうと、なかろうと、それは私が責任を取ります。
もう、お願いやからな、私と誰かを比較したりするの止めて!」
「お母さんはな、八重子の幸せを思っていってるんやんか。子供をもったら人生観、変わるで。」
八重子の両親は、八重子が物心ついたころから不仲で、幼い八重子はその仲裁に毎日のように放り込まれた。
歳の離れた兄が二人居たのに、どうして八重子がその仲裁をしなくてはいけなかったのか八重子は40近くになるまで分からなかった。
分からなかったと言うより、八重子にはそのころの詳細な記憶はない。
八重子の実家には当時、両親二人の母親が行ったり来たりしており、母方の祖母が八重子の父が八重子を特別に可愛がることを良く思っていなかったのだ。
八重子の実家の玄関のすぐ右手には四畳半の部屋があり、
父親が手が付けられないほど酒に酔って母や長兄に手をあげた翌日には必ず、その部屋に八重子を呼びつけては襖度をピシャっと締め切り、八重子に手をあげた。
「八重子。ちょっとおいで」
随分前に他界した祖母の声が頭の上で聞こえた気がした。
今まで封印していた記憶を、あれが妄想だったのだと思おうと、無かったことにしようとした結果、あいまいになっていたような当時の記憶が八重子の目の中に蘇る。
春風が突風のように八重子のコートを翻した。
二つのタンポポは花びらも綿も飛ばさず力強く佇んでいる。
パートに毎日出ていた母の代わりに祖母は時々、八重子の幼稚園の送り迎えをしてくれた。
その途中に建つ見ず知らずの人の家の塀のすぐ下に、むしろ塀から生えていた赤紫蘇を、祖母は幼い八重子に摘み集めさせた。
敷地の外に茂っているものは、その家に住む人に所有権がなかったとしても、その行為はあまり人に誇れるようなことではない。
でもそれを、祖母は顔の面厚くも、八重子によくさせていた。
無論、幼い八重子にはそれが良いこととも悪いことともわかるわけもなく、次第に赤紫蘇を摘んで帰れば手をあげられることも無いのではないかと、祖母の付き添いのない帰り道でも摘み集めた記憶が八重子にはある。
小学生の八重子が必要以上に重いランドセルを背負って帰ってくると、祖母は玄関すぐ横の4畳半の部屋から八重子を呼んだ。
「そこに座りよし!」
大概、何が起こるか見当がついていた八重子は防御姿勢に入る。
海の近くに自宅がある祖母は小柄だけれど恰幅が良く、日に焼けていた。
「お
小学生の八重子にはなぜ自分が怒られているのか全く分からない。
「何で、止めへんのや!」
尋ねられていると言うより、八重子が答えることを許さないように祖母は祖母が裁ちバサミで不揃いと言うよりもガタガタにきった八重子のおかっぱ頭をやみくもに平手で殴り始める。
ダンゴムシが誰から教わったわけでもないのに攻撃から自衛するのに体を丸めるように、幼い八重子も誰に教わったわけでもないが頭を守るように伏せた。
すると、祖母は、猫が爪を研ぐように八重子の背中を引っかいたり、太ももをつねって来る。
「お
時折見える祖母の顔は色黒の般若のような形相だった。
「やめて!やめて!」
「お
はたかれる頭を守ろうとする幼い手を掻き毟るように祖母は剥がし、手をあげ続ける。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。」八重子は何に対して、誰に対して謝っているのか分からないまま、されど、謝ることだけがこの暴虐から逃げる唯一の手段と信じて、その6文字を呪文のように泣きながら唱える。
「お
確かに、酒を飲んで手をあげる父親は誇れる人間ではない。
でも、お
「ええか!分かったんか?」
「う...うん。」
「うんやない!返事はハイや。ほんま、この子はアホッタレや」
祖母は自分の気が済むまで八重子を折檻すると「これ食べよし。」とおやつをくれた。
時折、私が折檻されるのをごく当たり前だというか、他人事のように、あるいは、自分自身を守るように八重子が折檻を受けていた4畳半の隅の反対側の隅で祖母から溺愛されていた二番目の兄がおやつを素知らぬふりで食べていたことを記憶の隅に覚えている。
ただ、それが、どのような顔をして食べていたのかは八重子は思い出せないし、子供なら美味しいと思うおやつはいつも涙と唾液の味しかしなかったように思う。
夏休み、春休みになると、毎年、決まって八重子はこの祖母の家に預けられた。
駅で電車に乗せられるまいと地面に這いつくばって泣き喚いたのは、両親から離れるホームシックというのではなく、子供ながらに覚えた恐怖心からだ。これから毎日祖母から折檻を受けるという恐怖からくるもの、それ以外何物でもなかった。
八重子は、25歳になるまで、父がDVであることをきちんと他人に言ったことがなかった。もちろん、祖母に折檻されていたことも言ったことがなかった。
祖母の洗脳が良く利いていたのだろう。
成長する行程で何人か友人や八重子を慕ってくれる男性に話したことはあるが、
「重い話はやめてくれ」だの「冗談話が上手すぎる。」あるいは無反応と言う事が大半だった為、他人は聞かされても困る内容なのだと理解し、全てを話すまでには至らなかった。
家の恥は自分の恥。誰かにその話をすれば自分とは全く関係ないところで距離を置かれ疎遠になっていくものだと成長過程の中で学んだ。
極端に言ってしまえば、身内でも自分のことで手いっぱい。自分のことは自分で守る。自分が傷つく前に全てを破壊して「無」になってしまった方が期待することも落胆することもないのだ。所詮、
「子供は可愛いで。あんたも親になったらお母さんの気持ちが
八重子は腹の中で何かが弾けたのを感じた。
「お母さんは、全てが自分中心的で良いな。私の心に残したシコリとか気づくことも無いし、気づいたことろで何も思わないんやわ。」
腹の中で弾けたものが大当たりのパチンコ台のように流れ出す。ただ、そこに玉を受け止める箱も人も居ない。
「いったい、あんたは何を言うてるんよ?お母さん、あんたに何をそんなこと言うたか?」
「お母さん、私が、おばあちゃんから折檻されてたことを数年前に言った時のこと覚えてる?あの時、『ウチのお母ちゃんはそんなことするはずがない。あんたが嘘をついてるんや』言うてな、自分の娘じゃなくて我が親の肩をもったんやで。そんな人が親になったらどうのこうのって親になる素晴らしさを語らんといて。」
「そんなん、あんた、もう過ぎたことやん。おばあちゃんはもう死んだやないの。」
「そうや、だから、こんなこと言っても意味がないねん。だから、私が嘘を言っても意味がないねん。せやけど、お母さんは、私が嘘を言ってるって言うたんや。
自分の娘の肩ではなくて、自分の親の肩を持ったんやで!私が嘘言うて何か得があると思う?」
感情的になっているわけではないのに八重子の目から涙が一筋こぼれた。
「分かってくれとは言わん。そのことに対して何かしろと言ってるわけでもない。ただ、親が凄い、娘の事を思ってるって言うんだったらやで、
何で一言『気づいてやれなくて悪かったな。』と言えないん?」
八重子の同じ側の目からまた涙がこぼれる。
「要はな、お母さんはいつまでたっても一人っ子の娘でな、自分が一番かわいいと思ってるねんな。おばあちゃんと一緒や、愛情を表現することを物を与えることやと思ってる。或は、罪滅ぼしやと思ってる。でもな、人間って言うのはそういう事じゃないねんで、お母さん。」
「こんな歳とって明日死ぬかもしれへん親にそないなこと言うて、あんたはホンマに怖い娘やよ!そしたら、一体、どうして欲しいんよ?」
今更して欲しいことなどない。できるなら、あの時に誰かに助けて欲しかった。
幼いころにスイカを食べた後に吐いた唾が赤くなってるのを見て、吐血したと思った八重子は、自分がこのまま死ねばみんな幸せになれるんじゃないかと思ったことや、実は折檻を受けている自分も毎晩のように酒に酔って帰宅する父を恐れながら待つ家も夢なのではないかと想像していたこと、私はCAになりたくて海外に出たのではなく、実家からできるだけ遠く離れた場所に行きたいと思ったからだということなど母には分かるはずがないし、言ったところでどんな返答が来るかはおよその想像がつく。
「今更、して欲しいことなどない。あの時に『嘘ついてる』ではなく一言『気づいてやれなくて悪かった』と言ってほしかった。」
「そしたら謝ったらええんかい?」
何とも言えない思いが八重子の口から大きなため息という形で出た。
「それはそれは、すまなんだな!!!」
やけっぱちの心のない謝罪が私の両耳の横を通過した。そういう心のない言葉は耳の中にすら入ることができないものだ。
八重子が小学高学年になって背もぐんぐん伸び、朝礼や集会で一列に並ぶときは必ず一番後ろに立っていた。
ランドセルはどんどん小さくなったように感じたけれど、重さはいつになっても変わらない気がしていた。
そんなある日、いつものように祖母が「八重子、ちょっと来よし。」と言い、八重子は初めて祖母に反抗した。手をあげて来る祖母に自分も拳をあげたのだ。もちろん、そんな拳がまともに相手に入るわけはなかったのだけれど、祖母はさも自分が一番の被害者のように八重子に言い放った。
「あんた、こんな年寄りに手ぇあげて、おお、怖いよ。ホンマ、怖いわ。あんたはヤッパリお父はんの子供や」と忌み嫌うように言い八重子の腕を引っ掻いた。
八重子の攻撃は当たらなかったとはいえ、祖母にむかって行こうとした自分が犯罪者のような罪深い気分にさせらたことを良く覚えている。
しかし、それからと言うもの、祖母からの折檻はなくなったように思う。
八重子は母が言った言葉が、あの時、祖母が言ったことと同じなような気がして、
母娘のDNAの強さをその血を受け継ぐ娘として恐ろしさを感ぜずにはいられない。
「せやけど、おばあちゃん、あんたに浴衣をこしらえたり可愛がってるように見えたけれどな・・・」
母のその一言に全てにドミノがキレイに倒れて行くような爽快な合点が行った。
折檻の後におやつを食べさせていたのも、浴衣をあつらえたのも、贖罪だったのだ。
そして、その祖母の贖罪と母の金品をちらつかせて愛情を表現しようとする部分をミラー現象をみているように思え、また、いずれ、あるいは既にその素養が自分にもあるように思うととてつもない恐怖感を感じ、同時に思い当たる人との付き合いの不仲は自分に全て原因があることに気づかざるを得なかった。
「とにかくな、お母さんが死んだら幾ら八重子に残したいとか、そういうの初めから興味ない。お金をちらつかして気を引こうみたいなの止めて。
私は一切を放棄するから。お兄ちゃんたちに全てを託してください。
誰々さんのお家の人がコレコレだから、あんたもそうしたらええわ。そういうの、もう、うんざりやねん。お母さん。人は人。私は私やから!私はお母さんの人生を満たすために生きてるわけじゃない!」
先を急いたタンポポと、いま咲き誇っているタンポポ。隣同士しっかりと佇んでいる。
同じタンポポでどのような答えが返って来るかおよその想像がついていたのだし、そこからどうして欲しいと言う希望など何もない。
何の解決策もないのに、この隣り合わせたタンポポのように、どうして黙って聞くふりをすることができなかったのか。
八重子は膝をおろして綿帽子を指先でピンと跳ねた。
大空を彷徨って新天地を求める勇気がなくって飛び立つことをためらっているのなら、誰かに飛ばされた方がひょっとすると幸せかもしれない。
風のない宙に舞い上がった真っ白な綿帽子は一瞬だけ宙に飛ばされ、ふわふわゆっくりと近くの雑草が生える地面に落ちた。
晴れた状態でまた風が吹いたら遠くへ飛ばされるかもしれない。このまま雨が降ったら、水分を含み舞い上がることなくここに根を張るのかもしれない。
鳥や蟻に運ばれて、遠くの巣へ格納されるかもしれない。だからと言ってどれほど遠くに行けようか。
運や縁などと言うものは所詮、範囲が決められているのかもしれない。
運よく風にのって遠くに綿帽子が飛ばされたとしても、結局、咲くのは菊でもチューリップでもなく、タンポポなのだ。
少し湿った土の香りが八重子の前髪を撫でた。綿帽子がふんわり舞い上がり、少しずつ離れて行く。
もし、どこをどう彷徨っても打ち消すことのできないDNAなのであれば、誰と付き合っていったとしてもうまく行くはずがない。
このタンポポのようにどこに根付いたとしてもタンポポはタンポポで同じように花を咲かせ、綿帽子になるしかないのだ。
だとしたら、私と一緒にいて幸せになれるはずがない。八重子は宙に舞いあがった綿帽子を追いかけて手のひらに掬おうとした。
つかもうとすればするほど、指先から、指の間から綿帽子はふわりと抜け出し、次に吹き付けた春風に高く舞い上がった。
こんなはずじゃなかった。
無理やり飛ばされた綿帽子もそう思っているのかもしれない。
二週間前「独りにして欲しい。」と言うメールを最後に、彼からの連絡は途絶えた。
こんなはずじゃなかった。
一体、いつからボタンを掛け違えたのだろう。
「かわいいオデコ。」
誰かの声が耳元でする。
目を閉じたまま、「皺を伸ばしておいてください」照れ隠しに精いっぱいに言える言葉を寝言のようにつぶやいた。
彼の手が八重子の額を優しく撫でた。
もうすぐ39歳にもなるおばさんが、かわいいなんて言われるとは夢にも思わなかった。
もしかすると、これは夢なのかもしれない。
糊のきいた心地の良いベッドリネンに挟まれ、ゆっくりと、目を開けてみた。
白く高い天井は解放感があり、とても日本にいるとは思えない。やっぱり飲みすぎた昨日のお酒が抜けていていないのではないのか?
恥ずかしくて横を見ることが出来ず、目を閉じたまま声の主に聞いてみた。
「ここ、どこですか?」
「xxホテルだよ」
なるほど。昨夜、銀座で飲んでいたように覚えている。なぜ、ここまで来てしまったのだろう?いくら土地勘がないとは言え、銀座からこの場所まで徒歩圏内ではないことぐらいは知っている。
「もう一度、すみません。ここ、どこですか?」
オトコはガッシリとした上半身を起こし「xxホテルだよ。」ともう一度優しく答える。
「へ~。」そっけなく答え、平静を装っているが、どうして、どこがどうなってこの場にいるのか?調査隊が頭の中で新幹線の奇跡の清掃隊並みの速さで動き出す。
同時に、言葉では表しきれない安心感と、この歳で年齢が如実に現れるオデコをかわいいと褒められたことへのくすぐったさに耐えられず、1人きりならば、エア背泳選手権などがあればぶっちぎりで優勝のように手足をバタバタし、枕を抱きしめて右へ左へと転がりたいくらいこそばい気持がした。
そんな気持を随分長い間感じたことがない。
「ちょっと歩いて帰らない?」
結局、頭の整理がつかないままホテルを後にし、冬を呼ぶ風が吹く中、手を繋いで良いのかどうか分からず、彼の小指を握って、しばらく無言で彼について歩いた。
昨夜のように緊張しているわけではない、今朝は混乱しているのだ。
日光がなんとなく白っぽいのか、頭の中が真っ白で景色を白く感じるのか分からない。手を繋いで良いのか、でも離れたくないような。混乱とジレンマの中、精いっぱいできた気持ちの表現だった。海から強めに冷たい風が吹き上げた。軽く握った手が風で解かれないようにギュッと握り直す。
彼が、八重子の手を握り直し、重ねた手をレザージャケットの中に入れた。
あの日から1年。今や手を繋ぐことも無くなったが、毎日LINEでつながっていた。
でも、そのLINEももはや繋がらない。
八重子は自室のベッドの上で鳴る事のない携帯を眺めた。
このベッドで彼と愛し合ったことはない。
彼のベッドで彼と愛したこともない。
愛し合うのはいつも、天井が低く部屋いっぱいに入れたベッドの上だ。
なのに、彼と愛し合ったことのない自室のベッドの上に彼の影を思い描き、いつも以上右側を広く冷たく感じる。
眠れずに、ベッドから起き上がり、真っ暗な部屋を歩いて、キッチンへ向かう。
部屋の床はタイル張りで、足裏がひんやりする。開いた冷蔵庫の光だけを頼りに、茶色いっぽい大きなボトルを取り出した。コルクの蓋を抜くと、植物の良い香りがする。
男をいろいろと変えて試したように、ジンも安いものから高い物、名が知れているものから、レアなものまでいろいろと渡り歩いた結果、このスコットランドのヘンドリックスにたどり着き、最近の一番のお気に入りとなった。
巡り合うまでふらふらし続けるが、コレと腹に落ちるものは洋服だって食事だってバカが付くくらい同じ物や色違いのモノを集めてしまう。
それにどんなにお洒落なバーやファンシーな高級レストランよりも自宅で作って飲むジントニックが一番遠慮がなくて良い。
そんな風に遠慮のない自分を彼にもさらけ出すことができれば良かったのに。
40近くになると、かっこ悪い自分など見せられるわけもなく、公衆では彼に恥をかけるような振る舞いや恰好であってはいけないと虚勢を知らず知らず張ってしまい、今やどこからが本当でどこからか虚勢なのか自分でもよくわからない。
開けっ放しにした冷蔵庫の光で、レモンを片手でスライスし、右手の指先で絞ってグラスに沈める。
古い冷蔵庫はエコなんてお構いなしで、どれだけ長い間開け放しても悲鳴をあげない。
私もこの冷蔵庫のように我慢強い女だったら良かったのに。
今夜はやたらと「たられば」がでるものだ。
グラスを持って、ベランダへ出た。
1年中真夏の国なのに今夜はなんだか肌寒く感じる。
「今さ、帰り道なんだけれど、空を見上げたらね。星がきれいで。その星はずっと昔からあってさ、アインシュタインも恐竜も同じ星を見てたのかなって思ったら、なんだかスゲエって思うんだ。」
八重子より1時間早く明日に向かう場所からLINEが届く。
「おウチについたら、電話しても良い?」
今夜は雲が出ていて、星は見えない。彼は今夜も星を見ながら帰っているのだろうか。
ベランダに置いた木製のベンチに腰を下ろし、ジントニックを口にした。
LINEとは本当によくできた無料通信ツールで、八重子たちのように海外と日本の遠距離恋愛中の人間にはとてもありがたい。
チャットが全盛期の17年前などは、インターネットだって電話回線を通したものだったし、国際電話などはとてもとてもブルジョワで、社会人なりたての一般市民の八重子には簡単にゼロゼロワンダフルなんて押せるようなものではなかった。
それを考えるとLINEなるものを創設した方に、もしお会いできることがあるならば、ダッシュ駆けって手を両手で握り、膝まづいてお礼を申し上げたいものだ。
その一方で、ご親切にも“既読”などというシステムを作ってくれたので、
自分だけに限らず、世の中の人間は“既読スルー”なる言葉にどれだけ腹をかき回されたことか、その件数は天文学的だろう。そう考えると、創設者に会う機会があったら、お礼を申し上げると共に、既読システムが理由でぼっ発した喧嘩の数だけグーで殴らせて頂きたい気もする。
度重なる抗争の末、既読は1つの返事と捉えられるようになったものの、
この無料コミュニケーションツールはいろいろと八重子にも課題を沢山与えてくれる。
冷蔵庫の光と引き換えにパソコンを付けてみる。
ぼんやりと八重子の顔を照らし出すパソコンは沢山の情報を与えてくれる。
彼とうまく行かないのであれば、もう一度婚活サイトを再開しようかとマウスを握ってみた。
何一つ目に見える線で繋がっていないパソコンやマウスが、目に見えない赤い糸を手繰り寄せてくれるなんて滑稽な話だ。
プロフィールにどれだけ派手なことが書かれていても、実際に見て、触れて、感じてみるまで安心はできないことを沢山のネットショッピングの失敗と婚活サイトで会った男たちで身をもって学習したはずなのに。
もう一度してみようと一瞬でも思った自分がばかばかしくて、画面右の
時代がどんどん近代化され、情報が溢る。
何が本当で何が嘘というジャッジを下す前に、何が必要で何が不要なのか分からなくなり、ぶれない軸を保つことすらままならない。
便利さと手軽さも加勢すれば、時々あらぬ方向へ猛進してしまう。
その情報が唯一の事実であっても、手軽に手に入る他の薄っぺらい情報で真実をも疑いにかかってしまう。
疑う心を持つ自分が稚拙で弱い人間なだけなのに、それを溢れすぎた情報のせいにして、体裁を保つために必死な自分がときどき滑稽にも思える。
歳をとって丸くなるなったのはお腹周りだけで、くだらない拘りばかりが増えた。人間なんて厄介な生き物だ。
植物の香りがする最近お気に入りのこのジンはキュウリととても相性が良いらしい。
自然なものは自然なものとよく呼応する。
何事も自然が一番なのに、世の中の人間はそれを分かっていないようで残念だ。
蕾には蕾の美しさが、葉っぱには葉っぱの美しさがそれぞれあると言うのに、人間というものは花が咲き誇っている姿だけを美しいと安易に言う。
歳をとればそれなりの美しさを身に着け、それを楽しんでいけばよいのに、人間というのはなかなかそれができないのだ。
そういう、八重子自身も、いつまでも若くありたいと思うのだから、そこに矛盾を感じる。
「矛盾と葛藤があるのも人間なのだ。」
サワサワッ。サワサワサワサワ。
足元に他の生き物が走ったのを感じる。
白いタイルの床で、限りなく白に近い灰色のヤモリ。
「ヒャー」後ろに小さくジャンプした勢いで半分まで減ったジントニックがグラスから飛び出した。
長くこの地に住んでも、神出鬼没なコイツには慣れない。
でも、今夜はこの世で二人きりになったつもりで、(実際は世界が滅びたわけでもないし、このヤモリだってどこか巣に帰れば家族がいるのかもしれないけれど)お互いを見つめ合ってみるのも良いじゃないかと、八重子は意を決して近寄ってヤモリをできる限り近くで見てみる。
背骨がくっきり出て、しなやかなボディー、体の大きさにしては目が大きい。よく見ると、コイツはコイツなりの美しさを持っていて、
決して、ヤモリはイモリにもトカゲにもなりたいと思わないのだろう。
ヤモリはヤモリで良いと思っているのだろう。もしかしたら、ヤモリがイモリやトカゲをみたら、誰が綺麗だとか、どこが優れているとか劣っているとか競ったりするのかもしれない。でも、ヤモリが他のヤモリと遭遇したらやっぱり優越つけたがるのかしら。ヤモリの前にジントニックを垂らしてみる。
ヤツは八重子の方に身体をクネクネさせながら足早に近づいてくるので、八重子は後ろにひっくり返ってしまった。
うまく尻もちをついたおかげで、ジントニックはグラスから一滴も零れなかったが、ひっくり返る八重子に驚いたのだろうか、ヤモリは尻尾だけをのこして姿を消していた。残された尻尾はなんとも気色悪く白い床の上で、白魚の踊り食いのように、しばらくの間跳ねている。
ヤモリのように潔く、慣れ親しんだ尻尾を自切して、新たな自分に生まれ変わることができたらどれだけ良いか。ヤモリの潔さが自分にもあったらと思いながら、八重子はキッチンペーパーで切り落とされて用無しとなったヤモリの尻尾をつかんでゴミ箱に法要してやった。
もしかすると、あのヤモリだって「こんなはずじゃなかった」と思って、尻尾の切り口を見て思っているのかもしれない。
三人掛けのソファーに手足をグ――――ッと伸ばし横になる。ソファーの皮がギュギュギュときしんだ。
独りきりの一人の夜はすべてが自分と何かの対話のようにハッキリと見えたり聞こえたりする。
一時間早く明日を迎っている場所に居る彼は今頃何してるのだろう。
携帯を手に取り、ここには居ない彼を指先で手繰り寄せるようにスクリーンをスクロールしてみる。
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