紅いホクロ

「終わりましたよ。確認してみてください。」

頭の向こうで森の中で話しかけれられたように白衣を着た男の声が聞こえる。リラックス効果のために、小鳥のさえずりらしき音響を仕込み、ユーカリのアロマを焚いているのか診療室は薬品の匂いすらしない。

「ほくろ除去に来る女性が大半なのに、ほくろを作りに来るなんて今時、珍しいですよ。」

看護師が白衣を着たお花畑の天使ならば、美容整形の医師はさしずめ白衣を着た森の神様だ。

私の願いを寸分の狂いなく叶えてくれる。

そのはずなのに、渡された手鏡の中に映る私の背後から聞こえて来る神様は「何も変わらない」と言っているようだ。

 鼻を整形したときや、目を二重にしたときに比べると、他人から見ても分かるような一目瞭然な変化はない。できたてホクロは、毎日鏡をのぞき込んで確認するシミやホクロのように、本人でないと気づくことができないほど小さな変化。

「いやだ。ただの気分転換ですよ。ありがとうございました。」

100円均一に並んでいそうなチープな渡された手鏡は、古城にありそうなイタリア製の家具を無駄に調度したこのクリニックの豪華さに反している。

「気分転換ですか。では、また気が変わって除去したくなったらいつでもいらしてくださいね。」返した手鏡を看護師に手渡した。

「そのブレスレット、雨の雫がぶら下がているようで可愛らしいですね。でも、白石さまにはお珍しいデザインですね。」

お前を写すには100円均一の手鏡で十分だと言っているかのような嘲笑が看護師の表情に見た気がした。

「どうして?」

「いえ、良くお似合いですよ。ただ、白石さまは、どちらかと言うと、もっとゴージャスなものがお好みかと思っていたので。」

「いやだ。ただの気分転換ですよ。雨の日に雨のしずくがぶら下がっているなんて、気分が明るくなるわ。」

「どちらのモノなんですか?」

「コレ?さあ、頂きものだったかしら。忘れちゃったわ」

「なるほど、白石さまほどお美しければ、沢山いらっしゃるでしょうね。ではまた気分転換なさりたくなったら、いらして下さい」


待合で、清算を待つ間、何度も来慣れているはずのクリニックの待合室の椅子は全て、壁向きに着席するようになっていて、患者同士が目を合わせなくて良い配置になっていることに今更ながら気づいた。

もしかすると、知らない間に知り合いと背中合わせに座っていたなんてこと、あったかもしれない。

整形したことを隠したこともないし、隠すつもりもないけれど、今この場で、あるいは、施術前の時間に知り会いにあったら、確かに気まずいかもと想像してみる。

一体、何を隠したいのだろう。

整形する前の醜い姿?

それとも、それを人工的に変えることへの後ろめたい気持ち?

ふと室内全体を見回してみる。受付に座る二人の女性の一人と目が合った。彼女は見てはいけないものを見るようにカウンターの下に頭を隠し、清算の準備に取り掛かった。


「白石さまお待たせいたしました。」案内された個室で清算をすませ、靴を履き替える。

「お大事に。」すりガラスの二重の一枚目の自動ドアが遠慮したように音を消して閉まるまで受付の女性が深々とお辞儀をして見送った。

ケガをしたわけでも、風邪を引いているわけでもないのに、何を大事にすればよいのだろう?なんとなく的外れな言葉に違和感を感じながらも、他に適当にあてはまる言葉もないかと、二枚目のすりガラスの自動扉の外に出た。すりガラスも二重となれば何も見えないのと同じ。

私が、ここでホクロを作ったことなど誰にも分からない。

フィラーで腫れた顔を隠すには都合よく雨が朝から降っていて、

傘が雨の壁を作ってくれる。

ジャンプ傘がポンッと開き、その小さな衝撃に、糸ほどに華奢なチェーンからぶら下がった5つのダイアモンドが小さく揺れた。

「雨の雫。雨か。」

どう考えても、私には似合わない。当たり前か。

雨のカーテンの内側はビニール傘に閉じこめられていた古い雨の匂いがしている。何かを隠してもらうための代償に辛抱しなくてはいけないような、心地の良い匂いではなかった。


数日後、腫れも引いた後、久しぶりにガールフレンドの八重子に会った。

4つ下の八重子は40歳になってもデニムとTシャツで化粧っ気が全くない。

血色が悪かろうが、肌が荒れていようが全く気にせず同じ格好で出てくる。今日も同じ格好をした彼女が遠くから私を見つけて手を肩まで上げ、急ぐ様子もなくテーブルに近づいて来る。

「八重子、最近どうしてたの?」

「変わりなしよ。アイスレモンティーお願いします。」木製のベンチ風の椅子に座りながらメニューも見ず八重子は席に案内してくれた店員に注文した。

「しばらく連絡なかったけれど、夕子さんはどうしてたの?」

「いやだ、違うのよ。私も相変わらず、何も変わりないわ。オトコもいないしね。八重子は?」

「夕子さん、イイ男は絶滅したわ。MARS火星に引越ししなきゃ。」

「MRASにビール持参しても良い?」少しぬるくなった泡だらけのカプチーノを口にした。

八重子を席に案内してきた店員が白いコースターを線引くように茶色のテーブルに敷き、その上に背の高いレモンティーのグラスお置き、ガムシロップとストローを当たり前のように置こうとする。

「お砂糖、使わないので、下げてくださって大丈夫です。」

飲み物も食べ物も、八重子はいつも同じで迷うことがない。後から気が変わったから砂糖を入れようなどと気が変わるのも見たことが無い。

「夕子さん、口に泡が付いてるわ。」差し出されたナプキンで口を拭く。

八重子は運ばれてきたアイスレモンティーのグラス越しに私の顔を睨みつけるように見ている。見破るという言葉を体現しているかのように。

出されたばかりだと言うのに、アイスレモンティーのグラスは下に敷かれた紙のコースターをふやかすほど汗をかいている。

「そんなところにホクロあったっけ?」

MARSにビールを持って行って良いかどうかんなて、そんな非現実的な話よりも、もっと現実的で、長い間、聞かなくてはいけなかったことへの手がかりを見つけたように、

八重子は私の唇の上に新しくできた黒い点を見ながら自分の唇の上にある小さな二つのほくろを指さして聞いてきた。

 八重子の唇に並んだ二つのほくろは私のそれとは違い、彼女の顔の一部として成立していて、当たり前のようにそこに並んでいる。

 マジックペンをノートの上に間違えて載せてしまったような小さな黒い点でも、そこに属すべきでないものができると、他人にも顕著に分かる物なのか。

他人にそれだけの違和感を与えるのであれば、本人である私はもっと大きな違和感と違和感からくる不快感を感じるべきではないのか?整形を重ねる人間にはホクロの有無などMARS火星から見る地球上のマンホールのように見肉眼では確認できないものだけれど、メスを顔に入れたことのない人間にはそれすらも見えてしまうのか?

ヒアルロン酸注射を施して収まりつつあるも不自然に腫れをもった豊齢線や額にはまったく触れず、新しくつけた英文のピリオド程に小さなホクロを目ざとく見つける八重子に心の奥底を見抜かれているようで、恥ずかしいというよりも、私は腹が立つ。

「いやだ、違うのよ。八重子。気分転換にホクロを作ってみたのよ。と、言っても一時的テンポラリーなものだから、飽きればすぐに消すことができるの。」

 八重子はアイスレモンティーのグラスについた結露が不快なのか、ナプキンで丹念に拭い、そのナプキンでテーブルを拭き掃除し、グラスを自分の手前に引き寄せた。そしてグラスの中に浮いている輪切りになったレモンをストローの先で下に沈め、これでもかと押し絞る。飲み物に添えられたレモンやライムがあるとき、必ずそうやって絞るのが八重子の癖だ。まるで飾りで置いておくことに意味など全くないと言わんばかりに。

「へぇー。マジックペンか、眉ペンで書いてあるの?それとも?」

八重子は続ける。

「刺青よ」

「そうなんだ。」

満足したのか、八重子はアイスレモンティーを飲んだ。

 果肉が圧搾されてボロボロになった輪切りのレモンがアイスティーの表面に逃げるように再び浮上する。レモンの果汁がアイスティーに流れ出て酸っぱくなったのか、八重子は両目を酸っぱそうに閉じてストローでアイスティーをかき混ぜる。

口を拭ったはずのナプキンは真っ白いままテーブルの上にある。



 

10年少し前、仲良くしていた直美という友人が八重子を飲み会に連れてきた。

 直美はアラブ人の血が入っているかのようなエキゾチックな顔立ちの美女で、当時私が付きあっていた弁護士の彼の友人たちに紹介するには最適のガールフレンドだった。

 彼氏の友達に綺麗なガールフレンドをコンスタントにあてがうことは、私にとって好都合なことなのだ。

綺麗な女を紹介してくれる友人の彼女とあれば、彼が出かけるところに必ず私も同行することになる。ナンパ目的でクラブに行くわけだから、私のガールフレンドを餌に与えてやれば彼らだけでクラブには行かない、私の彼が新しい女に出会うことがないと言う計算だ。


 八重子は、そんなある日の飲み会に直美に連れられてやって来た。直美は絶世の美女だが身長が低く、彼女の横に立った八重子は実際よりも背が高く見える。背が高いのだからどんな洋服でも着こなせそうなのに、田舎育ちなのだろう、あか抜けず、率直フランクに言えば、ダサい。電車を3時間乗りつないでも4都市にはたどり着けないような地方出身者が上京するのにできる限りのお洒落をしたようなレベルでダサい。クラブについてきたというのに、自分は踊れないと躊躇うことも無く言い、壁際に並べられたストゥールに腰かけて私たちの荷物の見張り番をかって出た。

何が楽しくて彼女が今夜ここに来たのか私にはさっぱり分からないが、便利であることは間違いなさそうだ。

直美が他の男と踊っている間の暇つぶし、あるいは直美の滑り止めのように、八重子の隣のストゥールに腰を下ろし煙草をふかしながら酒を飲み、社交辞令といわんばかりに八重子に話しかけていた。

あんなつまらなさそうな女と話をして何が楽しいのだろう?横目で八重子が座る方を時々視角に入れてみる。

誰が見てるわけでもないのに壁にもたれることもせず背筋を伸ばし、膝を合わせて座る八重子が両側を煙草を吸う男に挟まれ訝しそうに時々咳き込む様子はどうみても場違いで、少し可哀想にも思える。一方で、時々音楽に合わせて体を左右に動かしたりしながら、踊る直美を楽しそうに見ているようにも見えた。

ぶっているのか、本当に踊れないのか。踊れないなら、連れだして笑いものにしてやろうか。

「いやだ。八重子ちゃんもあっちで一緒に踊ろうよ。座ってるだけじゃつまらないわ。」

「夕子さ~ん。本当に私踊れないのよ。楽しんで!ちゃんと荷物番してるから!」

八重子が番をしているカバンから煙草を取り出し、ライターの口に火が立ち上がったと同時にフロアのライトが刺さるようにフラッシュした。

夜はこれからというようにMAROON5が弾け流れ始め、フロアに立っている人間は蒸気を発するように跳ね上がる。

興奮が感染したかのように壁際の八重子は突然立ち上がり、マサイジャンプのように跳ね上がった。流れている曲のサビに合わせ「so this is good bye」と歌ったかと思うと、帰ると言い出し直美を探しにフロアへ歩いていく。かくんっと右に足を踏み外したように背が低くなった。顔の表情は全く変わらないが、どうやら足元は相当定まらないようだ。

その夜は八重子を、彼が運転する車で自宅まで送ってやることになった。

「夕子さん、足痛いんですけど、靴脱いでも良いですか?」ヒールと言っても5センチほどのサンダルだ。「ヒールって辛いですね。夕子さんみたいに、かっこよくヒール履けると良いなあ。私、大きいでしょ?普段ヒール履かないんですよね。憧れます。踊れるっていうのも羨ましい。」

クラブの壁際にお行儀よくというより、むしろまじめ腐って座っていたのが嘘のように八重子は車の中で話し続けた。

「八重子ちゃん、マルーン5好きなの?さっき、口ずさんでたよね。CDあるよ」左手でCDチェンジャーを触りだした。

ずっと私だけを見ていたの彼は八重子を見ていたんだ。

「好きって言うか、いい曲多いですよね。化粧品か何かのCMでshe will be loved聞いてから好きなんですよね。」後部座席でつぶれていたデカい体を起き上がりこぶしのように跳ね上げ、「これも好きなんですよね」助手席に座る私と運転席に座る彼の間に酒臭い顔を出したかと思うと、

「And it really makes me wonder If I ever gave a fuck about you and I...so this is goodbye、so this is good bye...」

(マジにキミのこと好きだったのかなって本当に考えさせられるよ。だから終わりさ。これで終わりさ)

と歌いながら再び後部座性に身体を沈めた。

「八重子ちゃんってお堅い人なのかと思ったけれど、本当に踊れないだけの人なんだね。」彼がバックミラー越しに八重子を見た。

MAROON5の歌詞に応えるならば、確実に私の金曜の夜をFUCKだいなしにした八重子にあんたの事なんか何とも思わないわI don't give a fuck about you.とサイドミラー越しに言った。

金曜の夜を早々に台無しにしてくれた八重子はひどく酔いながらも、車を降りる前に何度も何度も礼と詫びを執拗に言い、降りた後も、私たちが見えなくなるまで手を振り続け見送った。

「八重子ちゃん。かなり酔っていたみたいだね。」赤信号から目を離さないで彼が言う。

「いやだ。どうかしら。でも、ちゃんと部屋に入れていると良いんだけれど」

「電話してみたら?」心配そうに彼が言う。

「明日にでも電話してみるわ。」

彼がチラッと私を見たような気がしたが、その瞬間信号が青に変わり、彼が車を出した。

「私のガールフレンドの中で誰が一番かわいい?」

「また、その質問?」面倒くさそうに、右ひじを窓枠に掛ける。「何と言っても直美ちゃんはすごく綺麗だね。でも、デートに誘うのであれば八重子ちゃんかな。」

「どうして?」

無言で車を走らせ続けるからため息のような彼の鼻息が聞こえた。

「いやだ、違うの、聞きたいだけなの。どうして、八重子なの?」

私はもう一度彼に問いかけた。

「どうしてだろうね」

 彼が左折をするためにあげたウィンカーは彼がどうして八重子を選ぶのかと言う理由ではなく、自分のガールフレンドを彼に選ばせるなどと言う愚問を何故するのか答えろと私に迫るかのようにカチカチと音を上げる。

そのカチカチと言う音はその夜、寝付くまで私の耳の中なり続けた。


 翌朝、八重子から昨夜は迷惑をかけて申し訳なかったという内容のメッセージが送られていた。あれだけ酔っていたのに、こんなに朝早くメッセージを送信する律義さに暑苦しさをも感じる。

「八重子からから明日ランチに行かないかって、メールが来てるけれど、行く?」

ようやくベッドから起き上がり、「おはよう」もなしにお手洗いに向かう彼の背中に投げかける。

「明日は日曜だから...。」

長い間別居中の彼は、毎週日曜に普段は奥さんと一緒に住む娘と過ごすことになっている。その娘に会ったことも無ければ、いつ離婚が成立するのか、離婚自体するのか、ただの別居婚なのか、私には分からない。

「いやだ。そうだったわね。聞いてみただけよ。気にしないで。八重子が貴方も来ないか、って言ってるもんだから」

「また次の機会にって言っておいてよ。」

「わかったわ。」八重子が大切なことを押してでも会いたい相手ではないことを知ってホッとした。

-良かったら、明日、二人でランチにでも行かない?-

ー夕子さん。明日は何も予定が無いので、是非ランチご一緒させてください。どこか、おすすめのお店ありますか?八重子-


 昼間に会った八重子は、クラブの壁際のストゥールに座っていた地味な印象を覆すように化粧をしなくても目鼻立ちの整った綺麗な人だった。

一度もメスを入れずとも美しい顔を持つ人間は日向で美しさが増す。

自然の美しさは完全無的で他の自然の美しさと呼応し、その前に皆が頭を垂れ、ため息を漏らすのだ。夕陽と海、雨にうたれる菖蒲、蓮に座るカエル、空を割るような雷光でさえ恐ろしさの中に絶対なる美しさを持っている。

彼女たちを羨ましく思う反面、美しく生まれてきた者たちだけが持つ何かにつけ当たり前だと思う自尊心のようなものを壊してやりたい衝動に駆られる。

今まで周りにいた非の打ち所のない美しいガールフレンドたちは整形美女が多かった。私に気のある男たちをわざとあてがい、彼女たちをその気にさせ、やがて彼女たちがふられ、耐え難い悲哀に顔を崩して泣く姿を見て、どことなく優越感に浸っていた。

男前のトラックの運転手にナンパされデートに出かけたガールフレンドの事を影でこれ以上にないイケてないボーイフレンドはないと他のガールフレンドたちと高笑いし、彼女本人にはその彼と本気で付き合うことを強く勧めた。

リッチな彼氏を持ったガールフレンドには近寄り、とことん甘い汁を沢山吸わせてもらってその彼氏を略奪した。

沢山の男友達と同時に繋がることによって、自分がポピュラーモテルオンナとしてのイメージを焼き付け背景づくりにもいつも余念がなかった。

気が付けば、私の横に定着するガールフレンドは誰一人と居なくなったけど、所詮ガールフレンドなんて彼氏ができれば疎遠になるのだから、それで良いと思っている。


直美と八重子は自然の美しさを持ち合わせていたが、二人にはそれぞれ致命的なに欠ける点があった。

直美は157センチと身長が低くアトピー持ちで肌が一年中カサカサしている、八重子は可哀想なまでに歯並びが悪い。私にはそれぐらいが丁度良い。私には絶対勝てない何かを持ち合わせていることを確認して優越感と安心感に包まれる。

ビヨンセのバックダンサーはブスでは困る。完璧に美しすぎたり、踊りが上手すぎたり、歌が上手すぎたのであればビヨンセは自分の座が奪われる脅威を抱くだろう。それと同じことで私の周りを埋めるガールフレンドはそれなりに華やかで私を引き立ててくれさえすれば良いのだ。

 そんな事ととも知らず、八重子はこのランチをきっかけにバカが付くほど純真に私を慕うようになった。

私の暇つぶしであれば何時間でも長電話に付き合い、しかも電話代が心配だと言えば、進んで電話をかけなおしてくれた。夜中に出て来いと言えば頭数合わせだとも知らずに急いで出てきた。今月は金欠だと言えば食事を、彼氏と別れたと言えば私を慰めるために流行りのバーで高いシャンパンを入れてご馳走してくれた。

顔立ちが綺麗でも歯並びが悪い八重子は、私の引き立て役として申し分のないガールフレンドだった。

 それなのに、八重子の動向が気になって仕方がない。

次に付き合った彼も、その次に付き合った彼も、私のガールフレンドの中で八重子が一番かわいいと言う。

私はいつものように付き合っていることを伏せ、八重子が彼らに好意を寄せ、振られることを期待する。八重子は彼らにはこれっぽちも興味も示さず、いつも自分の食事代だけをテーブルに置いて帰っていくのだ。私はその八重子の律義なさまが目障りで仕方が無かった。

一通り手をかけ美しい顔を持つ私にも唯一で最大、最後のコンプレックスがあった。AAカップとお粗末な胸。そんな心中も知らず、ある時、八重子の腰のくびれがセクシーだと彼が言い出した。そんな彼の気を引きたくて、八重子だけには負けたくなくて、八重子にはない豊満な胸を手に入れるため豊胸手術を考えた。

全身麻酔で豊胸手術することが怖くて躊躇う私に、「夕子さんの胸、何も悪くないわ。」と言う八重子は、見栄を張って大きめのブラを買ってティッシュを詰めている情けない努力など知る由もない。ありのままで十分魅力的なのだから手術を考え直し、豊胸を勧める彼氏と別れるべきだと、さも自分が聖人君子であるかのように諭そうとした。

そうだ。この女は何かと言うと、年下のくせに偉そうにまるでシスターかお坊さんのように私を諭そうとする。何も知らないくせに、全てを見通したように諭そうとするのだ。

元彼の男友達、その彼の男友達、そのまた男友達。

と私が渡り歩くことは不健康で生産性がないと言い、その輪から出て全く新しい場所で出会いを探すように諭そうとした時など虫唾が走ったものだ。

本当はガールフレンドの彼氏を誘惑し、ガールフレンドに私の彼氏をあてがい失恋させる。私を捨てた彼氏たちの男友達と付き合い続けることで私から去って行った男たちの未練心を煽り優越感に浸る。満たされない私の気持ちを、長く続く堪えられない痛みを、味わえば良い。

そんな醜い私の企みなど八重子は無論知らない。


手術後、私は豊満になった私の胸を見て羨ましがるだろう八重子の顔が見たくて、たかだか八重子と会うためだけの為に、胸が大きく開いた、白いTシャツを着た。

自分で言うのもおかしな話だが、膨張色の白は大きくなった胸をより大きく見せ、Uの字に空いた胸元からティッシュを詰めなくともこれぞ谷間と言わんばかりに乳房がデンと君臨している。

例のごとく、アイスレモンティーを注文した八重子は、グラス越しに豊満になった私の胸を凝視した。

その胸の谷間から黒目を1ミリも動かさない八重子の目を見て、溢れだす勝利の笑いを必死に堪える。八重子は視線を落とし、アイスレモンティーの中で浮かぶ輪切りにされたレモンをストローの先で下に沈め、いつものように果肉を圧搾し始める。

八重子と知り会ったのは顔の手術をして数年経ってから。八重子はその事を知っているが、術前と術後を目の当たりにするのは初めてのことだ。なんでも直ぐに躊躇いなく口にする性格のくせに、今回ばかりは柄にもなく切り出しづらく感じているのかもしれない。

「いやだわ。八重子。じろじろ見て。聞きたい事があるなら、言ってみたら良いじゃない?」挑発する私の顔をまっすぐに見た。

「良いの?」

「いやだ。良いに決まってるじゃないの。私たち親友でしょ。」

八重子がストローを指から放す。氷の下に沈められたレモンはなかなか浮上してこない。

「胸、大きくなったね。豊胸したの?」と八重子は聞いた。

私は八重子を惑わすように「どう思う?」と質問で返す。

「したと思う。」

「八重子が思いたいように思えば良いわ。」私は得意げに笑った。

レモンは行く手を阻まれたように氷の下に虐げられている。レモンを助けように氷をストローの先でつつきながら八重子は少し悲しそうに「そう。」とだけ言い、アイスレモンティーを飲んだ。


八重子についに勝った。


八重子や直美には彼女たちが何一つ苦労せず持ち合わせたものに対する者への私の執拗なまでの憧れと劣等感など理解できるはずがない。一つ手を加えるたびに、そこに既にある全ての物と調和が取れず、また手を加えたくなる。嫉妬心と劣等感を埋め隠すために憑りつかれたようにメスを入れ続ける。メスを入れても入れても満足感を得られない私を八重子などには想像できるはずがない。むしろ、メスを入れてまで美を手に入れたい人間を八重子などは薄っぺらいと愚弄しているに違いない。メスを入れれば入れるほど認めたくない劣等感が悲痛に赤い血と共に流れ出し、安心という新しい血が生成される。

八重子の悲しそうな顔を見て、八重子に勝ったとその時は思った。


 ある日、汚い歯並びが就寝時に舌を噛んで痛く歯列矯正を始めたのだと八重子が言った。

これと思うと結論に直結する性格の八重子の汚い歯にはボンダリングのホールドのようにカラフルでしっかりと矯正器具が既にしがみつくように装着されていた。

「ぷっ。ぷっ。ぎゃははははは。ごめん。八重子。笑うつもりはないんだけれど。よ、よく似合ってるわ。」

「ひどいわ、夕子さん。でも、かなりブスだよね。このために歯を4本も抜いたから滑舌は悪いわ、歯は痛いわ、締め付けで頭も痛くって大変よ。うどんを噛むのも気合が要るくらい歯が痛いのよ。おかげでダイエットにもなりそうよ。」手鏡を取り出し、煩わしさが可愛いものであるかのように八重子はイ―――――――――っと鏡の中の八重子ににらめっこする。

この歳になってわざわざ時間と痛みを伴う歯列矯正などせずとも、審美歯科に行けば数日で生まれ変わることができると言うのに、八重子はどこまでも頭が固い女だ。

 「どうして急に矯正を思い立ったの?」変わっていく経過を楽しみ、華やかになる理由が他にもあるように思えた。

「審美歯科にすれば直ぐに綺麗な歯列になるのに」

「寝てるときに歯が舌にあたって痛かったって言うのが一番の理由だけれど、確実に結果が得られる何かを楽しみとして欲しかったっていうのかな。ほら、恋愛とか仕事とかままらない事が多いじゃない。どれだけ楽しみにしていても、相手や状況によってガッカリさせられる事あるでしょ。

何か、絶対に裏切らず、数年先に必ず期待した通りの結果が得られることを楽しみに持ちたかったの。それに、歯って、一生大切にしたいじゃない。できるだけ、自分に与えられたものを壊したくないんだ。」

いつものようにアイスレモンティーを飲む。矯正器具のせいで口元が膨らんでいる醜い八重子が本当に美しく見えた。同時に、正論をも諭そうとするこの女を前に、自分で吐き出した煙草の煙を訝しく感じた。

ストローを持つ八重子の手首で金色の糸が転がる。

「八重子。すごく華奢なデザインね」

「かわいいでしょ?一目惚れして、大人買いしてしまったって、大人だから当たり前だよね。月の雫みたいでしょ?」

月の雫。糸のように細いチェーンから5つの金の三日月がぶら下がっていいて、それぞれの三日月が雫を抱きかかえるように小さなダイアモンドが鎮座していた。清楚で華奢なデザインにも関わらず、存在感が実寸よりも大きく、八重子の手首に居心地よさげに収まっていた。

「これも買っちゃったし、毎月矯正代にお金かかるし。厳しいな。」

と不憫を楽しむ様に左手に着けたブレスレットを揺らして見つめる。

そんな八重子を応援するかのように、5つのダイアモンドがキラキラと光を発した。


 大人になってからの歯列矯正は子供のそれとは違い比較的時間が長くかかるというのに、八重子の歯列は歯科医もびっくりするほど短期間で綺麗な弧を描きだした。4本も抜歯したせいか、顎のフォルムが整形したかのようにシャープになって行く。定期的に締め上げて痛みを与えるブリッジに赤一色、七色、パステルカラーのゴムと、変化を付けて楽しんでいる。楽しみにしている。歯並びが悪いために私の引き立て役だったガールフレンドが月日を追うごとに少しずつ綺麗になっていく。

自然に、確実に、さらに綺麗になっていく八重子を想像し、

私は焦り、審美歯科へ行きラミネートべニアを被せ短時間で光沢ある真っ白でまっすぐな歯を手に入れた。

本当の自分の歯は薄く薄く削られて、全く見えない。それを隠す不自然なまでに軽薄で白くまっすぐな偽物の歯は口を閉じていても皮膚を通して透かし見えているように思えて、手鏡を何度もとりだしては口が閉じていることを確認する。「白」をこんなに不浄に感じだことはない。

 綺麗になって満たされているはずなのに、隠すべきところがまだあるような、また新たにできたような焦燥感に苛まれる。



八重子の別れた彼とクラブで遭遇すれば、わざと近づき、八重子の焦る顔を見たくて見せつけるように彼とクラブに居ると電話をした。

焦るどころか、「そう。気をつけて帰ってね」という八重子に余裕がある女を気取っているようで余計に腹が立った。 

ハンサムなクローゼットのゲイの友達に食いつくのではないかと睨んで、

FBフェイスブック通して紹介した。

八重子がボブにすれば私もボブにした。

八重子が新品のエルメスの時計を買えば、私は八重子より高いエルメスの時計をネットオークションで中古で購入するのに徹夜をした。

なのに、どうしても満たされない。

血眼に探し続ける八重子のブレスレットが手に入らないように、いつも何かが満たされない。

八重子が綺麗になる前に、八重子が華やかになる前に、自分が八重子よりも綺麗にならなくてはいけない。

あの子が幸せになる前に、私が幸せにならなくてはならない。

あの女は私より不幸でなくてはならない。

八重子ではなくて、他の誰もが私よりも先に幸せになってはいけない、私より不幸でないといけない。


私の焦りは傾斜の激しい坂道を転がるレモンのように粉塵をあげながら転がり加速していく。楕円形のレモンはまっすぐ転がらず、右へ左へと転がりながら黄色い皮がずたずたに傷つき、押しへしやられていく。

行き止まりの壁にぶつかり大破し、果肉が飛び散る前に止まりたい、止めて欲しい。転がり出したレモンはもはや自力で止まることはできない。


助けて!!!!!



横から飛び出してきた車にレモンは引き潰され、ぐっしゃりと破裂し果肉がむき出しになった。レモンの果汁が黒いアスファルトに吸い込まれ、

もはやそのシトラス系の酸っぱい匂いなしではそれがレモンであったことなど分からないほど原型がない。



「八重子。大丈夫?」笑いながら後部座席を振り返った。

上半身を右に伏せた状態でうずくまって動かない。

その日も、頭数合わせに八重子を呼びつけ、私に気のある男たちと4人で飲んでいた。


ほんの、冗談のつもりだった。


そのうちの一人と私は八重子を後部座席に乗せ、二軒目にむかう交差点で信号待ちをしていた。

真夜中も過ぎ、車も人通りもない交差点にもう一人の男が運転する車が法定速度よりも遅いスピードで突っ込んでくる。

ぐんぐんと目の前に迫り来る車に聞こえるはずもないのに八重子が叫びかける。「あぶない!」

ボン。鈍い音と人の手で押されたような緩やかな衝撃が車に走る。

八重子が防御体制のように身を伏せた。

エアバッグも出ないくらいの衝撃で死ぬはずがない。

助手席を降りて、後部座席のドアを開けると、頭を抱えるように身を伏せた八重子の左手の月の雫が少し揺れ、車の外、高く向こうにある月光と呼び合うように光を発した。八重子はショックで少し気を失っているようだ。

自然の美しさを持ったものは、自然の美しさを持ったものと呼応をし、より輝く。

そんな方程式の成立は許さない。

私は月の雫が滴る八重子の手首に両手をかけた。

後部座席のドアを閉め、空を仰いだ。お前のしていることは全部見ているというように三日月が私を見ている。

「ねえ、1本くれない?」男がマルボロを差し出す。

決して体に良くない物をわざと吸い込んで、自分の悪事をチャラにしたい。あるいは、 毒を毒で制するように、ゆっくり煙を体に吸い込み、私の中の毒を吐き出す。タバコの先が紅く灯るたびに乳房の間に隠した雫が熱を出し反発しているように感じる。悪意をもみ消すように煙草を地面に踏みつけた。

「臭っ。」と訝しさそうに言って目をさましたきり、恐怖から来るのか、憤怒からくるのか、次の店に着くまで八重子は一言も言葉を発さないままだった。店に入ると、お手洗いに行くと八重子は席を立ったきり、そのまま帰って来なかった。

店の従業員の話によるとタクシーを呼んで帰ったらしい。

「八重子ちゃん。怒ってたんじゃない?夕子、何があったのか知らないけれど、やりすぎだよ。車も凹んだしさ。」

「いやだ。誰かが怪我をしたわけじゃあるまいし。ちょっとしたディズニーランドだったって思えば大した話じゃないわ。挨拶もなしに帰るなんて、八重子は本当に礼儀知らずだわ。」胸の谷間に隠し持ったブレスレットが主不在を不安がっているようにかたまっている。


後日、ブレスレットを紛失したようなので、車の中を探してくれるようにお願いして欲しいという内容のメールが八重子から届いた。

「車の中も、立ち寄った店も探してくれたようだけれど、見つからなかったと返事がきたわ。八重子、これからは飲みに出かけるときはアクセサリーなんか着けちゃダメよ」

「夕子さん。ありがとう。死んだおばあちゃんが、宝石を失くすときは探してはいけないと言ってたので、これであきらめるわ」

「いやだ、八重子。何?その迷信みたいなの、らしくないわね。」

「宝石が悪い運も一緒に持ち去ってくれるんだって、おばあちゃんが言ってたから」

もっと血眼になって地を這いつくばってでも探せば良い。良い子ぶった態度に吐き気がするほど腹が立つ。

「いやだ。八重子。だったら初めから探すようになんて言わないでよ。お店の人にまで探してもらったのよ。悪いじゃない!世の中はあなた中心に回ってるわけじゃないわ。」ブレスレットは私の手元にあるのだから、店の人が探すどころか、探す依頼すらしていない。火元がどこか分からない怒りが止めどなくあふれ出す。

「八重子はいつも自分が他人ヒトに気に掛けてもらってると思ってる節があるけれど、そういうのってバカな女の思い上がりよ。」

「そんなこと、思ったことな」

「いいえ、八重子はいつもそう思っているわ。」電話口で最後まで言い終えることを許せず、大きな声で八重子を打ち消す。「この間も、挨拶なしに勝手に帰って、八重子が何を思っていたのかは知らないけれど、良い年齢としなんだから、大人の対応ができるよになった方が良いわ。」

「わかったわ。夕子さん。これから気を付けるわ。」

「そうした方が良いわね!」電話を切り、携帯電話をテーブルに放り投げた。かなり強く握りしめていたのか、四角い無機質な箱は少し熱を帯びている。


あれだけ人格を全否定するようなことを言われたのにも関わらず、

朝になって「注意してくれてありがとう。気を付けます。」と八重子から返事が来ていた。

月の雫が自分はここにいると主にSOSを発信するかのように、紅く光ったように思えた。

自分に属さない物を持っていると異様にソワソワする。

犯人は必ず現場に戻って来るなんて、下手な推理ドラマの刑事のセリフじゃないけれど、

罪を犯した私は無理やりな理由を付けて様子を探るべく、前に八重子とFBで引き合わせたゲイの友人に会わせるという名目で、その翌日、被害者である八重子を待ち伏せした。

「八重子!」大きく手を振る私を、まるで嫌なものを見たような驚きを一瞬だした。

「夕子さん。どうしたの?」

「いやだ。八重子を待っていたのよ。この間、FBフェイスブックでお友達になってくれた彼と偶然会ったから、ブラインドデートよ。一緒にお茶でもどうかと思って」

仕事帰りの八重子は少し疲れているようだ。「急いで帰る用なんて、どうせないでしょ?お茶一杯だけ」と半ば連行するようにコーヒースタンドに連れだした。

スチール製の椅子に座った八重子は居心地が悪そうに、何度か座りなおし、

アイスレモンティーを飲まないのかと勧めると、今日は財布を忘れたのだと言った。

「僕、ご馳走しますよ。」と言うゲイの彼に、八重子はすぐに失礼するのでと礼儀正しく遠慮する。お茶くらいご馳走してもらえばよいのに、相変わらず可愛くない女だ。

八重子だけが何も注文しなったせいか、ますます居心地悪そうに、テーブルの下で腿の上に置いた左手をチラチラと見ている。

結局、明日も早いのでと席を立ち、店を出て行った。店を出た瞬間、八重子の肩が大きく上下したように見えた。

八重子は振り返って会釈することも無く、去っていた。



 

気が付くと、八重子はレモンティーを飲みほしていた。

グラスの中の輪切りのレモンは浮かび上がってくることはない。八重子はストローからすぐ上にホクロのある小さな唇を放して言った。

「そのホクロ私の真似でしょ?」

 そう言ってほほ笑む八重子の口元は膨らみを帯びない。

「いやだ、八重子。何言ってるの?これは一時的テンポラリー...。」

「そういうの、もう要らないから。」空になったグラスの口を人差し指でなぞりながら八重子が続ける。

「ありのままの自分を愛してあげた方が良かったのに...。夕子さんは夕子さんのままで十分魅力的だったわ。私は細くて色白で綺麗で、物知りでパワフルな夕子さんをいつも羨ましく思っていたのに。ガールフレンドともだちとして愛していた。今の夕子さんが誰なのか私にはもう分からないわ。」グラスをなぞる指を見ていた目を1拍ほど閉じ私を見た。

「月の雫、失くさないように大切に使ってあげてね」

「!」自分の口元が歪んだような気がした。

FBフェイスブックで紹介してくれた彼がアップしてた写真に、夕子さんがブレスレット着けて映ってるの見たの。驚いたっていうか、全てが繋がっていく感じがしたわ。」

圧搾されて果肉が押し出されて、茶色っぽくなった輪切りのレモンがグラスの下で横たわっている。

「夕子さん。車が突っ込んできた日、覚えてる?私が意識を失ったように思ってたみたいだけれど、本当はね、怖くて声が出なかったの。怖くて動けなかっただけ。車の外で、高笑いしてたよね。まさか、」小さく八重子がため息をして息を吸い込んだ。「盗んだなんて信じられなかった。」

グラスを下げに来たウェイターに、八重子は眉毛と口角を少し上げた。ウェイターが軽く会釈をしてその場を立ち去った。

「返すチャンスがあったのにね。歯も、時計も、そのホクロまでも、全部私の真似でしょ。」グラスが下げられてきれいさっぱりしたテーブルの上に八重子は両腕を組んだ。その手には指輪も、時計もついていない。まるで、自分を引き立てるものは何も要らないと言わんばかりに。

「私が夕子さんに本当は何か酷いことを実はしたのかもって思い悩んだ時期もあったのよね。でもさ、理由なんてないんでしょ。友達っていうのはさ、永遠の良きライバルだけれど、敵じゃないんだよ。」

「いや」

「そうね、夕子さん。いつもイヤダって否定から話し始めるけれど、何を否定したいの?私の存在?それとも不浄な自分自身?」腰を据えるように、両肘に体重をかけて尻を浮かせ座り直し、続けた。「宝石が失くなったとき、探してはいけない。悪い運を一緒に持ち去ってくれるから。死んだおばあちゃんが言ったこと、あながち迷信じゃないね」

八重子は残念そうに言い、白いカバンの中から財布を取り出し、律義に自分のお茶代をテーブルの上に置いて席を立った。

「いやだ。夕子さん。前歯。」笑いを飲み込むように驚き、矯正器具をチェックするのによく使っていた100円均一の手鏡を私に差し出す。「矯正にすれば良かったのにね。もう、要らないから。これでお終いにしましょう。so this is good bye 」と締めくくった。

ぽっかり開いた口から、白い不自然な歯がぶら下がっている。とっさに真っ白い紙ナプキンで口を押える私を八重子は振り返ることも無く店を出て行き、私は取れた前歯を抑えるのに必死で、彼女を追いかけることはおろか、名前を呼ぶこともできなかった。

あの日以来、どれだけ電話をしても、メッセージをしても、誘ってくれてありがとうと律義に返してくるだけで、八重子に会うことは無くなった。 



「随分と早く飽きられたんですね。赤みはしばらくすれば消えるはずですから。心配しないでいいですよ。」 鏡に映る私の後ろで白衣を着た男が言い「はい。確認してください。」と手鏡を渡した。

その白衣を着た神様は私の間違いを消し、やり直すチャンスをくれるはずだ。

「いやだ。先生。ホクロ、取ってってお願いしたでしょ。まだあるじゃない。」

「白石さん。ホクロはちゃんと除去しましたよ。」

「何言っているんですか?ほら。まだ、ここに!!」

手鏡を毛穴が見えるくらい近くに持ち直す。

「白石さま。ホクロ、キレイに消しましたよ。」雨の雫だと言った白衣を着た天使が横から加勢し、同じように100均で揃えただろう、色違いの同じ手鏡を差し出した。

「白石さま、ホクロはキレイに消えまし...。」

「何言ってるの!バカにしないで!ちゃんと、ホクロを消してってお願いしたでしょ!」

「白石さん。今触られると痛みますよ。」

っすーーーー!痛ッ。摩擦火傷の患部に触れたように髪の毛が立つような痛みが走った。

肌は少し腫れていて、指先には透明っぽい赤い液体がうっすらと指先についている。

鏡に映る私の顔には確かに、小さな黒い点が「いつも一緒だよ」と言わんばかりそこにある。

「ここにあるじゃない。消えてないじゃない。」指先で穿るように掻き毟る。掻き毟っても、掻き毟っても、黒い点が取れない。「白石さん。落ち着いて!白石さん!」

「ここにあるのよ。雨の雫じゃないわ。月の雫よ。」

手のひらが次第に血まみれになる。掻き毟っても掻き毟っても、黒い点は取れず、指には皮膚片や赤い血が付くだけ。

「ここにあるじゃない。どうして取れないの!」

「白石さん!白石さん!白石さん!!!!」

「神様でしょ。何とかしてよ。神様、何とかして!!!」




「白石さん。気がつかれましたか?」

真っ白い壁に白い天井、白光が反射し合っている。

右手が動かない。

「白石さん。ご気分はいかがですか?」

右手が動かない。左手も動かない。足も、頭も。

「いやだ。なんの冗談なの?」

真っ白い壁、真っ白い天井、照明が発する光まで白い。

「白石さん、ご気分は如何ですか?」

口元に紅いホクロのある女が月のような光を背に私を見下ろしている。

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