ハートのGPS
「先に行ってマレーシアで待ってるから。」
しばらく離れ離れになる彼女にもっと気の利いたことを言えないのかと思いながら成田を発った日から1年が経つ。
成田を発つ日、単身赴任がこんなに長くなるなんて想像もしていなかった。ほんの、数週間、数か月でまた一緒に暮らすのだと思っていた。
アジア近隣諸国での取引を専ら手掛けていた僕の海外赴任が決まり、妻の貴子も仕事を辞め、僕のマレーシアでの海外赴任について来るというのが当初の予定だった。辞令が急に出たこともあり、急に仕事を辞めるのはお世話になった人に対して不義理だと言う貴子は、切りの良いころまで仕事を続けることになったのだが、僕が日本を離れて少しした頃、貴子の父親が病に伏せ、要介護になったため、もともと足の悪い母親に父親の介護は困難だろうと言う事で、話し合いの末、一人っ子の彼女は福岡に帰ることになった。
僕は、貴子の引っ越し手伝いと、向こうの両親のお見舞いに、一時帰国していた。
「孝彦くんも、来てくれたとね。貴子に、来んでええ言うたのにね。
なんか、あんたらふたりの仲を裂くみたいで」
全く、その通りなのだけれど、両親を大切にしたい貴子の気持ちも十分に分かるので何とも言えず、笑ってごまかすことしかできない僕に
「そんなこと言われても困るって顔に書いってあるっちゃ。」すかさず義母がとどめに入る。
「いやいやいや、僕なんて、1人でも全然大丈夫なんで、貴子をこき使ってやってください。」
「こき使ってくださいって、うちらの娘やし、あんたに言われたかなかとよ。」
物心ついたころから母親という生物と向き合ったことがないので、どうも、どうやりあって良いか分からず、赤べこのように体を前後に動かしていた。
「お母さん、やめてあげて。孝彦、せっかくマレーシアから一時帰国してくれたんよ。」
「あんた、ちゃんと尻に敷かんといかんとよ。オトコの人って言うのは」
「はいはいはいはい。もうよかとやから。」
「孝彦君みたいな東京の人はチャラチャラしたことばっかり言うて、男らしいこと言えんとやろ。あんた、結婚するいうのも、あんたからプロポーズしたんやろうに。」
一人っ子の貴子が母親とは姉妹のように仲が良いとは知っていたけれど、
正直、そんなことまで筒抜けだったとは知らなかった。
「なに、孝彦君、さっきからまえ、うしろ、まえ、うしろ。顔まで真っ赤にして、なんていうの、あのどこかの郷土土産。赤い、牛の、ほら。。。」
「赤べこ」
「そう、それ!赤べこみたいやね。やけん、赤ベコって首振っとるっちゃね。体ユラユラ揺らしてるんと違うたいね。」
「すみません」
「孝彦くん、あんた、そんなんで1人で、マレーシアなんか1人で大丈夫とね?」
生まれも育ちも東京の僕は結婚するまで実家で暮らしていたので、一人暮らしはこの単身赴任が初めてだが、母親不在の親父と弟の3人暮らしと、男世帯で育ってきたおかげもあって、炊事洗濯などの身の回りのことは手馴れている。
歌舞伎町の片隅でパチンコ屋を経営していた親父は、僕が一浪しても文句一つも言わず、大学まで出してくれた。あちこちにできた大型の系列のパチンコ店のおかげで、昔からやってきた親父の小さなパチンコ屋など、盛況するはずもなく、近所の雀荘などがパタパタと姿を消す中、半ば脅しのような立ち退きの打診にも屈せず店を守り、再婚することもなく、よく俺と弟を育て上げてくれたものだと感謝している。
決して裕福と言えるような家ではなかった。寧ろ貧乏だった。
大学生の頃、オートマ車が主流になったこの時代にマニュアル車のギアチェンジをする男がカッコ良いという彼女の気を引きたいがための至極うすっぺらい理由でわざわざ10万円も上乗せしてマニュアル車で免許を取ったものの、学生のバイトで捻出できる金なんてせいぜい教習代くらいで、金持ちのエスカレートで上がってきた彼女のハートを射止めるような車種はおろか車すら買う余裕などなく、この海外赴任生活で初めて、会社支給でオートマ、マレーシア国産の中古車ではあるが人生初、愛車を持つことになった。とりあえず走りはするものの、信号待ちなどで車を止めるとエアコンが止まり、エンジンからのバイブレーションが半端ないというご機嫌な車だ。それでも初めて手に入れた車は半端なく嬉しく、早く貴子を助手席に乗せてドライブに出たいと毎日考えていた。
「一時帰国までしてくれたのに、可哀想だったわね」空港へ見送りに来た貴子が笑いながら繋いだ僕の手を引っ張った。
「いやいや、お義母さんは叶わないよな。お父さんが無口なわけだよ。体調悪くて口数すくないのか、お義母さんが怖くて静かなのか分かんないよな」
笑顔が曇るのを隠すように、貴子が俯いたのを見てシマッタと思った。
僕は本当に気が利かない男だ。
貴子の父親は、脳こうそくで倒れ、片半身に麻痺が出ていて、会話に影響が出ている。医師からはリハビリしても回復は難しいと言われ、本人やお義母さんの意向もあり自宅で介護することになったのだ。
「ごめん」
「マレーシアまで気を付けてね。直ぐには行ってあげられそうにないから」
僕はこんな時も何と答えてやったら良いか分からず、「僕のことは気にしないで。貴子が来る時まで運転上達しておくよ」と言うのが精いっぱいだった。
貴子は取引先で営業事務をしていた。
同じ年の彼女は出会った頃はお世辞にもスタイルの良いとは言えないけれど、僕のくだらない話にも笑ってくれて、一緒にいるととても楽な女性だった。
二人で行った新橋のバルで、たまたま流れていた80年代後半のアメリカンロックの曲で意気投合し、頻繁に会うようになった。
思いっきりロックなことをしよう。赤のコンバーチブルでアメリカを横断しようという、くだらない思い付きにも楽しんで付き合ってくれるような女性だった。実際はサラリーマンにそんな長期休暇がとれるわけがないので、ロスからサンフランシスコまでをヴァンヘーレンのジャンプをかけながら横断した。予算の関係でセダン車しかレンタカー出来なかったので気分だけでもと、窓を全開で運転し続けた。
その上、ペイパードライバーのままアメリカで運転したものだから運転はままならい上に、左ハンドルで四苦八苦する僕をなじるわけでもなく、
読めない地図でも太ももの上に広げて、懸命にナビを務め、
その上、あの日はカリフォルニア晴れも束の間で、サンフランシスコに近づくにつけ雨が降ってきた。後々、あんな珍道中はなかったと大笑いしたっけ。
僕は福岡から東京に戻り、成田からクアラルンプール行きの飛行機に乗り込んだ。
このエアラインの2-5-2と言う席の配列は本当にマレーシアの無計画さを象徴しているようだ。
今朝、福岡から成田に直で来たおかげでこの便への搭乗手続きが遅れ、
不運なことにも僕は隣を大きなお腹の妊婦さんと3歳くらいの子供、妊婦さんのご両親らしき2人に挟まれた「5」席のど真ん中の席をあてがわれた。右にも左にも出にくいご機嫌な席だ。この家族といっそのこと仲良くなってやれば快適かもしれない。
「すみません!」妊婦さんが背の高いCAさんを呼び止める。
「如何なさいましたか?」少し腰を低くして立ち止まった。
「私、妊娠20週目で、子供が小さいんですけれど、どこかスペースあるところ無いんですか?」
隣が空いてくれるとありがたい。
「お客様、申し訳ございません。本日はほぼ満席ですので、ご希望にお応え致しかねるかと。。。」
「そうですか、分かりました。」
なんだ、残念だな。でも、僕がこんなど真ん中に座っているのだから、どう考えても満席だろう。僕は諦めて単行本を広げ、飛行機がバックし始めた。
「お客様。お客様。」
どうやら、さっきのCAさんが僕を呼んでいるらしい。「お客様、お一人でいらっしゃいますか?」
「はい。」結婚してますけれど。と心の中でバカな期待を打ち消してみる。
「まことに申し訳ないのですが、両隣のお客様が、ご家族で、宜しければこちらの通路側のお席が空いておりますので、お席を替わって頂けませんでしょうか?」と、1列後ろで2-5-2の「2」通路側の席を指した。
棚から牡丹餅!「良いですよ」に決まってますよね。と僕は席を移動する。
僕が移動している間、僕のもともとの席が空いたことを、さっきのCAが妊婦さんに丁寧に説明をしているようだった。
僕が移った席でシートベルトをカチャっと締めたのがGOサインだったように、地上にまだ居るにも関わらず落雷したかのような金切り声が機内に落ちた。
「あなた!いったい何なのよ!満席だなんて言っておいて、マニュアル通りにモノ言えば客は納得するとでも思ってるの?名前、教えないさい。フルネームで言いなさい!名札見せなさいよ!Y A E K O?上の名前は???」
僕も含めて、周りの乗客は突然の怒号に唖然とした。
でも、一番唖然としているのはその背の高いCAさんに間違いない。
機内は僕が移動した席を除いてはどの席も埋まっている。彼女が満席だといったのは事実だ。突然空が落ちてきたような出来事に、背の高いCAさんは膝をついて、飛行機が離陸するまでの間、頭を垂れてひたすら、妊婦さんの罵声を浴び、「私が居たらずご不快な思いをさせてしまい申し訳ございませんでした」とさらに頭を下げて立ち上がり、飛行機が離陸した。
シートベルトサインが消えた後、妊婦さんはお散歩がてら機内を一周していたようだ。これでやっと、飛行機は満席だということが分かるはずだ。おそらく、駐在員の奥さんってところだろう。
もし、貴子が彼女の立場だったら、どんなふうなんだろう?まずはあんなふうに声を荒げることは想像できないな。と考えながら、貴子との間にいずれ誕生するだろう子供を想像しながら読みかけの単行本を再び広げた。
「CAさんも大変だね」僕の隣で窓側に座っていたオジサンが僕に言った。僕ではなく僕の隣にいるさっきのCAさんに言っていた
気づかなかったが、機内食のサービスが始まっていて、さっきのCAさんがトレーを配っていた。
オジサンの言葉に何も言えずただ笑顔で返した。
「客は神様くらいに思ってるんだよ。ま、気にしなさんな」
さっきの妊婦さんは斜め前にいる。気が利いたことを気が利かない場所で言わなくても良いのに、CAさんも困っているに違いない。会話が聞こえたら落雷どころでは済まないぞ。僕より気の利かない人間が世の中にいるもんだ。
即座にそのCAさんはトレーを出すかのように僕の真横に膝をついた。
「身重でお大変なのは分かりますので・・・でも、そのように仰っていただけると心が救われます。ありがとうございます。お客様も先ほどはお席を替わってくださってありがとうございました。」と小声で言い、僕にも頭を下げて立ち上がった。こういう仕事は救われようがないだろう。隣のおじさんのタイミングが悪かったけれど、気の利いたことが言えるというのは人間の器が格段違うように見える。隣のおじさんが急にブルースウィリスに思えて少し尊敬のまなざしで横目に見てみると、ぼくより10歳ほど年上だろうおじさんはどこにでも居そうなオッサンのように、機内食の不味い蕎麦を付け合わせのきざみのりを鼻息で飛ばしながらすすっていた。
でも、そのすすり方にジェントルマンの流儀を見た気がする。
地上待機中に落雷を受けた飛行機は7時間強のフライトにも耐え、無事にクアラルンプールに到着し、僕の無期限単身赴任が再開した。
交通の便が整わないこの国では、車を運転せざるを得ない。雨が降ればあちこちで道路が水没し、整備不備か故障した車があちこちでお構いなしに停車する。交通事故がありえない頻度で起こり、爆破でもされたのかと思うほど燃えつくしてフレームだけにあった事故車両が道の脇に戒めのように何週間も放置されている。小銭稼ぎの交通警官が奴らの気分で車を止め、値段が交渉可能な交通ルール違反の罰金と言う名の賄賂を要求する。4車線もある高速で左が少しでも開けば左へ、右が少しでも早ければ右へウィンカーなしで車線をかえまくる国民性なので渋滞は慢性的だ。不正と汚職にまみれ、方向性と結束力に欠けることが、結果慢性的な交通渋滞を生んでいる道路状況がこの国の今とこれからのあり方を表していると言っても過言ではない。
こんな状況で日常的に運転することになる車生活を除いては一人暮らしもさほど苦にはならない。
これも、カリフォルニア縦断のかっこ悪い同じ轍を踏まぬための準備だと思えば、その来る日を思い描いてワクワクとするものである。
車生活も含め、マレーシアという日本とは180度違う国での生活も慣れ始めると、飲み友達も男女隔てなくでき始めた。
地理感も体得して、車生活が馴染めば仕事絡みだけの飲み友達がその友達、またその友達とジャンルも広がっていった。
酒好きの貴子も仲良くできそうな独身の女友達も見つけた。
既婚者の僕が独身の日本人女性と仲良くなるのは不実なようにも思えるが、マレーシアで他にいる日本人女性は駐在妻、略して駐妻。字のごとく既婚者、誰かの嫁なので、彼女たちと親しくなる方が後々ややこしいのである。
もちろん、家族ぐるみで付き合えばよい話なのだろうが、そうなると仕事も絡んでくるわけで、できれば避けたいというのが僕の本音だ。一方で、駐妻達はお茶会だなんだと、夫の海外赴任で物価の安い国に住み、近隣ど貧国から出稼ぎに来たメイドさんたちを雇うので家事や子守りなどをすることもなく、旦那の会社によってはドライバーも付く。手当てがダブルで入るということもあり、旦那の海外赴任中という期間限定、束の間のセレブ生活なのだ。僕のようにしがない商社レベルの海外赴任にはそんなオプションはついて来るわけなど更々なく、それに、この間飛行機で遭遇したようなヒステリックな奥様方と貴子がどう考えても仲良くしてもらえる環ではないだろうと睨んでいる。
現地の女性と仲良くなることがあっても、言葉や、宗教、習慣の違いから同じ日本人同士の方が基礎の部分で楽で良いのだ。
そんな状況でも貴子はきっと楽しんで横にいてくれると想像すると、彼女が引っ越してくる事を心待ちにレストランから屋台と店のリサーチなども楽しくて仕方がなかった。
「もしもし、古谷?何してんの?」
「あ。遠藤さん。家に居るよ。」
駐在員なら絶対するだろうゴルフを僕はあまり得意とせず、日曜の昼前なのに自宅でゴロゴロしていた。
「何してんの、こんな日曜の昼前に家で!」
どことなく、貴子の母親とキャラクターがかぶる。
「今日な~、CAの友達にご飯作ったる約束してるから、あんたも
今や、彼女は現地邦人メーカー企業の敏腕営業だ。
20代の頃は、サーキットで傘を持っていたと言うが、血を吐くほどビールを飲むせいだろう、腹回りにアンブレラガールの影はないものの、美脚だけは健在だ。
「近藤さん。ご飯作ってくれるの?」
「せやねん。よかったら、おいで~や。でも、古谷、八重子ちゃんのこと迎えに行ってあげてな。」
「八重子ちゃんって?」
「私のCAの友達やん。めっちゃ生意気やからな。気ぃつけや。住所はあとで
僕が行くとも行かないとも返事をする暇を与えない一方的な電話を呆気にとられはしたものの、人の手料理が食べられることが嬉しくて仕方ない。
後でSMSで送られてきた住所へ僕はご機嫌な車で八重子なる人物を迎えに行った。
教えられたコンドミニアムの下で待っていると、デニムの短パンにTシャツの背の高い女性が怪訝そうに僕の車を覗き込んできた。
「八重子さんですか?」開けた助手性の窓から覗き込む僕に
「古谷さん?初めまして、スミマセン。迎えに来ていただきまして、申し訳ないです。」腰を屈めて挨拶し、助手席に乗り込んできた。
どこかで、会ったかな?
見知らぬ女性と車で二人きりというのは意外と緊張するものだ。
「八重子さん、こちらでお勤めなんですか?」
「そうなんですよ。xx航空でCAしてるんですよ。古谷さんは?」
「僕は商社で駐在なんです。」
「お一人ですか?」
「奥さんが日本にいて、マレーシアに来る予定なんだけれどね」
「へぇ~良いじゃないですか!楽しみですよね。羨ましいな~」
「八重子さん、ご結婚は?」
「まだですよ。どうなることやら」まっすぐ前を見て笑いながら言う彼女の口元から八重歯が見えた。八重歯の八重子ちゃんか。
「大丈夫だよ、綺麗だしすぐできるでしょ」
「そうおっしゃっていただけると心が救われます」
その言葉、どこかで聞いたな。
「身重の方の気持ちも分かりますから・・・」
「はい?私、妊娠はおろか、結婚すらしてませんけど?」
「八重子さんさ、8月くらいに、成田便乗ってなかった?」
「乗ってたと思いますけれど、」
「妊婦さんに怒鳴られてた...よね?」
「えーーーーーーー!」信号待ちで止まっていないのにエンジンが震えたように車が震えるほど八重ちゃんは大きな声を出した。
世間は広いようで狭い。
「早かったやん!古谷、八重子ちゃんの
「近藤さんやめて。ホンマに怖いんやから」
近藤さんが次々と手料理を用意する横で八重ちゃんは皿洗いをしている。
ここに、貴子が居たら、楽しいだろうに。
彼女がこの場に居ると言う事は不幸があると言う事だから、一緒に居ることを想像するのは不謹慎なのだろうけれど、やっぱり、傍にいて欲しいと思い、複雑な気持ちをビールと一緒に飲み込む。
「八重ちゃん、今度は何されたん?」
「この間はな、実家の電話番号教えろ。オレもお前の両親に会いに行くって。怖いやろ?」
「そりゃ、あんたな、付き合って2週間で結婚しよう言う男やからな」
「そうやけど...。」
「
「古谷は奥さんと結婚決めたとき、どんなんやったの?」
「僕?」八重ちゃんが冷蔵庫から出したスパークリングワインの捻じったコルクがポンと小さく言って開いた。
3年の付き合いを経て結婚が決まり、親父に紹介したときは、娘ができると、僕が大学に合格したときでも見せなかったような顔で喜び、普段はビールもキリンと決め込んだ一徹な人が、いつの間にか近所のスーパーでスパークリングワインを買って来て貴子と二人で酌みあっていた。
「お父さん寝ちゃったね。」
タオルケットを親父の肩に掛けながら貴子が言った。
「スパークリングワインなんて、飲んだことないもの飲むからだよ。」
親父が買ってきたスパークリングワインは冷えてもおらず、真夏の昼下がりに飲むとても生ぬるいそれは口当たりが悪く、僕でも飲めたものではなかったのに、貴子は本当に美味しそうにコップを豪快に空にした。
またそれを親父は嬉しそうに貴子の空のコップに酌をし続けた。
とうとう、3本目のボトルが空になりそうになり、親父が大きなゲップをした。ドリフターズのカトちゃんがするような大きなゲップに、一瞬目を大きくした貴子が大きな声で笑いだした。
「そんなだから、再婚する相手すら見つからないんだよ。」僕の婚約者に初めて会う日に何もそんな品のない事をすることないのにと親父を横目に言う僕に、返した言葉に驚いた。
「見つからないんじゃねえよ。見つけないんだよ。」
「またまた、見栄はっちゃって。もててるところ見たことなかったけど?」
「お前はしらねえんだよ。」
「じゃ、なんで再婚しなかったんだよ?」
貴子が穏やかな笑顔で僕を見ている。
「そりゃ、お前、お前たちの母ちゃんを愛してたからだよ。」
「他の男に逃げられて、よくそんな寝ぼけたこと言えるな。」
ポンポン。貴子が僕の右腿を優しく叩いた。
「アイツはそれが幸せだと思ったんだ。アイツの幸せがオレの幸せだったしな。」
「逃げられて、そんな呑気なこと良く言えるな。」
「痛っ!」短パンから無防備に出た僕の右腿の毛を貴子が穏やかな笑顔で引きちぎった。
「オレはそれで幸せだし、アイツには感謝してる。できそこないでもお前ら二人を置いて出てくれたこと。オレを人の親にしてくれたことを。」
眠いのか、酔っているのか分からないくらい細めて親父が口にした言葉は、何の根拠もないけれど本心なような気がした。
「気を遣わせてしまって悪かったわ。」
ゲップの次は大いびきか、我が親父ながらビックリするくらい自由人だ。
そんな親父に気を遣って合わせていたのは貴子の方なのに。
僕は貴子と結婚することができて幸せだと思った。
「へ~。ええ人やな。私、既にめっちゃ好きやわ。な~近藤さん!」
不倫中の近藤さんは自分とは無縁と言わんばかりに
「で?古谷?嫁はいつ来るん?」と煙草をふかし出しついでに言った。
「いろいろあってさ、分かんないんだよね」
「早く来てくれたらええな。」八重子が腕組みをした。「でも、奥さんに、女性にプロポーズさせるなんて、男としてどうなんかな?気が利かないっていうか、甲斐性がないというか、情けない男やな」閃いたように人差し指を立てた。「これからは
近藤さんの部屋の玄関に吊るしてあったウィンドーチャイムの音がティランティランティランと鳴った。そんな爽やかな話はもうすぐ終わると言っているように。
明日から春節で町がゴーストタウン化する金曜の夜、貴子からメールが来た。
―離婚して欲しい。
パソコンに映し出された文字を前に頭が真っ白になる。
華僑が沢山住むこの国で春節を祝う花火や爆竹が調和などもともとあるものかと言うかのように時間の分別なく轟音をあげる。
僕は一瞬すべての音を失った。
不思議と、天井で規則的に回るファンのカタカタという音だけが遠くに聞こえる。
メールには僕が行く行くは親父の面倒をみることになり、貴子自身は福岡の両親の介護をしなくてはならず、このまま無期限に離れて暮らす状態での結婚生活を続けることは互いの為にならないと云う旨が書かれていた。
それから2年が経ち、僕は東京へ帰任し、さらに経った東京での3年の間に親父が脳溢血で倒れ、しばらくは自宅介護をしていた。
大学を卒業して就職した2歳下の弟は、僕が海外赴任中に仕事を辞め、半ば引きこもりのような生活をしていたので、親父の自宅介護にはある意味都合が良かった。
主にデイサービスにお願いしながら、平日は弟が、週末、祝日は僕が、と言う具合に自宅介護をしていたが、親父は老いとこれまでの苦労のせいか、リハビリを続けども一向に回復の兆しが見えず、24時間体制の介護施設を回り、今年、桜が咲く少し前にこの世を去った。
貴子から友人の結婚式の為に久々に上京するという知らせをもらったのは例年に比べて遅く始まった梅雨の頃で、梅雨のくせに降るのか降らないのか決まりの悪い天気が続いている。
商談の合間に取引先近くの定食屋で昼飯を一緒にした。貴子の父親もこの三年の間に他界し、もともと足が悪い母親と今も福岡で暮らしている。
昼時の定食屋ということもあり、混み合っているうえ、年季が入った微妙に傾いた四角いこのテーブルが貴子と俺との遠いようで近いような距離感を表しているようだ。
「元気そうだね。」
何かしゃべらなくてはと焦り、以前よりもずいぶん痩せた貴子に僕は言った。
酒でも煽れば、少しは気の利いた話もできるのだろうが、午後からの仕事を考えると水を無駄に飲むしかない。
一気に飲み干して空になったコップに貴子がポットから水を足してくれる。
窮屈な人生だと言うかのように、グラスの中で氷たちがお互いにぶつかり合っている。
グラスから飛び出すこともできず、互いに融合することもできず、カランカランと音だけを立てあい、溶けて消えていくだけの氷。その中の氷の一つがパカッと小さな音を立てて割れた。
「午前中にお父さんに会いに行かせてもらったの。あなたに言ったら場所を教えてくれないと思ったから、弟さんに事前に聞いておいたの。勝手なことしてごめんなさいね。」
僕は結婚と同時に実家を出たので、親父が倒れて介護の交代時以外、弟と言葉を交わすことはなくなっていたので、貴子が弟とこうやって連絡を取り合っていたことに僕は初めてしり、貴子がというよりも、弟が話をすることに少し驚いていた。
貴子と結婚後に入居したマンションの窓からは、僕が小さいころに男と蒸発したおふくろが眠る墓地が見えた。普通、墓地の近くのマンションなんて女でなくても嫌がる物を貴子は不思議と嫌がるそぶりを見せず、寧ろすすんでその場所を選んだように思えた。
今思うと、貴子はそれを弟から聞いて知っていたのだ。分かった上で引っ越しを決めたのかもしれない。
昼飯を食べた後、このまま午後の便で福岡に戻るという貴子を最寄りの駅まで見送った。
結婚式に参列するために上京し、これから飛行機で福岡に帰るという貴子は黒めのハンドバッグ以外に何も荷物を持っていなかった。
僕が荷物はそれだけなのかと聞くと、
「あなたが素敵な昼ごはんをご馳走してくれると期待していたから宅急便で送っておいたのよ。でも、定食屋だなんて相変わらず気が利かないわね。」
貴子はそう言って笑いながら改札の向こう側へ消えて行った。会社に歩き戻りながら、改札へ消えて行った貴子の足音はパンプスのヒール音でなかったことが妙にひっかかた。
翌日、成田にステイしていた八重子との飲み会に出かけた。
辛辣なことを物おじすることもなく口にする悪癖は年を重ねても変わらない、むしろ磨きがかかっていこの上なく失礼な女だが、どうも憎めず時々こうやって会っては酒を煽るだけの関係が続いている。そんな女友達ができたのは学生時代以来かもしれないと、僕は案外嬉しく思っている。
「最近、元嫁、元気?」
飲み会と称し出会いを求め男2、女2で会っているのにも関わらず、場違いな質問を女は投げかけて来る。僕も黙って適当にあしらえば良いものを、この女の眼力に負けて前日に会ったことを吐露してしまった。
「前から思うけどさ、フルヤンはアホやな。元嫁はお父さんのお参りに来てくれたんちゃうかな?元嫁にお会いしたことないけど、めっちゃええ人やな。自分が大切にしたいものを大切にしてくれる。それが何か気づかないなんて、あんたはホンマにアホやね。どあほ!」
出会いを求めた飲み会なのか、説教をしに来たのか。
丁寧なのか口が悪いのか。関西弁なのか標準語なのか。八重子はシャンパンを飲み干して言い放った。
「ふるやん。元嫁のことずっと好きやっていうのは、ずっと知ってるよ。
無理に気持ちを抑える必要なんてどこにも無いのに。
上手に伝えられなくてもええねん。気が利かへんくてもいいねん。
そこに真白い気持ちがあったらな、想いは伝わるもんやし。」
シャンパンの泡が半無限に作り出されるように、八重子の言葉にはどこか半無限級の力がある。
「ね?」満面の笑顔を浮かべて自分が連れてきた後輩に乾杯を誘う。
「はい!」八重子の後輩は八重子の演説に感動したのか、先輩を立てた渾身の演技なのか、目に涙を浮かばせながらグラスを上げた。
次々に泡を生み出すグラスを僕も飲み干した。
帰り道、昨日ホームにむかって改札を抜ける貴子を思い出した。半無限級のパワーが僕にもうつった気がする。
翌日、僕は福岡空港にいた。
親父の病院通いに車をやむを得ず用意したが、運転するのは所詮短い距離。今日はちょっとしたドライブになりそうだ。マレーシアで鍛えた運転スキルが発揮される。空港でレンタカーを手配し、カーナビもセットした。
一足先に梅雨明け宣言をした九州地方には青空が広がっていた。
白い夏雲を探すように貴子が住む住宅地まで車を走らせる。
何をどのように伝えるかなんて全く考えていない、でも何かを伝えなくてはいけない。そんな僕に実に冷静沈着に理路整然と「100メートル先を右折してください。」というカーナビの音声がやけにおかしく感じて、カーナビを終了した。誰かに指示されて行きたくない。カーナビは目的地への最短のコースを選択し、迷いが無いように導いてくれる、でも僕の人生は近道なんてなくて良い。
迷いながら、遠回りしながら、来た道を引き返したり戻ったり、僕がどこへどのようにいくかが大切なんだ。
貴子の両親に挨拶に行った日の事を思い出す。当時、カーナビなどもちろん普及されていなかったので、貴子の道案内で慣れない運転と、彼女の両親に挨拶をするというダブルの緊張でガチガチにハンドルを持つ僕を隣で彼女は大笑いしていた。僕の中にある記憶で貴子の家を目指す。
ドリンクホルダーに入れたコーラのペットボトルの中で弾けたくて仕方ない泡たちが蓋が開けられるのをじっと待っている。僕はアクセルを踏み込んだ。
カーナビのかわりにつけたFMからヴァンヘイレンが流れ出す。
そう言えば、アメリカ西海岸縦断の車内で同じ曲が流れていたっけ。
I get up, and nothing gets me down.
(俺は立ち上がる。オレを倒せる奴なんて誰も居ない。
You got it tough, I've seen the toughest soul around
(お前も大変だったな。オレはもっとヤバいもの見てきたぜ)
And I know, baby just how you feel.
(ベイビーお前の気持ちはよくわかるぜ)
You've got to roll with the punches to get to what's real
(本物見つけるために攻撃をかわさなきゃいけないのさ)
Might as well jump. だったら飛ぶんだよ
Jump !飛べ
Go ahead, jump. Jump ! そうだ!飛ぶんだ飛ぶんだ。
昼飯を軽く済ませて、貴子の自宅に着いたのは太陽が少し傾き始めた頃だった。
貴子の自宅のインターホンを鳴らす。返事はない。
無計画すぎたかなと僕は思ったがもう一度インタホーンを鳴らしてみた。
やはり留守なのか物音がしない。
少し後に出なおしてみようかと車に戻ろうと歩いていると、遠く向こうの方でよく似た声同士の女たちの話声が聞こえた。
「どうしたの?」
離れた場所から俺を見つけて貴子が驚く。
よく似た声をしたもう一人の女は、顔もよく似ていた。貴子がもっと歳をとればこんな風になるのだろう。と近づいて来る二人を見て思った。
「何してるの?」
何も言うことを考えずにここまで来てしまった事を僕は後悔した。
白い雲が遠くへ去っていく。
空気を飲み込むよう吸い込んで、息なのか言葉なのか分からないソレを吐き出した。
「愛してた。」
弾けだした言葉は微妙に軸がずれていることに気づいているが、どう修正してよいか分からず唇を噛みしめた。
「過去形で言うためにわざわざ東京から来たんね?」
貴子によく似た女が貴子の後ろから聞こえるようにつぶやいた。その声で、おれはもう一度空気を吸い込んだ。
「愛してた。ずっと。今も。これからも。」
僕の気持ちは弾け出た。
「ちょっとはマシたい。」
顔も声もよく似た貴子の母親が誇らしそうに呟いた。
僕は気の利いた言葉が言えるハンサムな男ではない、気の利いた言葉が似合う男前でもない。でも、想いを届けるのに必ずしも完成した美しい文章である必要などどこにもない。人生なんてハートというGPSが指す方向に向かていれば、時に不用意でも良いんだ。
口から弾けだす想いは、時々不用意に単語だったり、短かったりするものだ。
それでも想いは伝わるときには不思議と伝わるものだ。
貴子は夏雲を探すように空を仰いだ。太陽がまぶしくて顔を隠すように手をかざしたその眼からは涙が溢れだしていた。
僕は貴子の頬に口づけた。少ししょっぱい味がする。もう片方の頬にも口づけた。
「本当に気が利かない。ハンカチだしてよ。」貴子が僕を見上げて笑った。
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