黒真珠の涙

夕暮れ時の向かいの車窓からスカイツリーが見え始めた。

ひょっとしたらそうかもしれないソレまで30分を切る。


出かけるときはいつも気が進まない。

出かけたくないわけではないが、待ちに待った小学生の遠足のようにわくわく胸を弾ませるわけでもない。

期待しすぎてがっかりしたときの為のダメージコントロールというか、ワクワクするのが年甲斐でもないというか・・・。

考えてみると、若いころからその種の感情がなかったように思える。

都営浅草線に合流した電車は覚悟を決めろと言わんばかりに地下に潜る。


婚活サイトで出会う男はこれが三人目だ。

「二度あることは三度ある。」あるいは、「三度目の正直。」と出るか・・・。オンナの頭にはオンナがいつも纏う洋服のように、白か黒しかない。

どれだけ、下着の色を派手にしても、着る洋服に色を持たせられない。

荒んだ生い立ちのせいか、喜怒哀楽の頭と尻の分を表情に出すのが苦手なのだ。

小さな頃は人形のようだと、どこに行っても言われ、

そんなオンナを父親は目の中に入れても痛くないというのはこのことだろうというほど溺愛した。

オンナが幼い頃、オンナの父親は妻であるオンナの母親ではなく、オンナを助手席に乗せ酒場以外ならばどこへでも連れて行った。

母親が風邪を引いて寝込んでも気に掛けもしないのに、幼いオンナが転んで足に大きな擦り傷をしただけで一晩中、足を擦って看病した。

オンナの父親は母親を他人ヒト前でアホだ愚鈍だと罵る一方で

オンナを「お前はホンマに可愛い。お前はホンマに頭のええ子や。お父ちゃんの一番大好きな、一番大切な子や。」と過剰なまでに幼いオンナを褒める父親のそのその様が他の兄弟の嫉妬心と競争心を煽る。

しかしオンナは母親からも、二人の兄からも一度も褒めてもらった記憶がない。

リボンや花柄、着せ替え人形のように典型的な女の子の洋服を沢山買い与えられたものの、母親からはただの一度も褒められたことがないばかりか傷づつくような一撃を時々与えられた。

「お前は笑うと不細工だから、ニコリと笑わない方が良い。」

思春期になって太りだした時は、「お前のようなデブに入る服が無い。」

年頃になって美しくなり出し、周囲がオンナを綺麗だと世辞を言えば「周りの人の言う事をまともに聞いてたら、あんたアホやと思われんで」と。

扁桃腺の弱かったオンナが風邪を引き、咳き込めば、「うるさいから咳をするな」と金切り声で叱られ、音を消すように湿り気のあるせんべい布団の中で口を閉じて夜通し、咳をし続けた。


そう言った母親の数々の言葉が40近くになってもオンナの心に小さな棘のように刺さったままだ。棘は心の一部となり、刺さっているのか、そういう形状異常なのか分からないほどだ。

今から考えると、母親の辛辣な発言の理由が分からなくもない。


社会人になり、実家から、両親から遠く離れたところで一人で暮らしたことにより、今でもその二つの感情を表情に表すことが難しいことがあるが、人間らしさを表す四字熟語が少しずつ自分の中に飛び散った羽毛が一枚ずつふわりふわりと落ちて、少しずつ暖かくなっていることをオンナは嬉しく思っている。


地下に潜った車窓に今の自分がいる。

「何やってんだ。」

気分をあげるために、iPodの音量を上げる。

TAYLOR SWIFTのSHAKE IT OFF。のんきな歌詞がアップビートで耳に流れ込む。

BUT I KEEP CRUISING, (でもクルージングし続けるの)

CAN'T STOP, WON'T STOP MOVING,(止めらない、止まらない)

IT'S LIKE I GOT THIS MUSIC IN MY MIND,

SAYING IT'S GONNA BE ALRIGHT

(「うまく行く」というミュージックが私の頭の中で流れてるように)


一度目に会ったのは会社を経営する大柄な男で、まだ秋も中盤ほどなのに、季節先取りなのか、ダッフルコートを着込んだせいか滝のような汗をかきながらオンナを待っていた。

開口一番に言われた言葉は「案外普通なんだね。」

「職業柄デ―ハーなのかと思ったんで。」

デーハー? 年甲斐もなく、どこかの業界人のような言葉の選択に、時代に取り残されたバブル時期の末裔を見た気分がした。

初めての婚活で会った人、勝手も分からない。

とりあえず、食事くらいは様子を見てみようと自分に言い聞かし、駅を出る。

すっかり日が暮れて、周りの電飾の光を乗せて流れる川を跨いだ橋を渡る、辿り着いた店はその男が予約したかった店ではなかったと言いだした。

店違いでもこの店を予約をしているわけで、明るく元気な店内はアップビートな気分も提供してくれそうだ。何よりテーブルを取ってくれているお店側にも申し訳ないので、「ここにしましょう」と気遣うオンナに、「行きたかった店は橋の向こうだから、そっちへ行きましょう」と半ば強引に店を後にして渡ってきた電飾の光をこれでもかこれでもかと押し流しているような川を跨ぐ橋を渡り戻った。

押し戻されるようにたどり着いた店は、1番目の店と系列だというのに混み合った先ほどの店とは違い、オンナとその男以外、客はまだ居ない。テーブルの位置を散々ああだこうだ言い決めて着席したにも関わらず、着席するや否やあちらのテーブルの方が良かったろ言い、テーブルを変えてもらった。にも関わらず、ようやく着いたテーブルの横に保険の外交レディー2トップのようなおばさま達と、そのご機嫌疑いの接待といった課長もどきな男が案内されると、席を替えてもらおうかと言い出した。

ため息まじりに「ここ良いです。」抑えてきたうんざりした気持ちが言葉が漏れでる。

「はい。」

これといって面白い話をするわけでもないのに、飲み物ですらなかなか決まらず、オンナが店員にスパークリングワインを注文すると、あれだけメニューを見ていたのに「僕も」と同じものにあっさり落ち着いた。されど、佇まいに落ち着きを全くと言ってよいほど持合わせないその男は、酒が進むと嫌と言うほど別れた女房の悪口をオンナに聞かせ始めたかと思うと、「実は6歳になる娘が居るんだよね。」と婚活サイトのプロフィールに記されていた事とは異なる告白をし、さらに酒が進むと、別れた女房が娘に合わせてくれない、娘に自分の悪口を吹き込むという理由で、養育費を払わないことにした事が然も正当、正論だと話しオンナの賛同を得ようとするので、オンナは「大人の男としてナシですね」と飛び出した言葉と共に、募った不和感とともに押し流れだした。

「こんなところで、私とご飯食べてるんだから、お金ないわけじゃないですよね?」

「金持ちではないけど、困ってはないね。」23区内にオフィス兼ではあるものの、戸建てを所有している(らしい)。

「だったら、払わない理由なんてないですよね。養育費を払い続けることは、貴方が今の時点で唯一お子さんにできる愛情表現じゃないですか。」

障害物が挟まったエレベーターのドアのように何か反論しようとする男の口を無音で開けたり閉じたりしている。

「それを前の奥様との不仲が原因で払わないなどと言うのは稚拙な対応で、何よりもお子さんに対して愛がない!それに、いかなる理由でもお子さんが居ることを隠すと言う事は、この世に存在するの存在を否定していることと同じで、そんな親を持つお子さんは憐れだわ」会ったばかりの相手をぶった切ってしまった。

ウダウダ言う男が一番嫌いだ。しかもうだつの上がらない自分を正当化しようなどもってのほか。

この男はよほどMなのか、意外なことにも、オンナが自分の事を真摯に考えてくれていると勘違いし嬉しく思ったらしく、或いは単なる下衆男なのか、帰りに一駅歩こうと言ってきた。酔い覚ましには悪くないだろうと思い付き合ったのが浅はかで、男はオンナの腰に手を回してきた。即座に「ナイですから。」オンナはダッシュで逃げて帰った。



二度目にあった男は、身長は3センチほどサバをよみ、鉛筆を逆さまに立てたようになで肩の薄毛の人で、写真を含めプロフィールが過大広告としか言いようがなかった。

週末の成田参道は参拝客や、成田空港を利用するついでの観光者などで、ひしめき合う。少しずつ着実に寒くなりつつあるのに、薄手のナイロン製のウィンドブレーカーを着た男が待ち合わせの場所に立っていた。送られてきた写真のこの男の頭部は目の前にいる彼ほどMの後退はなく、黒々としていたように思う。

「こんにちは。」オンナを遠くから見つけると何かの勧誘のように駆け寄ってきた。

成田参道にならぶ土産店を見たいという男に付き合い下り坂を新勝寺に向かって歩いた。

オンナは身長173センチ、頭を下げて襖戸を出入りする身長180センチちょっとの2人の兄達と育ってきた。

プロフィールには180センチと書かれていたが、兄達と一緒に歩くときとは何かが違う。

「あの。身長本当は何センチですか?」

「180センチだよ。」

男がぴったりの数字で身長を言うときは十中八九、ウソだと友人が言ったことを思い出した。

「サバ読んでません?」

「177.7かな。でも180センチだったこともあるよ」

失われたMの後退は、およそ2.2センチにも及んだのか。それは薄れ髪、引かれる気持ちもお察しできるわけがない。

「いい数字の並びですね。でも、177.7は180じゃあないですよね?」

会えば絶対にばれるような嘘でも"実際に出会う"という第一関門を突破する上で自分をアピールするための常套手段とその男は悪びれる様子がなく力説した。

あまりの威風堂々たる物の言い様に、そいう物なのかもしれないと納得をせざるを得ないような気がしてきた。

並んで歩くオンナをチラッチラッ、チラッチラッと見ている。

「冬になると乾燥するよね。」テカテカになるまでリップを塗り、緑のスティックを裾を折り返したデニムのポケットに戻す。「手繋がない?」異様にシワのない手のひらをオンナの右手の前でパッと広げた。

「繋がないでしょ。」オンナは帰路を探し出した。「失礼しました。」電車で肩が触れたくらいの軽い失態と男がオンナの後を追い、

下ってきた参道を今度は駅に向かって登る。

狭い参道を通り過ぎる車に「危ないなぁ」チャンス到来とばかりに鉛筆逆立ち男がオンナの腰に手を合わした。

「ウェスト細いね。」驚いているふりをしているようだが、リップでテカテカの唇がそれ以外のメッセージを送っている。

そういう事を求めるのであれば、その筋の店に行くことが得策だろうと勧めて、助け舟到来とばかりにやって来たバスにオンナは逃げるようにダッシュで飛び乗った。バンバン。バンバンバンバン。事もあろうか、その男は、これぞ優等生という教科書通りのランニングフォームで追いかけて来た上に、異様にツルツルの手のひらでバスの車体を叩いて止めようとしているではんしか!オンナは素知らぬふりをしながらも、「運転手さん。どうかバスを止めてくれるなよ」手に汗握り祈った。必死に追いかけた彼には無情にもバスが止まることはなく、オンナは事なきを得た。

「あり得ないな。」

その後、LINEで返事をしないと、携帯メール、パソコンメールへとメッセージが届くようになったので、丁寧にお断わりをしたうえで、ラインをブロック、迷惑メールに指定するという顛末に至った。

男が180センチという場合、高い確率で180センチ以下という仮説セオリーは悲しくも成立する事だけを証明してくれた。高学歴のエリートになればなるほどそういう傾向にあるという事を身をもって学習した。


同時に、ペタンコ靴というのは快適と言う履き心地とは別に、そのような有事の際に発揮する利便性をもっと売りにした方が良いのではないかとオンナは思う。

どんな理由があるとは言え、初めの時点で何かを偽っている人間は他にも嘘があるものである。

それに、等身大の自分でない人間が等身大の他人を受け止められるわけがない。

世の中、こんなハッタリばかりで成り立っているのであれば、実情は空嘘な城だ。

ネットでの出会いなど、所詮そんなものだ。この3度目で終わりにしよう。


待ち合わせの一つ手前の駅のホームを走り出す。

第二ボタンまで開けた白いシャツを腕まくりし、赤字にタータンチェックのミニスカートを穿いたガタイのいい中年男がホームに仁王立ちに立ち、赤い口紅を乗せた妙に艶っぽい唇をゆっくりと動かした。


IT'S  GONNA  BE  ALRIGHT(うまく行く)



オンナは前のめりになって目を凝らした。

つられて、目の前でつり革に捕まりながらスマホを弄っているサラリーマンが後ろを振り返り、目をスマホに再び落とし、首を傾げた。

「何だった...かな...」オンナは何も無かったようにiPodを手に取り同じ曲を大音量でリピートで流し始めた。

何だ、今の?何が、一体どう、うまく行くと言うのだろう?答えておくれ。テイラーさん。



―到着しました。ヤンキー座りして待ってるのでゆっくり来てくださいね。


地下鉄の駅での待ち合わせに急ぐオンナのスマホにメッセージが届く。

これから初めて会う相手に送るにしては、何ともチャラいメッセージだが不思議と可愛らしく感じ、オンナは電車の中で小さく噴き出した。

頭のおかしい女、決定とばかりにつり革に掴まった目の前のサラリーマンがオンナを一瞥して、オンナを視界にいれないようにスマホだけを見ている。

吹き出した自分が小っ恥ずかしくて、水泳選手かバレーボールの選手のような立派な肩を竦ませ、電車の椅子の中に沈み込んだ。

相手のテンションに合わせた文章を入れてみるが、どうもしっくりこず、わくわくするる気持ちを抑えるように1ひと文字ずつ消去する。

もう一度スマホをしっかり持って両手の親指でタップし始める。


―了解しました。


歌舞伎座に直結するその地下鉄の駅の改札でオンナはソレを探した。

随分長い間、封印し、もはや始め方すら忘れてしまったソレを。ソレを探そうと思っただけでもオンナの周りの人間はびっくりしているのだから、オンナ自身が驚いていいないわけがない。

出会いなど探して見つかる物でない。

両親の壊滅的なほどまでの不仲を目の当たりに育って来たオンナには無理に相手を見つけて結婚の為に結婚すればそういう結末が多くはないとしても待っているのだと半ば悟っているのである。

縁などと言う物は探して見つかるものではない。来る人には来るし、来ない人には来ない。来るときには来るし、来ないときには来ない。世の中の万人が誰かと一緒になれる運命ではない。もしかすると、私は一人でいることが一番幸せなのかもしれない。

職場の後輩や同僚には、60歳までに良い人が見つかればラッキーだと宣言していた。


2人の男性に会ってみた時点で、出会いはあれども、縁というものは必ずしも付随してい来るものではないと身をもって知り、自分には不向きであることも気が付いた。


オンナを下ろしたことに何の未練は何もないと言わんばかりに電車は風を巻き起こしてホームを出て行った。

改札のむこうに黒を身に纏ったオトコの姿が見えた。

お互いにソレであるか分からないが、オトコはオンナを離れたところからまっすぐ見ている。

遠くから見ても分かるほどにオトコは大きな目をしている。

俺にはキミが見えている。キミには俺は見えるのか?と、かくれんぼで鬼に見つけてもらうのを待つ子供のように「ここにいる」とその大きな目で静かにオンナに話しかけている。


オンナは、道では極力、人と目を合わせない。目が合って声をかけられるのが面倒くさいのだ。誰かと目が合って、声をかけられ、想いを寄せられたり、寄せたり。別れを告げたり、告げられたり。そこに必ずある、ある種の感情エモーショナルジェットコースターに乗るのが嫌なのだ。たとえどちらか一方的なものであったとしても乗ることをパスすることはできない。自分がそれに乗らない間はそれに乗って一喜一憂する者達に、まるでオンナが恋愛の教祖グルであるかのように助言を求められたり、時には傍観したり、感情エモーショナルジェットコースターに乗る者を羨ましくも思い、冷ややかにも見ていた。

そうやって随分長い間、下を向いて歩く日が続いていた。

iPodは下を向いて、外に居るのに外界から自分を遮断する最高のバリアだ。

たまに、電車のアナウンスが聞こえなくて、乗り過ごしてしまうのは想定外だが、誰かに話しかけられていたとしても、聞こえないふりができるから

オンナはそのiPodのイヤフォンを外して、丁寧に束ね始めた。

オトコが自分を見ているのか確かめたくて、改札を出て、ごみ箱を探すフリをしジグザグに歩いてみた。オトコはやはりオンナをしっかりと見ていた。

「こんばんは」オンナは言った。

「はじめまして」は気恥ずかしいので、初めから言わない約束にしてあったのだ。近くで見ると男の目は少し茶色を帯びたように色素が薄い瞳だった。

オトコはオンナから目を離さず「どうも」と言う。

オンナと同じほどの背丈のオトコはがっちりとした体格で、着ている黒いレザージャケットの上からもそれが十分に分かった。身長を含め婚活サイトのプロフィールのテキストで記された外見項目に偽りはないようだ。

自分をよく分かっているのか、身に着けているものはオトコによく似あっていた。

背伸びもせず、謙虚になりすぎることも無い、等身大の自分がコンフォートゾーンと言う事を知っているのだろう。

駅を出て、無言が少しあった後、

「怒ってるんですか?」と言う、オトコの言葉に、オンナは無意識に想像以上に自分が緊張していたことに気が付いた。

仕事上、いろんな人と会うことには慣れていて、緊張などしないはずなのに、いつの間にか乗せられたジェットコースターの最前列席で滑降を待つように今夜は緊張している。

「これ、芸事の神様なんだけれど、祈っていきますか?」

歌舞伎座の脇にあるお稲荷さんを指してオトコが言う。

「いいえ、結構です」

何と答えて良いか分からず、無表情な言葉が口から出た。

可愛い女を演じられない性分が自分でも情けなく思え、オトコがまっすぐと言う道をひたすらまっすぐ歩き続けた。世の中の女性がこういう場合、どのように振る舞うか想像はできても、どうしてもそれができないのだ。

早く給油しなければ、私は今夜ガチガチな人間で終わってしまう。


 会うと約束をしたとき、オトコは星付きのレストランを予約してくれた。

40歳前になってヒトにご馳走してもらえるなどと思っていない。

むしろ、女は35を過ぎれば付き合ってくれる事に感謝の意を込めて、逆にご馳走しなくてはならないとも思っていたので、割り勘を約束してほしいと申し出た。

しかし、「ウチではデートで女性にお金を払わせるしきたりが無い」とオンナが絶対に断れないように、なおかつユーモアを込めて返したオトコの小慣れた感に警戒心を抱く一方で、見え隠れする優しい気遣いと強引さを垣間見た気もしていた。

―デート。― 

最初に会った2人とは「お会いしましょう」と言っただけで、その言葉を聞かなかったし、実際にデートしたという感覚もない。

その文字に頬を撫でられるようなくすぐったさを感じ、逸る気持ちを抑えて、大酒飲みの自分がオトコの財布事情を気にすることなくご馳走してもらえるような場所を選んでくれるよう再度申し出た。


酒と言うのは、不思議なもので、過ぎると関係を破滅させてしまうが、塩梅良い量であれば人間関係を構築するうえでの潤滑油となってくれる。それが、男と女であればなおさらだ。「喜」と「楽」が自然に出せないオンナにとって、酒はとりわけ良くも悪くも自分を解放してくれる助け舟でもあるから。


思春期を迎え、直情径行に自分の意見や考えをまっすぐに口にし、父親に賛同し服従しなったオンナを父親はあっさりと嫌いだした。あれだけオンナを溺愛していた父親との関係も少しずつ崩れ、家の中は完全に閑散としてしまった。

笑ってはいけないわけではないが、自宅で笑って楽しそうにしていることが重罪のように思えて、オンナが両親の前で笑うことが全く無くなった。

どんなに面白おかしいお笑い番組でもくだらないと全否定する父親の前ではクスクスとすらも笑うことができない。夫婦不仲を娘に愚痴ることで自分を保っている母は娘の私生活を聞く余裕など全くない。オンナが初潮を迎えた時ですら何ら特別に話をするわけでもなく、生理用品をオンナに渡すだけだった。気が付けば外でもあまり笑わない人間になり、語りたくとも自分のことを、殊、嬉しい、楽しい出来事を家の中では語らず、或は表情に出してはいけないと言いつけられたように過ごした。やがて、それが染みつき、いつしか家の外でも自然に出てしまう。さぞ変わった子だったろうと思う。

気が付くと人前やカメラの前で作り笑いすることですら簡単ではなくなり、接客の職に就いたばかりの頃はオンナはその事で随分注意を受けたものだ。


「まっすぐ」とオトコが言うその道には曲がり角が沢山あって、一体どこまで真っすぐ行けばよいのか分からない。聞き返すために振り返っても、もともと愛嬌がないうえにガソリンが枯渇しているオンナはにこやかに振る舞う余裕などないことが自分でも分かった。男が止めるまで真っすぐ進むしかなかった。

店について、上着を脱いだオトコを見てオンナは心の中で笑った。

―同じ。

 上着を脱いでもオトコは黒づくめで、自分のそれとかぶっている。違うところがあるとすれば、このオトコはやかましいほどによくしゃべるということ。

いつもなら、母親に愚痴や悪口を聞かされる時と同様、オンディマンドのテレビチャンネルのように他人の話など、適当に聞き分け、聞き捨てているが、このオトコのどうでも良いくだらない話は不思議と聞き入ってしまう。どう考えても自分の好みとはかけ離れた外見のこのオトコが少しずつ愛おしく思える。

オトコはビックリするくらいよく喋った。

二人が座るテーブルの横でメニューを決めかねるように、仲良く話をするカップルにもお構いなしで話しかけた。

「今日のおすすめはアオブダイですよ。美味しかったよ。沖縄の海で泳いでたらしいですよ。店の人に言えば魚を持ってきてくれますよ。すみませ~ん!さっきの魚、この人たちにも見せてあげてください。」

 くだらない話を一所懸命に楽しそうに話すオトコがおかしくて仕方がない。くだらない可笑しい話はテレビの中で繰り広げられ、それすら声に出して笑うことがままならなかったオンナの目の前で、くだらない話を普通に楽しくできるオトコが羨ましく思えた。冷たい色のない家で育ったオンナは、オトコの中に極々当たり前にある、自分にはない暖かい色を感じた気がして、着ていた濃いめのグレーのニットの袖をまくり上げた。

このオトコのやかましいような喋りのせいで何かがくるったのか、オンナの中の何かが揉みほぐされるように硬さを失い、その何かが腹の下の方で溶けるように流れ出すのを感じた。

 プラトニックな愛だけを探していると言えば嘘になる。でも出会ったその夜に肉欲を求めるほどチープな女に成り下がっててはいないつもりだ。

 オンナは、化粧室へ立ち、鏡に映る自分に言い聞かせた。

 テーブルに戻ると、オトコが既に会計を済ませており、半ばヤケクソなほどに急かされ外に出た。

 オンナの頬を冷たい秋風が気持ちよく撫で、少し飲みすぎたことに初めてオンナは気づく。

 少し酔いが回り、方向感覚を失ったオンナにはどの道を戻れば良いか分からないが、振り返るとスキを見せるようでオトコに道を聞くことができない。

今日もペタンコ靴を履いてきたおかげで、少々のほろ酔いでも足取りはしっかりしている。

酔ったふりで男にしなだれかかることができる女を蔑む一方で、それができるほど計算高くなれればどんなに楽かと思う。「ふり」などというアカデミー賞主演女優賞ばりの芸当ができないのだから、せめて今日は慣れないヒールでも履いて来ていれば自然とつたない歩き方で「メス」を表すことができたかもしれない。どこまでも男らしい自分自身が愛おしくもあり、残念に思う。

行きに通り過ぎたお稲荷さんが見えて来る。

「三度目の正直。」

オンナは立ち止まり、社の中を見てみる。社は相変わらず閉まっている。気のせいかと周りを見回すと、赤信号で動きが止まった通りの向こうに立っている人影に目を止めた。夕方にプラットホームで見た中年の男。

暗くて表情が見えるわけなど無いはずなのに、口に塗られた真っ赤の口紅だけが蛍光色のように光っている。

「SHAKE  IT OFF」シェイキット オフ(振り払ってしまえ!)

振り払う?

信号が青に変わったのか、動きを止められていた車が一斉に左右に流れ出し、男の姿は見えなくなった。


オンナは先に地下鉄への階段を下りて行ったオトコを追いかけた。

夜の部が終わったのだろうか、歌舞伎座に直結する地下鉄のその改札付近は興奮から狂喜乱舞するような歌舞伎観客で溢れていた。

自分とは関係ない大勢の人間たちの言葉や声でやかましいほどのオトコの声が聞こえない。

ー2度あることは3度ある。

ー恋愛ほど不確実なものはない。

ー1人で気ままに過ごす方が楽に決まってる。

ー40になって家族を持つなんて夢は持たない方がよい。

ーキミには選り好みをする時間が無いんだ。

ー女には子供を作る寿命がある、男は若い女が良いに決まっている。

ーX会社の男など遊び人に間違いない。

ーその男は結婚には不向きだ...。


耳を澄ませて聞くべきは外野の言葉ではなく、向き合いたいと思う人の声だけで良い。

それがどんな顛末を迎えたとしても。

オンナはオトコを探した。

 幼いころ、デパートなどの人混みで離れ離れになると、所かまわず大きな声で自分の名前を呼ぶ両親が恥ずかしくて仕方なかった。

返事をしなければ、ますます大きな声で怒鳴り散らすように名前を呼ぶ両親が怖くて仕方なかった。

一人ぼっちで、心細くて、今すぐにでも「自分はここいる。」と大声で答えて見つけ出して欲しいのに、見つけられて怒られることが怖くて、自分が周りからどう見えるかという体裁を優先するがために、どうしてもできず、結果、泣きながら歩き回ることになる。

知恵がつくと、お菓子やおもちゃに気を取られて、親の言いつけを守れず、はぐれてしまった自分が悪いのに、見失った親が悪いことにする。

泣きながら歩き回り、自分が先に親を見つけることで、悪いのは自分ではないという状況証拠を作り上げ、自分が素直に謝る代わりに、相手を悪者に仕立て上げる姑息な手段も身に着けた。

考えてみると自分のプライドを優先してきたことや、まだ起こっても居ないことにも最悪の結末を勝手に想像し、何の結末はおろかコトが起きてもいないのに結論を1人で出しては、あるいはまだ出てもいない合否を見る勇気すらなく臆病に逃げてきたために、沢山のソレに愛想をつかされ、答えも知らないまま失ってきた気がする。

「ごめんなさい」という一言を言いたくないがために自分を正当化したり、相手を誹謗中傷したりと、駆け引きせず素直に謝ることができる可愛い女であれば、いろんな軋轢も無かっただろうに。

素直に「ここに居る!」と大きな声で返事をしていたら、両親なり他の大人なり、叱ることなくオンナを優しく抱きしめてくれたのかもしれない。

 探していたソレがこのオトコなのかオンナには分からない。でも今夜、このオトコを失てしまったら泣きじゃくりながら冷たく色のない部屋に帰る自分の姿が見えた気がした。よそ見をして見失ってしまったと、素直に謝らないと。

 オンナはプライドを脱ぎ捨て男の名前を叫んだ。歓喜に包まれた観劇帰りのご婦人たちが一斉に「世の中には可哀想な人もいるのね」と言わんばかりにオンナを見る。オンナは呟いた。

 「愛してた。」

 オンナの目からプライドと言う名の涙が硬い黒真珠のように次々と零れ落ちた。

 コートのポケットの中でスマホが震えだす。オトコの名前がスクリーンに出ている。

「八重子」オトコの声がオンナの両耳に聞こえる。

黒いレザージェケットを手に持ってオトコがオンナのすぐ後ろに立っていた。

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