愛してた

我是空子

アモア

MATE.COM、COUPLES、YOU NET。手軽な出会い系サイトはほとんど登録した。コンビニの陳列棚に整然と座る商品のように男探しに必至な女たちの写真が並ぶ。

―コンビニへ行くよりも手軽な出会い。―

「ナシだな。」コピーライターをしているオトコはため息という名の二酸化炭素を体温無く吐き出した。

仕事の合間、コーヒーを飲む片手間にサイトにアクセスし、今夜会えそうな女を探す。

カチッ。カチカチッ。空っぽのモノを人差し指の先でつま弾くようなマウスのクリック音はここでの出会いにぴったりな効果音だ。

膨大な数の女が男を探しているのだ、自分さえ気が向けばいつでも女は見つかる。いや、結局、ブラウズするだけで強いて誰かを見つける気など端からないのかもしれない。

飲むか飲まないか分からないまま、とりあえず淹れてみたコーヒーは飲みたいわけでもないオトコの口に運ばれた。

コーヒーメーカーの上に保温状態で長く座りすぎたコーヒーは、煮詰まって苦く、泥の様だ。麻酔のようにオトコの口の中の味覚を奪い取る。男も女も、仕事もこのコーヒと同じで、ぬくぬくとしたところに座り続ければ、蒸発して、干からびて、煮詰まって、他人ヒトや世の中は敢えて口にしたいと思わなくなる。切ないのは本人たちはそのことに気づかないと言う事。あえて不味いものを口にしなくとも外に出れば新鮮で口当たりの良いコーヒーがどこにでもある。

コーヒーも男も、女も仕事も全てはタイミングで、そのタイミングを逃すと今ある物を失ったり、我慢してまでそれを得体のしれない世間で言う「幸せ」などと言うものを手に入れたいと思わない。

このぬくぬくとした場所に座り続けているのは自分もコーヒーと同じか。

オトコは鼻で笑った。


最後に会った相手にオトコが出会いを探し続けることを咎められ、「誰かと会って、飯を食いに行くことが悪いこととは思わない。」とLINEで送りつけた。

送りつけた本人ですら、後悔するほどのカサカサした言葉に相手はどれだけ傷ついたかを想像するのは心が痛すぎる。分かっていながらも止めを刺すようにオトコは続けた。「女も男も自分の幸せの為なら何でもするよね。」

いや、とどめを刺したかったわけじゃない。

特別飲みたいわけでもない、飲むか飲まないか分からない状態でコーヒーのようにKEEPできる相手を探しているのか?結果的にそうなっている自分を、他人ヒトを傷つけていることを分かっていながらも、幸せを求め続けたい自分を、正当化というか弁護してやりたかったのだ。それがズルいことだと知っていても。

何をしてでも掴みたい自分の幸せって何だろうと、LINEの送信をタップした後に考えたが、それが何かまだ分からない、「得体のしれない物」止まりだ。


自分の写真を公開し公明正大に相手探しをしたいとは思わないが、婚活サイトで身分や婚歴を偽って相手を騙したり、不貞目的に登録するような輩でもない。

むしろ、登録したての頃は、条件や外見に惑わされず、心でつながればトム ハンクスとメグ ライアンの映画のようなエンディングが自分にも起こり得るのではないのかと期待していた。

写真を掲載しないと顔に自信がないのかと思われるかもしれないが、

ナルシストと言われても、自己評価では特別不細工でも特別男前でもなく、それなりに気に入っている。若いころ、貫禄ある大人の男を目指して蓄えた顎髭は44歳になって少し白みを交えては居るものの健在だ。今では髭があると言うのに実年齢よりも若く見えるらしく、それが嬉しくないと言っては嘘になる。

寂しさを埋めるためのモノになりつつある「出会う」が、

意に反しても、状況に逆らってでも、起きるときには理屈じゃなく起きるのだと堂々と思っている。そう思うと、急に、送りつけたLINEに罪悪感を感じ、そんな自分を今直ぐに否定したくて、

カバンにしまったはずのスマホを取り出して送信済みのメッセージを消去したのが半年以上も前になる。


新しくメッセージが届いています。

「はじめまして。LifeIsShortさんのプロフィールを拝見し、少しお話を指させて頂ければと思いメールさせて頂きました。

沢山の女性からも連絡がおありでしょうし、LifeIsShortさんが、お暇で、尚且つ、気が向かれたらで結構ですのでお返事頂けると幸いです。」

女性から来るメールは高い確率でサクラや不動産や株の勧誘、悪質なサイトへの誘導が多い。このメールの送信者のプロフィールには写真の掲載が一枚もない上に、やたらと丁寧な口調とオトコの警戒レベルを上げる。

しかし、―寅さんのように義理人情が厚い性格なので、同じことをお相手にも望みます。- 文章の最後にそう添えられた1文に、送り主の懐とユーモアが見えたように思え、オトコは「返信」をクリックした。

それから1か月続いたメールのやり取りの間に顔写真も交換し、会う約束を取り付けてからはLINEも交換した。今夜、そのオンナに会う。

正直、会うまでにこんなに時間がかかった相手は居なかったけれど、この1か月の間に、自分たちがどこに住んで、どこの会社に勤めているかと言う話題は一切なく、読んだ本、映画、訪れた国、身の回りで起こった話だけをしていたせいか、いつ頃からか、まるで遠くへ転校してしまった高校時代のクラスメイトとメールしているような、希望を大きく込めて言うならば、自分たちが花が生い茂るニューヨークの公園で出会うトムとメグになり得るのではないかと言う44歳のオヤジが恥ることもなく両腕でギュッとハートのクッションを抱きしめてしまいたくなるような妄想をまだ会ったことも無いオンナに抱き始めていた。

それに、相手が風邪で一度リスケしたこともあって、じらされた分、「会う」ことが今朝から楽しみで仕方がなく、喉の調子が悪いわけでもないのに咳ばらいを何度もしている。そのおかげで隣のデスクの女性に「風邪ですか?」と言われ、「そうかも...」とこれは好都合と嘘丸出しな咳をしながら会社を早めに出たのだった。


オトコは去年杮落としを迎えたばかりの歌舞伎座に直結するメトロ改札口へ急いだ。

太陽が天井の高くなった空に「また明日会おう」と惜しむようにゆっくり別れを告げていた。 明日は雨かもしれない、明日はどんよりした曇りかもしれない、明日も会えるという保証などどこにもない。

去ったはずなのに、月が空を照らす間、他の空を太陽は照らしている。或は、太陽が居ない間、空は月や星を受け入れている。

「またね。」なんて、最高に都合の良い別れの挨拶だとオトコは思う。

「彼と幸せになるわ。またね。」と男の唇に軽くキスをして、他の男のもとへ行く改札口に続く薄暗い下りの階段へ消えて行ったパンプスの足音が耳の中で蘇る。彼女の唇はいつもと変わらず柔らかかったのに、とても乾いた息を感じた。

寂しさを埋めるために会っていたわけではない、オトコはオトコなりに彼女を愛していたのに...。長く保温状態で座ることにしびれを切らせ、彼女は他の星に照らされることを選んだ。遠ざかる足音だけを残して彼女は去り、聞こえるはずもないのに「またね」とオトコは声を出さずに言った。

あの時も確か、もの悲しく滲む太陽が沈む夕暮れだった。

イイ女には太陽があっても、無数の星も大きな月も必ずやって来る。どれだけ太陽が情熱を込めて空を照らしても、生命力あふれる朝陽になって励ましても、哀愁漂う夕陽になって愛を誓っても、キラキラした星や、ロマンチックに満ちる月に一瞬にしてほだされるのだ。


「少し早く着くかな。」男はカバンにしまったスマホを探した。

「閉まる前に病院行かなきゃ。」と誰が聞いているわけでもない言い訳を呟きながら、会社を出る前に急いでパソコンとコードを無理やりカバンに突っ込んだせいでスマホがなかなか見つからない。

約束の時間には優に10分はある。待ち合わせ5分前になったらLINEしてみよう。絡まったコードをきちんと巻き直しながらオトコはメトロの改札に続く薄暗い下り階段へと足を進めた。


夜の部が開演中なのか、非日常を求めた紳士淑女で混み合うはずの改札口は伽藍としているものの、地下は地上に負けないほど灯りが煌々としている。

そこに行くために作られた駅なのに、居るべき時間にそこにおらず、そこからあふれたように、或は、そこに入ることを自ずから拒んだように、今この時間、外にいる人間は、世の中の楽しいことに参加する条件を満たさない、ならず者のようにぽつりぽつりと行き来している。

気にしている暇など無いといわんばかりに早歩きで腕時計を気にしながら通り過ぎるとがった靴を履いたサラリーマン、いつかそこに行きたい気持ちを捨てきれずポスターをチラチラ見ながら歩き去る眼鏡をかけたOL、ポスターの前に立ち止まって電話中のリュック背負った大学生。遅れて申し訳なかったと詫びながら歌舞伎座の中へ急ぐよく似た雰囲気の老夫婦。

 男は、どちらに収まるのかを決めかねるように、ただ立っていた。もしかすると、この駅を利用することすら間違っているのかもしれない。 

壁に並ぶ歌舞伎の公演ポスターを入れたケースは目的があるようで無いそんなオトコをガラスにぼんやりと映している。

「今日も、真っ黒だ。」 

恋愛などというものは、所詮、歌舞伎や映画を見るのと同じこと。いつか幕引きが来て、家に帰って我に戻れば一人きり。過ぎた興奮を思い出しては孤独が高波で押し寄せ、破壊されたものを元通りにするまで時間と気力、労力がかかる。待てよ、二人で居るときですら、1人でいるような孤独感を味わって、その理由を確かめる勇気がなく、幕引きが来るのを待っていた自分はもっと孤独だったかもしれない。1人で居ることになれてしまえば、1人に戻ったときに倍増する寂しさを感じずに済むのだ。全ての鎧を下し、情けなさも馬鹿さ加減も全てを曝しだした真っ裸の自分に寄り添ってくれていると信じていたヒトが消えた後、あるはずもない影を感じ、他のヤツのところに行ってしまった彼女を思い出して眠れないほどの喪失感に襲われることも無くて済む。期待しなければ失望することも無い。

分かっているから、ソレなんて適当で良いのだと思う反面、分かりながらも、どうしても幕引きがこないソレがどこかにあるかもしれないという、希望を捨てきれずにいる。


 ガラスケースに映る自分をもう一度探してみる。

自分の奥底に何色が隠れているかを他人ヒトに見られないように、自分の弱みを見せないために幾重にも重ね着たアモアが黒く見えるだけのように思える。

歳を重ねるたびに、自分の立場が社会的に上がるたびに、また一枚、一枚といろんなアモアを重ね着る。何を隠そうとして、或は護ろうとして黒を重ね着ているのだろう。

重ねて着続けているアモアは重く冷たく、自分を護る為に着ているのにソレに潰されそうだ。


 もう一つの影がケースに入り込んでくる。

「真っ黒だ。」

 もう一つの真っ黒は、何かをとざすように黒を纏ったオンナだった。急ぐでもなく、自分のペースで確実にオトコの方へ近づいて来る。

 肩までおろしたまっすぐの黒髪から覗かせる顔はまるで怒っているとも思えるように無表情に男の前に立ち止まった。

「こんばんは。」

 オンナは怒っているのではない。美しいのだ。美しい女は、人形のように無表情で、怒っているように、或は、悲しんでいるかのように見えたりするものである。あるいはそう見えるから美しいと思えるのかもしれない。

事前に交換した写真と違うところ言えば、写真のオンナは零れ落ちるような暖かい笑顔をしていた。

「どうも。」オトコは短く顎に蓄えた髭を人差しと親指の腹でつかむ様に一撫でしながら女に挨拶を返す。

 「はじめまして。」は気恥ずかしいので省略しようと事前にお互いに約束していたのだ。そういう演出の根回しの提案をしてきた女に、ネットでの「会う」に小慣れた感を感じたが、

乾いた出会いが主流になったこの時代の便利さに、どこか慣れきれない自分も居るし、別段悪いことをしているわけでもないのに、生まれ育った時代の性なのか、後ろめたさを感じ、つくろってしまう点があるのは否めないので、「そうしましょう。」と同意していた。

サイトを通して出会った10歳も年下の若い女の子たちは、写真の信憑性はさておき、顔出しをすることに何ら抵抗はなく、実際、顔を出さずに探す女性の方が少ない。出会いのあり方に拘りはなく、縁がなければ、それこそコンビニで弁当を温めるように、ピーッと鳴り、次の弁当が電子レンジを占拠する。近所のコンビニへ弁当を買いに来るような感覚で会いにやって来る。

そう考えると、このオンナとの出会いはコンビニに行くような手軽なそれではないように思える。 

「この辺りにはよくいらっしゃいますか?この稲荷さん、芸事の神様なんだけど知ってますか?お参りしておきますか?」

お稲荷さんが社から、「ワシにふるのか?」と驚きのように眉をあげたような気がした。

「いいえ。結構です。」

答えるオンナの声はモノトーンで、実家の母が電話を取るときだけに作るような余所行きのそれではない。落ち着きを持ったその声はオトコの軽さを容赦なく浮き彫りにするようだ。メールでやり取りをしていたオンナはもっと暖かみがあるように思えたし、最近のスマホの自動案内でももっと体温があって優しさを与えてくれるのに、それとも現実とバーチャルの間で男の感覚が麻痺してしまったのか?

オトコはガラスケースに映る黒い自分の影が本当に飛び出し、黒い幻影を見ているのではないかと錯覚を覚えた。できることなら、スマホを取り出して聞いてみたい。

―ゴ用件ハ何デショウ?話カケテ下サイ。―

隣に居るのは実在する人間ですか?

―左ヲ見テ下サイ。―

音質は温かいけれど、そんなことは自分で考えろと言わんばかりに、内容は割合、無機質だろうと想像し、オトコは心の中で笑った。

眼球を左に動かしてみる。オンナは表情を少しも変えることなく、そこに静かに立っていた。

オトコが送った1写真は10年ほど前に撮られたもので、今の自分と違いすぎ、がっかりしているのかもしれない。煮詰まって保温状態でコーヒーのように座っていた写真の中の自分は写真の外の自分の劣化が見えるわけもなく、周りからは若く見えると言われるし、今までサイトを通して会った女性たちからもそれについて指摘されたことはないのだけれど...。

日常になったはずのその儀式が今日は思うように運ばなそうだ。それならそれで、面白い。

表面だけの笑顔を洋服のように相手や状況によって着替えることができる女たちより、ややこしくなくて良いではないか。そういう女に限って見せかけの笑顔の下はつまらないもので、身に着けている時計や乗っている車など同じように見せかけのものに食いついてくるものだ。

それにしても、このオンナは本当に俺の横にいるのだろうか。

感情を持たなくなったはずの自分が、筋書きの見えない今夜に動揺している。このオンナの存在の有無はもちろんだが、オンナが何を考えているのか知りたくて、顔色を窺うように、左に顔を向けてみた。オンナはオトコの存在等もともと無いかのように気に掛けることもなく前だけを見ている。やっぱり写真と実物の違いに怒っているのかな?それにしてもだ、せっかく芝居までうって仕事を早めに切り上げて時間を作っているのに、愛想のない女だ。

ふと、暖かい香りが左から男の鼻をかすめた。

この匂いの出自を確かめるべく、オトコは店の位置をスマホで確認するふりをして立ち止まる。

オンナはそれを気にする様子もなく、相変わらず無表情で、行き場所を知らぬにも関わらず、「まっすぐ」と言うオトコの言葉を信じ切ったように前だけを向いて歩き進めていく。

曲がり角がいくつかあるこの道を、オトコの言葉を信じたオンナがどこまで真っすぐ歩いていくかを見届けたい気もしたので、男はしばらく立ち止まって見届けることにした。

変わらず同じ歩幅で歩き続ける。

―実在スルヨウデス。―音声が聞こえたような気がした。

オンナが放つ暖かいその匂いは出番を間違った春風のようにオトコの体に運ばれてくる。冬を越すために、ほんの少し前に寝床を用意し、眠りについた生き物が、間違って目を覚ましてもおかしくないような暖かい匂いだ。

影に匂いなどあるはずはない。実際にオンナは其処にいる。


 店に着いて、上着を脱いでも申し合わせたようにお互いに同じく黒い装いのままだった。ただ、まるで立ったまま座るかのようにテーブルの向こうに佇むオンナのそのサマは鉛筆の芯のようにまっすぐすぎてオトコには些か窮屈に感じた。

会う約束をしたとき、今まで会ってきた殆どの女ならば、喜んで来るような星付きのレストランをオトコは予約した。

にも関わらず、オンナは堅苦しいのは嫌だと言い、カジュアルで安めの店に変更するようにリクエストしてきたのだ。

今から考えると、オンナは自分が「きちんとした」と言う言葉が自分にぴったりであると分かった上で、お互いの為に配慮して出した提案だったのではないかと思う。

 オンナが白ワインを口にする。ワインのせいかオンナは体温と湿度を取り戻して行く。それは掠れて硬い色味の少ないHがHB、2B、3Bと、硬さを脱ぎ捨て色を濃くしていくように湿りを帯びて艶やかになっていくようだ。

その先を舐めてやればどんなに色濃い線を描くのだろう。

暑いのだろうか、オンナは黒に近いグレーのニットの袖をまくり上げた。

毎日入念にクリームを塗るのだろう、光沢をもったその素肌から、よりいっそう暖かい匂いを聞こえも見えもしない音波のように確実に発している。

 オトコは、全身がその音波を受け、体の奥の方まで波打って行くのを感じていた。

 ワインを口にすればするほど、オンナは身体をほてらせ、暖かい匂いをよりいっそう醸し出す。そのたびに、オトコの体の奥深くへ、より一層深くへ波が押し寄せる。感じなくなったあるべく、あるはずの感情がそこにあると知って探し求めるように、より一層奥へと押し寄せる。

持ち物の準備に抜かりはないが、今夜、何も求めていないと聞かれれば嘘になるが、肉欲だけを求めるほど下衆には成り下がっていないつもりだ。綺麗ごとは抜きにして、映画の中のトムとメグだって、エンディングロールで消されているけれど、公園でロマンチックにキスを交わした後どこへ行くかなんてのは容易に想像がつく。オトコはどうしてもその匂いが何なのかを確かめたいという願望、いや、願望と言うよりも、確かめなくてはいけない使命感に近いようなものに駆られており、もはや確かめないで次に会う日まで待つことなどできるはずもない。オトコはその使命を果たす計画を練る様子をオンナに悟られまいと、普段よりも軽妙なしゃべりに拍車をかけ、水の中に浮かぶ氷を鷲掴みに取り出し、しっかり冷えた白ワインに放り込み、一気に飲み干した。

「白ワインに氷を入れるんですね?味が薄くなりません?」オンナは笑いながら続ける。「でも自分が美味しいと思えばその形がどうだとか他人がどう思うかなんて関係ないですよね。大切なのは自分が美味しいと思うことだから。」そう言って女は化粧室へ立った。

オンナが席を立つ時に後にした残り香は、オトコの中で封印されていた細胞一つ一つを焚き付け目覚めさせ、組体操のピラミッドが出来上がっていくように結束していく。ピ―――ッという警笛で一斉に細胞が同じ方向に向いた。

オンナがテーブルに戻るや否や済ませた会計のレシートも待てずにオンナを連れて店を後にした。

 オンナは行きと同じように、まっすぐに来た道を戻り歩く。

ワインを煽って体温が上がった女は暖かい匂いをより濃く放ちながら、一度来た道は振り返ることはないと言うように、同じ歩幅で歩いていく。

濃く放っているのに離れて消えてしまいそうなその匂いを何時いつしか遠ざかる足音だけあとにして消えて行ったパンプス音と重ねる。

男は無償にその匂いに鼻を埋めるように嗅ぎたくて仕方がなかった。

 夜の部の公演が終わったのか、歓喜で高揚したご婦人たちが道を埋める。

 一時の非現実を求め彩り豊かに着飾った人込みが次なる目的地を求めて縦横無尽に動く。非現実の延長が現実の世界と融合し、黒に身体を鎖した女がその中で見え隠れし、しまいには見失ってしまった。

オトコは、オンナの名前を呼ぼうと唇を動かそうとした。名前が出てこない。オンナを目の前に名前を呼ぶことは横腹に触られるようにくすぐったく感じ、キミとしか呼べなかった自分をその瞬間激しく情けなく思う。もう一度オトコはオンナの名前を呼ぼうとした。蓋をするように柔らかいものが男の唇を閉ざす。オトコが目をあけてその正体を確かめようとした次の瞬間、柔らかいそれは離れ、男の厚い下唇にかかる熱い湿った息を感じる。

「愛してた。」甘く儚い香りがした。

人込みが歌舞伎座から地下鉄へ流れ込む喧噪の中でオトコはかすかなオンナの声をはっきり感じた。暖かい匂いがしたと思う方向をオトコは見まわし、オンナを探した。くるくると探し回っている間に透明で大きなビーチボールか何かに自分が入り込んでしまったのかのような錯覚に陥った。冷めたように周りを見ていたはずだったのに、いつの間にか自分が透明の保護壁の中に捕らわれ、周りに見られているようだ。その中の自分は鎧をもぎ取られて真っ裸で、通行人が冷めた目で見ている。オトコはそんなことを構わずにオンナを探す。

赤白、金銀。色とりどりの衣装を着た歌舞伎役者が映るポスターが入ったガラスケースを見た。

地下鉄へ続く下りの階段に消えるパンプスの音が聞こえた。

取り乱すかっこ悪い自分が嫌で、敗北感と失望感を隠し、「またね」と背中を見送った日を思い出す。

自分が彼女を照らす太陽になる番が来るのを煮詰まったコーヒーで感情を麻痺させながら待つことなんてできない。月にも星にも空を譲ることはできない。

太陽が照らしていない間、他に灯りを求めず、お互いに恋しく思いあっていると信じたい。

たとえ明日、会えなくても、たとえ明日が雨でも・・・。

明後日には会える、明々後日には触れ合えると信じてみよう。

ガラスケースに映る影が無い。映っているのは黒い服を着たオトコだった。オトコは泣いているようだった。黒い服を着たオトコは暖かかった。オトコは黒ではなかった。黒の下にずっと抱え持っていた男の暖かい色が見えた。

オトコはカバンの奥に沈んでしまったスマホを探した。邪魔するものはもう何もない。今なら間に合う。

オトコは仕舞った女の名前を光を放つスマホの画面に探す。

ダメだ。ラインや電話、見えない線でたぐり寄せたくない。

オトコは立ち止まった。

2列に広がって歩いているご婦人たちのカバンが勢いよくぶつかってきたかと思うと、後ろから左肩に男がぶつかって来たので、前のめりになるのを堪える。

もう一度、人の流れなど気にしないでしっかりと立ち、ゆっくりと深く息を吸い込む瞬間、両目を閉じる。

ガラスに黒いコートを着たオンナの背中がいた。カラフルなポスターを透明な黒から透かしだしていた。

オトコは振り返り、ゆっくりとオンナに近づいていく。

振り向かないで。今度は俺がキミを見つけたから。今度はオレがキミに声をかけるから。振り向かないで。
















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