特別編

特別編「アイのかたち」

 夢を見た。

 時代は二十あるいは二一世紀ごろの地球。レイは家を持っている。二人の子供をその家で育てながら、太陽の下で暮らしている。

 海沿いの道路に面する家からしばらく歩くと、そこに友人の家もある。

 友人の家も同じ海沿いにあり、そこで夜まで語り明かすこともある。友人はレイよりもだいぶ年上で、周りからは「先生」と慕われている。そんな彼女はレイにだけは時折少女のような笑顔を見せ、ともに笑い合うことができる。

 その友人を誘い、砂浜を散歩する。レイは靴を脱いで、海に入る。気持ちいい波の冷たさがつま先に伝わってくる。

 友人は短い黒髪を海風に揺らしながら、瑠璃色の瞳を輝かせ、同じように裸足で遠慮がちに波打ち際に入っていく。

 二人で笑う。意味もなく。何が楽しいのかもわからず、体をくの字にして笑う。

 正午、太陽が真上から全てを照らす時間。二人はそうやって、子供みたいにはしゃいでいる。

 その友人の名は楪世しじょうルリ。

 夢から目覚めると、いつも胸が苦しくなる。



 特別編「アイのかたち」



「つまり、調べてほしいの?」

 月面都市を模した空間の中。オフィスにいる人物はレイの話を要約し、そう言った。

「いまさら新しい現実干渉に目覚めたかどうか」

 オフィスの人物、名前は綺柊。この空間、レムリア世界の管理区域「リプロダクティア」をまとめる管理人である。夢について、レイがまっさきに相談した人物だ。

 レムリアは滅びを回避し、ゆるやかに時間を重ねている。黒耀星に落ち延びた人類は長い時間をかけて地球への帰還を果たした。

 そして今、レムリアの現実における人口は減少している。これは危機あるいは悲劇ではなく、人類が技術、精神的に進歩を果たしたことによる自然の帰結であった。

 かつて壊れていたレムリアには管理が必要だった。魂の保存のしくみを提供した幽子上の管理区域「リンカネシア」によって穏やかに精神の浄化を果たしたこの世界は今、最初の終わりを迎えようとしている。

 この宇宙から生命が消えた時、今度はこの管理区域に幽子的情報が満ちて現実に変わる。そして、これまでの歴史から重要なファクターを引き継いで世界をやり直す。それが、輪廻の世界リンカネシアから発展した新しいシステム、再構築世界リプロダクティアなのだ。

 変化と安定、ホメオスタシスを持つ完全な世界。レムリアは今、永遠を完成させつつある。

「あれは予知夢なのか、私の妄想なのか。それが知りたくて」

 レイは言って、友人である柊へと詰め寄った。

 夢の中で会った友人はリンカネシアにはいない。合流が起きる前に死んだと考えられている。

 だが、レイはそこに疑問を持っている。あの楪世ルリがそう簡単に死んでしまうだろうか。

 無力を感じ厭世感にまみれた後年を送ったことは、レイもよく知っている。しかしそれでも生き物やその営みを愛していたルリが、その末路を見届けず逝ったとは信じられない部分もある。

 最後の姿を見た。それでもなお、レイは彼女がまだどこかにいるという気がしている。

「予知夢は現実干渉じゃない。ほんとの超能力だよ」

 柊は、レイの希望を打ち砕くことをあっさり言った。

「そっかぁ~~~~……」

 柊が言うなら間違いはないのだろう。レイはがっかりする。

 現実干渉とは、この現実を作り出している仕組みに介入する能力のことだ。この星系の物理現象をコントロールする核。それとつながった者だけが行うことができる、魔法のような力である。

 だが、現実干渉はあくまでも現実に起こりうる現象しか起こせない。魔法といっても、単体で自然現象を超えるものを実現することはできないのだ。

 これは願望なのだろうか。あの友人に生きていてほしい、という。

 いや、それも正しくない。生きていてくれれば嬉しいが、それだけではない。

 共に歩んでほしいと思っている。誰よりも命について考え続けたあの人に、これからの世界でも。

「夢の話はともかく、妙なデータがあることは教えておくよ」

 落ち込むレイの頭を撫でつつ、柊が言った。

「妙なデータって?」

 柊はリンカネシアに集まるデータ、すなわち全ての死者の意識データを管理している。そこに妙なデータとは、何か悪い出来事なのだろうか。

「いいや。この小宇宙の外縁から、時々昔の人の意識が発掘されてるってこと」

 柊は、一度聞いただけでは理解しにくいことを言った。

「発掘……? 外縁のあたりって、小惑星帯に埋まってるってこと?」

「わかんないな。調査しなきゃと思ってるんだけど」

 柊はすごくいい加減な口調で言った。彼女らしいことだ。しかし、そういう反応である限り危険なものではないのだろう。



 レムリアは一度滅びかけた。それが、このような緻密な管理が必要だった理由である。

 高度に発達したネットワークの中に、CUBEと呼ばれる滅びの因子が入り込んだ。それは急速に情報を消費し、この世界の現実を無に変えてしまう恐ろしいものであった。

 進化の果てにある宿命だ。かつて滅びた宇宙でも同じような現象が確認されていたという。

 それを防ぎ、世界の滅びを遅らせるために考え出されたシステムがリンカネシア。レイや柊にとっての先人からの最後の贈り物だった。

 CUBEを発端とする破壊は物理世界にもおよび、レイが住む月面都市は無人兵器によって蹂躙され多くの人間が死んだ。リンカネシアは起動時に死に瀕していた人間の意識をできるだけ回収するように動作したようで、多くの死者の意識を救済した。

 リンカネシアは人の意識を厳重に守っている。人の肉体に宿る幽子デバイス、いわば魂のようなものは、肉体が滅びた時に管理者である柊の元へと導かれその先の道を決めることになる。

 残したい記憶を柊にあずけたり、この場所の運営に関わったり、あるいはまた地上に戻って転生したり。そうやって、生まれゆく次の世界の一員となることを待つことになる。そうして価値を重ねると転生が不要になり、現実の人口は穏やかに減少していく。

「しかしリンカネシア起動前に死亡した多くの人については間に合わず、その意識はばらばらの幽子になって消えてしまった。そう思っていた」

 柊は言い、当時の月面都市の記録を出してきた。

 月面都市の人口二〇〇万のうち、回収できたのは七割ほど。残り三割、六〇万もの人間の魂は、どこにも残ることなく消えたはずだった。

 リンカネシアが実行される前のレムリアには死後の世界のようなシステムはなかった。システムがなければ、幽子デバイスは分解して消えてしまう。それが自然だ。

「ところが最近、今更になってその三割の中からの帰還者が現れている」

 柊は言い、最近の回収者リストを見せた。

 黒耀星や地球からの合流者にまじって、目を疑うようなデータがある。

「ジュリエット・クォーツ、古世代研究所所属……クリス・スタレット、元月面都市の市民で会社経営……どういうこと?」

 そこには、今では滅び存在しない月面都市の出身者が多く含まれていた。

「時期がみんないっしょだ」

 柊が言う。彼女が言う通り、この帰還者たちはみなあの月面都市襲撃事件の前の年代の記憶を有しているのだ。

 もうずいぶん昔の出来事である。なぜ今更、そんな時代の者がリンカネシアに導かれているのだろう。

「外縁でなにか起きてるみたいだ。調査に行ってくれないかな」

 柊のその要請で、レイは数百年ぶりに肉体を得て地上で活動することになった。

 現在のレムリアバースの大地には、超高度な文明は存在しない。

 進んだ文明はリンカネシア、つまりは仮想空間上に引き上げられていった。物質的な限界があるこの現実世界では、人類の集落はそれぞれの惑星のごく小さなものだけに縮小されている。

 幸福に余生を送っている。枯れかけた人類文明の中でそこにしかない価値を見つけ、インクで書物に綴るような日々。次の爆発的な世界の再誕の前の、最後の後片付けのようである。

 レイは、人類の末裔が作る小さな集落の一つに向かった。

 月面に作られた管理基地にアクセスし、NDDニューロデバイスドールをひとつ起動する。この肉体はリンカネシアにいる幽子デバイス、魂を宿して動くことができるというものだ。現実世界で修正が必要な問題が起きた時に使用される。

 NDDは細胞のような小さな機械が集合して形を作っている。普段はマネキンのように顔がないボディで、姿を自在に変えられる。ドールは生前のレイ、二五歳ごろの姿となって活動を開始する。

 月面基地にあるパーソナルポッドの一つを使い、地球へ。今は白耀星びゃくようせいと呼ばれる、雪の惑星である。



 地球には氷期と間氷期がある。再現世界だと言われるレムリアでもその周期は再現されており、今は氷期の終わりである。白耀星はその名の通り完全な白球となっていたが、現在は雪解けによって灰色の荒野が広がっている。

 よく晴れていた。果てることがないと思えるほど広く続く平坦な大地がよく見える。植物がわずかに広がり始めているが、ほとんどは乾いた寒い土地。それがどこまでも続いている。

 殺風景とも言えるが、どこか雄大さを感じさせる。レイが活動していた頃の地球も似たような風景だった。パーソナルポッドを出て風を浴びると懐かしい感覚がする。

 ひたすら進んで見つかるものがあるとすれば、かつて栄えた大都市の痕跡。あるいは、ビルを横たえたような角ばった宇宙船を住居としていたもの。いまだ電源や気密性が守られている場所も多いが、どこも既に人間の姿はない。

 争いによって滅びたのではない。だから町は無傷なままで、ただ少しずつ朽ちていくだけだ。

 だが、レイが探しているのは都市ではなく生きている人間である。

 この星に来たのは恒星系外縁部に向かう船を借りるためだ。人類がその文明をふりかざすことがなくなって久しいが、重要なテクノロジーは地下に少しだけ保存されている。

 白耀星の人口は二〇〇人くらい。それがいくつかの場所に別れて暮らしている。老いたこの星の数少ない村へと、レイは足を踏み入れた。

 村はまだ雪解けを迎えていなかった。ドーム型の簡素な家がいくつか並んでいる。

 軒先では雪の中でも育つ木々が鉢に植えられている。現在のレムリア人はナノマシンを体内に持っていて、ほとんど食事をとる必要がない。この植物たちは趣味の園芸というところだろう。

 絶滅寸前とはいえ人類が生活を楽しんでいることを実感しつつ、レイはさらに村の奥へと進んでいく。

「ごめんください。誰か話ができる人はいますか?」

 村の人がいる場所で、レイはそう声をかけた。

「天使さまですか。どういったご用でしょう」

 その中から、壮年の人が出てきてレイの問いに答えた。

「打ち上げ施設をお借りしたくて。いいですか?」

「ええ。何人かでお手伝いしましょう」

「ありがとう。助かります」

 村の人々はすぐに準備にとりかかってくれた。技術に明るいものに声をかけてくれるという。

 住人たちから天使さまと呼ばれた。レイのような管理次元の人々はそう呼ばれている。

 小さい子供以外は、本当に天使と思っているわけではない。現代の人々はレムリアの構造をよく知っていて、管理次元と交友することもある。

 さまざまな時代があった。リンカネシアの人々の望みによって大きな戦乱は免れてきたが、人間同士の細かい問題はじっくり取り組む必要があった。

 そういった時代を経て、レムリアの事実を現実次元の人にも共有して生きていくことができるまでになった。

「なぁに?」

 レイは言う。小さな子どもがレイの顔を見ていたのだ。

 天使を見るのは初めてなのだろうか。いたずら心が出て、レイは指をその子の前に掲げた。

 そして、そこから花火のホログラムを出してみせた。

「まほうだ!」

 子供は目を輝かせて走り去っていった。友達に教えるのかもしれない。

「すみません。技術者が一人いないみたいなんですよ」

 村人が戻ってきて、レイに言った。

「いない?」

「その子はよく村の外に行ってるんです。通信アンテナのあたりかな……」

 機械が好きな子なのだろうか。現在は使われていない廃墟の通信アンテナのところで遊んでいるという。

「そんな子だから古代の技術のことにも詳しいのです。しかし困った……」

「探しに行きましょうか」

「天使さまがそんなこと、よろしいんですか?」

 白耀星には吹雪もある。その子がどんな子かしらないが、そんな理由でリンカネシアに招かれるには早いだろう。NDDを使うレイには、雪の中で人を探すくらいはわけない。

「その子の特徴とか名前とか、もうちょっと聞いてもいいですか?」

 情報が欲しい。レイがそれを求めると、住人の一人が言った。

「アイという名前の子です。銀髪で身長はこれくらい、ちょっときつい感じの話し方をします」



 アイ。その名の人に、レイは思い入れがある。

「アイ……か」

 銀髪のアイ。アイ・イスラフェル。その名を持つ者は、レイと生物学的なつながりを持っている。

 もう少し温かみのある言い方をすれば、アイは実の母親だ。お互いに親子と知らず接していた期間が長いため、そういう実感は少し希薄である。

 しかし、特別な人である。普通の母親がどんなものか知らないレイだが、もしかするとそれよりも深いつながりを感じているかもしれない。

 このレムリア世界の結び目のような存在だった彼女を、レイの能力によって消し去ってしまった。必要なことだったが、そんなに簡単には割り切れない。

 ずっと胸に残り続けている。もしかしたら永遠に。

 村人に聞いたアンテナ施設に行くと、その少女はいた。

 銀髪を横で結んだちょっと幼い背中。上の方をしきりに気にしているようで、足取りはあぶなっかしい。

「おーい!」

 レイは遠くから少女を呼んだ。

 少女は一度振り返ったが、またすぐにそっぽを向いてしまった。

「なまいき」

 レイはつい言う。よくない。一瞬見えた顔はちょっと似ていたが、あれはレイの母親だったアイではないのだ。

 現在のレムリアでは昔の人間が不思議な帰還を続けている。何かの理由で魂が復元され戻ってきているようだ。

 だが、アイ・イスラフェルだけはありえない。彼女の魂は、レイが特別な能力で完全に分解してしまったからだ。

 魂を消し去ってしまった。だから、何があってもリンカネシアに導かれない。生まれ変わりは、アイに限っては起きないことだ。

 レイはため息をつきながら、少女のすぐ近くへと歩いていった。

「こんにちは。私はレイ。村長さんから聞いてきたんだ。アイちゃん。お話聞いてくれるかな」

 少女を目の前にして、レイはできるだけの愛想の良さで言った。

「……アイです。三番観測村に住んでいます。よろしく、天使さま」

 少女は慇懃すぎる態度で言い、レイが差し出した手をとることはなかった。

「ここで何してるの?」

「天使さまには関係のないことです。困っていないので、どうかそっとしておいてください」

「ぐぬ……」

 会話が拒絶される。下界の人間に過度に干渉してはならないのはその通りだし、遭難でないなら彼女の用事が終わるまで待つべきだ。だが、こんなに邪険に扱われるとは思わなかった。

 仕方がないので、レイは少女の様子を観察することにした。

 このアンテナ施設は地熱を利用して電力を得ている。かなり古いものだ。レイが人間として生きていた頃のものか、もっと昔かもしれない。

 アイという少女はそれを起動し、どこかと通信しようとしている。別の惑星に友達でもいるのだろうか。

 しかし、先程から苛立ちながら古い機械のボタンをいじっている。うまくいっていないようだ。

 少女は大きくため息をつき、地下に続くハッチを開こうとした。小さな体では、厳重に閉じられた鉄製のハッチを開けるのは難しそうだ。

「どこ行くつもりなの?」

 レイは見かねて話しかけた。アイはレイをぎっと睨む。

「地下の発電機です。アンテナ本体に電源が来ていないようですから」

 アイは吐き捨てるように言った。コンソールは点灯しているが、この巨大なアンテナ自体からは気配がない。受信は小さいし、送信は沈黙している。

 普通なら不具合を示す表示くらいあるはずだが、なにぶん古い施設だ。白耀星の住民が使っているというわけでもない廃墟なので、あちこちガタがきていてもおかしくない。

「危ないよ、そんな所」

 レイは言う。施設の耐用年数はとっくに過ぎている。地下がどんな状態かわからない。

「余計なお世話です。止める権利はないはずよ」

 あいかわらずの調子で、アイはレイの言葉をはねのけた。

「止めるわけじゃないよ。私が一緒に行ってあげる」

 レイは笑顔で言った。決意の固さを感じたのか、アイはそれ以上何も言わなかった。



 施設の地下には非常灯がついていたものの、ところどころ途絶えていて暗かった。レイは端末のホログラム機能を使って周囲を照らした。村で見せた花火と同じだ。

「……本当に、天使さまなんですね」

 アイは言った。どういう意味なのだろうか。

「あなたのような軽薄な天使さまがいるとは思わなかったから」

 刺々しい言葉がレイにぶつけられる。本当に生意気な少女だ。

 二人は深部へと進んでいく。発電の熱で溶けた積雪が水となって滴っている。施設の原型は思ったより残っているが、鉄製のものは錆びついて脆くなっている場所が多い。

「うっ!」

 アイが足をかけた階段が壊れ、落ちそうになる。レイはとっさにその手を掴み引き上げた。

「……ありがとう」

 照れくさそうにアイは言う。怖い目にあったのに、地下へ進むことはやめないようだ。

「どうしてここまでするの?」

 レイは気になって言った。ただの機械好きだけですることとは思えない。

「……黒耀星に」

「ん?」

「難病の人がいて。ナノマシンの調整がうまくいってないらしくて」

 アイは、通信機にこだわる理由を説明してくれた。

 現代のレムリア人はほとんどの病気と無縁だが、たまに体内のナノマシンをうまく制御できなくなることがある。老齢になるとそうなりやすく、寿命として受け入れる人も多い。

 ここの通信設備を使えば遠隔でその人のナノマシンのシステムを調整することができる。だからアイは、こんなに必死になって施設を復旧させようとしている。

「気に食わないからよ。できることがあるのにそれをしないで受け入れるなんて」

 アイはそう言い切る。この言いぶりは、レイが知るあの人とそっくりだと思った。

「私、黒耀星に行こうとしてるんだ」

「え?」

 レイが言うと、アイは驚いたようにこちらを見た。

 天使は人間を直接救済することはできない。だが、その人に調整薬を届けるくらいは許容範囲だと思う。長く交わっていない両惑星には常用できる交通手段はないが、それを復旧させるためにレイはここに来たのだ。

 レイが運び屋になる。通信が復旧しないようならそういう手もある。

 そう口にしようとした瞬間だった。

 破裂するような音がし、地下から蒸気が噴出してきた。何事だろう。

「これは……やっぱり、この水のせいで……!」

 アイは言う。どういうことなのか。

「不具合の原因。下に水が溜まって、装置を腐食させてる。だから電源が来なくなってた」

 簡潔なアイの説明。旧世代の地下構造は広大だが、とても長く溶けた雪が流れ続けた。地底湖は広がり、ついに施設を破壊するまでになったのだ。

 この蒸気は、地熱を伝えるシャフト部分に水が入ったということ。施設は鳴動し、腐食したあちこちが壊れてすごい音がしている。

「危ない……!」

 立っていられないほどの振動。レイは目の前の少女を抱きかかえた。

 錆びた鉄が四方八方から襲う。レイは自らの幽子分解能力を使ってかろうじて防ぎながら、闇へと沈んでいった。



 大きなアンテナを持つ通信設備、その下にある古びたコンソールが目の前に見える。誰かの指がそれを操作し、通信を行おうとしている。

 その指はなんとなくレイのものに似ているが、もっと細い。それに少しだけ年齢を重ねた手に思える。

『夢……?』

 これは現実ではないのだ、とレイは自覚した。

 リプロダクティアでも夢を見ることはある。だが、レイの経験の中でこんなに明瞭なものは初めてであった。

「こちらアッシュ、聞こえる?」

 いつかどこかで聞いた懐かしい声が発せられる。通信が繋がったようだ。

『こちらオニキス。良好だよ』

 返事もまた、レイにとって懐かしい声であった。

 この通信は、レイがよく知る二人によって行われているものらしい。

 Nデバイスによる拡張現実、AR投影が始まる。

 失われて久しい技術だ。CUBEの暴走が起きる前、この技術が健在だったあの頃の通信記録でしかありえない。

 あたかもこの場にいるかのように通信相手の姿が映し出された。それはやはり、レイが考えていた通りの人の姿。

 楪世ルリ。レイの友人であり、はるか昔に失ったはずの人の姿であった。



「準備は整ったわ。あとは……」

 レイの視点となっている人物は言う。その目線は、話す相手であるルリの顔を見ていない。

「あとは、あの子たちが選ぶこと。欺瞞だね」

 ルリは言う。その言葉に対して、何も答えることができない。

「選ぶのはきみだよ、アイ。大勢を死なせた責任を果たすか、それともあの子の未来を選ぶか」

「……わかってるわよ」

 ルリの口調は厳しいようでいて、レイに話す時と同じ穏やかさと優しさを感じた。

「正直、わからないわ。そうなってみるまで……」

 視点の主は言う。迷う口調で、送信施設に何かを挿入している。

 古い形式のディスケットだ。4ペタバイト程度の容量を持つ光学メディア。情報メディアをネットから切り離すのを禁じたかつての月面都市にはなかったものである。

 ラベルには「リンカネシア/マスターファイル」と書かれている。

「確認した。これでいつでも、綺柊にこのシステムを届けることができる」

 旧型の送信施設は盲点だ。CUBEにも知られることがない。あとは、この記憶さえ封印してしまえば誰にも気付かれない。

 レイは知っている。仮想現実退避空間、リンカネシア。アイ・イスラフェルの死と同時に彼女を祈機に変えて発生し、死者たちを救ったシステムだ。

 そんなシステムを作るプログラムを一体どこに隠していたか疑問だったが、こういうことだったのだ。監視されるNデバイスネットの外、古い通信施設に隠されていた。

「あとはお願い」

 月に戻るまでに工作の記憶を吸い出し、この通信施設のメインバンクにバックアップを残す。そう思い、視点の主はルリに依頼をする。

「なに、月行きのシャトルはまだだろう。もう少し話をしようじゃないか」

 ルリは言って、首をかしげながら微笑んでいた。

「話すことなんてある?」

 それに対して、視点の主はため息混じりに言った。

「私ときみで話すことといったら、このレムリア世界についてくらいしかあるまいね」

 ルリは言う。そして、まるで独り言のように語り始めた。

 レムリアは小さな世界だ。一世代前の宇宙が滅んだ時、そこから脱出してきた一人の少女の体から再現された極小の世界である。

 太陽は人工のもの。背景にある宇宙の風景も作られている。この閉じた世界は一見すると不完全なように見える。

「しかし、私達のレムリア世界ほど完全なものはなかった。私が見る限り、これに近いものはあの青き星くらいだよ」

 説明しながら、ルリは不可解なことを言った。

「私たちの世界……?」

 視点の主は言う。まるで、他の世界があるのを見たかのような言い方だ。

「宇宙は滅び、再誕した。だがこのレムリア世界はそれを生き延び、そういうものは一つではなかったようだ」

 ルリがそう言うのと同時に、通信施設の風景が夜空へと変わっていった。

「これは……」

 その夜空の星は、再現された星空とは違っているのがわかった。

「黒耀星はレムリア世界の最も外側にある。ここからなら、外の世界を見ることもできる」

 黒耀星。地球や月の事情から切り離された新天地。役目を終えたSロットたちの安らぎの場としても機能したそこには、もう一つの役目があった。

 それは、レムリア世界の外の様子を観測することだ。

 外の宇宙の姿が映し出される。宇宙全体の質量のうちレムリアが占める割合など微々たるもので、他の星々は存在していて当然のものではある。

「近くの銀河にも似た種が芽吹いた形跡がある。いくつもね」

 ルリは言っている。前の宇宙を脱出してきた種はレムリアの他にもあると。

 その中でもこのレムリアは特別なものらしい。特別に小さく、特別に完璧だ。

「レムリアをこのまま漂わせるのは惜しい。そう思うようになった。私にとってのリンカネシアの動機は、本当はそこにあったのだよ」



 リンカネシアは理想的なシステムだ。自分たちにとって大事な人々、現実救済のために生贄にされてきた多くの姉妹たちの救済にもなる。

 だが、枯れているが野心的なこの科学者はそれだけで満足する人ではない。そうだったはずだ。

「これらの無数の世界は、再び滅びる運命にある」

 ルリは言い、数々の外の銀河の姿を見せた。

 あるものは衰退して滅び、あるものは肥大化して破綻していく。レムリア世界のように均衡を実現しうるものと違い、外の銀河はどれも不完全だ。

「種自体が不完全に作られたのだろう。私達の世界だって最初から完全ではなかった。私ときみで埋め合わせるまではね」

 ルリの言葉は、リンカネシアのことを言っているのか。たしかにあのシステムはよく出来ているが、こちらがそれを使う前提に決めつけて話すものだと視点の主は思う。

「このままじっとしているのは惜しい。私はそう思うよ」

「……何が言いたいの?」

「もう少しだけ、旅をしてみないかね」

 ルリは言う。視点の主には意味がわからない。

「救済が必要な世界が数多くあり、レムリアにはそれができる。そうだろう?」

 ルリの考えは、このレムリアを手引書にして他の銀河の滅びを救うというものだった。

 レムリアは完成し、何者にも侵害されない。外に出ていくことが危険にはならない。だが、そんな数多くの銀河に触れれば苦しみも多く発生するだろう。

 相手が自立すればいいが、そうでない場合はどうするのか。救えない世界があったら?

「その時は、その一部分か記録だけでも残せばいい。レムリアの幽子量でできる限度はあるが、それをいっぱいにするまではね」

 ルリは簡単に言う。レムリアは秘めた力に対して小さい世界だ。まだ多くの世界を取り入れるゆとりがある。

 しかしそれは、あまりにも悲しく苦しい作業ではないのか。

 それを担うのはリンカネシアを運営するものたちか、あるいはその子供の世代だろう。

「死にゆく世界を抱かせ、このレムリアを棺桶のように使うつもりなの? そんなのは反対だわ」

 視点の主は言う。全てに疲れた態度だった彼女が初めて怒りを表している。

 子供や家族のためになら怒れるのだ。そういえばそういう人だった。

「私やきみの人生だって、似たようなものだっただろう」

 ルリは優しい声で言い、こちらに一歩近づいた。

「でもそのたびに、私たちは求めるべき価値を見つけていった。まだもう少し……私たちの子供や孫の世代までは、それを自分で探させてやろう」

「救済の話はどうしたのよ」

「きみが人の命に責任を感じているらしいから、そう切り込んでみたのだけどね?」

 ルリの言葉で、視点の主は理解した。

 宇宙の救済をしようというのは本気なのだろう。ルリの声色は複雑で、よほど悲惨な外の世界の現状を見たようだ。

 ルリは本質的には命を何より大事にする人だ。だが、それ以上に望むことがある。リンカネシアを運営することになる者たち――つまり子どもたちに、できるだけの価値を与えようとしているのだ。

 リンカネシアが起動すれば、レムリアは何度も世界を繰り返す存在となる。だが、記憶を含む全体の容量は増えないようにうまくできている。それを許せば肥大化の末路を辿ることになり、いつか破綻してしまうからだ。

 それぞれの魂が望む価値や記憶を集めていき、手札を増やしていく。ある時期にカードの枚数は増えなくなるが、その頃には十分と言えるほどの情報が集まっている。

 印刷されたカードの絵柄は変わらない。しかし、それが無数にあればどんな絵も何度でも描けるのだ。

 それが、ルリが考える永続性だ。魂が望む範囲で起こりうる全てのことを記憶した後、ランダムでそれを組み合わせて現実を再生し永続していく。レムリアの幽子容量とクオリアの数なら、十分に全ての可能性を記録し制御できる。

 作られるパターンの数は膨大の一言につき、繰り返しといっても十分に幸福で多様な世界だ。容量の肥大化を起こすこともなく、完結している。

 ただルリは、そこに入れることのできる手札をさらに増やそうとしている。

 今よりももっと彩りを与えようとしているのだ。レムリアの容量にはまだゆとりがある。手札が多ければ多いほど生み出される現実の派生が多くなる。

「柩には花を入れるものだ。いつか旅人にふさわしい者が現れた時、価値を拾わせてやりたいのだよ」

 それがルリの本音。レムリアを手引書とした宇宙の救済というのは、花でいっぱいの柩を完成させるための動機だ。

 未来が見えているらしいルリは、そんな様子をもう見たのかもしれない。



「起きて、天使さま」

 どこかから声が聞こえる。

 錆のにおいがまだ少しする。あの破壊の中、レイはどうなったのだろうか。

「おせっかいをするからです」

 意識が浮上していく中、そんな言葉が聞こえる。あの少女の声だ。

「でも……そうね。やっと思い出したわ」

 声が遠ざかっていく。どこに行くのだろう。

「さようなら、私の天使」

 その言葉を最後に、少女の声は消えた。

「アイ!」

 レイは飛び起きた。そこは暗い地下ではなく、巨大なアンテナ塔の下の雪原だった。

 どういうことだ。何が起きたのだろう。

 レイは施設に歩み寄る。外側にある送信設備の中、ディスケットを入れるスロットがある。

 古いディスケットが入れられたままになっている。妙に胸騒ぎがして、レイはそれを取り出してみる。

 ラベルの文字は消えてしまっていて読むことはできない。長い時間で劣化していて、すぐにばらばらと崩れていってしまった。

 地下から振動が聞こえる。やがてコンソールからも灯が消え、アンテナは完全に沈黙した。永久に眠り続けるのだろう。

 レイは集落に戻り、アイという少女の話をしようとした。

 しかし、村人は誰もそのアイという少女のことを知らなかった。まるで最初から存在していなかったかのように。

 夢でも見ていたのだろうか。しかし、NDDの使用中にログにも残らない夢を見るとは考えられない。

 記憶にははっきり残っている。ログとてらして時間を計算すると、レイが気絶していた時間はほんの数分だ。あれは、そんな短い時間に起きた出来事とは思えない。

 レイは天界にいる柊に通信をつなぎ、今の出来事を報告した。

 あまりにも因縁なアイという名をした少女との出会い。そして、行動中に垣間見た鮮明な記憶。

 目が覚めた時に変わっていた現実。レイの指先に残った感触と、ほんの少しの錆の匂い。

 まとまりがない報告だったが、柊はそれをじっと聞いてくれた。

『月面都市がああなって、リンカネシアが起動した時……たしかに、外部からプログラムの一部を受信した』

 柊は話す。レイが記憶で見たように、リンカネシアを形成するデータは様々なところから送られたという。

 母体となったアイの中にもリンカネシアを実行するためのプログラムのいくらかは入っていた。しかし、重要な部分は手動でクラウド化された旧式のデバイスからロードされたそうだ。

 つまり、レイが見た記憶は本当のことなのだろうか。

 この送信施設がそうだったのか。探せば、こういう場所はまだ存在するのかもしれない。

「でもそれなら、あの女の子は……?」

 幽霊、というわけでもないだろう。どういうことだったのだろうか。

『推測はできる。少し強引だけど』

 言って、柊は仮説を教えてくれた。

 記憶が本当ならば、この施設にはアイの記憶も預けられていた。ネットにつながっていないデバイスを扱ったことを察知されないよう、リンカネシアに関する記憶は封印していたようだ。

 施設の老朽化か、誰かが装置を触ったか。何かのきっかけで、リンカネシアの次元構築プログラムとアイの記憶が反応したのかもしれない。それが部分的に作用して、アイの虚像を現実に投影したのではないか。

 それが柊の考えだそうだ。突飛だが筋は通っている。

『リンカネシアのプログラムは現実を作る装置みたいなものだから、ありえないことじゃない。地球にはまだ住民がいるし』

 術者となる人間がいれば現実干渉が行われる可能性はある。とても低い可能性だが、長い歴史を持つこの雪の惑星でそれが起きた可能性はゼロではない。

「でも、ならなんで消えたの……?」

 レイは言う。そういう理屈なら、アイという少女はどうして急にいなくなってしまったのか。

 住民の間では、そういう少女がいたという事実さえなくなっていた。レイが地下に行っていた事実も存在しない。過去に戻って存在を消したかのようだ。

『記憶がきみと接触して、同化したからかもね』

 それに対し、柊はそう考えを述べた。

「そんなことあるの?」

『Qロットは記憶同調によってSロットと同化して現実干渉を転写できた。そういう現象はある』

 そういえば、柊はそういう仕事をしていたことがあるのだった。純粋なSロットでないレイは忘れがちだ。

 もしあれがアイ・イスラフェルの記憶ならば、レイと同調しやすいことはありえる。

 なにしろ実の娘なのだ。レイはアイの幽子デバイスから分かれて生まれてきた存在である。

「あいつ……思わせぶりなことしてくれちゃって」

 レイは言う。アイをこの世界から幽子構造ごと消滅させてしまったのは他ならぬレイだ。ようやく忘れかけていた時に、また余計なものに触れてしまったものだ。

 やはり、アイはもうこの世界にいないのだ。

『考え方次第だよ、レイ』

 レイの考えを見透かしたように、柊は言った。

『何もかも消えてしまったわけじゃない。アイだったものは私や、きみに受け継がれてる』

 アイは現実干渉の結び目にいた。そこから魂を分け、多くのSロットが生み出されていった。

 かつてアイだったものは、かたちを変えて世界に存在している。ここにも存在していたように。柊は、そうやって受け入れているようだ。

「そんなもの相手じゃ、文句も言ってやれないけどね」

 レイは笑いながら柊に言葉を返した。

 かたちを変えて。そのかたちこそがアイの本質だともレイは思う。アイは傲慢な望みで自らの形を変え、違うものに成り果ててしまった。

「いや、そうでもなかったかな?」

 レイは、記憶の中にある少女のことを思い出した。

 あれは子供だったが、アイのむかつくところを詰め込んだような性格をしていた。少しも変わってはいない。

 完全に元の形ではないかもしれない。けれど、この世界にはアイの痕跡はまだはっきり残っている。

 そしてそれは、レイの記憶にも刻まれている。

 この先も、ずっと記憶され続けている。



 村の住民たちから、黒耀星行きのシャトルの準備ができたと連絡があった。

 レイはみんなにお礼を言い、そのシャトルに乗り込んだ。あのアンテナ施設と違って定期的に整備されているそれは、マスドライバーに乗って危なげなく大気圏を突破。遠き外側の惑星である黒耀星へと飛んでいく。

 レイの手の中にはナノマシン異常への調整薬がある。記憶に従い、作ることができた。これを届けるのも今回の大事な仕事だ。

 しかし、本来の仕事も思い出さなければならない。

 柊は言っていた。宇宙外縁、小惑星帯から古い魂がリンカネシアに合流しているのだと。

 拡散したはずの魂の復元。リンカネシアの技術者から見ても超常現象だ。その原因を突き止めるというのが、レイの本来の任務であった。

 だがレイは、その現象のもとに何がいるのかを察しつつあった。

 アンテナ施設で見た記憶。その中に、レイは旧友の姿を見た。

 あれはリンカネシアの起動の少し前の記憶。その頃にはもう、ルリはこの世を去っていたはずだ。

 月の大空洞で、レイはルリの最後を見た。しかし、考えてみればあのルリのことだ。リンカネシアを作った人であり、幽子の分野では人類で最も進んだ研究者だった。

 肉体が滅びても、何らかの方法で生き延びていておかしくない。実際、リンカネシアの開発にルリは関わったという。

 それは生前のことなのか、死後のことなのか。気にしたことはなかった。ともかく、ルリはもうこの世界にいないと思っていたからだ。

 でも、それは誤りだったのかもしれない。

 最近あるという消えた魂の復元。それを人為的に行える者がいるとしたら、レイは一人しか心当たりがない。

 シャトルが黒耀星に近づいた時、レイは自動操縦をオフにした。そして、黒耀星の衛星のひとつに接近する。

 アンテナ施設の記憶の中で通信先に指定されていた場所。それは、かつてあの古世代研究所が保有していた観測施設があったとされる場所であった。

 黒耀星のもう一つの役目のための場所。外部観測望遠鏡をそなえた施設だ。

 そこに近づくと、発着ポートがひとりでに開いていった。

 やはりだ。まだ生きて機能しているのだ。

 真っ白な塗装で占められた内部へと入り、レイは船から降りる。観測所に続く通路へと入っていく。

 居住施設に誰かが住む形跡がある。この雑然と資料が積まれた様子には覚えがある。

 培養槽がある。使用ログを見ると、二つ肉体を作った形跡がある。一つについてはすごく古い。

 レイはさらに、その奥へと進んでいく。

 突き当り、観測所へ続く扉がある。レイはそこをノックした。

「はい?」

 出てきたのは、濃灰色の髪をした小柄な女性であった。

 初めて見る顔だ。しかし、柊と同じ綺系Qロットの面影がある。

「あいつのお客さんかな。どうぞ」

 言って、その女性はレイを中に招き入れた。

 観測所もまた、研究所によくある白い塗装で内部を埋めていた。

 その白の中に、懐かしい黒髪が見える。

 ボブカットにした髪を揺らし、巨大な観測装置を見ている。杖をつきながら移動し、機械の調整をしている。

「榧くん。四番のプレートを交換してくれないかな。今日は幽子の霧が濃いようで」

「人を使うなよ。全く……」

 作業に没頭していて、こちらには気付いていない。榧と呼ばれた者が肩をつつくと、彼女はこちらを振り返った。

「ついに見つかってしまったか」

 レイの姿を見るなり、ルリは苦笑しつつ言った。

 やはり生きていた。レイの視界が涙で歪む。

「いらっしゃい。長旅ご苦労さまだったね」

 いつもの調子でルリは言い、白衣のポケットに手を入れている。レイは早足で彼女に歩み寄り、相変わらず折れそうに細い体を抱きしめるのだった。

 レイは不思議な夢を見た。

 時代は二十あるいは二一世紀ごろの地球。レイは家を持っている。二人の子供をその家で育てながら、太陽の下で暮らしている。

 海沿いの道路に面する家からしばらく歩くと、そこに友人の家もある。

 友人の名はルリ。レイは、彼女とともに笑っている。きっとそんな未来は、この世界が巡る中で現実になる時が来るのだろう。

 なぜならあれは、予感ではなく願いだったと思うから。レイにとっての大切な一輪の花。

「おかえり、ルリ」

 レイは涙を拭き、再会した友人に笑いかけた。

 返すルリの表情はあの夢で見た、少女のように屈託のない笑顔であった。



(アイのかたち・終)

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レムリア 枯木紗世 @vader

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