海の底から空へ 後編
録音ブースの向こう側にいる柊を見る。他の人と会話している姿は家にいる姉の姿と何も変わらない。しかし、ひとたび楽器を手にすると雰囲気が変わる。
「やっぱり柊ちゃんには神が宿っているねえ」
楓の隣に立つ長身の姉妹が言う。
柊に匹敵する身長があって大人っぽく見える高校生であることは確かだが、彼女の存在感の理由は柊とは少し違う。
綺家の姉妹は六人いる。
長女の
次女の
三女の柊。楓とは一番親しい大学二年生の姉。
「やっぱり一回脳を調べ……MRI、いや解剖……ブツブツ……あははっ」
そしてこの四女の桧。神出鬼没。機械に強い桧は、今日はミキサー卓を操作する担当で来ている。
五女の
桧の不穏な言葉が聞こえたが、いつものことなので楓はスルーしておく。舌なめずりした音が聞こえた気がするけど、それもスルー。桧ならいつか本当に妙なことをやりそうで怖い。その時は楓が柊を守ってあげなければならない。
収録のための演奏を終えた柊は、ブースの中で何人かと会話を交わしている。この後、楓も収録に加わる予定だった。
舞台用の作曲を依頼され、今日はそのデモ音源の作成であった。柊は演奏家としても優れているが、もっと非凡なのは作曲の才能だ。レコード会社や音楽業界から目をつけられる理由は、長く関わっている楓には誰よりもよくわかる。
いつものチェロではなくバイオリンを手にして、楓もブースに向かう。楓が一番得意としているのはピアノで、その次がバイオリンである。
ブースを出た柊が桧と会話し、桧の大きい声がこっちにまで伝わってくるのを聞きながら楓は楽器を構えた。
マイクの前に立ち、収録のテストのために音を奏でる。ふと、柊が作曲したあの曲に興味が惹かれて奏でてみたくなった。
舞台用の今回の楽曲ではなく、近江大のゲリラライブで演奏されたあの曲。おそらくは稜木怜のために綺柊が書き下ろしたもの。楓にはすぐにわかった。それが柊の手による楽曲だということが。
動画でいくつも歌を聞いて、怜には何かが足りない、どこか空々しいと感じていた。実際に会った印象ではもっと生き生きとしていたのに、なぜか歌動画には心を動かされなかった。その欠けた半分を埋めるように、あの曲はぴったりと怜に当て込まれていた。
足りなかったのは歌だった。怜には、自分の言葉として歌う事のできる曲が不足していたのだ。他人が書いた曲を完璧にトレースして歌い上げることはできる。人の心を動かし、人気にもなれる。でも、どこか本心を抑えたものになってしまう。
「オーケーかえちん。テスト、そんくらいでいいよ」
「あ……はい」
トークバックで桧から声をかけられるまで、熱中して演奏してしまっていた。
怜には柊の作風が合っている。それだけではなく、柊が作る世界観を表現するものとしても怜は非凡な才能を持っていると思った。今まで柊が手掛けた楽曲を歌った誰よりも、彼女は柊に合っていると思えたのだ。
あの時のことが、まだ心の中でリピートされ続けている。
ゲリラ的に行われたライブが終わり、蜘蛛の子を散らすように人はいなくなった。後に残ったのは数人の演奏者だけだった。
お開きになった理由は、大学自治会長の枢、綺家の次女が騒ぎを聞きつけてやってきたからだ。
「許可のない催しはいけないって前も言ったはずですよ! 反省しなさい!!」
圧巻のパフォーマンスを見せたバンドメンバーにサインをせがむ暇もなく、駆けつけた枢の剣幕にみんな騒ぎながら散って行ってしまった。何人かは遠巻きに様子を見ていたが、自体が鎮静していくうちにまばらになっていった。
綺枢は綺家の次女で、やはり姉妹の一人である。昔から堅めの性格で、形だけでいいとされているような大学の自治会で真面目に活動している。
でも、注意しに来たのが教授や学生課の職員でないだけまだマシだった。自治会が処理したということになれば、ほとんどの場合はその後のお咎めもない。そもそも、部室棟は本棟とは離れているから問題も知られていないのではないだろうか。
「榧姉さんはともかく、柊もいたなら止めてください」
「ちょっと。私はともかくって」
榧も柊もこういう時にあまり深刻な顔になるタイプじゃないので、言っても仕方がないと楓は遠巻きに見ていた。でも、二人とも自分からこういうことを思いつく人ではない。
主犯格はやっぱり真ん中で叫んでいたあいつ、稜木怜に違いない。その予想は当たっていた。特に厳重注意を受けているのはその怜だけで、目に見えてオロオロしている。こうなることは予想できただろうに。
少し助け舟を出してあげようかな、と楓は思う。無断イベントはどうかと思うけれど、演奏は素晴らしかった。何より姉たちが何人か関わっているので少しくらいは……。
そう思って歩み寄ろうとする楓の横を、誰かがさっと追い抜いて怜の方に向かっていった。
それは楓が知っている人物だった。怜と同じような銀髪を一本に結び、怜よりももっと細身でスーツを身に着けた女性だ。後ろ姿からも意思を感じさせる歩き方だった。
「何をしてるの?」
ぷんすか怒っている枢を通り越して、その人物は冷たい声色で怜に話しかけた。
「あなたには関係ないでしょ」
オロオロしていたはずの怜は急に腕組みをして、毅然として言い返した。急に始まったやりとりに、怒っていたはずの枢も言葉を失っている。榧は「やば」という顔をして距離をとっている。
スーツの人は、楓も知っている藍さんだった。稜木藍、近江大学とも関係が深い音楽関係の企業の経営者、という程度の理解が楓にはある。
「柊を巻き込んで変なことをしないで頂戴」
「柊は友達だよ。あなたこそ柊の何のつもりなの?」
二人は言い争っている。苗字も同じだし……姉か従姉妹あたりかな。関係者だろうとは思っていたが、深く考えたことがなかった。あまり仲はよくなさそうだ。
「叔母さんなんだよ」
ひっそりと近づいてきた榧が、楓にそう耳打ちをした。叔母さん……それにしては藍さんは若く見える。けれど、怜の母の妹が社長の藍さん、ということらしい。
怜の母と聞いて、楓はあの黒耀石のペンダントのことを思い出していた。
姉の綺柊と妹の綺楓。この姉妹には少し広いこの一戸建てに、六人いる姉妹のうち年の近い二人だけが住んでいるのには様々な事情がある。他の四人との関係が悪いというわけではない。それぞれに別々の事情が存在し、家に残ったのが二人だけだった。
楓も柊も家にいる時にそれほど声をはる方ではない。家の中はいつも静かだった。姉妹の中ではお互いが一番気を許していた。一緒に暮らしてもう五年以上になる。
姉妹はみな忙しく、年末でもそうそう全員が揃うことはない。あの時からこの家の食卓はいつも柊と楓の二人だけ。でも、今日だけは違っていた。
「なぜ私も呼んでくれなかったんですか。ひどいですよ」
そう話すのは、今日の収録に参加していた
京都の高校に進学して一人暮らしする欅は、生徒会長を務める上に華道もたしなみ、剣道部の主将も兼任している。その上、楽器の演奏も得意としている。和服がよく似合い、雑誌のモデルになったこともあるとか。綺姉妹にはこんな人ばかりで、末っ子というのを差し引いても楓は少々地味な存在だ。
「欅は高校があるじゃん」
憤慨する欅に大して口を挟んだのは榧だ。自分で焼いたオリーブチキンを食べつつ話している。野外でも作れる榧の得意料理だった。どうして野外で料理する必要があるのか、楓には想像がつかない。
「榧姉さんだって仕事があるじゃないですか」
「う……思い出させないでよ。いいんだよ私は。ふらふら生きてるんだから」
ゲリラライブをしたという話を聞き、欅は悔しがった。参加したかったらしい。大人しくて聡明に見える欅だが、負けず嫌いさで言えば姉妹で一番かもしれない。
校則に違反するライブ行為に参加できなかったことは「負け」にカウントするのだろうか? 自分の高校に戻った時にやらかさなければいいのだけれど。
姉妹が六人のうち四人も同時にそろって食卓を囲んでいるというのは綺家では珍しいことだった。ここに、ボランティア活動をしていてなかなか会えない枢の二人が加わっていれば全員だ。桧は神出鬼没なのでカウントしないことにする。
「なんかごめんね。最後、喧嘩になっちゃって」
申し訳無さそうに謝る怜。この四人の食卓に彼女も加わっていた。
「私は面白かったよ。ウチの教授にもバレなかったみたいだし」
榧はくすくすと笑って答えた。社会で働きつつ、大学院生にもなっている榧がそれだ。しかもその発言を聞いて、欅が余計にむっとした顔をして鶏肉にナイフを入れている。
なんだか……懐かしいな。
長い間、姉妹が一緒にいられる方法を考えていた。楓には何もできなかったけど、こうして簡単に四人も姉妹が揃っている光景を目にしている。
その中心にいるのは怜だった。彼女が加わることで綺家の時間が動き出し、日常に流されて交錯しなかった道がこうして交わっている。
「……ごちそうさま」
みんなが話している間にもくもくと食べ続けた楓は一足先に食事を終えた。まだ食卓にいたい気持ちはあったが、今日はやらなければいけない課題がある。
いつもなら食事が終わっている時間なのだ。談笑を続ける姉妹たちを残し、楓は一人で部屋に戻るのだった。
母の姿は写真にすらあまり残っていなかった。少し色あせたポラロイドの写真が一枚だけあり、それは楓が持っていた。他の姉妹たちもこぞって、「一番しっかりしているから」と楓に管理を依頼した。
その写真は、楓の私室のデスクの上に置いてある。
「しっかりしている、か……」
何もできていない気がする。自分のことは自分でやって、忙しくなる姉妹たちに迷惑をかけないようにする事くらいはできた。現状の維持や安定をもたらすことには計算が働く性分で、それを悪いとも思わない。生きていくためには役に立つ。けれど……。
課題をほぼ終えてからなんとなく母の写真を持ってベッドに横になり、持ち上げて眺めた。
「形見みたいなもの、残してはくれなかったわね」
あまりものを持たない母だった。楓が覚えていることも少ない。疲れからかまどろみはじめ、写真を手に持ったまま眠ってしまう。
薄い眠りの中で誰かが部屋に来た気配がした。
「ご……ごめ……! もう……から……」
「ぅん……?」
誰だろう。姉妹たちの声ではなかった気がする。まあどうでもいいか。部屋に入られて困ることなどない。見られたら嫌な日記の類などは持っていないから。
そのまま楓は眠り続けた。朝になった時、きちんとベッドに寝かされ、母の写真もデスクの上に置かれていた。姉妹の誰かがしてくれたのだろうと思い、特に気にとめなかった。
「姉でなく私に、ですか?」
株式会社オリオンの代表取締役、稜木藍が楓を本社に呼び出した。用事はソロアルバムを出さないか、という話だった。
「一部の作曲は柊にお願いしようと思うけど、アルバム自体はあなたのもので」
「おっしゃることがよく……」
こんな平凡な中学生にそんな話、何かの冗談のようにしか聞こえない。楓はそう思った。
「……それは過小評価のしすぎ」
過小評価とはどういう意味だろう。藍さんのことはよく、とまでではないが知っている。楓がもっと小さい子供の頃から柊と付き合いがある。はやくから柊に目をかけて関係を続けてきた人だ。だから、楓を評価する部分はもうないはずだ。
でも、この人に姉がいたらしいということも、その姉に娘がいて音楽をやっているということも知らなかった。あまり自分のことを話す人ではなかったのだ。
お姉さんはどんな人だったんですか、と聞きたくなったが、急にそんな不躾なことを聞けるわけもなかった。
「怜……さんは、この会社との関わりが?」
間をとって、というわけではないが、楓は怜のことを話題に出した。
「いいえ、あの子はプロになるような器用さはないから。会社とは無関係」
怜の血筋、育ちは音楽と無関係ではないが、藍のお眼鏡にはかなわないらしい。動画サイトの映像を見ただけなら、楓も同じような評価を下したかもしれない。
でも、あのライブだけは違って見えた。
「ああ……うちの怜が迷惑をかけたんだっけ。ごめんなさい。あの人のことで困ったら私に頼ってもいいからね」
藍は昔から知っている知人の顔に戻ってそう言った。ソロアルバムについての返事は急がないとのことだったので、その日はそれで失礼させてもらった。
怜の母、稜木蓮について調べるのは困難だった。最初に検索した時は誰もが知っている有名な作曲家の何人かのページがヒットした。何かの間違いだろうと思ったが、それらの作曲家のページには「稜木蓮の影響で」「稜木に師事し」などの文言があった。無関係ではないらしいが、稜木蓮本人についてはよくわからない。
知る人ぞ知る人物という感じだった。怜のことも「蓮の娘」という認識をしている人は少ない。しかし、断片的な情報から、どうやらすごい作曲家だったらしいことは感じ取れる。
「すごい作曲家……ね。それってまるで」
作曲家と聞いて楓の脳裏に浮かぶ一番の人物といえば、柊を置いて他にいない。
怜が柊とやりたいと思う理由はわかる。あのライブを見た後なら納得いく。柊が作る楽曲が怜を引き立てるものであるだけでなく、それを表現する者としても怜の才能は非凡だと思った。
でも、本当にそれだけなのだろうか。
断片的な情報を見るだけでも、この稜木蓮という人物は柊に似ているように思える。娘である怜もそれは感じ取ったに違いない。だとすれば、怜は柊に母親の影を見出し求めているのかもしれなかった。
「……やめよう」
これ以上は推測にすぎない領域に入ってくる。楓は蓮を知らないし、これ以上はあまりよくないだろう。
ちょうど怜のことを考えている時に彼女から連絡が届き、楓は少し驚いた。
『今ちょっといい?』
チャットアプリにメッセージが来ている。あの水族館のデートの時に連絡先を交換したのだった。
『いいけど』
返事を返したが、すぐには返ってこない。何だろう。面倒な用事だろうか。
『話したいことがあるから、どこかで会えないかな』
長く待った割には文章は短かった。説明しようと思ったけどうまく文章にならなくて、結局こういう文を送ってきた、という所だろう。
どうしたものか。入り組んだ話なのかな。そんなに外に出るタイプではない楓は、用事のためにいちいち人と会うのは気が進まない。帰りの喫茶店……は、まだちょっと気まずいか。かといって学校では人に見られて嫌だ。だったら……。
『水族館、また連れて行ってくれるなら会ってもいいけど』
無理だったらそれでもいい。言うだけ言ってみるつもりで、楓はそのメッセージを送信した。
水族館には誰も客がいなかった。入り口は改札式になっていて、チケットをかざすと入れるようになっている。楓は怜が送ってくれたチケットを持っているので、それを改札に通して中に入ってきた。入り口が無人なのはわかるが、水族館の中にも誰も人はいなかった。
「怜……?」
稜木家なら水族館の貸し切りくらいはできそうだが、怜はそういう力を使いそうな感じはなかった。藍さん……も違うかな。
「何かのいたずらかしら」
とにかく、なんだか普通ではない気がした。
湖の歴史、化石の展示。淡水魚の紹介の展示、土産物屋。そして湖底と繋がったガラス張りのディスプレイ。先日歩きつくしたので水族館の構造は熟知している。どこを歩いても、職員の姿も観覧客の姿もなかった。
一周したところで人影を見かけた。職員さんだろうか。楓は駆け寄って声をかけようとし、その姿が自分と同じ私立水仙学園中等部の制服であることに気づく。
「灯子……ここで何をしているの?」
それは、同じ部の楪世灯子であった。黒くつやのある髪に金色の瞳で、静かな笑みをたたえて楓を見ていた。
「何って、お魚を見てたんだよ」
「ああ……そっか。灯子も」
入り口は無人だった。今がどういう状況か知らないけれど、彼女もまた迷い込んでしまったということだろう。
「どうなってるんだろう……職員さんもいないなんて。何か事故でも……」
知り合いに会えたことで心細さが一気に出てきて、楓は思わず灯子に近づいて言った。
「私にもわかんないや。でも、なんだか貸し切りみたいで楽しくない?」
呑気な灯子らしい反応で少し呆れてしまう。でも、だからといって不安は拭えない。
「灯子。何かあったのかもしれないわ。一緒に外に出ましょう?」
「外に? 私達に外なんてあったっけ?」
「危険かもしれないわ。そんなことを言ってる場合じゃ……」
「危険なんてないよ。この世界に、危険なんてないんだよ」
「灯子……?」
様子がおかしい。いくら灯子でも、こんな状況で不安そうにしないなんて。
「危険なんてない。私達の小さな世界とは、もう違う。そうだよね、楓」
何を……言って……。灯子の様子を気にした時、大きい何かが横切った目の端に写った。横にある湖底のガラスの中だ。
それは幻想の生きもののようだった。湖には怪物が棲んでいる、なんていうよくある伝説。その怪物を思い起こさせるような……おとぎ話の竜のような黒い影がかすめた。
湖の奥に、方舟のような巨大な船がうっすらと見える。
「え……」
動揺する楓。目の前に迫った灯子がじっと楓を覗き込む。楪世系の特徴である黒髪に、ヘンシェル系に多く見られる金色の瞳。
「どうして……」
あなたみたいな人が、この世界にいるの? その楓の考えを読めるかのように灯子は目を閉じて体をひいた。
水族館、この閉塞感には覚えがある。
湖底にずっと沈んだ施設。
そこで経験した事。
そう、この水槽に写っているのは、楓が遠い過去に……生まれるよりも前に経験した出来事は、
「楓!!」
大きな声とともに手をとられ、楓は振り返った。楓の手を掴んでいたのは怜だった。
周囲に音が戻ってくる。展示を見ていた他の客が驚いてこっちを見ている。楓もきょとんとして怜をじっと見ていた。
「どうしたの……? 様子がおかしかったから……大丈夫?」
真剣に心配した表情で怜は言った。
「おかしい、って……どんな風に?」
「ぼーっとしてて……声をかけても聞こえてないみたいで。本当に大丈夫?」
なるほど……確かに夢の中にいるような感覚だった。それにしても……なんであなたがそんなに必死な顔になっているの。髪もばさばさになっているし、脂汗まで……。
「少し、疲れていただけだから……ごめんなさい」
楓はそう言ったが、胸の奥にもやもやした気持ちが残っていた。大丈夫、こういう時に気持ちを隠すことには慣れている。
大丈夫……? それの何が大丈夫なんだろう。今を続けることは得意だ。現状を維持することなら、あの時だって。
本当はとても怖い夢を見たの。そう言えればよかった。でも、それってどうやって言ったらいい? そんなことを話した経験がないからわからない。
「外に出よう」
「え?」
「ね、行こう?」
怜は言いながら、強すぎない力で楓の手をひいた。
湖の上に桟橋が続いている。そこから湖の水面を一望できる。この水族館にはこうした屋外展示もある。前回は見ずに終わってしまった所だった。
不思議と、施設の外に出ただけで気分はよくなった。怜はそれでも心配していたが、本当に元気らしいと知るとやっと安堵してくれた。それでも、ずっと楓のそばを離れようとはしなかったが。まるで、飼い主を心配する大きい犬みたいだ。
「柊とバンドを組みたいと思ってる……っていうのは、もうわかってるんだよね。楓は」
「ええ」
風が穏やかに流れる中、そっと怜は話しだした。そういえば、今日は何か話があると言っていたんだっけ。
「ごめん! この前、勝手に部屋に入っちゃって。それで……お母さんの写真、持ってる所も見ちゃって……」
「ああ、あの時の」
怜が来ていた日のことか。課題のために部屋に一人で戻ったんだっけ。確かそのまま眠ってしまって……。
「あの時、気になって部屋まで行ったんだよ」
どうやら、今回怜がしたかった話というのはその時のことらしかった。
悪いことしたかな、と思った。いきなり家に押しかけて、急に姉妹たちと仲良く接しているところを見て、楓は複雑な気持ちを抱いたかもしれない。
まだみんな食事の途中なのに、楓一人だけが二階の自室に戻っていってしまった。また空気が読めないことをしてしまったかもれない。
「あれはそういうのじゃないよ」
年長の榧はそう言ってくれるが、怜は気になって仕方がない。
「ちょ、ちょっと会って来ようかな」
「そこまで気になる?」
怜ちゃんは楓のことになると余裕なくなるんだねえ、と榧は笑っていた。怜は席を立って二階へと向かった。
「楓? あの……今日はさ。あれ……?」
ノックしようとして、扉が少し開いているのに気付いた。隙間からベッドに横になっている楓の姿が見える。
「柊と同じにおいだ……」
いやいや、そんなことを考えている場合じゃなかった。眠っている……のかな。学校の課題をしていた痕跡がある。きっちり終わらせてあって、そこで眠くなってしまっただけのようだ。
でも、そのままでは風邪を引きそうなので、ちゃんと布団をかけておいてあげよう。そう思って楓を抱きかかえた。
細くて軽い体に触れているとドキドキしてくる。いや、そういう場合でもなくて。
「ん……?」
楓の手にあった何かが落ちた。楓をおろしてからそれを拾ってみた。
「それはうちのママンの写真だね」
「うわぁ!?」
突然背後から現れたのは、綺家の五女の綺桧だった。
「桧、さっきいなかったけど……!?」
「ずっとウチにいたよ。隣の部屋で寝てた」
「そ、そうなんだ」
この人は神出鬼没で、奔放な怜にでさえよくわからない。高校生らしいが、当たり前のように近江大に出入りしていてよく見かける。
「ん……」
眠っている楓が声を出し、怜も桧も静かにすることにした。
「お母さんの写真か……」
「5、6年前だったかな。ソレ、亡くなった時よりもだいぶ前の写真だけど」
綺桜。楓の母親。その母親の写真を持って眠っていた楓。そして、さっきは姉妹が揃う中でどことなく疎外感を感じていそうな態度に見えた。
「……」
自分は本当に無神経だ、と怜は思った。
「かえちんのソレはそういうのじゃないよ? その子はもっと――」
桧も榧と同じ言葉を言ったが、怜の耳には入っていなかった。
楓にとっては……柊はとても大切な家族なんだ。それを、いきなり現れた自分が幅を効かせて、バンドを組んだり家にまで押しかけてしまったらどう思うだろう?
「ごめん……ごめんなさい。もう、図々しいことはしないから」
今言っても聞こえていないと思うけど、怜は楓の方を向いてつぶやいた。いつか、もっとちゃんとした機会を作って伝えなくちゃ。
「あれ……どうして……」
怜の瞳から涙がこぼれ落ちていた。楓の母だという人物の写真を見ながら、視界が歪んでいく。
ああ、そうか。わたしは……。
綺家には温かい空気がある。離れていても思い合っているのがわかる。稜木家にはこんな家庭的な雰囲気がなくて、つい居心地がよく感じてしまった。
ママに似てる気がしたんだ、柊は。でも、柊はあなたのお姉さんで、わたしのママじゃないんだよね。
だからもう、柊のことはあなたに返してあげなきゃいけないんだ。
わたしにはもう、ママはいないんだから。それは、あなただって同じはずだったのに。楓への気持ちと自分の気持との両方で、怜の感情は揺さぶられていた。
あの時、楓をきちんと寝かせてくれていたのは怜だったらしい。そういえば記憶の中に、うっすら声をかけられたような覚えがある。
天才的な作曲家だったけど短命だったという怜の母。確かに断片的な情報でも柊に少し似ていると楓も思った。
「だから柊をバンドに誘った?」
「うん。ママは、ずっと人の記憶に残る音楽家だった。ママみたいになりたかったから、わたしは柊に惹かれたんだと思う。それはつまり……」
柊に母を見ていたかも、と怜は語る。稜木蓮は短命だった。しかし、蓮の影響を受けた教え子たちはみんな大成し、世の中に影響を与えるほどの存在になっている。それも楓が調べた通りだった。
「わたしたちは結局、人の感じることの中にしかいられない。柊とならできるかもしれないって思ったんだ。
湖の上に風が吹き、怜の長い銀髪をほどいて通り抜けていく。怜は胸の前で手を握っていた。その手の中にはあの黒曜石のペンダントだ。
「あなたたちに憧れてた。みんな、一人でも立派に生きていたから。その力を借りることができたら、って」
怜のその気持ちは楓にも少しわかる。姉たちはみんな才能豊かで、一人で生きていける人ばかりだ。
「でも、そういう風に思うのはもうやめるよ。柊はわたしのものじゃない。ごめんね……家族を取ろうとして。だから……」
何をするつもりなのだろう。怜は首からペンダントを外し、傾きかけた陽に当てるように手のひらの上に乗せた。
「これが最後。あなたに受け入れてもらえなければ……バンドも諦める。本気だって……ママのかわりじゃないって信じてくれる……?」
怜が言っていることの意味を楓が理解する前に、怜は腕をふりかぶってペンダントを湖に投げ入れた。
本気ってどういうことだろう。母親への執着から柊にこだわっているのではない、と証明するため? 母との思い出を捨てられることを見せることで、ちゃんと柊自身を見ると言いたいため?
スローモーションのようにペンダントが湖に吸い込まれていった。それを怜はどんな気持ちで見ている? そっちを見ようとして、怜の言葉を思い出す。
『……泳げないんだよ』
そうだ、怜は泳げないと言っていた。湖に放り込んでしまったものを追いかけることはもうできない。
「えっ……!?」
隣で怜が驚く声が聞こえた。楓は無造作に靴とブレザーを桟橋に捨て、手すりに乗って湖に飛び込んだ。
楓は柊によく似ている。まず、二人とも泳げなかった。浮き輪やビート板を使えば泳げたけれど、水に顔をつけるのも怖かったし、結局はきちんと泳げないままでプール授業が終わった。
「大丈夫、お姉ちゃんも泳げないから……」
そう言って慰めてくれたのは柊だった。母はもうその頃には病気がちで、面倒は柊が見てくれていた。柊が泳げないのは本当で、姉妹からはたまにそれでからかわれていたっけ。なんでもできる姉の唯一の不得手だった。
その時は、柊も泳げないんだということに安心している自分がいた。
けれど、いつからだろう。それではいけないんじゃないかと思い始めたのは。
瞬間の判断で飛び込んだ水の中で、文字通り沈んでいく小石を見つけるのは簡単じゃない。体は浮かび上がろうとするもので、それにあらがって水底に近づいていかなければいけない。力強く水を蹴らなくてはならない。
水に対して躊躇したり怯えている場合じゃない。かすかにある視界の中で手を動かし、ペンダントの紐を掴んで手繰り寄せる。
何かあった時、みんなのことを守れる自分でいたいと思っていた。どうすれば強くなれるか楓にはわからなかったけれど。
手繰り寄せた感触が間違いないことを確認し、水面へと向かう。慌てないように水の中で方向を変え、そのまま浮上していった。
「あなたは、自分の気持ちをないがしろにしすぎる。だから自分の言葉で歌えない。自分の気持ちを人に書いてもらって初めて口にできるのでしょう」
それが、楓が考える怜の姿だった。きっと自分の存在に不安があるのだろう。楓と同じように。
だから、どの曲を歌っても空虚に感じられたのだ。人の気持ちになることはできても、自分の本当の気持ちを口に出すことはできていないから。それを躊躇してしまうから。だから、柊の言葉を借りて歌に具現化されるまでは自分自身の声を表現できなかった。
水から上がった楓のことを怜は呆けて見ていた。でも、差し出されたものを目にして表情が変わった。
「思い出を粗末にするものじゃないわ」
びしょ濡れになった髪をよけながら、彼女のペンダントを手のひらに乗せて差し出した。
「これは、もうあなたの気持ちなのだから」
たとえただのペンダントだとしても、そこにはあなたの大切な気持ちが詰まっているのだから。人に頼らなくても、自分の気持ちがそこに存在している証だ。
「……うん」
怜は答えて、またぎゅっとペンダントを握った。不安な時や泣きたい時にはそうして勇気を出す。
それで勇気が出るのなら、何度でもそうすればいい。肩肘をはって決別する必要があるものじゃないよ。
楓は、家族が家をどんどん出ていってしまったのを大人ぶって引き止めなかったことを後悔していた。子供の頃は力がなかったからかもしれない。それは仕方がなかったんだろう。
けれど……それからずっと考えていた。姉妹が困っている時に助けられる自分でいたいから、できることはしてきた。学力を維持したり、泳げるように特訓するくらいしかできなかったけど。
でも本当に必要なのは、それを使うのを躊躇しないことなのかもしれない。それが楓の答えだった。
姉たちはきっと一人でも生きていくことはできる。できないことはあるけど、それを補うだけの何かはみんな持っている。
でも、人生は楽しく生きたほうがいい。そのために頼られる存在になりたいと楓は思っている。楓にできることがあって、それで姉妹たちがより幸せになってくれればいい。
「あと……私が泳げるという事は姉さんには黙ってて。しょんぼりしてしまうから」
バンドメンバーは揃っていた。ギターには柊と榧、すごく贅沢な組み合わせだ。ドラムには桧、ベースギターはなんと欅である。経験もないのによくバンドに参加できるほど上達できたものだと思う。キーボードの人がいないので、まだ完全ではないらしい。
中心にいるボーカルは怜だ。少し頼りないけど、みんなのエースになれる存在。
「楓に言われた通り、わたしは一人では歌えない。だから、一人で表現できるあなたたちに憧れたんだと思う」
ライブの前、楓の前で怜は語る。そう言いながらもペンダントを握っているということは、ステージを前に緊張しているのだろうか。
湖での一件の後はいろいろあった。水に飛び込んだせいで体調を崩した楓と、そのことで榧に多少きつめにお説教をされた怜。心配そうにしていた柊など……綺家は騒がしかった。
でもそのおかげなのか、しばらくは姉妹たちがたくさん家に出入りしていた。小さい頃、もっと甘え上手でわがままだったら、案外姉妹をみんな家に引き止められていたのかもしれない。
でも、今は目的が違うからいい。姉妹の愛情がわかっただけでいい。後悔はしていなかった。
「あなたの歌、今は一人でも歌えるんじゃない?」
あれから、怜の歌は少し変わったと思う。まだまだだけど、前よりもずっといい。柊と関わっていない時でも。そう楓は思う。
「そうかな? でも、わたしが憧れてる人にはまだまだだよ」
「それってお母様でしょ? そんなに伝説的な人なら、一生追い越せないかもね」
「ええ……!? いや、違うよ。私が憧れてる人は……」
「ん?」
怜は唐突に楓を見て、昔の事を話し始めた。
藍とまだ同居していたころ、怜は教養としてピアノやバイオリンを習わされていた。嫌だったのにコンクールにも出場させられ、音楽が嫌いになりかけていた時期があったとか。
そこで、あるコンクールに出た時に一人のピアニストに出会った。その人は自分と同じ子供なのにすごい腕前で、「天才がいる!」と魅了されたのだそうだ。
儚げな雰囲気で、それがかえって存在感になっていた。怜にとっては忘れられない芸術家なのだそうだ。
「それ以来、その子のことが気になって気になって……でも最近見つけて」
「ふうん……それほどの腕なら、今もピアノで活動しているんでしょうね」
楓も昔ピアノをやっていたけれど、そんなすごい人がいるなら見てみたかった。コンクールに出たこともあるけどそんな人がいるとは気が付かなかった。ピアノは得意だったけれど、人気で競争率が激しいので他の人に譲って自分は別の楽器をやるようになった。
「……なんで気が付かないのかな」
「さっきから、あなたは何の話をしているの?」
怜の話が楓にはよく見えてこない。まあこいつの過去の話なんて今更聞いても仕方がない事だけど。
「いつか……あなたもわたしと……」
よくわからないことをつぶやきながら、怜は自分のステージに向かっていった。それを見送りながら、楓も少し高揚しながら観客席へと向かうのであった。
………………………………
………………
……
「ルリが言う通り、様子を見てきたよ。うん……大丈夫じゃないかな。心配性なんだ?」
「間違いなく、あれはみんなの魂みたい」
「え……? ふふ、それなら大丈夫」
「みんな、幸せそうだから」
(おわり)
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