海の底から空へ(現代風パロディ)

海の底から空へ 前編

※本編キャラで現代風セルフパロディの番外編を書きました。お楽しみいただければ幸いです。本編を見てなくても大丈夫です。



 自宅の前で塀に張り付きながら中の様子を見ている怪しい女がいた。

 もしこれが姉の知り合いでなかったらすぐさま距離をとり、証拠の写真か映像を撮り、警察に通報していたことだろう。いや、知り合いであっても家の前でこんな行動をとっていたら通報されてもおかしくない、と楓は思う。

 いろい楓は14歳、中学生だ。警戒心の強い年頃だろうに通報という行動に踏み切らなかったのは、楓が若い年齢にしては思慮深かったからである。

 銀髪の背の高い女だった。姉と話しているのを何度か見た覚えがある。濃灰色の髪に存在感のない出で立ちの自分と違って何かと目立つ存在なので覚えている。

 ただ、通報しないにしろどうしたらいいものかはわからなかった。名前など詳しいことは知らないし。誰も見ていなかったからいいようなものの、こんな怪しい動きで家の前にいられると扱いに困ってしまう。

「あ」

 そうして立ち尽くしていると、相手から気づいてこちらを見た。

「ねえ、ねえ! あなた、妹ちゃんだよね」

 この人との直接の会話は経験がない。姉の柊と会っているところを遠くから見たことがある程度だ。なにかのタイミングで遠巻きに紹介でもされたから妹だと知っているのか? などと想像で補わなければいけない。

 近くで見るのは初めてだ。小柄で細身な楓の前に立たれると見下される格好になり、背の高さがわかる。170センチに近い背丈ではないだろうか。姉たちの中で一番背が高いグループと並べられるような大きさだった。

 少し圧倒され、楓は問いに答えない。それも気にせず、相手がまた喋りはじめた。

「今日まだ柊は帰ってない? すっごく大事な話があって――」

 馴れ馴れしい態度。しかも大事な姉の柊を呼び捨てにしており、やや反感を抱いた。しかしそれを表には出さず、楓は答える。

「いえ……すみませんが知りません」

 前を通り、楓は自分の家に入ろうとする。

「あ、あの。帰ってくるまで待たせてもらっていい?」

 案の定の言葉がかけられた。いかにも図々しそうな態度だったから「待たせて」と言われるかもとは思った。面倒だ。楓は話すのが得意とは言えないし、この人のテンションを受け止めるのはもっと得意じゃない。

「いえ……姉がいいと言うかわからないので」

「柊はダメとは言わないと思うけど」

「家に呼んでもらったことは?」

「ないけど……」

 親しいアピールをする割に、楓はこの人が家に来た事がないのを知っている。柊が通っている大学を訪れた時、食堂やエントランスで一緒にいるのを見たことがあるくらいだ。

「じゃあ家には入れられません」

 妹ちゃん、という呼び方からも、軽く見られているような不愉快さがあった。そうでなくても勝手に家に入れるべきではないだろう。二人がどれほどの関係かは楓にはわからないのだから。

「そ、そこをなんとか」

 しかしそいつは諦めることなく食い下がってきた。これは、追い返すためにちょっときつく言わないとだめそうだ。

「しつこ――」

 振り返ったさい、楓が手に持っていたチェロの大きなケースがぐるりと振られた。「しつこいですよ」と楓が言い終える前に、嫌な感触とともに手に持ったケースになにか固いものが当たった。

「いっ……た……ッ!?!?」

 楽器ケースはハンマーのように振られ、そしてその人の長い足、スネの部分に不意打ちを食らわせてしまったのだ。

 さすがの楓も、これは悪いことをしたとすぐに思った。

 楓は非力だし、楽器ケースも見た目ほどの重さはない。痛かっただろうけど、幸い大事はないようだった。結局謝罪のついでに家に上げることにはなってしまったが、怪我がなさそうで安心した。

「あのくらい大丈夫だって! 気にしないで。わたしはトラックに轢かれても生きてるから」

 もし何かあったら医者に、と念を押す楓に、彼女は元気のいい声でこう答えた。

 トラックに轢かれ……? 冗談なのか本当の経験なのか楓にはわからなくて、やっぱりこの人の話にはついていけないなと思う。意図的ではないにしろ固い楽器ケースをぶつけてしまったし、その事は本当に申し訳ないと思っているけれど。

「それじゃ、わたし帰るね」

「え……」

 追い出す気はなかったのに、彼女の側から出ていくと申し出たのは意外だった。

「帰るんですか?」

 あんなにしつこく家で待たせてくれと言っていたのに、急に態度が一変していた。

「無理やり押しかけちゃったの……反省した。やっぱよくなかったね。柊には「怜が来てた」って伝えておいてくれる?」

 にぎやかな女は自分の名前を稜木いつき怜と名乗り、迷いなく家を出て帰ってしまった。

「なんだったのかしら……」

 何の用事だったかさえ告げず、静けさだけ残していなくなった。楓は、彼女が出ていった玄関をしばらく見てしまった。


「友達だよ」

「そうなんだ」

 稜木怜とどういう関係なのか聞いたら、姉の柊からはそんな返事が帰ってきた。夕食時のことだ。

 柊は少し年上の姉で、姉妹の中では楓と最も親しい。同居人であることもそうだし、幼少期も何かと一緒にいることが多かった。ルックスでも雰囲気でも柊には存在感があって楓にはないという違いはあるが、二人は精神がよく似ていたのかもしれない。

 恋人だよと言われたらどうしようと思ったが、そんな事はなかった。いい関係になった恋人候補は何人か知っているけれど、正式なお付き合いしたのは高校時代に一人だけ。その関係も長くは続かず、何もないうちに終わってしまった。その柊が、楓にも明かさず気づかせもせず、いきなり大学で固定の彼女を持っているわけがない。でも人は「まさか」を考えてしまうものだ。

「あれ、でもどこかで見た顔だとは思わなかった?」

 ふいに、柊が不思議な質問をしてきた。楓はそれに首を傾げる。見た顔とは?

「柊の学校でちらっと見た顔だとは思ったけれど。そういう話じゃなく?」

「うん。ネットで目にしたことない?」

 柊が言うことが楓にはすぐわからなかった。この人だよ、と言いながら柊が渡してきたタブレットに、昼間見た人物が写っていた。

 特徴的な銀髪にグレーの瞳。表情や動作に生命力を感じる雰囲気。確かにあの人だ。

 でも見たことはない。開かれていたのは動画サイトに投稿された歌の動画だった。音楽には興味があるが、学生の教養として管弦楽を嗜んでいるだけの楓はこういった流行の音楽はよく知らない。

「そういえば、柊はギターをやってるんだっけ」

 姉の柊は幼少期にクラシックギターを習っていて、大学ではサークル活動でエレキギターを弾いたり、必要ならボーカルを担当することもあると聞いている。大学の軽音楽サークルは所属人数が二十人を超える大所帯で、柊はそこで固定のバンドには所属せずに助っ人的に活動している。

 中学で吹奏楽部に所属している楓と比べると柊のほうが華やかで才能豊かに見える。そのつながりで怜と知り合ったということだろう。

 稜木怜、インディーズの歌手……という認識でいいのだろうか。活動名はシンプルに本名の「レイ」を使っている。柊の友人。確かにそういう感じがする。背も小さく体も細くて存在が希薄な楓と違って、背丈もオーラもある柊なら並べても違和感がない。



「この前はごめんね!」

 こんなに早く稜木怜と再会することになるとは思っていなかった。自分とは縁がない存在だとどこかで思っていたのである。

 立ち寄ったカフェで急に話しかけてきた。学校帰りで、隣には中等部の榧の友人たちもいる時だった。友人たちは小さい悲鳴のような声を出した。

 悲鳴と言ってもおびえているわけじゃない。嬉しさを抑えきれない声だ。

 有名人が話しかけてきたらそうなるのが当然だ。そうか、同年代の子には本当に知られているんだな……と楓は思った。

 友人たちは「嘘でしょ、本物……」「なんで知り合いなの」「ね? やっぱり楓ちゃんは只者じゃないんだよ」とつぶやいている。コレがそれほどの存在というのは想像は及ばないけれど、確かに動画ではもっとずっとかっこよく見える。昨日はスネをぶつけたり怪しいポーズで家の前にいたりしただけだから。

「足は大丈夫でしたか?」

「うん? ああ、全然平気。言ったでしょ。すごく丈夫だから」

「そうですか」

 とりあえず確認する。楓がぶつけた所が傷んでいる様子はなさそうだ。安心した。

「お礼じゃないけど、君たちの会計もらっていいかな?」

 むやみなイケボで怜は言い、伝票に手を伸ばす。そういう時だけ低い声を出すんじゃない。ほら、その言動に同級生の中学生たちは黄色い声を出しかける。

「いえ……結構ですよ」

 そこまでしてもらうのは悪い。この人が意外と義理堅いことはわかったけど、恩返しされるような事は別にないと思っている。

 そろそろ帰る時間だし、楓は相手に取られる前に伝票を手にとって急いで立とうとした。体を動かすことが得意ではない楓は足をもつれさせ、そのまま倒れそうになる。

「おっ……と」

「あ……」

 怜はすかさず、倒れかけた楓を抱きとめた。

 力強い腕の中、本人が言う丈夫という言葉もわかる。この体格のしっかりした感じは柊にも似ていた。楓は思わず言葉を失ってしまう。

「すみません……」

「ん……大丈夫?」

「はい」

 少しだけ緊張してしまった。出会い方があんなだったが、年齢が離れたお姉さんなんだ、ということを実感してしまったからだ。

「あ」

 楓を抱きとめたまま、怜はなにかに気づいたというように言う。

「柊と同じ匂いした」

「……は?」

 すん……と軽く鼻を鳴らす音が頭上でする。髪の匂いか。確かに同じシャンプーだけれど。

「……」

 見上げると、怜はニコ……という悪気のない笑顔を見せた。

 どうしてだろう。きっと理屈じゃない。彼女の笑顔を見ていると心に波が押し寄せてくる。心拍数が上がり、顔も熱くなる。

 思えば、最初に会った時からそうだったかもしれない。今ここで、はっきり認識した。彼女の笑顔は、もうどうしようもなく楓には……。

「………………」

「え、それ……」

 楓には、癇に障ってしまうのだという事を。

 なんだこいつ。

「やめ……!」

 ポケットに入った丸いピンク色のキーホルダーを取り出す。小学校の時からずっと持っているものだ。

 知らない大人に話しかけられたり、イヤだなって思った時。そういう時はこれを引っ張って助けを呼ぶんだよ、と、姉が持たせてくれたもの。

 そうだね姉さん。今がその時だよ。

 その後、店内がとんでもない騒ぎになったのは言うまでもない。あとでその話を聞いた時、柊はいつまでもくすくすと笑っていた。

 でも楓にとっては、この時からだんだんと笑い事ではなくなっていく。そんな出来事の始まりであった。



「本当にすみませんでした」

 思ったよりも可愛らしい字で書かれた手紙が楓のもとに届けられた。差出人はレイと書いてある。芸名でよこすあたりにあの人のどこかズレた感覚がにじみ出ているけれど、概ね真面目な手紙のようだった。

「つきましては、お詫びに水族館のチケットを同封いたします……だって」

 前から行きたいと思っていた湖の水族館のチケットが2枚、手紙には同封されていた。優待券の類で、金銭が絡んだものではない。高額な贈り物ではない所は気を使わせない工夫なのかもしれない。無神経なのか気が使えるのかよくわからない人である。

「どうする? 行く?」

 柊が言う。自宅のリビングで手紙をまじまじと読む楓は少し考え、頷いた。

「そうね……モノに罪はないし」

 それに生きものは好きだし。怜はその事も知っていたんだろうか。友人だという柊の入れ知恵なのかもしれない。楓が喜びそうなものを教えて、とお願いされたかもしれない。

「怜に連絡とらないとね。代わりにやっておこうか」

「え?」

「一緒に行かないの?」

「……どうしてそうなるの」

「チケット、2枚入ってるし」

 柊の指摘に疑問が浮かぶ。こういったものはペアチケットになっているのが普通で深い意味はないんじゃないか。一緒に行くとしても友達か姉妹の誰かだ。なんで怜の名前が出てくるのか。

「一緒に行って仲直りしよう、っていうデートの誘いにも読めるけど?」

 肘をついてニコニコしながら柊が言う。からかってるつもりなのか……楓よりは怜を理解していてそう判断しているのか。

 それもありそうな話ではある。あいつ、軽々しくデートだの言い出しそうな顔をしていたから。

 デートかどうかはどうでもいいが、喫茶店での騒ぎはやりすぎたと思わないでもない。怜と会うといつもそうなっている気がする。このままでも居心地が悪いので、会いたくないわけではなかった。



 水族館と聞くと海をイメージする人が多いかもしれないが、淡水の水族館、博物館はそれほど珍しくない。ここはその中でも特に規模が大きく、いつか来たいと思っていた。

 小学校の頃にサケの生態を取り扱う河川の水族館に行った事がある。その時から、生きものについて考えたり展示を見ることが好きなのに気付いた。野鳥や魚を見ていると、人を相手にしているよりも落ち着く。

「ねえ、見て見て! ここから湖の中が見えるんだって!」

 怜も生きものが好きなようで、湖底に繋がっているガラスの前ではしゃいでいた。

 大学にいる時によくしている活発そうな格好ではなくワンピースドレスを着ているのは、彼女なりのTPOなのだろうか。例の喫茶店での一件が直近にあるので、遊びでももっとチャラついた格好をしてくるものだとばかり思っていた。

「ん? なぁに?」

 楓の視線に気付いた怜が振り向いて言う。

「めずらしい生きものがいるな、と思っただけよ」

 やっぱりまだこの人のことは掴みきれない。楓が返した言葉にぷう、と頬を膨らませて見せている。

 ワンピースは似合っていた。中身の言動は変わらないけれど、人というのは服装や髪型のアレンジだけで随分印象が変わるものだ。今回の誘い、怜がどういうつもりかわからず警戒した楓は中学の制服姿、目立たないねずみ色のブレザーで来ている。

 それなりに展示物を堪能しながら数時間も館内を歩き回った。この後はどうしたものだろうか。

「それで、この後はどうするの?」

 湖に行って泳ぐ? と楓が冗談めかして言うと、怜はなぜかばつの悪そうな顔をしてつぶやく。

「……泳げないんだよ」

 ほう、と楓は少し興味を持った。なんでもできそうな人なのにそんな弱点があったとは。

 稜木怜。大学一年生。15歳の頃から「レイ」という名前でインターネットで音楽活動を続けており、現在は若年層を中心に人気の歌手。超然としたオーラと親しみやすさを兼ね備え、女性を中心に熱狂的なファンが多い。アイドル的。稜木家は音楽関連の企業の経営者の家系で育ちもいい。

 音楽を始めたのは作曲家だった母の影響。母のようになりたくてインターネットでの活動を始めたそうだ。

 軽く調べてわかったのはこんな所だ。ネットで活動するタレントの非公式の情報サイトがあり、配信やSNSで発言したことをもとに有志の手ですぐこういったプロフィールが編集される。あとから見る人には便利だが、プライバシーも何もあったものではない。

 文字で読むと完璧なように感じるようなプロフィールだったし、運動も得意らしいので泳げないというのは意外である。それはともかく、楓は彼女の歌にそれほど感じる部分がなかったというのが正直な所だ。

 更新頻度は多く、カバー曲を中心に大量の楽曲動画が存在した。怜の歌声は好きだった。けれど……何かが不完全なように思えた。

「じゃあこの後の予定は?」

「予定? 考えてないなぁ」

 慣れてそうな雰囲気なのにこの先を特に考えていないとは。喫茶店で支払いを受けようとしたり、そういうエスコートは得意そうに思っていた。やっぱり子供扱いされているのかもしれない。

「デートに誘っておいて……甲斐性がないと言われない?」

「デ……ッ」

 楓の言葉に、おしゃべりな怜が黙り込んでしまう。挙動もよたよたとしているように見える。大丈夫だろうか? 疲れているのかもしれない。

「お、お土産を買う……のはどうですか」

 怜は小声になってそう申し出てきた。指差した先には露天があった。

 水族館の外には観光客向けのソフトクリーム屋などがあり、その隣にアクセサリーを売っているお店がある。水族館とはあまり関係ない店だ。観光地にはよくこういう店がある。水のいきもののぬいぐるみやガラス細工は、こういう露天ではなく館内のショップで売っている。

「これもここで買ったものなんだ」

 言いながら怜は首に下げたペンダントを見せた。そういえば、前に会った時も身につけていた気がする。

 黒曜石だろうか。やじりのような形で、ダイヤカットが美しい。

「ママが買ってくれたんだよ。まだちっちゃい頃に」

「そう……」

 怜の母親は……確かもう……。楓も親との別れを経験しているので言葉を失ってしまう。

 そういえば、非公式まとめにも「音楽を始めたのは母の影響」と書いてあったのを思い出す。

「不安な時や泣きたい時はこれを握って勇気を出してね、ってね。お守りなんだ」

 怜は笑顔でそう語った。曇りのないからっとした微笑みで、その奥でどんなことを考えているかは楓には計り知れない。

「そんな話をされてしまうと、ここであなたから何か買ってもらうのは癪な気がするわね」

「なんでよ!?」



 近江おうみ大学にはよく出入りしている。大学というは大体オープンなものだし、このあたりの地域の音楽系の部活が共同で使うスタジオを置いている関係で機会もあった。

 大掛かりなスタジオが存在する部室棟だけでも一つの学校ほどもありそうな大きさである。楓が通っている私立水仙学園中等部もそれなりに格調のあるお嬢様学校で施設も充実しているが、芸術系の課外活動が盛んなこの大学ほどの機材や設備は見られない。

 近江大には生物や農業の学科があり、そういったことに興味のある楓はここへの進学もぼんやりと考えている。なので、出入りする機会が多いのはありがたい事だ。

 今日は楓が所属する吹奏楽部とは関係がない用事で来た。それなのに、部の友人の楪世(しじょう)灯子がついてきていた。

「ついてきてもあまり面白いものじゃないと思うけれど」

 大学で活動する劇団から自主制作ドラマのエキストラを依頼され、今日はその撮影に参加するために来た。いくつかの偶然や縁で、楓は近江大で少しだけ知られた存在であり、こういった依頼が舞い込むことがある。

「そうかな。楓がいる所っていつも面白いことが起きる気がするけど。人気者だし」

「そんな期待をされてもね」

 友人からそのように囃されても、自分はそんなに愉快な人間じゃないと楓は思う。存在感が控えめだからエキストラや演奏シーンに呼びやすいのだろう。

 ひっぱりだこ……とまでは言えない頻度だが、それなりに多いのは事実だ。ぜひあなたに、とまで言われると断る理由も思いつかない。主役ではない人があまり目立ったら本末転倒だから楓は丁度いいんだろう。背景にいて演奏をしていたり歩いているだけで目立つ人間を置くわけにはいかないのだから。

 目立つ人間。それは楓の姉たちとか、あるいは……。

「この前だって面白かったし。喫茶店での」

「あの人のことは口にしないで」

 目立つ人間と考えてつい、昨日大騒ぎになった喫茶店にいた稜木怜を思い出してしまう。この前デートまがいのお出かけをした、という事は口が裂けても言えない。どんな噂話に飛躍するかわからない。

 今日は会いませんように、と心の中で願う。

 エキストラの撮影はすぐに終了した。学内を歩いているところを撮影するだけで、二十分もかからなかった。劇団の人からしきりに感謝され、お礼として飲み物とお菓子を貰ってしまった。

「さすが楓。歩いてるだけでこんなに感謝されるなんて」

 多すぎるお菓子の中からいくつかを抜き取りながら灯子が言う。バカにして。華やかさで言えば灯子は楓よりは目立つ外見なので、たしかにエキストラには向いてないだろうけど。

 お菓子と飲み物をいただくために座れる所を求め、出入りし慣れた部室棟の前に来た。するとそこに知った顔がいるのを見つけた。

「珍しい人がいるわね」

 楓の方から声をかけた。そういう相手は多くはないが、この人には話しかけたい。

「ん、楓じゃん」

 こちらの姿を確認すると笑顔を返してくれる。この人はかやといって、綺家の姉妹の一人である。榧と同じような小柄な背格好だが、一番年上の長女である。

 涼しげな瞳でベンチに座りギターの調律をしている姿はすごく様になっているけれど、楽器に触っている姿を見るのはいつぶりだろう。

「姉さんは元気そうね」

「楓は相変わらず人気者だね」

 楓が手に持ったたくさんの差し入れを見て人気者という感想を抱いたらしいが、学校で名が知れているのは榧も含め姉たちの方だろうと楓は思う。いくつかある紙パックの飲み物から一つ、豆乳飲料を榧に渡した。楓は飲まないが榧なら飲むはずだ。

「榧姉さんがここにいるの、珍しい。忙しそうなのに」

 珍しい、というより部室棟で見るのは初めてだ。榧は記者のアルバイトと大学院生を兼ねていて、普段からとても忙しい。

「ね、お姉さん、かっこいいね」

 灯子が楓の耳元でつぶやいた。そうなんだろうか。そうかもしれない。榧は自立した大人だった。

 一時期はバンドを組んでいて結構派手な交友関係があったらしい。軽い雰囲気の中に時々冷たさを感じさせる所などは特定の人を惹きつけそうである。

 親が亡くなって真っ先に家を出ていってしまったのが榧だった。関係が悪化したり、家にいるのが嫌になったからじゃない。姉妹の中で誰よりもシビアに現実を見ていたからだ。

「まあ締切は抱えてますけど……でも、最近はそこまででもないかな」

 榧はそう答え、言いながら楓を手招きする。それに従って近づくと、くしゃりと頭を撫でられた。

 綺家には蓄えはたくさんあったが、姉妹たちの今後の学費や進路を考えればセーフティとは断言できなかった。そこで真っ先に社会に飛び出していった榧のたくましさは、まだ幼かった五年前の楓には理解できないものに思えた。冷たい……と見えたこともある。

「おおかた、ここにいるのは姉妹の誰かのお願いなんでしょう」

 楓は頭に触れられながら言った。

 今なら少しわかる。この人の行動はなんだかんだ常に姉妹のためだった。今こうして普段はいない部室棟にいるのもそのために違いない。

「内緒」

 でも、榧はここにいる理由は明かさなかった。

「もう少しこのへんにいればわかるかもね。中庭のあたりで」

 含ませ気味に榧は語る。何だろう。

「わぁ楽しみ。もうちょっとここにいようよ」

 灯子は喜んでいるが、楓は微妙な気持ちだった。

「ろくでもないことをしでかすつもりじゃなければいいけど」

 榧にお願いをした人間が誰かによって変わってくる。なんだかんだこの大学には姉妹全員が関係しているので、誰でもありえる。

 どうしても気になったわけではないが、お菓子を食べて飲み物を飲んでいるうちに時間が経ってしまった。榧が匂わせていたそれは本当に唐突に始まった。

 突然、中庭から楽器の音が響いてきた。何事かと思って見に行くと、すでに人垣ができている。

 真ん中で何事か叫んでいる銀髪の人には見覚えがあった。その周囲で楽器を抱えている人たちも見たことのある人ばかりだ。

 ギター二人、ベースギター一人、ドラム一人、そしてボーカル一人のバンドの体をなしている。見れば、ギターの一人はさっきまで話していた榧。もう片方はなんと……。

「柊……」

 あんなところで何をしているんだろう。また助っ人? でも、それにしては……。

『“デノミネイター”、聞いてください』

 楽曲名だけが怜の口から告げられ、それ以外は大した挨拶もなく、人が集まったのを見計らって唐突に演奏が始まった。

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