緊張感漂う、弾劾の独白体ミステリー。【★】

 とても興味深い作品で、読み終えた今、作品の出来や面白さ以上の興奮を感じている。その詳細は後半の「ネタバレあり」の部分で……
 
 
 
 タイトルが示す通り、この独白はまさに弔辞、とある著名人の告別式の場で行われている。テレビ中継も入っている、誰もその場から逃れようのない環境で、故人の自殺の真相を、弔辞を通して明かしていく――この舞台設定一つで緊張感と期待感がいや増す、心憎い設定である。
 明かされる謎以上に、それを取り巻く「小さな、けれど無数の悪意」の有り様を暴いていく流れが実にスリリングで、心を奪われた。

 独白体によって自殺の背景を綴り、その背後にある犯罪性を暴き出す。しかし自殺の真相を明かすことは主人公にも著者にもさほどおおごとではなく、実はその先の、自殺を取り巻く人々の「悪意」の形を描き出す方が重要だったのではなかろうか。

 それらの悪意を指摘していく主人公の姿は、乱歩の『二癈人』に代表される「対決型」の絵解きを、探偵側からだけ見ているようであり、さながらたった一人の女優が演じる舞台芝居のよう。

 「謎解き」要素は正直言って物足りないものがあるが(単に当事者による種明かしに過ぎないため)、そこから続くこの部分にこそ、本作の眼目がある。
 『弔いの言葉』という、一見するとシンプルに見えるタイトルに著者が込めた意味も、そのことを証すものであろう。さも、この独白体そのものである「弔辞」を意味するように見せていながら、その実『弔いの言葉』というタイトルは、主人公が結末で絞り出す、“憎むべきもの”をも意味しているのだ。






【ここからある意味ネタバレあり、ディープなレビュー】
 驚くべきなのは、著者が意図していたかどうか分からないが、本作で糾弾されている「誰もが持っているかもしれない、そしてそれを実行してしまうかもしれない、小さな悪意」とは、かの日本ミステリ“三大奇書”に数えられる『虚無への供物』(著:中井英夫)で弾劾された“読者の原罪”と合致するという点である。

 作中で非難される「ネットに広がる悪意ある書き込み」や『弔いの言葉』の書き込み主とは、他ならぬネット利用者であるカクヨム読者、つまり私自身を含む“我々”なのである。あれは“我々”のメタファーなのである。

 SNSで一言呟く誰かの悪口。それすら一度もやったことがない、という聖人君子は稀であろう。だから本作の“弔辞”により突きつけられた糾弾の刃から、“我々”読者は逃れる術を持たない。
 
 さらに言えば、ネットの海に浮かぶ「カクヨム」という場所で発表された本作を、「カクヨム」の中で読み始めた瞬間、既に読者は被告人席に立たされているのだ。
 逃げ場はない。そのまま、これが自分の裁判だということに気付かないまま、本作を読むことになる。そう、恐ろしいことに、ミステリー作品である本作は、作中に“罠”があるのではない。“本作そのものが読者を断罪の場に引きずり出すための罠”なのである。

 この罠の逃れようのなさは、『虚無への供物』すら成し遂げていない容赦のなさだ。こんな作品は見たことがない。

 
「逃れようのなさ」。それはまるで、“テレビ中継された葬儀に出席した列席者”のような逃れようのなさ。


 ここで再び読者は驚かねばならない。
“我々”とは、つまり作中で葬儀に列席しているであろう参列者たちでもあったのだ。“我々”はずらり並んだ席に座り、一人マイクの前で弔辞を読む「彼女」の糾弾の言葉をただ聞くしかない。さながら、たった一人の女優が演じる舞台芝居の、観客のように。

 開幕したら、終演まで席を立つことが出来ない芝居のように……
 
 
 この小説は恐ろしい。何もかもが繋がっており、閉じており、読者を絶対に逃がさない。これを企図したのだとしたら、著者は悪魔であろう。

 ただ残念ながら謎の構成、物語の構造、文章の練度などは、作品の持つこうしたポテンシャルを十全に引き出しているとは言えない(だからこその☆一つである)。ならば、この恐るべき“罠”は偶然の結果なのだろうか……?
 
 それすら確信することが出来ないくらい、これは恐ろしい小説なのである。
 

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