第4話 家目前 肩に……
とん、とん───
と、肩を叩かれた気がした。振り返ってみても誰もいない。
吐き出す息は白い。真っ暗な夜の中ではいっそう白く見える。振り返った先には住宅街を弱々しく照らす街灯が、まるで己を恥じるようにうつむいている。そんな風に恥じる街灯が、道の両側に何本も立っていて、私の行く道と来た道を明るくしていた。まだ遅くもない時間なのに、人の気配が薄い。皆、家の中に入って気配を家から出さないように、扉と窓をピッチリ閉めているみたいだ。
私はスカートをひるがえして、慌てて前を向いた。肩を叩かれたのは気のせいね。私は心の中で言い聞かせた。この道をまっすぐ十分ほど行けば家に着く。歩くたびにローファーのかかとがアスファルトに当たる。
コツンコツン……と、静寂が圧縮されたような住宅街に、場違すぎる大きな音が鳴る。かかとの部分が固いんだ。だから音がするんだ。柔らかいものに変えてもらわなくちゃ。そうすれば音は出なくなる。私はコツンと音が出るたびに、街灯のように視線を下に落とした。
しばらく歩き続けて、もうすぐ曲がり角だと気がつく。顔を上げると、少し先の街灯に、人が居た。大きなバックパックを背負い、地図で自分の顔を隠すように広げている。半袖にジーンズ、外国人観光客だろうか。冬なのによく半袖でいられるな。そういえば、外国人は日本人より体温が高いんだっけか。
一人で地図とにらめっこして、時間的にも遅いのに大丈夫かな。心配をしつつ声をかけられたら面倒だなと思う。だって英語とかしゃべれないし。聞かれても知らない場所だったら教えてあげることもできない。断り方もよく分かんないし。なにも言われませんようにと祈りながら前を通り過ぎようとした。
外人さんまで後十歩。
かかとをもっと早くに変えておけばよかった。
外人さんまで後五歩。
靴の音がうるさい。あ、結構大きな人なんだな。
外人さんまで後二歩。
話しかけないでね。英語分かんないし。
外人さんの目の前………………なにも言われなかった。
私はそっと息を止め、横目で外人さんを見た。突き破る勢いで地図を覗き込んでいる。私はそそくさと街灯から離れようとした。
とん、とん───
振り返った。
今、肩を叩かれた。
でも誰もいない。
外人さんは相変わらず地図に顔を突っ込んでる。両手はしっかりと地図を掴んでいた。
気のせいよ。私は前を向いた。その目の前に外人さんが立っていた。
「………」
生唾が音を鳴らして喉を通った。外人さんはまだ地図に顔を突っ込んでなにも話さない。でも私の行く道をふさいでいる。やっぱり肩を叩いたのは外人さんだったのか。
手も足も声も思考も硬直して、私はバカみたいに棒立ちになっていた。黒の世界に私の白い息だけが現れたり消えたりする。そういえばこの外人さんは白い息を吐いてない。
地図が下がってきた。外人さんの腕も下がっていく。ゆっくりゆっくり……私が逃げられないことを分かってるかのように。地図が下がると外人さんの顔が分かる──わか、る?外人さんには顔がなかった。でも目はあった。
大きな眼球が人の首につながっていた。人の眼球を綺麗にくりぬいて、ビーチボールほどの大きさに拡大したらこんな感じだろう。細い血管が巨大な眼球にひしめきあう。ぬめぬめとした薄い血の匂いをまとわせる眼球には棒立ちになってる私が湾曲されて写っている。
「*****?」
眼球がなにかを言った。口がないのに喋るのはおかしなことだけど、眼球が言ったのは確かだ。
「****?」
眼球が地図を指差す。眼球の手は普通の人間の手だ。白人っぽい色素の薄い肌に、プラスチックのような小さい爪が乗っかっている。私はゼンマイ式のオモチャのようにぎこちなく首を動かしてその指差した場所を見た。地図は私の知ってる形をしていなかった。怪獣が開けた口の中に三角や四角が描かれている。理解できなかった。
「あの、これ……日本ですか?」
「****? ****** **** **」
「日本語、わかり……ますか?」
眼球は私から一切視線を外さない。私は酸素を求めて口を大きく開けた。うまく息ができない。私は一人、暗闇で溺れかけていた。眼球はそんな私を観察しているようだった。湾曲した私は、口元を歪に引きつらせ笑っている。
眼球が指差していた手で私の肩を掴んだ。今にも重みでちぎれそうな首をかしげて私を覗き込んでくる。
「***」
私の毛先に眼球が当たる。痛かったのか、眼球は慌てて身を引いた。濡れた髪の部分が街灯の光で粘着質に光る。眼球は大きな涙を一つこぼして、肩から手を離しもう一度地図を指差した。
「***** *** *****?」
なにを言ってるかさっぱり分からない。そもそも眼球相手に私はなにをしてるんだろう。言葉は通じないし、表情で探ることもできない。目は口ほどにものごとを言うというが、それはまともな顔がある場合だけだ。
「****!?」
また眼球が私の肩を掴んだ。しかも今度は激しく揺さぶってくる。謎の言葉も激しく私をまくしたてる。
「***! *****!!」
眼球が目前に迫る。薄い血の匂いが私の頰をなぶった。
「****!!」
「あっち!」
私はほとんど叫び声をあげながら歩いて来た道を指差した。
「あっち! あっちだって!!」
本当はあってるかどうか知らない。でもこれ以上ぐずぐずしてればなにをされるか分からない。眼球は私が指差す方をじぃぃっと見る。指差す私の手が震えてないことを願う。
「あっち! あっちだから! ね!?」
掴んでいた手が離れた。私はその瞬間を逃さず走り出した。後ろは振り向かない。二分も走れば家。眼球のことなんて放っておいていい。道を聞いた人間を追いかけては来ないと思う。もし違っていても後で誰か道を教えてくれるはずだから。あんなに怖そうな眼球だもん。逃げたって仕方ない。仕方ない。
「****」
なにか言われた。
振り返らない。
走って走って家に着く。玄関の扉を開け、わざと激しい音を立てて扉を閉める。奥で「おかえり」と優しい母の声が聞こえた。
母の声を聞いた瞬間、全身の力が抜けて私は玄関に座り込んだ。カバンを思わず抱きかかえる。こそっと扉についているすりガラスを見る。外はもう完全な闇で、光なんかきっとないだろう。夜空の星も極小すぎてなにも照らしてくれない。あの街灯だけが頼り。
眼球はどうしただろう。
すりガラスにおでこをくっつける。ひんやりと冷たい。
私の指差した方向に行くのかな。あってるかどうかも分からないのに。適当に、その場しのぎに言っただけ。闇の中を、眼球が突っ込むようにして地図を見ながら、私の示した方向に向かって歩いていく姿が頭に浮かんだ。
最後、私になんて言ったんだろう。
なにを言ったのか分からない。
なぜかほんの少し、私はうつむきたくなった。
家路 稲葉郁人 @ikuto
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