第2話 高度10000mの遭難

暗闇の遠くで母の声が聞こえる、微かな声ではあるがあれは間違いなく母の声であった。懐かしいその声は聞こえるが姿は全く見ることが出来ない、近づこうとしてもいっこうに体が前に進まない、遂にはその声は小さく消えてゆこうとする。

新次郎の母は実の母ではない、実の母は新次郎が幼年の頃肺の病で他界した。東京で生まれ育った新次郎は実母を無くし、その後今の母の広島に行かされた。母親が他界してほどなくの事だった、父親は小物の行商で全国を行商してゆくのが仕事で、家にはいないことのほうが多い。仕事をしながら幼年の新次郎を育てるのは困難とさとり縁者のいる広島の今の母聡子の処へ行かされた。新次郎は幼いこともあって新しい母にすぐ慣れた、母と父親との関係は父親がその後まもなく同じく肺病で他界してしまったので判らず仕舞だった。聡子に聞けばいいことなのだが幼い新次郎にはそのことが何か聞いてはならないもののように思えて今までも触れず仕舞いだった。聡子は新次郎をわが子同然に可愛がり、新次郎は深い愛情に包まれ何不自由することなく育った、聡子は外に働くでもなく、畑があるわけでなくなのだが経済的に不自由することは一度もなかった。子供心にも不思議ではあったがそのこともまた聞けばよいのだが、新次郎には何か聞くのがはばかられるような気がして聞けなかった。

新次郎は東京の生まれ育ちで当然だが母聡子も地元広島の方言は全く使わずきれいな標準語を使った。新次郎はそのことは一度だけ聞いたことがある、その時母は小さい頃は東京でくらしたからと短く話し、ふっと席を立った。

新次郎はもう母にそのことを話すのはやめた。



「母さん!」

心で叫ぶが声にはならない、歯がゆくてならないがどうにもならない。

「母さん、僕はここだ、ここにいるよう!」

あたりは漆黒の闇で静まり返っている、もう母の声は聞こえない、新次郎は絶望と怒りで声にならない声をあげた。

新次郎はいつの間にか雲の上を歩いている、これは夢だと新次郎は理解しているが、なにか不思議にまるっきりの夢だとは思えない現実味が感じられた。自分はあの雷雲の中で失速して墜落死したのか、そうしたら今自分がいるところはどこなんだ。黄泉の世界を歩いているのだろうか、そうして歩くうちに雲だと思っていた足元のもやが消えて畑のような黒い土が見える。新次郎には黒々とした畑にしたらよかろうと思えるほど良質の肥えた土に何か懐かしい匂いを嗅いだ、湿った土の匂いだった。黒い土を踏みしめている自分の両足を見て新次郎はまだ生きてると感じた。その瞬間全身に激痛が走った。背と言わず腰と言わず生まれてこのかた味わったことのない痛みだった。新次郎は息も出来ずにその痛みに耐えていたがやがてそのまま暗黒の闇に沈んでいった。


新次郎は再び目を覚ました、痛みはまだそうとう酷く体を動かすことも出来ないが

先ほどからすれば幾分ましになった。首をそうっと横に動かすと100mと離れていないところにさっきまで自分が操縦していた屠竜が地面に鼻先を突っ込んでまるで逆立ちをしているような形で大破していた。引火した様子はなく黒煙も上がっていなかった。ただ右翼は半分より先は無く左翼は完全に消失していた。器用に逆立ち姿勢のままお尻を高々と宙に浮かせていたが新次郎が視線を外すと同時に地面に叩きつけられ完全に原型を留めぬほどに破壊されてしまった。

あたりはもやが立ち込めているが徐々に薄れていっているみたいだ。あたりには深い森が浮かんできた。きっと広島の山間地にでも墜落したのだろう、人気も無い寂しいところだがいずれ軍の救援がくるに違いなかったが、新次郎は痛みに耐えながら体を自力で起こし始めた。機材保全の任務を全うできず申し訳なさや新兵器の電探の機材を駄目にしてしまったことを無念に思った。たとえ使い物にならない機材であっても軍の大事な機材である。その軍の保全命令に答えることが出来なかったその身であまりだらしなく横たわって救援隊に見つけられたくなかった。幸い打撲は全身いたるところだが骨はどこも折れてはいない、あれだけの衝撃で奇跡であった。しかし打撲の痛みは全身を痺れさせて移動しようにも思うに任せない。機密文書は無いが破壊せねばならないとしたら新型電探であるがここは内地である、めったなことはないだろう。これが外地なら体が動こうがなんだろうが這ってでも機体へ行き電探を原型をとどめないほどに破壊いせねばならない。

しばらく体を起してまわりを見るがモヤが濃く所々しか視界が利かない。

よほどの山間地なのであろう、あれだけの大事故にも関わらずまわりには人の集まる気配もない、呉上空から山間地の方面へ高度9000mを飛行中だったはずである。そのうち周りが薄明るくなり見通しが利くようになってきた。見通せるようになるにつけて木々の茂る森が見えてくる、ここは広島山間地に墜落したのだろう、じきに救援が来ると思って待つことにした。その時 森の境目の靄の中から誰か歩いてくるのが見えた。救援が早い、ありがたかった。軍のすることは早い。

近づくにしたがって様子が見える、陸軍の軍服だ、どうやら助かったらしい、近づいてきた男性は新次郎の真横に無言で立ち尽くした。そして思いっきり進次郎の脇腹を蹴り上げた、傷の痛みも吹っ飛ぶほど痛く苦しかった、胃の中のものを

全部吐いた。男は腰のホルスターから94式拳銃を抜き進次郎のこめかみに狙いをつけた。

乾いた実包の破裂音がした。次の瞬間男が進次郎の傍に倒れ込んだ。

進次郎の右腕には同じ94式拳銃が握られており火薬の破裂した後の煙を辺りに

漂わせていた。男が持ったと同じ拳銃を進次郎も携帯していたのだった。

いくら男が先に拳銃を抜いたとはいえ面倒なことになったと進次郎は思った。軍法会議なんてものは理由はどうあれ名誉なものではない。

死に物狂いで激痛に耐えながら立ち上がった進次郎は墜落した自機の残骸のところまでよろめきながらも歩いた。よく見ると機体は断崖絶壁の端にかろうじて引っかかっているような状態であった。断崖から下を見るととてつもなく高い絶壁らしく下に雲が見えている、広島にこんな高い山脈などないはずなのだが。

遠い向こうから何やら喧騒が聞こえてくる。手に何やら棒状の物をもった一群がこちらを指差し走ってくる。明らかに進次郎に敵意を持っているらしかった。

あと、5分もしたら進次郎のところにやってくるだろいう。進次郎は恐怖に慄いた。殺されることは兵士になったのだから覚悟していたが何やら訳のわからぬことに巻き込まれなぶり殺しになるのはごめんだった。

ふと、目の前に操縦席の尻の下に引いていた落下傘が目に入った。素早くそれをひったくった進次郎は手早く装着した。もう、考えている余裕はなかった。手負の進次郎が手に手に武具らしきものを持った一群に襲われればいくら拳銃を持っていたとしてもいつかはなぶり殺しになるのは明白だ。

もう、走ってくる一群の皆の顔が判別できるほどになった。どうやら軍のものたちではなくそこらの農民のような姿だ、目には殺気がみなぎっている。なぜ自分がこの者たちに殺されなければならないのかわからないが、そんなことを考えている余裕は進次郎にはない。先頭の男の大きく広げた手の拳が進次郎の襟元を掴もうとするその瞬間に進次郎の体は後ろ向きに崖から空に浮かんだ。スローモーションのようにゆっくりと農民の男の手から体が離れていった。男たちの驚愕した顔がゆっくりと進次郎の目から遠ざかっていく。そして最初ゆっくりだった農民たちとの距離が加速度的に遠ざかり始めた。

進次郎の体はは断崖の壁面を猛烈な勢いで落下し始めた。下の雲の中に突っ込み視界がゼロになった。地面まであとどのくらいか皆目わからない。進次郎は落下傘の開花の紐を引いた。

落下傘ベルトの肩紐が身体に食い込み激痛が走り進次郎の口から呻き声が漏れた。もうどうでも良くなり気持ちは楽になっていく。死ぬ前はこんなもんかと進次郎は悟った。落下傘の効果により降下速度は格段に緩まり身体は右に左に揺れながら落ちていく。

いきなり視界が開けた。えっ、進次郎の脳は不意打ちを受けた。眼前に広がる光景を理解できないのだ。谷底あたりに着地できればと思っていたはずなのだが

今進次郎の目の前に広がる光景はまだ、おそらく上空1万メートルなのだ。

眼下に広島の町が広がっている。では先ほどまでいたあの場所はなんだったんだ。

頭が朦朧としてきた。眼下には進次郎の母が待つ広島の街が広がっている。懐かしい母の面影が進次郎の頭の中をよぎった。

遠くの方に黒点が見えてきた、段々と接近してくる。やがてその黒点はギラギラと光り輝いていく、米軍の戦闘機のP51の編隊だ。進次郎に気が付いたのか接近して進次郎の姿を見て驚いている様子だが攻撃する素振りもない。やがて少し遅れてかなり大型の四発機、おそらく爆撃機であろう4発機が接近してきた。同じく銀色の眩く光る美しい機体だ、中の乗員もまた進次郎の姿を見て驚いている。垂直尾翼にRのマークが見える機種には何やら英語の綴りが見えるがよく見えない。

やがて、米軍機は広島中心部へ向かって降下していった。

進次郎はこのまま落下傘に揺られながら地上に降りてからの身の振り方や、軍への報告を気にかけ出した。命が助かるかもしれないとわかると人間雑事に惑わされ出すものだと苦笑いした。それよりも何よりこのまま落下すれば広島市街地だし、母親に会えるかもしれないという妄想にもとらわれ出した。高度が落ちてきたせいか生暖かい風が進次郎の横顔をなぜた。ふと眼下に目をやると少し眩しく街中が輝いて見える。変わった入道雲が立ち上り進次郎はその中に降下してゆくようだ。雷雲が来なければと進次郎はそれを心配した。ふと先程の米軍機が帰路についてまた進次郎の近くを通過した。今度は誰も進次郎を見ようともしなかった。4発の大型機も続いて高速で通過してゆく。先程は見えなかった操縦席下の英語文字が今度は読めた。

ENOLAGAY

文字は読めたが意味はわからなかった、回転銃座の中の男がこちらを見つめているんように見えた。操縦席の皆は笑っている、何やら乾杯の仕草をしているようにも見える。

去り際に回転銃座の男が少し悲しそうな目をしているような気がした。

米軍機は去っていった。

間も無く地上だ、進次郎は胸が少しときめいた。上空は青く輝く夏空であった。

あと少しで母の待つ地上だ。

強い上昇気流が進次郎のぶら下がっている落下傘を揺らした。何やら焦げ臭い匂いがして進次郎は下を見た。


                              完







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