拝啓、AV女優様
おかずー
拝啓、AV女優様
初めてオナニーをした時の衝撃は忘れられない、といった類の話を大人になってから飲みの席などでたまに聞くけれど、俺は初めてオナニーをした時の記憶が非常に曖昧で、当然衝撃なんてものは覚えていない。
そんな始まりの記憶よりも、我が人生のオナニー史で語るべきは大学一回生の春の記憶で、当時の俺のオナニー回数はその辺のオナニーを覚えたばかりの中学生よりも多かったことを自負する。大学の授業がある時は朝夕夕夜の四セットで、休日ともなれば昼昼夕夕夜夜夜中の七セットとなった。そしてその手段のほとんどがAVを見ながらのオナニーであった。たまに過去の女、とはいってもあの頃の俺は経験人数が一人しかおらず、しかもその一人とも付き合ってから三ヶ月ほどで別れてしまったため、セックスだってちょうど片手で数えることができる回数しか経験していなかったけれど、それでも唯一の救いは最後のセックスの時にフェラチオをしてもらったことで、その時の気持ち良さというか優越感は凄まじく、あの瞬間のことを思い出すと俺はAVを見なくとも脳内妄想だけでオナニーをすることができた。しかし、時間の経過と共にフェラチオをしてもらったあの感触、つまりは気持ち良さと優越感は薄れていき、最終的にはAVを見ながらオナニーをするといった常套手段へと落ち着くのであった。
生まれて初めての一人暮らし。薄緑色の安っぽい外装をしたマンションから歩いて五分とかからない場所にある、やけにこじんまりとしたレンタルビデオ店は、TUTAYAなどの大手レンタルビデオ店と比較すると品数や最新作の入荷スピードでは劣るけれど、価格だけは大手レンタルビデオ店を圧倒していた。旧作レンタル一週間百円ぽっきり。まだアルバイト先すら決まっておらず、親からの仕送りだけで生活をしていた新人大学生には非常に喜ばしい価格だった。地元を離れてそれほど間がなく、親しい友人の一人もおらず孤独と暇に苛まれていた俺は、毎週土曜日になると勃起したペニスを引っ提げ、新しい出会いを求めては嬉々としてレンタルビデオ店まで歩いて行った。
少し大袈裟に言うならば、あの頃の俺はAVに救われていた。
そんな大学生活というか大学性活も、一度流れにさえ乗ってしまえば後はドミノが倒れていくようにあっという間だった。一年のうち四ヶ月が休みといった嘘のような本当の世界で、俺は取り立てて学生時代にしかできないなにかをするわけでもなく、単なるヒマ潰しのために始めた居酒屋でのアルバイトばかりをしていた。アルバイト先で一時間に八百円という安いのか高いのかもいまいち分からない金を稼ぎ、そのついでというかむしろメインとして女も何人か獲得した。
そんな風に一年のうち四ヶ月は学校にも行かずアルバイトとセックスばかりに精やら精子やらを出しては、女とも三ヶ月やら四ヶ月やらで付き合ったり別れたりを繰り返していたけれど、それでも四回生の時に大学のゼミで一緒になった一見気の強そうな実際気の強い女と付き合うこととなり、俺の大学性活は大団円を迎える。待ち合わせ時間に一分でも遅れようものならばグーパンチは当たり前、そのまま帰ると言い出しかねない彼女は普段からずっとそんな感じで、適当が服を着て歩いているような俺は日々怒られっぱなし殴られっぱなしであった。けれど、しっかり者の彼女とだらしない彼氏ってのはテレビドラマの設定によく使われるほど馬が合うらしく、例に漏れず俺と彼女もなんだかんだで長続きしている。俺が思うに、俺と彼女の場合はセックスの相性がいいというのが最たる長続きの理由である。
そんな彼女と出会った大学性活において、俺が唯一大学生らしいことをしたのは就職活動だった。周囲の人間がやれ電通だ、やれNHKだ、やれ東証一部上場だとミーハーな就職活動を始める中で、俺もなんとかその流れに乗っかろうと重い腰を持ち上げて就職活動を始めてみるものの、リーマンショックの影響からか思うように成果が上がらず、電通やNHKならまだしも、聞いたことのない中小企業からも不採用を言い渡され続け、その度に人間失格というレッテルが貼られているように思われ心が折れ、もういっそのことフリーターでもいいかと半ば本気で考えたりしながら、それでも四百万もかけてようやく得ることのできる四年生大学の新卒枠をみすみす諦めるのももったいないと考え、結局は特にこれといった目的や熱意のないただ内定を取るためだけの就職活動を続けた。
結果、卒業直前滑り込みセーフでマスコミ系を謳う社員百人規模の企業から内定を得ることができた。
入社式の日は風が強くて、咲いたばかりの桜が早くも散ってしまいそうな、そんな春の一日だった。
新幹線も止まる私鉄各線が交錯するターミナル駅から歩いて五分という、なかなか便利な立地条件にあるオフィスを目指して、入社式の日の朝、俺は歩いていた。最終面接の時にきてからまだ一ヶ月も経っていなかったので、それほど懐かしいと思うことはなかったけれど、当然あの時と今では同じオフィスに向かうのでも心境がまったく違うわけで、つまり今日から社会人になるのだから今までのように学生気分ではいけない、といった四月一日にありがちな固い決意を胸に、俺はオフィスを目指してコンビニで買ったパンをもぐもぐ食べながら歩いていた。
入社式は十時に始まった。狭いセミナールームに新入社員八人を含む三十人ほどの社員が詰め込まれていて、セミナールームの中は蒸し風呂状態となっていた。その中で聞く社長の話がこれまた定石通り長く、入社式はまるで小学校の時の全校集会のようだと感じられた。えー。であるからにしてー。
社長の話は恐ろしく長かった。おそらくは俺の親父と同じか、下手をすれば年下かもしれない社長の日本昔話のようにゆっくりと進む、しかしその割にはあまり教訓の含まれていない話を、まるで神様の話でも聞くかのようにそこにいる社員たちが真剣な表情をしながら聞いていて、中にはメモを取りながら聞いている社員までいて俺はちょっとしたカルチャーショックを受けた。それでも、今日から社会人になるのだから今までのように学生気分ではいけない、という固い決意を胸に抱えていた俺は自らを奮い立たせ真剣に社長の話を聞こうと努力した。しかし、慣れないことをすると人間すぐにボロが出るわけで、俺はそのあまりにも冗長過ぎる話に途中異常に眠くなるというまさかというべきか必然というべきかの緊急事態に陥り、これは非常にマズイと入社一時間ほどで早くも迎えた社会人としての初の試練に立ち向かうべく様々な対策を試みた。たとえば、自らの手の甲をつねりその痛みから眠気を吹き飛ばそうと試みるも、痛いことが嫌いな俺は中途半端に手を撫でるだけに終わりもちろん効果などあるはずもなく、それならばと隣に座る同期の女の子の、そのピンと張ったスーツのスカートからはみ出た白い膝小僧を横目で盗み見てはめくるめくエロスな想像をして眠気を吹き飛ばそうと試みるも、結果俺のズボンがピンと張るだけといったこれまたまったくもって効果のない次第で、結局は時間の経過と共に眠気は増すばかりであった。しかし、社長の話が終わりという時になって初めて、俺は自分の入った会社がマスコミの会社などではなく、大手マスコミ企業から営業分野だけを委託されている営業専門の会社であることを知ってようやく眠気が吹き飛んだ。
入社式が終わると、昼休憩を挟んで午後からは簡単なオリエンテーションを受け、その日はあっという間に定時となった。よし帰ろうと俺が立ち上がろうとしたその時、俺たちの教育係兼上司である男がこれから新人研修を始めると言い出し、さらに周りにいる同期メンバーたちもそれがさも当然であるかのように準備を始めていて、俺はその日二度目のカルチャーショックを受けることとなった。
その後、俺たちは名刺の渡し方というその辺の本屋でちょっと立ち読みをすれば分かるようなことを夜の九時まで延々と繰り返しさせられた。まるでお手を教わる犬のように俺たちは何度も何度も叱られながら名刺を渡しては返してもらい、手の添える場所がどこで名前の上には絶対に指を置いてはならないということを耳がタコになるほど聞かされ、初日にして早くも俺の胸にあった四月一日の決意は行方不明となり、そして二度と見つかることはなかった。
二週間あった新人研修は、初めの三日で飽きてしまった。社会人としての心構えやら困難にぶつかった時の対処法やら、さらには自分はいったいどういう人間であるかを知るための自己分析やら、就職活動をする際に大学の就職活動セミナーで受けたのと同じような内容の新人研修は、どう考えてもこれから仕事をする上でまったく不必要なものにしか思えず、なぜなら就職活動をする上でその類のものはまったく不必要であったからである。退屈な眠気と戦う日々が続く中、入社三週目からようやく実践的な仕事が始まるという話で、これで少しは仕事が楽しくなるだろう、などといった甘い考えは当然甘い考えに過ぎなかった。
その後に俺を待っていたのは、月曜日から木曜日までの一日百件ノルマの飛び込み営業と、金曜日に行われる一日三百件ノルマの電話営業で、それはゴールデンウィークまで二週間続いた。その間、家に帰るのはいつだって新しい一日を迎えた後で、先輩社員たちが得意気に使っている『落ちる』という言葉の意味を、俺は身を持って知ることとなった。
入社一ヶ月、ゴールデンウィーク前に早くも辞職という言葉が俺の頭の中には浮かんでいた。
せっかくのゴールデンウィークは、これといって特別なことをしないままに終わってしまった。地元に帰るでもなく学生時代の友達と会うでもなく、前半はただただ眠るだけの日々を、体力が回復した後半はただただ彼女とセックスをするだけの日々を過ごした。
ここであえて睡眠とセックスを除くゴールデンウィーク中にしたことを挙げるとするならば、いくつかの転職サイトへの登録と、入社して一ヶ月が経ってようやく実現した同期会に参加したことくらい。
同期会は会社の近くにある、味のしない枝豆が五百円もする居酒屋で行われた。ゴールデンウィークの街はどこもかしこも人人人で、居酒屋に入るためだけに三十分以上も待たされた。
男四人に女四人。まるで合コンのように男女が向かい合う席に座って、一ヶ月お疲れ様でしたと乾杯をした。同期のメンバーは八人が八人とも初めの二週間を除いてそれぞれ別のチームに仮配属されていたため話す機会が少なく、だから初めのうちは全体的にどこかよそよそしく、まるで本物の合コンのようにそれぞれ学生時代になにをしていて趣味はなんだとかいう自己紹介的な話をした。しかし、酒が進むにつれて徐々にそのよそよそしさも薄れていき、開始から二時間が経った頃になってようやく本題というべき仕事の話となった。
まず、それぞれが所属するチームのメンバーについて話をした。たとえばAチームのメンバーは割と大人しいメンバーが集まっていて、Bチームのメンバーは全員が体育会系であるという話。ちなみに、俺が所属しているDチームはリーダーと俺をのぞく六人全員が女性社員で、ミーティングが異様に長い。話し合いや会議といったものが嫌いな俺にとっては、最悪とも言えるメンバー構成だった。もちろんそんなことは口にしなかったけど。
続いて今の仕事状況について一人ずつ話していった。その中で分かったことは、すでに八件も受注を取っているメンバーがいて、未だに一件の受注も取れていないメンバーが混在するということ。だいたいのメンバーがゴールデンウィークの現時点においてニ、三件受注といった状況なので、この二人の数字は共に極端だった。
そしてその後、仕事に対する姿勢についてそれぞれのメンバーが自分の考えや意見を語り始めた頃から俺はどことなく居心地の悪さを感じ始め、しかもその居心地の悪さはつい最近どこかで体験したことがあるような気がして、そしてそれがつい数ヶ月前まで俺自身必死になって行っていた就職活動の際に感じた居心地の悪さだと気が付いた時、脳内で軽いフラッシュバックが起きていた。
御社のヒトを一番に思う経営理念に惹かれました。御社で働くことができれば、きっと私自身の成長にもつながると思い、そして成長した私は将来必ず御社の役に立つことができると考えています。
面接前日の夜にネットで検索した企業情報を、こちらもネットで検索した面接対策の解答例の例文に当て嵌め、面接で必ず聞かれる志望動機の解答を作成して面接に挑む。メーカー系の企業であればその企業がメインに作っている商品を調べ、その中で自分が将来関わってみたい商品とその理由を作り上げる。IT系の企業だと、社会の発展と豊かさを思う気持ちをその企業が扱っているシステムに絡ませて志望動機を考える。意外と似ているのが金融系とマスコミ系の企業で、この二つの業界は他の業界と比べて主にヒトに重点を置いている。なので、その企業が取り入れている研修制度やその企業での働きがいなどに着目すればいい。企業によっては一風変わった社内制度があったりするので、その場合はさらに志望動機は作りやすい。また、特に変わった制度がない場合でも、とにかく自分が成長したいと思う気持ちと、そこからさらにその企業に対して貢献したいという気持ちを押す。たとえ、心の中ではそんなこと蝉の脳みそほどの質量すら思っていなくとも、真剣な表情をしてそれっぽい言葉を口から吐き出す。企業側だってそんなことは百も承知だろう。狐と狸の化かし合いだ。それでも、企業は将来と世間体のために新しい人材を採用しなければならないし、俺たち学生だって将来と世間体のために就職試験を乗り越えていかなければならない。これは試験だ。四大卒という資格を四百万で買って受験する就職試験。この試験を受かるか受からないかで今後の人生が大きく変わる。年収。ステータス。評価。真っ当な道、人生。だからこそ、ここは頑張りどころだ。俺は自分にそう言い聞かせて、就職活動を続けた。
もっと本気でしなくちゃいけないと思う。僕たち同期の中でも、正しいことは正しい、間違っていることは間違っていると言わなくちゃいけないと思う。一人の男がそんなことを口にした。分厚いレンズの眼鏡をかけた、おそらくは生涯において万引きなんて一度もしたことがなさそうな男。その男が言った言葉は、ベンチャー企業の説明会で必ずといっていいほど社長が語る『ぶつかりあう理論』だった。納得するまで話し合うことの大切さを諭す話。俺の一番嫌いな、いわゆる熱血系ってやつだ。面倒くさい。
眼鏡の男は続けた。同期だからってなあなあで済ませるんじゃなくて、お互いに正面からぶつかり合っていかなくちゃいけないと思う。その言葉に一人の女が相槌を打った。そうだね、どうせならとことんしようよ。入社式の日に、俺が膝小僧を盗み見てはエロスなことを想像した女だった。その女はあの時よりも十センチは短いであろうミニスカートをはいていて、上はノースリーブといった服装をしていた。いかにも今どきの若者といった格好。酔えば誰とでも寝るタイプ。そうだな、いっちょやってやろうぜ。さっきとはまた別の男が言う。すでに受注を八件も取っている男。ノリが良くて、人当たりがいい。人望があって、才能もある。仕事にしろ人間関係にしろ、なんでも完璧にこなしてしまうタイプ。クラスに一人、必ずこういう奴がいる。俺の苦手なタイプ。こいつさえいなければ。二番手タイプの俺は過去に何度もそう思ってきたけれど、こういうタイプの人間は俺の行く先に必ず一人いる。だからいつも俺は二番手で終わる。コイツサエイナケレバ。
あの、私、なにがダメなのかな。続いて一人の女が誰に言うでもなく囁くように言った。未だ一件の受注も取れていない女。気が弱くて、話し下手。人前で話すこととは無縁の人生を送ってきたに違いない。いったいどこでどう間違えてこの会社に入ってきたのだろうか。もしかすると、この女も俺と同じように卒業前ギリギリで内定をもらえたから、なにをしている会社かいまいち理解しないまま入社を決めたのかもしれない。
その言葉が発端となって、なぜか居酒屋の一角で飛び込み営業のロールプレイングが始まった。就業時間中にやるべきことを、わざわざ休日の、しかも飲みの席で始めるなんて馬鹿げていると俺は思った。しかし、俺以外の全員が至って真面目にロールプレイングをしていて、俺だけが一人蚊帳の外でいるわけにもいかず、俺はなんとか自分を奮い立たせてそのロールプレイングに参加した。
喉が渇くと、ビールを飲んだ。しかし、どれだけビールを飲んでもいっこうに喉は乾いたままだった。
俺が働いている会社は広告の枠を売っている。パン屋はパンを売る。メーカーは物を売る。そして、俺たち枠屋は枠を売る。当然のことだ。
今の俺は、広告の枠を売る枠屋さんである。
しかし、一口に広告といっても現在日本にはあまりに多くの種類の広告がある。一番有名で分かりやすいテレビコマーシャルを筆頭に、ビルなどにでかでかと掲げられている看板広告や、電車やバスなどに絵や写真などを載せているラッピング広告。この辺りはいかにも広告といった感じがする。けれど、別にそんな誰もが知っているような種類の広告でなくても、個人経営のお店が手書きでチラシを作って街で配るのも立派な広告だし、今はあまり見る機会がないけれど、かつて街の至る所にあった公衆電話の周りに貼りたくられていたピンクチラシだって立派な広告だ。つまり、なにかを広めることを目的として作られた物は、すべて広告というわけである。
そんな広告の中でも、うちの会社が主に取り扱っているのが雑誌広告で、雑誌も大きく二つのジャンルに分けられる。一つは角川グループが出している○○ウォーカーのような広義の意味でのエンターテイメント系の情報雑誌で、もう一つはリクルート社が出しているタウンワークのような求人情報ばかりを集めた求人雑誌である。前者に載せる広告は企業や店舗の知名度を上げるための広告であって、後者に載せる広告は名前の通り人材を集めるためのいわば求人広告である。
ちなみに、俺は求人広告を専門に扱っているチームに仮配属されているから、今は求人広告の枠屋さんということになる。
そんな求人広告の枠屋さんである俺は、ゴールデンウィークが過ぎた後も、ゴールデンウィーク前とさほど変わらない日々を過ごしていた。
月曜日から木曜日までは外回り。飛び込み営業。アメニモマケズ、カゼニモマケズ。足が棒になっても歩き続ける。無礼上等、玉砕当然で目につく企業、店舗に神風特攻隊の如く突撃する。受付のお姉ちゃんに、はたまた自分よりも年下の学生アルバイトの女の子に頭を下げて挨拶をする。懐から名刺入れを取り出して名刺を渡す。人事担当者様、あるいは店長さんはいますか、とたずねる。運が良ければ会える。たいてい会えない。会えたとしても怒られることが多い。こっちは忙しいんだよ。勝手に店の中に入ってくるな。怒られる。企業だと昼前、飲食店なんかだと開店時間直前が特に怒られる可能性が高い。怒られれば、また頭を下げる。繰り返し。そんな営業活動の一部始終を逐一飛び込み営業専用に作られた用紙に書き込んでいく。エクセルで作った簡単な表のようなもの。会社名。担当者名。連絡先。この三つはマスト項目。営業時間。定休日。働いている人の人柄等。このあたりはあればベター。黒と赤と青の三色ボールペンで記入していく。毎日毎日、用紙を三色の文字で埋めていくことの繰り返しを繰り返す。
金曜日になると、この街に存在するであろう企業に片っぱしから電話をかける。営業電話。別名テレクリ。まずは、月曜日から木曜日までに回ったすべての企業、店舗に電話をかける。それが一通り終わると、タウンページを引っ張り出してきて、あ行から順番に電話をかけていく。始まって数十分もすれば、まるで自分が電話をかける機械にでもなったかのような感覚に陥っていく。
テレクリにはいくつかの決まりごとがある。まずは元気に。これは大前提。明るく、大きな声で、はきはきと。その気になれば小学生にだってできること。しかし、これが意外と難しい。電話をかけた相手が話を聞いてくれる相手だといいが、八割以上の相手は内容はおろか、営業の電話だと分かればすぐに態度を変え、怒鳴り、説教を垂れ、挙句の果てには罵声を浴びせる。一件や二件だといいが、これが何件も続くとさすがにテンションが下がり声も出なくなってくる。元気に。簡単なように見えて、意外と難しい。
そしてもう一つ、テレクリには大事な決まりごとがある。それはテレクリ中は決して受話器を置いてはいけないということ。一度テレクリを始めると、少なくとも一時間は受話器を置いてはいけない。一時間、ひたすら電話をかけ続ける。それが終わるといったん休憩。五分くらいの短い休憩だ。そしてまた一時間のテレクリ。それが一日、延々と続く。一時間に一度、俺はトイレの個室に入って隠し持っていたウォークマンを取り出して一曲だけ曲を聞く。それだけが唯一の救いの時間。後は無。もしくは苦。それだけ。繰り返す。毎週金曜日がくる度にそれを繰り返していく。
外回りにしろテレクリにしろ、仮配属中の新人はとりあえず二十時までというのが一つの区切りの時間となっている。そこでいったん営業活動は終わり。しかし、その後には二時間にも及ぶ勉強会が待っている。勉強会の内容は、一般的な法律や広告の歴史、また現在の広告業界の状況や同業他社についてなど、内容は盛りだくさん。さらには、それぞれの広告枠の特殊割引制度や季節によって存在する特殊クーポンの概要など、うちの会社にだけあるいわばローカルルールもたくさん覚えなくてはならない。学校の教科書が屁に思えるほど、難解な内容の資料やテキストは一日一日と日が進むたびに机の上を占領していき、その存在感を遺憾無く発揮していった。
家に帰ると必ず深夜零時を過ぎていた。というのも、勉強会が終わった後にも翌日の営業の準備をしなくてはならなかったから。さらには一週間に二度、水曜日と金曜日の夜には同期メンバーだけで集まってそれぞれの近況などを報告し合うミーティングを行っていたからだ。これは同期メンバーのうちの一人が勝手に上司に相談をして勝手に了承を得て勝手に始めたもので、ただでさえ下がりに下がっていた俺のモチベーションをさらに下げるのに一役買った。
土曜日になると決まって彼女はやってきた。それが義務であるかのように、彼女は土曜日になると必ず俺の家にやってきた。時間は週によってまちまちだった。朝の六時にくる時もあれば、夜の九時にやってくる時もあった。学生の頃はこんなことなかったのに、お互い社会人になってからは、彼女は土曜日になると必ず俺の家にやってきては泊まっていき、そして決まって日曜日の夜に帰っていった。まるで季節のように、彼女がやってきては去っていった。
ゴールデンウィークからさらに二ヶ月が過ぎ、七月を迎えた。仮配属の任期を終え、俺たち新入社員は晴れて本配属されることとなった。とはいっても基本的に所属するチームは変わらない。ただノルマが課せられるようになっただけ。担当する雑誌によってノルマの額は変わってくるのだが、だいたい新人の平均的なノルマは週間目標が二十万から三十万程度で、これでもかなり頑張らなければ達成することができない。枠の大きさにもよるけれど、だいたい新人が売ることのできる一番小さな枠は二万五千円とか三万円とかで、そのもう一つ上の枠でも五万円とか六万円だった。つまり、少なくとも一週間に六、七件程度の受注を取らなければならない。
また、ノルマができると同時に担当顧客というものもできた。七月一週目の月曜日の朝礼後、上司から数枚の紙を渡されその紙を見ると、そこにはずらりと並んだ企業名とその住所や連絡先が記載されてあって、上司が今日からお前が担当するお客さんだから今週中に全件回って挨拶してこい、といつも通りの断られることなど蝉の脳みそほどの質量も念頭に置いていない口調でそう言う。要は命令だ。しかも、絶対に断ることのできない。全部で何件あるんですか、と俺がたずねると、そうだな、だいたい三百件くらいだろうな、という返答だったので、瞬時にその数字を五で割ってみると六十という数字が導き出されて、一日六十件か、思ったよりも楽勝だな、と先週まで一日百件を超す飛び込み営業をしていた俺は楽観視した。しかし、実際にその数枚の紙と地図と販促グッズを持って街に出てみると、住所だけが羅列してある紙から地図を見て実際の場所を割り出すのは思ったよりも骨の折れる作業で、しかも今度は飛び込みではなくその企業、店舗の担当者となるので相手もウェルカムな感じのところが多く(それでも中には前の担当者に戻せと言ったり、新人なんかに任せられるかと怒鳴ったりするムカつく客もいた)、ただ挨拶をするだけのはずがお茶の一杯と勧められてだらだらと受注に結び付きそうにもない世間話を数十分というケースも少なくなくて、一日六十件というのはどう考えても不可能な数字に思えた。しかも、この週からさっそく三十万円というノルマが課せられているわけで、ただ挨拶だけをしていれば良いというわけでもなく同時に営業もしなければならなくて、俺の楽観的観測は本配属初日にしていとも簡単に砕け散った。
ちなみに七月一週目の現時点において、八人いた同期のうちすでに三人が辞めていた。一人はゴールデンウィーク明け一週目にその姿を消し、それから毎月月末になると一人また一人と姿を消していった。
七月の末にまた一人、同期が会社を辞めた。気の弱そうな、ゴールデンウィークまで一軒の受注も取れなかったあの女だった。この時点で残りは完璧男と真面目眼鏡、そしてミニスカ女と俺だった。
とりあえず盆休みまで。その一心で俺はなんとか残っていた。辞めるのは逃げるようで嫌だった。こう見えて、実は負けず嫌いだったりする。
盆休みまで、死に物狂いで走り切った。
盆休みは実家に帰った。
正月と盆は必ず家に帰ること。一人暮らしを始める時に母親から言いつけられたことを大学の四年間忠実に守り続けた俺は、社会人になってからも律儀にその約束を守った。
実家に帰ると当然地元の友達と飲みに行く機会ができる。集まるメンバーの中に元カノがいたりなんかすると、毎回なんとか酔った勢いでもう一度くらいセックスができないかと期待して行ったりするのだけど、残念ながら今回集まるメンバーの中に元カノはいなかった。しかも今回は元カノどころか女が一人もこないということで、そんな集まりに果たして行く価値があるのかと真剣に思索してみるが答えなんて一向に見つかるはずもなく、家を出る直前まで本気で今日は辞めておくかなどと考えていたけれど、家にいたところでテレビのくだらない夏休み特番を見ることくらいしかする予定のない俺は、重い腰を上げて母親のママチャリを漕ぎ、待ち合わせの店に向かった。
集まった六人の中で、現在正社員として働いているのが俺を含めたったの二人で、残りの三人は大学受験の時に一浪しているので未だに大学生と羨ましい限りで、そして残りの一人は自称旅人という、いわばただのフリーター未満であった。俺の他に正社員をしている男は地元の社員が十人ほどといった小さな会社に勤めていて、聞くところによると給料は手取りで十三万五千円という話だった。地方とはいえ、一応国立大学を出てそれはないだろうと思ったけれど、勤務時間が朝の八時半から夜十七時半までで、毎日十八時には家でテレビを見ているという話を聞いて妙に納得することができた。
野郎六人でぺちゃくちゃとあることないこと、学生時代の思い出話や将来の楽観的展望、さらにはセックスのあれこれなど、二百八十円均一の酒とつまみを口に放りこみながら俺たちは話し続けた。家に帰っても特にすることのない俺たちは、店の閉店時間である朝の五時までその店にいた。店を出る頃にはすっかりと空は明るくなっていて、そういえば社会人になってから初めて仕事以外でオールをしたという事実にその時気が付いて、懐かしい気持ちになった。
すげえ楽しかった。
束の間の学生気分を味わった盆休みが終わると、また現実の生活へと逆戻りした。朝早くから夜は日付が変わるまで、月曜日から金曜日まで、時間に、数字に、上司に、客に追われながら、俺は走り続けた。俺が所属するチームも含めて、うちの会社は週刊誌を扱うチームが多いので基本的に一週間が一つのサイクルになる。月曜日は始まりが肝心だと、火曜日はそのまま勢いをつけろと、水曜日は中だるみしないようにと、木曜日は追い込みをかけろと言われて、最終日金曜日には締め切りだ全部出し切れと、社内はいつだって切羽詰まっていて心休まる時などなかった。土曜日は五つの曜日では賄いきれない交通費の精算や営業のツール作りなどの雑務に追われる。あまりにも翌週の数字が見えていない場合は土曜日すら営業に駆り出され、そのままの流れで日曜日も出社ということも多々あった。睡眠不足と疲労、不規則な生活は食生活をも乱していった。体中に見たことのないブツブツが噴き出してきて、体中が痒く、疲れていても眠れない日々が続いた。
土曜日になると必ず彼女が家にやってきては、日曜日の夜に帰っていった。まるでなにかの儀式のように彼女は土曜日になると必ずやってきた。初めのうちはよかったけど、精神的に余裕がなくなり始めると彼女が家にやってくることすら憂鬱に思えてきて、週末の休みもまるで仕事であるかのような気がして、家にいても会社にいても心休まる時間がなくて、本当にきつかった。
息つきをする暇もなく、また月曜日がやってきては一週間が始まり、その波に飲まれる。そしてまた週末になると彼女がやってきて、あっという間に月曜日を迎える。その繰り返しだった。
暑い日が続いた。
八月が終わったのに、夏は依然としてそこにとどまり続けた。
始まりなのか終わりなのかも分からずに一日一日が過ぎていった。
新しい一週間が始まってはすぐに金曜日がやってきて、けど気が付くとすぐにまた月曜日で、また新しい一週間が始まっていた。
そしてもう二度と、新しい一ヶ月はやってこなかった。
九月の末に、俺は会社を辞めた。
別れたいんだけど、と俺が言うと、どうしてよ、と彼女は言った。理由は別にないけどちょっと一人になりたい、と俺が言うと、ふざけないでよ、と彼女は言った。じゃあ言うけど毎週土曜日にこられるのマジできつかったんだよ、と俺が言うと、どういう意味よ、と彼女は言った。仕事みたいな感じがしたんだ、と俺が言うと、あんたはなんでもかんでもそう言った気持ちで物事を捉えるんだね、と彼女は言った。どういう意味だよ、と俺が聞くと、自分で考えろ、と彼女は答えた。とにかく荷物まとめて欲しいんだけど、と俺がお願いすると、いらないから全部捨てろ、と彼女は命令した。ごめんな、と俺が謝ると、謝んなよお前マジ死ねよ、と彼女は吐き捨て、そして部屋から出ていった。彼女が出ていった後で、そういえば合鍵を返してもらうことを忘れていたことに気が付いた俺は、しかし今さらもうどうにもならないことを悟ってそのまま放っておいた。
彼女が出て行った直後、俺は部屋の大掃除をすることにした。
燃えるゴミだろうと燃えないゴミだろうとも形振り構わず、とにかくいらない物は片っぱしからゴミ袋に突っ込んでいった。まず、彼女が俺の家に置いていった洋服関係を一式。ブランド物のスカートもパジャマ代わりに使用していたアディダスのジャージも、今となっては見たところでなにも感じなくなった下着もすべてゴミ袋に突っ込んだ。彼女が使用していたハミガキやコップ、俺の家に持ち込んでいたシャンプーやトリートメント、それから化粧品などもすべて捨てた。二人で撮った写真やプリクラ、お揃いで買ったネックレスやキーホルダーも躊躇いなくゴミ袋に突っ込んだ。
続いて、俺は退職をした日以来ずっと部屋の隅に置きっぱなしになっていた紙袋を部屋の中央に持ってきて、その中身を床にぶちまけた。ボールペンやノートやファイルやバインダーなど、前の会社で使用していた物だ。他にも、入社式の時にもらった全社員の顔写真やひと言メッセージなどが載った入社記念アルバムがあった。俺はそれらもすべてゴミ袋に突っ込んだ。
それらすべてをゴミ袋へと突っ込み、合計四袋となったゴミ袋をマンションの下にあるゴミ捨て場に置いた時に、俺は初めて仕事を辞めた、彼女と別れた、という事実を認識することができた。
よし、とひと言声に出してから俺は自分の部屋へと戻った。
くちゅ、くちゅ、と音を立てながら女が男の勃起したペニスを舐めている。男はペニスを舐める女の髪の毛を掻き上げてその女の顔がよく見えるようにしている。女は上目づかいに男の顔を見ながらその行為を続ける。女は口に咥えたままピストン運動を繰り返し、時おり口から離しては玉を舐めたり、手でしごいたりしている。しばらくした後で男が女の口からペニスを抜いて、女に横になるよう促した。女は促されるまま仰向けになって、自ら股を広げて男を待つ。男は女が自ら広げて待つ女の股にためらいなくペニスを挿入していった。瞬間、女が苦痛に顔を歪めて声を出した。男は腰を振りながら女にキスをしたり胸を揉んだりを繰り返す。正常位から騎乗位へ、騎乗位から後背位へ、そして後背位から正常位へ。数分間隔で体位を変えていく。女の顔がアップになったり、結合箇所がアップになったり。男の体から汗が滴り、女の体に落ちては女の体を濡らす。ぱんぱんぱん、男が女の体を突く音が鳴り、それと呼応するように女の喘ぎ声も徐々に大きくなっていく。イク、イク、と女が声を出し始め、それが合図であったかのように男も最後の仕上げに入っていく。ぱんぱんぱんぱん! 女の胸が髪が揺れて声が一層大きくなっていき男がああっ、いくっと高らかに宣言した次の瞬間、男は急いで女からペニスを抜いては女の顔にペニスを持っていき女の顔目がけて精子を放出した。女は乱れる呼吸で、しかし舌だけはしっかりと出しながら精子を顔と口で受け止める。男は自らのペニスをしごいて精子を絞り出すように女の顔と口に出し続け、それが終わると最後女に再び咥えるよう指示し、女は指示通り男のペニスを咥える。女は最後の一滴まで絞り出すように男のペニスを吸う。顔を精子まみれにした女が、先ほどまで自分の中に入っていた男のペニスを吸い続ける。
目の前に映る映像を見ながら自らの手で自らのペニスをしごいていた俺は、あ、イキそ、と心の中で思うと同時に左手に用意してあったティッシュでペニスに蓋をし、その中で射精した。びゅっ、びゅっ、と音も出ず、さらにはかつてないほど少量の精子が放出されていることが、ティッシュを持つ左手の感触で分かった。
少量の精子を包んだティッシュを丸めてゴミ箱へと放り投げ、下半身をだらしなく露出させたままベッドの上に寝転んで天井を眺めた。ぼんやりと天井を眺めていても、そこには薄汚れたシミがいくつか見えるだけで、他にはなにも見えなかった。夢も希望も、楽しい思い出も一ヶ月後の未来も、そこにはなにも見当たらなかった。
体全体がだるい。オナニーをした後はいつもこうだ。体全体に気だるさだけが残って、後にはなにも残らない。体内から精子とともにやる気までもが出ていってしまったかのように、オナニーをした後は数分間、長い時だと数十分ほどなにもやる気が起きない。
これで今日何回目のオナニーだろうか。俺は考える。昼過ぎに起きて一回、夕方に一回、そして晩飯を食った後に一回したから、さっきので四回目か。さすがに時間がかかった。それでもまた、俺は明日もオナニーをするだろう。
セックスがしたい。ここ数日、ずっとそんなことを考えている。彼女と別れたのは失敗だったか。そんなことを本気で思う。最低だ。彼女を性の対象としか見ていなかった証拠だ。
仕事もない。女もいない。人生の絶望を味わうつもりだったけど、それほど絶望感がない。金があることが誤算だった。半年間、最低限の生活費しか使ってこなかった、というか金を使う暇のなかった俺にはそれなりに蓄えがあって、ニ、三ヶ月くらいは働かずとも食っていけそうだった。だから、仕事を辞めてからというもの、俺は一日中家の中にいてオナニーばかりしている。外に行くのはAVを借りに行く時か、飯を買いに行く時くらい。この何日間、誰とも会話をしていない。最近聞いた人の声は、テレビから聞こえてくるAV女優の声と、夕方近所のガキ共が騒いでいる声だけ。
ぼうっと天井を眺めながら、俺はため息を一つついた。まるで魂そのものが抜けていったように、その後すぐに意識を失った。
就職活動をしていた時、入社試験の一つとしてグループディスカッションに参加することが度々あった。グループディスカッションとはその名の通り数人で、だいたいは五人とか六人で、一つのグループを作ってあるテーマについて討論し、答えを導き出していくものである。
テーマはその企業によって様々で、たとえばマスコミ系の企業だと『自社の広告を作るには』や『オリンピックを盛り上げるためには』など実用的なテーマが多く、金融系は『ワークシェアリングについて』や『理想の上司は』など社内制度や働く環境についてのテーマが多い。メーカーであれば『xxx社で好きな製品、その理由について』などやはり自社製品についてのテーマが多く、どこの企業かは忘れたけれど、中には『就職活動の無意味さについて』などといった非常に斬新な、かつ対応に困るテーマもあった。
たくさんのグループディスカッションに参加したけれど、俺の中で一番印象に残っているのがある人材系の企業で行われたグループディスカッションで、テーマは『格差について』だった。
その時は男四人、女二人の合計六人でのグループディスカッションだった。
男は俺を含めた四人ともが今どきの安全主義派で、つまり自分からは決して手を挙げようとはせず、誰かが手を挙げたことを確認してから手を挙げるといった男たちだった。また、二人いる女の内一人も眼鏡をかけたいかにも内気そうな女で、その女はその見た目通り極端に口数が少なく、二十分あったグループディスカッションのうち十八分はなにも喋らず、ただの空気と化していた。
そんな消極的な人間が集まったグループにおいて、良くも悪くも一人圧倒的な存在感を放つ女がいた。その女は吊り上った目と尖った顎が示す通り、メチャクチャ気が強かった。
まず初めに司会者とタイムキーパーを一人ずつ決めてください、後は自由に進めていただいて構いません。二十代半ばくらいだと思われる若い男の試験官がそう口にしてグループディスカッションは幕を開けた。
司会は私がします、それがさも当然であるかのように一人の女が宣言をして、当然周りもそれに反対することなく即決し、一方でタイムキーパーはなかなか決まらず、無言の譲り合いの末、結局俺がすることになった。
この場にいるメンバーの共通点を探したいと思います。そして、その共通点の中から見えてくる格差について話し合っていきたいと思います。
開口一番、司会の女がそう言った。その言葉を聞いた俺は意表を突かれた形となって、それはたぶん他のメンバーも同じだったと思う。なぜなら、大抵こういう場合にはどういう風に進めていきますか、と司会者がメンバーに問いかけるのがセオリーだからである。グループディスカッションだけではなく、就職活動全般において企業は主に学生たちの協調性、つまりはコミュニケーション能力を見ているのだと大学の就職セミナーや先輩訪問などで耳がタコになるほど聞かされ続けてきた俺たち就職活動生は、その言葉通り周りの人間に合わせることを常に心がけてきた。だからこそ、グループディスカッションにおいては、話の進め方を『全員で』決めて、『全員で』話を進めていくということが暗黙の了解のはずだった。
しかし、そんな暗黙の了解を完全無視して司会の女は一人で話を進めていった。
サークル活動に参加をしている人。
ボランティア活動に参加をした経験のある人。
司会の女が五人に対して質問を投げかけていく。
この二つの質問に対してはそれぞれ司会の女を含め三人が手を挙げた。どちらも同じ三人だった。当然、俺は二つの質問に対して手を挙げていない。そんな俺たちのやり取りを見て、若い試験官が手元の紙になにか書き込んでいた。たった二つの質問だけで活動的な人間とそうでない人間の線引きがされたような気がした。そして、その後にアルバイトをしている、あるいはした経験のある人はいますか、と問いかけられた時にようやく俺は手を挙げることができたが、見事なまでに六人全員が手を挙げていて、当然のように若い試験官に動きはなかった。
とにもかくにも、こうして六人の共通点が見つかった。
司会の女はまるで初めからこの話題で話を進めようと決めていたかのように、六人全員が手を挙げたことに対して満足気に頷いた。おそらくは過去にこの手の話題で、グループディスカッションをした経験があるのだろう。うまくやったな、と思わず感心してしまった。
女の思惑通り、アルバイト先で感じる格差についてその後話は進んだ。
アルバイト先には俺たちのような学校に通いながら小遣い稼ぎとしてアルバイトをしている人間と、フリーターと呼ばれるアルバイトで生計を立てている二種類の人間がいる。前者については今回のテーマにあまり関係がないということで意見が一致し、今回は後者について話し合っていくこととなった。さらにそこから、三十歳を超えてもアルバイトで生計を立てている人間と、同じ世代でも大学、あるいは高校を卒業してからずっと正社員で働いている人間と、その間に差はあるのかという話に議論は進んだ。
ある、と一人の男を除く五人のメンバーが手を挙げた。その五人のメンバーは俺を含め司会の女とともに年収の差や社会保障の違いなど、テレビや新聞などから得た僅かな知識をできるだけ水増しして、ないと言い張る一人の男相手に徹底的に口撃した。しかし、ないと言った男も劣勢ながらも決して自分の意見は変えずに『夢』という言葉を使って防戦を繰り広げた。
男の言い分はこうだった。アルバイトで生計を立てながらミュージシャンやお笑い芸人や小説家になることを目指している人間、つまりは『夢』を目指して日々努力している人間がいるとする。しかし、結果が出ないまま年を重ね気付けば三十歳を過ぎていた。周りの人間の多くは正社員として働き、部下を持っている人間だって少なくはない。年収の差はもちろんのこと、社会保障などもないフリーターは世間的に見てもかなりのマイナス評価となる。このままだと結婚することだって難しいかもしれない。それでも、その人たちにとっては『夢』に向かって進むことが生きがいであって、つまりは人生である。年収の差や社会保障の有無などは関係ない。正社員として、したくもないことを一生し続けることは、果たしてその人のためになるのだろうか、と男はそう言った。
しかし、その言い分に対してすかさず司会の女が反撃した。どうしてその人たちは正社員として働きながら『夢』を目指そうとはしないのですか。世の中には正社員として働きながら『夢』を目指している人がたくさんいます。その人たちは限られた時間の中で、人よりもたくさんの努力をしながら『夢』を叶えようとしています。そして、中には実際に『夢』を叶えることのできる人がたくさんいます。
その言葉に対して、男が反論をする。
正社員でいるときっと心のどこかで正社員として働いているのだからという安心感が出てしまって、だからいざという時に、
男の言葉が不自然に途切れた。司会の女が割って入ったからだ。
いざという時に?
それはどういう意味で言っていますか?
いざという時に困るのは、フリーターで生計を立てている人でしょ?
司会の女が、矢継ぎ早にまくし立てる。
それに、正社員で働いている人は安心感が出てしまうとは一体どういう意味ですか?
そんなのは『夢』に対する個人の姿勢次第でしょう?
本気で叶えたい『夢』なら、正社員として働いていようがフリーターとして働いていようが、そんなことは関係なく『夢』を叶えるための努力ができるはずでしょう。
男が反論を試みる。
そうだけど、
いや、そうじゃないんだって。
ここが選考の場であることも忘れてしまったかのように男は普段通りの、俗に言われる『タメ口』で言葉を紡いでいく。
そうじゃないんだって。『夢』ってのはもっとこうギリギリのところに追い詰められて、本当に後がない状況の中で発揮する力が叶えてくれるものであって、だから、
女はその単語を見逃さなかった。
だから?
はんっ、と女が鼻で笑う音が聞こえてきたような気がした。そんな精神論で『夢』が叶えられるとでも、と笑っているようだった。
男はそれ以上なにも口にしなかった。できなかった、と言った方が正しいかもしれない。男は一度口を開こうとして、けど、これから口に出そうとしている言葉では女を言い負かすことができないということを自身の中ですでに悟ってしまっていて、だから結局はなにも口にすることなく、乾いた声だけを発することになってしまった。その姿はまるで領土と言葉を奪われた先住民族のようだった。外部からやってきた圧倒的な存在の前に、なにも言えずただ口を開閉させるだけ。
その後、沈黙が訪れた。
グループディスカッションでは決してあってはならない沈黙の時間だった。
それでも、そのあまりの空気の重さに誰もが口を閉ざし、この場にいる全員が誰か自分以外の人間が言葉を発してくれるのをじっと待っていた。しかし、司会の女との一騎打ちで完全敗北を喫した男は当然のこと、他の安全主義派の男たちも当たり前だと言わんばかりにダンマリを決め込んでいて、当然大人しそうな女は相変わらず大人しく、頼りの綱である司会の女ですら厳しい表情を浮かべながら次の展開について思案を巡らせているようであった。
重い沈黙の中、俺は他にすることがなかったので腕時計を見て時間を確認した。すでに規定時間の半分である十分が経過していた。この時ようやく俺は自分がタイムキーパーであることを思い出したが、重い沈黙の中わざわざ途中経過を言う気も起こらずに、結局他の男たちと同様ダンマリを貫き通した。
俺がダンマリを決め込んでいるのにはもう一つ理由があった。俺はずっと考えていた。先ほど、男が最後に言った言葉を。『夢』ってのはもっとこうギリギリに追い詰められて、本当に後がない状況の中で発揮する力が叶えてくれるものであって、だから、
そんな、傍から見れば精神論にしか聞こえないような言葉について、俺はずっと考えていた。
たぶん、男にはきっとそんな『夢』があったんだと思う。それは過去に敗れ去ってしまったのか今なお継続して追い続けているのか分からないけど、男には『ギリギリに追い詰められて、本当に後がない状況の中で発揮する力が叶えてくれる夢』というのがあったに違いない。男がなぜ就職活動をしていて、この選考に参加しているのかは分からないけど、おそらくは自分が否定されたような気がして、つい選考の場であんな発言をしてしまったのだと思う。
男と違って、俺にはない。
生まれてから今まで、そんな風に思えた『夢』がない。
小、中、高とそれなりに楽しい生活を過ごしてきた俺は、それなりに勉強をしてそれなりの大学に入った。私立の中では上の中といったランクの大学で、この地域に住む人間であれば一度くらいは名前を聞いたことのある大学。そこでも俺はそれなりに良い成績を残して、それなりに楽しい生活をして、そして今、このなにをしているのかもよく分からない企業に入社するための選考を受けている。その選考において、今日初めて会った名前すらろくに知らない人間と一緒に『格差について』なんていうこれまたよく分からないテーマについてグループディスカッションをしている。
『夢』なんてものはどこにも見当たらなかった。
なんのために働くのか、誰のために働くのか、俺にはまったく分かっていない。
そもそも、いったいなんのために生きているのか、俺には見当もつかなかった。
その時だった。
視界の端に、それが映った。
女が手を挙げていた。
女といっても司会の女ではない。眼鏡をかけた、今までろくに話に参加していなかった女が、一人手を挙げていた。
その場にいる全員が一斉にその女の方を見た。
司会の女が発言を促した。
眼鏡の女はまるで自分だけが知ってしまった大切な情報を告知するかのように、得意気に、にっこりと笑ってこう言った。
夢を仕事にすればいいんじゃないですか?
コンビニで週刊誌を何冊か立ち読みしてから、晩飯用の弁当とお茶を買って家に帰ると、彼女がいた。彼女というか、元彼女というか、前彼女というか、別に呼び名はなんだっていいのだけど、とにかく二ヶ月前までは確かに俺の彼女だった女が俺の部屋にいて、さも当然のように部屋の中央に座りながらテレビを見ていた。
おかえり、と彼女が言ったので、ただいま、と俺は言った。
俺はいつも通り洗面所で手洗いとうがいをして、その後でもう一度部屋の中を見てみても、やはり別れたはずの彼女が部屋の中で体育座りをしながらテレビを見ているという状況は少しも変わっていなかった。
俺はなにも考えず彼女の右斜め前四十五度の『いつもの』場所に腰を下ろして、彼女と同じようにテレビを見ることにした。
テレビは相変わらず特にこれといって面白くもなんともなく、テレビの中ではお笑いビッグスリーだとかお笑い怪獣だとかと呼ばれている芸人の一人が様々なゲストを相手に高笑いを繰り返していた。ひゃーっひゃーっひゃーひゃっ、その芸人が高笑いをする声だけが部屋の中に繰り返し響いていた。
それ、食べないの。
ふいに彼女が机の上に放置してあった弁当を指さして言った。食べるよ、と俺が言うと、半分ちょうだい、と彼女が言ったので俺は弁当の袋を破って蓋を開け、彼女に先に食べるよう促した。彼女はなにも言わずに黙って弁当を受け取って、ちょうど半分食べた。そして、ちょうど半分残った弁当を俺に突き刺すように渡して、俺はそのちょうど半分残った弁当を食べた。
弁当を食べ終わると、俺は普段と同じようにすぐにベッドの上に仰向けで寝転がった。天井には相変わらず夢も希望も、楽しい思い出も一ヶ月後の未来も描かれてはいなかった。ぼんやりと天井を眺めていた俺は、彼女が隣にやってくる気配を感じた。ある程度の予測はついていたものの、それでも俺はこの展開に対してどのような行動をとるべきか分からずに色々と思索して、しかし特にこれといった妙案も思い浮かぶこともなく最終的には考えることを辞めた。
静かな時間が流れた。その間、俺と彼女はぽつぽつと、まるで蓮根の穴のように間のあいた会話をした。最近なにしてるの、と彼女が聞いてきたので、なにもしてない、飯買いに行って、立ち読みして、それだけ、と俺は言った。仕事探さないの、と彼女がたずねると、とりあえずもうちょっとゆっくりしたい、と俺は答えた。
最近仕事忙しいの、と俺が聞くと、いつもとあまり変わらない、と彼女は言った。楽しい、と俺がたずねると、あんまり楽しくない、と彼女は答えた。
一人でいる時にはあれほどセックスがしたいと思っていたのに、今は不思議とそういう気持ちにはならなかった。隣に元彼女がいて、たぶんだけど俺がここでそういう方向に持っていけば一度くらいはセックスができるはずで、けど俺はそうしなかった。
もう少しこうしていたかった。
他愛のない会話をして、すぐそばにいる彼女の気配を感じていたかった。
気が付くと眠っていた。
目が覚めた時、彼女はすでに部屋の中からその姿を消していた。
机の上には彼女と半分ずつ食べた弁当の空き箱とお茶、そして彼女が持っていたはずの合鍵が置いてあった。それを見た時、俺はもう二度と彼女に会うことはないということを理解した。
就職活動を始めた。新卒三年以内で会社を辞めると次が見つかりにくい、という話を聞いていたから少しビビッていたのだけど、意外とそんなことはないらしい。ハローワークで俺の就職活動を担当してくれた人が言っていたのだけど、企業が欲しいのは即戦力となる経験値もあって将来もある二十代後半から三十代前半の人材か、あるいはまだ余計な癖のついていない二十代前半の人材らしく、後者は勤続三年未満であればその職歴に関わらず就職活動をする時には新卒とほぼ同じ扱いになることが多いという話だった。
その担当者が言った通り、面接の機会はすぐにやってきた。
面接は金曜日の夕方に行われた。
君はどうしてうちの会社に面接を受けにきたのかな。まるで親戚の叔父さんが甥っ子に話をするかのように、面接官は優しい口調で言った。どうしてこの仕事がしたいと思ったの? 前の会社ではどんな仕事をしていたの? どうして前の会社を辞めたの? 将来はどんな暮らしをしていたい? 彼女はいるの? 結婚はしたい? 海外に住んでみたい? まさか、童貞じゃないよね?
たくさんの質問を受けた。
面接は学生の頃に受けた面接とはまったく違った。
いや、違ったのは面接自体ではなく俺自身だったのかもしれない。
俺は面接官の質問に対して、一つ一つ正直に答えていった。ネットで検索した面接対策の解答例なんて必要なかった。自分の考えを自分の言葉で言う。疑問に思ったことはすぐに聞く。たったそれだけのこと。気追う必要も、気張る必要もない。もし仮に、これで不採用になっても納得がいく。それに、たぶんだけど嘘をついてどこかの企業に入ったとしても、またいずれどこかでダメになると思う。前回のように。
人間は学ぶ生き物だ。
面接を受けた企業は小さな商社で、職種は前と同じ営業職だった。営業マンは日本国内に留まらず世界各国を飛び回ることになる、残業や休日出勤は多いけど、やりがいはあると思うよ、と面接官は言った。面接官の話を聞いていると、なんだかやってみたいと思った。やりたいことも『夢』も未だに見つかっていないけど、この会社で働いてみたいと俺は素直にそう思った。
合否に関わらず本日中にご連絡を差し上げます、と受付に座る若い女性社員の言葉を聞いて、俺は面接会場を後にした。面接会場を出ると、俺はそのまま駅へと向かった。以前働いていた会社の最寄り駅だったターミナル駅。そこで新幹線の切符を一枚買った。
久し振りに実家に帰ろうと思った。一人暮らしをしてから今日まで、正月と盆にしか実家には帰っていなかったから、突然帰ったら親はきっと驚くと思う。けど、いつまでも前の会社を辞めたことを黙っているわけにはいかなかったし、なにより久し振りに親と話がしたかった。
就職活動を始める少し前、彼女が俺の家にやってきたほんの二、三日前のこと。
俺は大学時代の友達に誘われてAVの撮影会に参加した。
俺が参加したAVは『ぶっかけもの』と呼ばれているジャンルのもので、その『ぶっかけもの』と呼ばれるAVは、一言で言えば『AV女優の顔、もしくは体に精子をかけまくる』ただそれだけの内容である。『ぶっかけもの』に限らず最近のAVは素人の、言わば視聴者やファンの参加企画が多い。参加者はホームページなどで募集されていて、好奇心から俺も学生時代に何度かホームページを見たことがある。そこには一切として厳しい条件などは書かれておらず、二十歳以上の男で性病に患っていないことを証明できれば誰でも、つまり当時大学生、現在ニートの俺にも十分に参加できる資格があるということだった。
大学時代に知り合った二十三歳素人童貞男から一緒に参加しようぜと誘われた俺は、特に深く考えもせず二つ返事で参加を表明した。聞いてもいないのに二十三歳素人童貞男が得意気に語ったAV女優の大きな胸やフェラチオの上手さなどは俺が参加を決めたことになんら関係がなかった。俺が参加した理由は、暇であること、人生の絶望を味わいたかったこと、そしてなにより性に飢えていたことである。
AV撮影に参加するためには、担当者と数回メールのやり取りをして、病院へ行って性病を患っていないという証明書を受け取りさえすれば、それだけで参加することができた。話では、当日AV女優の顔や体に精子をかけることができれば千円貰えるということだったが、交通費や弁当代は出ないらしいので、トータルは赤字になる場合がほとんどらしい。しかし、そもそも千円ぽっちのために参加している参加者などいるはずもなく、撮影会に参加する全員が性欲や好奇心、優越感に浸るために参加するのだろうと俺は考えていた。
撮影会当日の朝、集合場所に指定されていた街の郊外にある小さな公園に行くと、平日の昼間だというのに二十人を超す男たちが遠足の出発を待つ小学生のように嬉々として集まっていた。明らかに慣れた感じの四十はとうに過ぎているでオッサンが十人ほど、このご時世にジーパンの中にシャツを入れてリュックを背負っている、いわゆるオタク系の男が十人ほどいた。他には俺たちと同じ、いかにも今どきの若者といった感じの男が数人いて、俺と二十三歳素人童貞男はなんとなくその男たちの近くにいることにした。四十過ぎのオッサンやオタクたちと同じように見られたくなかった。この集まりにきている時点ですでに同じなのに。
担当者がくるまでの間、その場にいる男たちは周りから怪訝の視線をよこす奥様方のことなど一向に介せず、携帯をいじったり音楽を聞いたりしながら各々担当者がくるのを待っていた。
集合時間に指定されていた時間から三十分ほど遅れて担当者はやってきた。
担当者は金髪のいかにも業界人といった感じの若い兄ちゃんだった。同い年か、もしかすると少し下か、たぶんそれくらいの年齢。それじゃあ点呼しますので一人ずつ並んでくださーい、と男が声を抑制することなくそう言うと、男たちはまるで新品の色鉛筆のようにきっちりと一列に並んだ。俺たちもその列の後方に並んで順番を待った。順番がやってくると担当者に名前を言って病院で貰ってきた性病を患っていないという証明書を渡せばそれで終わりだった。
その場にいる全員の点呼を取り終えると、担当者と俺たち一般参加者は撮影会が行われる場所へと移動した。担当者の後を、二十数人の男たちがぞろぞろと群れになって歩く。公園にいた時よりも、より顕著に周囲から怪訝の視線が送られているのが分かったけど、その時にはあまり気にならなくなっていた。
十五分ほど歩いて到着した場所は一見ごく一般的な二世帯家族が住むような住宅だったが、どうやらこの住宅はAV専用のスタジオらしく、各階に撮影スタジオや出演者の控室や風呂設備などが完備されてあった。俺たちは住宅の入口で最終の受付を完了させ、素人参加者の待機部屋となっている一室に入るよう指示された。その部屋の中にはすでに俺たちとは別の場所で集合した素人参加者が集まっていて、その数は軽く三十人を超えていた。髭を生やした男がいて眼鏡をかけたデブがいて、金髪のヤンキーがいて真面目そうな男がいた。当然四十超えのオッサンもたくさんいて、部屋の中は男独特の異臭で満ち溢れていた。異臭とは一言で言えば腋臭。この時点で、早くも俺は今日この場所へきたことを後悔し始めていた。事前に召集されたいたメンバーに加えて、俺たち公園集合組が加わると合計で五十人を超す男たちが学校の教室ほどの部屋に押し詰められていて、中世、船に乗せられて運ばれたという奴隷を想像させた。
十数分後、さっきの担当者とはまた別の右腕にタトゥーの入った男が部屋に入ってきて、これから撮影現場に行きますと言った。その後、タトゥーの男がいくつかの注意事項を述べていった。監督の指示に従うこと。勝手に女優に触れないこと。射精する前は必ず手を上げること。タトゥーの男が言葉を発する度に部屋の中に緊張感が増していくのが分かった。中にはすでに自分のペニスを弄ってる男もいた。一通りタトゥーの男が注意事項を述べ終わると、部屋の中にいた男たちはそれが合図だったかのように一斉に服を脱ぎ始めた。事前にメールで連絡があったように、全員が白のブリーフを履いていた。当然、俺も白のブリーフを履いていた。俺も周りと同じように服を脱ぐ。
全員がブリーフ一枚の姿になると、タトゥーの男の先導で、俺たちは現在撮影が行われている部屋へと向かった。俺と二十三歳素人童貞男は列の後方に並んで、撮影が行われている部屋に入る順番を待っていた。
まるで遊園地の乗り物待ちでもしているように、長蛇の列は一歩一歩、ゆっくりと前に進んでいく。数分後にようやく見えてきた撮影部屋の入り口。あの部屋の中で、今AVの撮影が行われている。部屋の向こうから微かに女の喘ぎ声が聞こえてくる。緊張と興奮、そして少しの罪悪感。部屋に近付くたびに様々な感情が心の中で膨らみ複雑に絡み合う。数分後、俺と二十三歳素人童貞男を含む六人の男が部屋の中に入るよう指示された。
そして、俺は見た。
まるで生まれたての仔牛にしか見えなかった。
部屋の中で喘ぎ声を上げていた女は、すでに顔中精液まみれでガタイのいい男にバックで突かれていた。異臭、なんてものじゃなかった。汗と精液、さらには腋臭の匂いが混じり合ってひどく生臭い匂いがした。それは、やはり生まれたての仔牛だった。二十三歳素人童貞男が誇らしげに語っていた大きな胸とやらは、汗と精液によって性的魅力などとっくに失われていて、文字通りただの脂肪でしかなかった。大きな粘膜に包まれた脂肪が男の動きとともにプランプランと揺れている。母親の体から放出された生まれたての仔牛は、体全身を粘液に包まれながら何度も何度も立ち上がろうと試みる。テレビ番組などで感動のシーンとして紹介されることが多いその映像は、あくまでもテレビの中でこそ美しいわけであって、実際そばで見ているとひどく生々しい『生』の匂いがするだろう。それは汗や精液、腋臭の匂いが混じった今この場所で嗅いでいる匂いとそれほど大差ないかもしれない。慣れていない人間であれば吐き気すらをも催す『生』の匂い。
俺のペニスが一気に萎えていくのがわかった。勃たそうという気力すらすでに失われていた。
スッと、一人の男が静かに手を上げた。
あん、あん、あん、と女がまるで壊れたゼンマイ仕掛け人形のように一定に、かつ断続的に機械的な喘ぎ声を上げ続ける空間の中で、男の手を上げるという動作すらもが一つの音として俺の耳には聞こえた。
男は黄色いメガホンを持ったカメラの隣に立っている男に手招きで呼ばれた。男は自らのペニスを自らでシゴキながらまるで猿のように不恰好な格好で女の元へと近付いていく。バックで女を突いている男が女の髪を掴んで女の顔を上げさせた。そこに男がペニスを向けた。拳銃でもなんでもない、ただの勃起しただけのペニスを男は女に向かって誇らしげに向けていた。
男が精子を出す直前、カチリ、と音が聞こえたような気がした。次の瞬間、男のペニスから凄まじい勢いで精子が飛び出した。その飛び出した精子は見事に女の顔に命中し、女の顔を汚した。
あん、あん、あん、女の声が一際大きく鳴り響いた。
その後も、一人、また一人と男が手を上げ、精子を女の顔にかけていった。
俺は黙ってその光景を眺め続けていた。
時間の経過と共に、汗と精子と腋臭の匂いが混じった『生』の匂いが俺の体に滲み込んでいくのが分かった。
どうしてうちの会社が存在していると思う。
会社を辞めるとマネージャーに告げた時、マネージャーが俺に向かってそんなことを聞いた。
分かりません、と俺は正直に答えた。
なぜなら俺は毎週毎週バカみたいに繰り返し行っている営業という仕事について、本当に意味がないと思っていたから。昼間のクソ忙しい時間帯に訪問や電話を繰り返して、当然客からは迷惑だと叱られ、時には怒鳴られて、挙句の果てには灰皿を投げられたりして、本当に意味がない、むしろ害でしかないと考えていた。他にも、ポスティングと呼ばれるパンフレットを会社や店舗のポストに配る作業だってゴミをまき散らしているだけだと思っていたし、入ってはすぐに辞めていく新入社員すら人間の無駄遣いだと思っていた。ある一定の人間だけが残り、あとは使い捨て。入ってはすぐに辞めていく社員たち。
こんな会社の、いったいどこに存在意義があるというのだろうか。俺には皆目見当がつかなかった。
だからこそ、俺は分かりません、と正直に答えた。
必要だからだよ。
マネージャーが言った。
世の中に存在しているモノは、そのすべてが必要だから存在しているんだ、と。
その時の俺には、そんな言葉は少しも響かなかった。
はいはい、分かりました分かりました。心の中でそう呟いて、ダラダラと最後の最後まで偉そうに説教を垂れるマネージャーの言葉を聞き流していた。
今、もしあの時に戻れるとして、俺はマネージャーに聞きたい。
AVも同じですか、と。精子を女の顔にかけるだけのAVは、世界に必要とされているのですか、と。
そして、それと同じくらい聞きたいことがある。
俺も誰かに必要とされているのですか、ということ。
聞かずとも、答えは分かっているような気がした。
三月になった。
この年の春は、まるで俺の就職が決まるのをどこかで身を隠しながら待っているかのように、いっこうにその姿を世界に見せなかった。
コートとマフラーが手放せない三月。
雪が五回も降った三月。
三月は例年通り三十一日しかなくて、どれほど残酷で凶暴な出来事が世界のどこかで起きようとも、決して日数が増えたりすることはなく、今年も終わりを迎えようとしていた。
三月最後のその日、俺はもう二度と会うことはないと思っていた元彼女と会った。
会った場所は大通りから少し裏手に入ったところにある古びた喫茶店の中で、俺はそこでその日受けた面接の合否の結果を待っていた。
カラン、とドアが開くたびに昔ながらのベルが鳴って、その音がした方向に目を向けるとそこにスーツ姿の彼女が立っていた。
彼女は初めの数秒だけとても驚いたような顔をして、しかしすぐに唇をキュッと締めていつものように表情を厳しくし、ハイヒールをカツカツと鳴らしながら俺が座っている席の正面に座った。喫茶店では必ずアイスミルクティーを頼む彼女は、マフラーと手袋を外しながらアイスミルクティーを頼んだ。注文を受けた白髪のお爺さんは、それを聞いてなぜか嬉しそうに笑った。店内には俺たちを除いて二組の客がいるだけだった。隅っこのテーブルで本を読んでいた眼鏡の男が一人と、カウンター席に座る婦人がこちらも一人。
久し振りね、と彼女は言った。久し振りだな、と俺は言い返した。このお店にはよくくるの、と彼女はたずねた。いや、初めてきた、と俺は答えた。今なにしてるの、と彼女がたずねたので、面接の結果を待ってる、と俺は答えた。そう、まだ決まってないんだ、と彼女は口にした。それを最後に、彼女はなにも喋らなくなった。
彼女は白髪のお爺さんが運んできたアイスミルクティーにストローを挿して一口だけ飲んだ。
それだけだった。
その後は、アイスミルクティーにもまったく口をつけずに、黙って窓の外を眺めていた。
それからどのくらいの時間が過ぎたか分からないけど、気が付くと俺たちを除いて店内に人の姿はなかった。この店のマスターであろう白髪のお爺さんでさえもその姿を消していた。俺と彼女はこの空間の中に二人きりになっていて、そうなることを待っていたのだろうか、彼女が再び口を開いた。
あの時ね、本当はあんたのこと刺すつもりだったのよ。
あの時って?
最後に会った時。
だと思ったよ。
本当に?
本当に。
そして、俺は言った。
「あの時は、刺されてもいいと思った」
すると、彼女は俺と別れてから初めて俺に向かって笑顔を見せ、最後に氷で薄くなったアイスミルクティーを一気に飲み干してから立ち上がり、そしてお金も払わずに店を出て行った。
店内に一人取り残された俺は、ついさっきまで彼女が座っていた場所を見つめながら、それに飽きると窓の外をぼんやりと眺めたりしているうちにようやく携帯電話が震えていることに気が付いて、慌てて携帯電話のボタンを押してから耳に当てた。
拝啓、AV女優様 おかずー @higk8430
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