第166話 人生で一番幸せな日
――十六年後、大陸歴二九〇年。
沿海の海州国から、長い輿入れの行列が、河南へ向けてゆっくりと進んでいた。
それは、海州国主、
小国ながら、今も河南と対等な同盟関係にある海州は、その同盟を更に強固なものとする為に、杜冀と同じ年に生まれたこの娘を、生まれてすぐに、河南にやることに決めたのだという。 勿論、当人の意志など、端から話に入ってはいない。
豪勢に飾り立てられた馬車が街道を行くのを目にした人々は、そこにはどんな幸せな花嫁が乗っているものかと、様々に想像を膨らませたようであるが、 実情、その馬車の中では、その『幸せな花嫁』は、繰り返し大きなため息を零してばかりいた。
「はぁっ……」
又、あからさまにため息をついた珀茗に、馬車に同乗していた従者の
「珀茗様、その様に憂鬱なお顔をなさるものじゃ、ありませんよ」
「だって、憂鬱なのだもの。仕方がないじゃないの」
「今日という日は、珀茗様にとって、人生で一番幸せな日になるのですから」
翠の台詞に、珀茗の目が心持すわる。
「し、あ、わ、せ、? 顔も見たことのない殿方のところに輿入れすることが?幸せ?姉上さま方は皆、好いたお方の元に嫁いだというのに、私だけ生まれた時から結婚する相手が決まっているなんて、これが不公平と言わずに、何?」
相手がどんなに立派な人物であろうと、所詮は政略結婚なのだ。幸せな気分になど、なれという方が無理だ。
「杜冀様は、噂では、なかなかの美丈夫だそうですよ」
「……性格が悪いかも知れないじゃないの」
「性格も、温厚でお優しい方と……」
「何なの。その取って付けたような人物評は。噂なんて当てになるものですか。仮にも大国河南の後継者。悪しき噂など口にしようものなら、忽ち捕らえられて、口を塞がれてしまうに決まっているではないの」
「姫様も、何と申しましょうか……想像力がたくましゅうございますねぇ……」
翠が苦笑する。
「私はね、そんな得体の知れない者よりも、子供の時からよく知っている翠の方が、ずっとマシだって、そう言ってるのよ」
「……それは……どうもありがとうございます」
翠が少し照れたように笑う。
得体が知れないといえば、八卦師でもないのに、八卦を使いこなすことのできた自分の方が余程得体の知れない存在だと思う。
翠は幼い頃に、縁あって梗家の家人に拾われた。それより前の記憶はない。それなのに、まだ年端もいかぬその時分から、八卦だけは当たり前のように使うことが出来た。 屋敷の者たちは、そんな翠をあからさまに避けることはしなかったが、どこか気味悪がっている気配は伝わって来た。
だが、珀茗だけは違ったのだ。
彼女は、翠の力を単純に便利な道具と認識し、そんな便利なものは、当然、自分の持ち物であるべきだと考えた様で、どこに行くにも翠を伴った。お陰で、翠には心地の良い居場所が出来た。
実はその後、大分たってから、呼び起こされた前世の記憶によって、翠は自分が贖罪の生を生きているのだと知った。と同時に、前世で犯したその罪の重さに絶望に囚われた。 その時、翠が、今ここにある自分という存在を否定せずに済んだのは、珀茗のお陰と言っていい。
返し切れない程の恩を受けた。
と、そう思っている。
そして又、婚儀の話が正式に決まった時も、その嫁入り道具の中に、当たり前のように翠も含まれていたことが、何というか嬉しかったのだ。
そして今まさに、異国へ向かう珀茗の馬車に自分が同乗させられているのは、ひとえに珀茗の憂鬱を宥める為の道具としてである。
だから役に立たねばと、そう思う。
「大丈夫ですよ。姫様は、きっとお幸せになられます」
そう言うと、珀茗が翠ににじり寄る。
「本当に?」
「ええ、本当ですとも。この翠めが申すのですから、間違いございません」
笑ってそう告げると、珀茗はようやく安心したような顔をした。
……それに……
何があっても、自分は珀茗を守る。そう、珀茗を守り切ることで、自分は前世の罪を購うことが出来るのだから。それは自分にとって、本当に幸せなことだと思う。
不意に馬車が大きく傾いで止まった。
「何かしら?」
腰を浮かしかけた珀茗を、翠は身ぶりで制し、窓を少し開いて護衛の兵に状況を確認する。
「……行列の前方に立ちはだかる者が……」
そんな兵士の言葉を聞くやいなや、翠が止める間もなく、珀茗はたちまち馬車の扉を開き、外に飛び出していた。
「珀茗様っ……」
狭い馬車の中で、ただじっとしていなければならないというのは、そもそもお転婆な珀茗には退屈だったのだろう。諸々の愚痴もまた、その退屈故の産物だったのだ。 だから、何かあればこうなることは、翠の予想の範囲とも言える。だが、万が一の事も考えて、翠は慌ててその後を追った。
「馬車にお戻り下さい、珀茗さ……」
翠は言い掛けて、珀茗が見据えた前方に、騎乗のままこちらを見ている少年が目に止まり、言葉を飲み込んだ。
……ああ、あれか……
その出で立ちを見て、すぐに理解した。
あれが、珀茗に交わる運命の糸だと。
「珀茗様、あのお方が、河南公子杜冀様でございますよ」
そう告げられて珀茗は、その場に立ち尽くしたまま、訝しむような視線を向け、その相手を検分するようにして見据えている。
するとそこに、甲高い口笛が響いた。彼らが何事かと思う間に、続けて二度三度と、微妙に音程を変えながら同じ音が、空に響き渡る。
と、その頭上を飛影が横切った。天を仰ぐと、美しい色彩の鳥が、数え切れない程に飛来し、杜冀が高々と掲げた腕に次々に舞い下りた。
「……これはまた、珍妙なこと……ぴーちく公子じゃ……」
ぼそりと珀茗が言い、次の瞬間、到底しとやかとは言い難い、大きな笑い声が辺りに響き渡った。
「……珀茗様……」
翠がたしなめるようにその名を呼ぶが、珀茗の笑いは一向に収まらない。そうこうするうちに、馬の足音が近づいて来て、二人のすぐ傍で止まった。
「……笑いすぎ」
少年が少し気を悪くしたように言う。
「いや……すまぬ。だって……お前」
そこで珀茗が幾度か深呼吸を繰り返し、どうにかこうにか笑いを治めると、それを待っていたように杜冀が勢いよくその腕を振り上げた。 すると、そこに留まっていた鳥たちが一斉に羽ばたきし、天へと舞い上がる。その鮮やかな羽根が次々に陽の光を弾いて、とりどりの輝きを放った。
「……ああ、これは美しいものだな。気に入った。礼を言うぞ」
珀茗が笑顔を見せて言うと、杜冀が口元を綻ばせる。
「気に入ったのなら、まあ良かった」
そして彼は、珀茗に手を差し伸べる。
「……?」
「共に参るか?」
珀茗が、そこでようやく何か腑に落ちたという風に笑った。
「当然じゃ。私を誰だと思っておる」
そして差し出された手を取ると、杜冀は軽々と彼女を馬上に引き上げた。その腕の中におさまった所で、どこか笑いの纏った声で耳元に囁かれた。
「威勢のいいのは、相変わらずなんだな」
「それが、私だ」
肩ごしに振り返り、何か文句があるのかと杜冀の顔を睨んで言うと、その顔が実に楽しそうに緩む。
「いーや。それが、俺が惚れた女だからなー」
どこか馬鹿にされているような言い様に、何か言い返したい気分にさせられた。
が……。
不意に杜冀の顔がすっと近づいて、ごく自然な感じで珀茗と口づけを交わす。
その優しい温かさは、まるで昔のままで……。体の奥底から愛おしいと思う感情が湧きあがって来る。
……今日という日は、珀茗様にとって、人生で一番幸せな日になるのですから……
本当に、翠の言った通りだ。
その言霊はいつも、良き未来を運んでくれる。
だから、珀茗は、翠が好きだった。
……ありがとう、翠……
だが、その好きとは又別の意味を持つ好きが、自分の中には眠っていた。
ずっと昔から。
何度生まれ変わっても。
きっとこの先もずっと。
ずっと好き、って。
そんな運命の……好き。
「……愛してる」
互いに囁き交わす言の葉に、交わす口づけは、深く深くなっていく……。
運命という名の、その糸が交叉するのは、神の気紛れか、人の想いの強さゆえなのか。出逢いと別離を行き来しながら、彼らはこの先もずっと未来への旅を続けていくことだろう。
【 七星覇王伝 第四部 完 】
七星覇王伝4 抹茶かりんと @karintobooks
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