隘路

 

 Wは、悲しそうな瞳で俺を見ると、こう言った。


「もし、自分以外の誰かも望むようなものを、欲しいと望めば、他人と競争することになるだろう。奪い合いだって、やらなくちゃならない。

 

 でも、ただ一人、自分だけが望むようなものを欲しいなら、その在処も、手に入れ方も、四方屋以外の誰も、知らなくて当然だ。騒がしい争いから自由な分、果てしなく自分の力で、どうにかしないといけない。


 今、四方屋に見えているもの、手が届く範囲。そこに無いなら、どこへでも行く覚悟が無いと」



「どこへでも?」


 

 茫漠とした話だ。けれど、それを望むのは他の誰でもなく、自分じゃないか。



「Wは、どこかへ行ったのか」


 俺の問いに、Wは首を振った。



「僕はどこへも行かなかった。行かなかったから、彼を失った。でも今ここにいて、四方屋と話をしたことには、意味があったかな。よっと」


 Wは、軽やかに教卓から飛び降りると、窓の方へ歩いていく。そう言えばここは、何階なのだろうか。


 空ばかりで、街並みも、学舎の風景も映らないほど、高い場所とは思えないのに、妙な浮遊感があって、おまけに何か、生臭い香りが、窓の方から押し寄せてくる。ざわりと鼓膜が震えて、耳が、打ち寄せるを捉えた。


 同じ床に立つと、わずかに俺より背が低いWの背後から、窓の外を見つめる。そこには、空の色より濃い藍色の海が、白いしぶきをあげていて、学舎の壁を、当然のように叩き、黒ずんだように濡らしていた。


 陽光に反射する白い飛翔物は、カモメの一群らしい。くらっと眩暈がするほど、海面との距離は離れていた。いったい俺は、学舎ごと何処へ来てしまったのか。

 

 窓ガラスを開け放つと、むせかえるような潮の香りと、湿気にあてられて、思わず庇うように腕を上げた。



「だいぶ、下の方まで、降りて来たね」



 Wの言葉を理解しないまま、はてしない海の地平線を見つめる。そこには巨大な、見たことの無いほど、純白の山並みがあったが、島というには、恐ろしくきれいな半球を描いている。


 しばらくじっと眺めた後、それが何の一部であるかに気付いた俺は、慌てて口走った。


「月だ、月が沈んでる!」


 俺の知っている月は、どれだけ大きくても、満ち欠けを判断できる大きさで、昼間の存在感は薄く、空に静かに浮かんでいる月だ。それがどうしてしまったのか、太陽よりも大きく、地平線を占めている。



「四方屋、君の視界は初めから、これなんだ。もう少し下、地殻の中に潜れないか? 捕らえた星は、今この地球の中を、飛び回っている。部外者じゃとても見つけられないが、君なら造作も無いだろう?」



「下? チカク?」

 

 なんだか分からないが、妙に腹の中がチクチクと痛むような気がする。この症状は、緊張と興奮が、そろそろ限界値な証拠だった。



「ちょっとごめん、俺、あんまり…」


 新しい視界と、見えるものすべてが、あまりに真に迫っていて、刺激的なせいだ。吐き気を感じ、ずきずきと痛みはじめる頭を押さえると、眉間を通って、金臭く、どろりとしたものが、鼻先へツルリと、流れ落ちる。



「四方屋!」


 真っ赤な血を受け止めた手の平を、そのままに、後方から飛んできた声に、いやいや俺は、振り向いた。


 なんでいつもこんなタイミングなのだろう。その声は間違いなくE男だったが、そいつがいたのは、斜め上方、天井の片隅の、パネルの上だった。

 

 上下逆転、もし、天地が逆なのだと言われたら、納得できるのだろうか。窓際の俺に向かって、E男は、とことこと天井を歩いてくると、おそるおそる、腕を伸ばして、俺を引き上げようとする。


 めずらしく真剣な顔に気圧されつつも、E男の細い腕じゃ、とてもそんな芸当が出来そうには見えない。


 困った俺が、Wの方を見ると、Wは少し笑い、持っていた本を近くの机に置くと、すたすたと教室を歩いて、前の扉から出て行ってしまう。その瞬間、ぐらりと視界が揺れて、上と下の世界が、そっくり逆転して、自分の身体が、宙に投げ出されるのを感じた。


 呆気にとられている暇は無かった。


 『死ぬかもしれない』


 そう思った瞬間、躊躇っていた腕が、ぐっと伸びた。


 E男に掴まるというより、E男を下敷きにするように、逆転の衝撃を受けた俺は、向かって跳んで来る机と、椅子の間を、まるでスローモーション映像を処理するかの如く、必死で避けて、天上を転がった。



 ぐったりとしたE男の背中をつかみ、有り得ない事態を、ありえない技でくぐり抜けた俺は、息切れしながら鼻血を垂らし、廊下にE男と伸びていた。



「いったい何なんだ」


 心臓をバクバクとさせつつ、噴き出た汗をぬぐうと、今自分がいるのが、夢なんかではないような気がしてくる。



『ここはホント、どこなんだ?』



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『歩行者のためのカリグラフィー』 ミーシャ @rus

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