旧第陸話-大浜社中編(弐)
辺り一面の大海原、
大浜社中特性の廻船にて、
とはいえ瀬戸内海は海平線が見えるほどの広い海ではない、透き通るほどの晴天であれば薄っすらと対岸が見ることができる。
にも関わらずに慎之助は現在地が判らないでいるのは、彼は地理的な知識に関しては疎いからである。いや、大まかな地図は頭の中に入ってはいる、しかし、それを生かすためには彼はあまりにも現場を知らなさ過ぎた。例えば鳥が空を飛んでいることは判るのだが、あれが何という名前の鳥であるかは判別が付かないし、海平線の向こう側に見える丘が何処の国であるのかも判らない。
近くに居た船員に問うてみれば、「あれは
もっと現場に出ている者を理解してやらなくてはならない、と思う一方で廻船の連中が人生を謳歌する姿を見せつけられる度に、お前ら
そういえば残して来た書類は誰が処理をするのだろうか、もしも誰も手を付けていなかったとすれば自分が処理をすることになるのだろうか。今回の航海がどれだけ長引くのか判らないが、帰る時のことを考えると胃が痛くなってくる。毎日、住み込みで働いて、漸く処理が追いつく程の量だ。睡眠時間だけは削らないように頑張って来たのだが、それも願えなくなるかもしれないと思えば働く意欲も薄れる。
処理できる量ではないと思ったら、何時か叩きつけてやろうと窘めてきた辞職届を手渡すとしようか。毎月のように書き溜めてきたので、仕事場の机の中に束にして閉まってある。いや、しかし、あれは感情発露として書き溜めてきたもので、文体が整ってはいない。愚痴を書いて寝れば、幾分か気持ちが落ち着くことを知っていたから続けてきたことだ、本当に辞職するために書いたものではない。正式に辞職届を提出するときは、きちんとしたものを書くのだ。ああ、あと、引継ぎも考えなくてはならない。義理を果たすのは重要な儀式だ、無責任だと自分を卑下しないで済むための必要なことだ。
嗚呼、黙っていると薄暗い感情に心が喰われてしまいそうになる、此れならば無心で仕事をしている方が幾分か楽というものであった。今すぐにでも船を引き返して、仕事をさせてはくれないだろうか。
船の上で悶々としていると後ろから気配を感じた、振り返れば憎たらしい顔があった。
「久しぶりの船旅は楽しんじゅうか?」
問われた慎之助は「最悪だ」と短く答えた。
「どうして私を無理矢理に連れ出すような真似をしたんだ、辰馬。納得のいく説明が貰えるのだろうな?」
「お主が今にも死にそうな顔をしよったからちや」
辰馬と呼ばれた男は悪びれる様子を欠片も見せず、からからと嗤ってみせる。
彼の名は
近頃、この莫迦面に生気を奪われているように感じるのは気のせいだろうか。稀に送られてくる手紙には「近頃は仕事が忙しくて困る」と云った内容のものが書かれているのだが、それにしては随分と顔色が良いように思える。所謂、仕事が生き甲斐といった類なのだろうか。
まあ彼の仕事は主に営業回りであるため、顔色が悪ければやってはいけないのだろう、と納得することにした。
昔から元気と丈夫さだけは人一倍で、行動力だけは誰の追従を赦さない。おかげで彼の周りは何時も苦労することになる。今回で云えば、辰馬の思い付きで慎之助は仕事場から連れ出されて、船に乗せられている。
つまり才谷辰馬とは、そういう人間なのだ。
「ところで悪党共の護衛が見当たらないようだが妖怪への対策は大丈夫なのか?」
航海を始めた時から気になっていたことを問うてみる。
慎之助が乗る廻船の他には小早が四隻、廻船を護るように展開しているのだが、小早四隻には大浜社中の象徴である二曳の旗が掲げられていた。
しかし辰馬は悪戯小僧がするような意地の悪い笑みを浮かべてみせる。
「知りたいか?」
「大丈夫かどうかの確認だけ取れれば良い」
慎之助は航海術には、あまり興味を持てなかった。
何故かと問われれば答えに困るが、指揮を執るよりも刀を振っている方が性に合っている。もしも配下を率いて戦場に出ることがあれば、突撃を支持し、配下と共に先陣切って士気を上げるくらいしかできない愚鈍な将となるに違いない。
簡単に云えば、慎之助は群よりも個を優先する思考の持ち主だ。個人主義の気が慎之助にはあった。
「周囲を警戒しちゅう小早は、云うならば見張り台のようなものぜよ。あの四隻にゃ妖怪を感知することに長けた妖怪退治を乗せちゅう」
しかし、そんなことはお構いなしに辰馬は得意顔で語り始める。
「御主は妖気を感知する術を苦手としちゅうが原理は知っちゅうやろ?」
「
如何にも構って欲しそうな辰馬を前に慎之助は面倒臭さから適当に話を合わせた。
精神魔法と云うのは大陸宗教が定める魔法体系の内の一つであり、生命魔法が術者の生命力を消費するのに対して、精神魔法は精神力を消費して発動する魔法だ。主に寺院で修行する僧侶達が得意とする魔法でもあり、彼らの間では
精神魔法は妖怪との相性が良く、妖怪退治を名乗る者の多くが習得している技術だ。封印魔術や結界魔術の豊富さでも有名であり、中でも対妖怪を想定した索敵魔術は基本技術とも呼べるものであった。
最も単純な索敵魔術の原理は、妖怪が纏う妖気に反応する魔素を周囲に撒き散らすというものだ。自身から生み出した魔素であれば、魔素に何かしらの反応があれば感覚的に判る。それは自身の展開した魔素が濃ければ濃い程に反応が強く、薄ければ薄い程に反応が弱くなる。
慎之助が感知系の魔術が苦手なのは、魔素から伝わる微細な反応に鈍いからである。
こればっかりは才能がものを云うので仕方ない。
「しかし空気中に魔素を展開するのと違って、海には強い力が働いている。水中では魔素抵抗力の問題もあるし、そもそも波や海流が相手では展開した魔素が滅茶苦茶に掻き乱されて、感知系の魔術は使い物にならぬと聞いているぞ」
「そこが三島海賊連合と鬼ヶ島海賊の凄いところやき」
辰馬が勿体ぶるように笑みを浮かべてみせた。
「あいつらは波の流れを熟知しとる。妖怪を直接的に感知するがやのうて、波や海流に不自然な流れがあるかどうかを感知しとるみたいでな。あれを習得するにゃ熟練の
「妖怪と魚の違いが判るのか?」
「云ったろう、熟練の業を必要とするとな」
何故だか、とても不穏な言葉を耳にしている気がする。
こういう時は確認を取っておいた方が良いと今までの人生から慎之助は知っていた。
「そろそろ今回の航海が安全なものであるかどうか、聞いてみたいのだが?」
「ちなみに鬼ヶ島海賊は妖怪と遭遇した時はどう対処しちゅうと思っとる?」
「……判らんな」
あまりにも露骨に話題を変えてきたために聞くのが怖くなり、つい慎之助は話題転換を許容した。
「なんとあいつらは海の上を滑ることができるがて! なんでも水属性の魔法の一種のようでな、魔力の消耗は激しいみたいけんど、短時間であれば海の上に立つこともできる! それはうちの水属性持ちの輩にもやらせてみたら上手くいきおった、儂も絶賛練習中ぜよ!」
すこぶる楽しそうに話す辰馬を横目に、「そうか」と慎之助は短く返した。そして意を決して改めて問い返す。
「それで今回の航海は安全なんだろうな?」
「まあ、演習と思うちょくれればええよ」
辰馬の言葉に慎之助は暫し、目を閉じて黙する。そして重ねて問うた。
「実戦のように見えるのだが?」
「世の中には実戦演習と云う言葉がある」
「そうか」
真之介が無言で憎たらしい親友を睨み付けると、辰馬は歯を見せた満面の笑顔に親指を立てて応じてみせた。
胃が痛くなってきた、懐に常備している丸薬を口に放り込む。
「そりゃあ薬か? そんなに嬉しそうに飲むとは御主は変わっちょるのお」
よく効くんだよ、この薬。
そういえば、この廻船は何処へ向かっているのだろうか。
行く先も告げられないままに辿り着いたのは伊予洲では、先ず見られない程に賑わった貿易都市だ。
此処は
これでも慎之助からすれば充分に大都会と呼べるものであったが、辰馬が云うには
港に並ぶ船を見るのは爽快だ。
綿津国の南部海域は
「海賊の都合で船の行く先が決まるゆうんはつまらないがな」
しかし辰馬は海賊には批判的で、酷くつまらなそうに呟いてみせるのであった。
「でも鬼ヶ島海賊と
慎之助が告げると辰馬は、これまた不機嫌になって口先を尖らせる。
「何故、海賊が海を占有することになっちょるのか考えれば判ることぜよ」
「妖怪に対抗する手段を持っているからだな。つまり、お前は鬼ヶ島海賊から技術を盗むつもりか」
慎之助の解答に辰馬は人差し指を立てると、チッチッチッと舌打ちする音に合わせて指を左右に振ってみせる。
「儂は商人ぜよ。技術を購入しちゅう、盗むなんて人聞きの悪いことを云うなや」
またあくどいことを考えているな、と慎之助は直感的に感じ取った。
辰馬が何かを企んでいるのは何時もの事だ、大浜社長にとって帥の役割を担うのは何時だって辰馬だと決まっている。辰馬が帥なら慎之助は将だ、と昔なら息巻くこともあったが今は少々疲れすぎている。
一兵卒どころか後方支援を担う有様だ。それも重要な役目だとは思っているが、やはり畑違い感が拭えない。
残して来た書類、誰か代わりにやってくれてると良いな。
「それはともかくとして、どうして私が随伴する必要があったんだ?」
「辛気臭い顔をしちゅうから観光しに連れて来ただけぜよ。儂は鬼ヶ島海賊との取引が残っちゅうから、直ぐに出かけるがの」
その解答に慎之助は目元を指で摘まむ様に押し付けた。
才谷辰馬とは、こういう奴である。
邪馬大陸戦記~鶴姫伝説~ まふ @kaineko
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