旧第伍話-大浜社中編(壱)

 石川いしかわ慎之助しんのすけは指に絡まった髪の量に絶望する。

 伊予洲いよしま水戸国みなとくににある貿易都市、大浜社中おおはましゃちゅうの本社、その事務室にて、慎之助は職務に没頭していた時のことだ。書類の山を相手に脂ぎった髪を掻き毟ると、ずるりと毛が抜けた。それはもう感覚もせぬほどに呆気なく抜けてしまった。されども呆気に取られた慎之助は暫し現実を直視できず、若禿と云うわけでもないか、と疲れ切った溜息を吐いた。

 石川慎之助、この時は二十六歳。老いを知るには早い歳である。


「とりあえず身を清めるか」


 不衛生であることを自覚した慎之助は公衆浴場に向かうことを決める。

 髪が抜けたのは汚れが溜まってしまったせいだ、と決めつけることで無意識の内に現実から眼を逸らした。心労の可能性を考慮に入れないのが慎之助と云う男であり、理由がなくては仕事を休めないのもまた慎之助という男であった。

 思えば、前に躰を拭いたのは二週間も前になるか。昔はもう少し潔癖症であった覚えがあるが、慣れというものは恐ろしいものであり、自分が汚れていると云う感覚が薄れていった。その内、本当に気付けなくなるのではなるのかもしれないな。

 真之介は自嘲交じりに腰を上げて、臭うかもしれない躰を気にしながら身支度を整える。


 石川慎之助は幼少期から水戸国みなとのくにでは神童と名の知れた武芸者であった。

 元服する頃には、伊予洲においては刀剣術で比肩する者無し、と評されるほどの腕前となっており、現に慎之助と対等に渡り合える人間は一人を除き、他にはいなかった。武家としては将来が約束されたも同然の輝かしき功績だ、伊予洲であれば何処の大名に士官を望んでも受け入れられるに違いない。

 それがどういう訳か、現在、仕事場に籠って書類に埋もれる日々を送っている。

 勉学は出来ないわけではない。慎之助は天才と云った想像力が豊かで発想力のある人種とは違ったが、知識を頭に叩き込むことは苦手ではなかった。そのために算術の知識も持ち合わせており、ただそれだけがために、大浜社中で事務方として働くことになった。

 刀を振るう日々は過去の彼方へ、今は算盤を武器に数字を弾きだす毎日だ。算盤なんて最低限使い方を知っているだけだったというのに、今となっては下手な番頭よりも素早く的確な計算を行えるようになってしまっている。幼き頃は木刀の素振りに明け暮れて、血豆を潰す度に強くなった証だと誇りを持っていた。今は腱鞘炎に苦しめられ、五本の指の一本や二本が扱えなくとも支障なく算盤を弾ける技術を身に着けた。

 日夜、刀漬けの幼き日々、枕を高くして眠ることなんて武士として恥ずべきことだと思っていたが、今はもう泥のように眠らなければ躰が持たなくなってしまっている。一夜程度では疲れが抜けない。しかし休めば休んだ分だけ仕事が積み重なる、ふと根性論を唱えていた元服前の若き自分を殴ってやりたくなる時がある。成人後に必要になるのは根性とか云う腹の足しにもならぬものではなくて、短い時間できっちりと躰を休め、短い時間で効率的に仕事を終える能力である。

 日に日に仕事をこなす量は増えていったが、営業の連中は次から次へと仕事を持ってくるために減った気がしない。嬉しい悲鳴と云えば嬉しい悲鳴と呼べるかもしれないが、仕事をこなして増えるの給金ではなくて書類の束である。

 そして減っていくのが休暇と髪の毛である。


 身支度を済ませた慎之助は、最後に愛刀“信国のぶくに”を手に取った。

 鍔の部分には埃が被ってしまっている。慎之助は心に小さな痛みを感じたが、感傷にまでは至らず町へと赴いた。

 瀬戸内海せとないかいに面する水戸国の貿易都市、此処は三十年前までは単なる塩田地帯であったと聞いている。しかし大罪人として知られる塩飽しわく村上むらかみが瀬戸内海を航海する術を得てからは、伊予洲と秋津洲あきつしま築紫洲つくししまの三つの島の往来が容易となった。

 道が開ければ、そこに者と人が流れる。その恩恵を受けて、単なる沿岸都市であった此処も貿易都市として多いに発展していくことになった。

 思えば、初めて貿易都市に訪れた時、幼馴染の親友は眼を輝かせてこう云ったものだ。


「これからの時代は海やき、海がこれから先の時代を作っていくぜよ!」


 その親友の姿に夢を見た当時の自分を今からでも殴ってやりたい。

 慎之助にとって商売の道は夢も希望もない世界で、代わりにあるのは目も眩むほどに並べ立てられた無情な数字群と賽の河原の如く延々と積み重ねられる苦行でしかない。

 道行く人を遠ざけながら慎之助は無事に公衆浴場まで辿り着いた。湯を真っ黒に汚しながら躰を流し、綺麗さっぱりな躰へと生まれ変わっては浴槽に浸かり、時間をたっぷりに使って寝過ごした。眠っていたという自覚は当人にない。やけに疲れが取れている違和感と思っていたよりも時間が過ぎていたことによる驚愕だ。

 慎之助は手早く衣服を着込んで外に出ると、もう太陽が傾きかけていた。これはしまった、と足早に大浜社中の本社へと向かう。

 この時代に人生を生き急いでしまう者は多くいるが、慎之助は仕事に追われる存在であった。


 帰り道、とうとう道が暗くなり始めた。

 此処は夜中が本番の歓楽街ではないために夜中になってしまえば、月明かりの他に頼れるものがなくなる。

 真っ暗な道を歩くのは恐ろしい、妖怪が闊歩する邪馬大陸であれば尚のことだ。

 急いで帰らねば、と思った頃には辺りは真っ暗な闇に呑まれてしまった。

 夜空に浮かぶ星を見上げることで方角は判る、土地勘である程度の場所も特定できる。それでも恐怖に躰が強張ることは避けられない。

 闇に恐怖をすることは人間の本能だ、恐怖を受け入れて冷静に物事を判断することが勇気であると慎之助は考える。

 愛刀“信国”に手を添えて、慎之助は闇夜を歩いた。


 そうして歩いていると違和感に気付いた。

 周囲は何処かで見たことがある風景、しかし此処は慎之助の目指していた場所ではない。

 どうやら闇に土地勘が狂わせられ、恥ずかしながらも道に迷ってしまったようだ。

 見覚えがあるが位置が特定できない場所に出てしまった慎之助は、とりあえず現在地を確認しなくてはと手掛かりを探した。

 すると遠くの方で灯りがあった、どうやら提灯を持った女子のようだ。

 こんな夜更けに危ないな、と思いながらも慎之助は漸く得た手掛かりを逃さないためにも足早に向かった。

 近場であれば、家まで送ることも考慮に入れる。


「其処の女、こんな夜更けに如何なさった」


 慎之助は生来の生真面目さから、自分のことよりも先に女の身を案じた。

 振り返った女は闇夜の中で顔が見え辛くとも判るほどに美人であった、これだけ器量の良い女が夜道を歩くのは不用心が過ぎる。下衆な男に連れ去られたとしても文句は云えまい。

 女子を独りで放っておくとは家人は何をしているのだ、と慎之助は憤慨する。ついでに云えば、目の前の女にも云いたいことはある。


「夜道は危険だと親からは聞かされてはいなかったのか、幾ら大事な用事があろうとも独りで夜道を歩くのはけしからんな」


 慎之助が腕を組んで厳かに告げると、女は言葉を失ってぽかんと口を開いた。


「夜は妖怪の温床だということは知っておられよう、妖怪に対する手段を持たずに夜道を歩くのは命が惜しくないものがすることぞ」


 慎之助が説教臭い物言いで言葉を繋げる。

 これだけは云っておかねばならんな、これは云っておこうか、ということが次から次へと思い浮かんで仕方ない。

 その慎之助の押し付けががましい善意は、絶妙な間を読んだ女の言葉によって差し止められる。


「女が闇夜に身を隠す時は何する時か決まっております」


 やけに艶っぽい笑みを浮かべる女の言葉に、慎之助は暫し思考を費やした。


「旦那に愛想を尽かしたか」


 女は微笑むだけだ、ということは合っているのだろう。


「だとしてもだ、夜道を歩くのは危険すぎる」


 そう云うと慎之助は振り袖から小銭を幾つか取り出して、女に手渡した。


「此処に丁度、五貫約五千円ある、これで今日は何処かの宿に泊めて貰えば良い」


 どうせ休暇が取れなくて使えない金銭だ、溜め込む場所にも困っていたので人助けに消費するのも悪くない。

 金銭を手渡された女は呆気に取られてしまっている。


「……一緒に居てはくださらないのですか?」

「必要ないだろう。宿まで奴らは手出しをしてこんさ」


 刀の腕に自信はあるが、錆びついていない保障はない。

 もしも妖怪に襲われでもすれば、女を無傷で済ませられる程の自信はなかった。

 宿まで妖怪が手出しをして来ないのも本当で、妖怪が淘汰されつつある世の中では容易に姿を現す妖怪は少なかった。

 何故ならば人間に危害を加えたと判明した妖怪は賞金が賭けられ、数多の妖怪退治から追われることになる。

 妖怪が人間を襲う時は、もっと狡猾に行う。

 誰がやったか判らない犯行として仕立て上げるのは当然で、それには人目に付かぬ場所は絶対の条件となる。

 例えば、今、慎之助が居るような状況が好ましかった。


「見たところ傷を負っている様子もない。喧嘩をして家を出たのかもしれぬが、一夜を明かせば冷静になることもある」

「しかし、これほどの金額をただで受け取るわけには行きません。私に出来ることは限られていますが、是非とも役に立てさせてください」

「ふむっ」


 懇願されて、慎之助は考え込んだ。

 どうにも彼女は金銭を受け取るだけでは済ませられないようだ、殊勝な心得を持つ女だと思いはするが慎之助個人としては少々面倒くさい。

 しかし猫の手も借りたい状況であることも事実、役に立ちたいと申すのであれば立てさせてやるのも良いかもしれない。

 これから先、本気で独りで生きるつもりであれば、仕事を紹介するのも人助けと云えるだろう。

 過酷な労働環境ではあるが、それは本人とやる気と根気の問題だ。


「貴方は読み書き算盤は出来るのか?」

「へっ?」


 女は素っ頓狂な声を出した、少しばかり話が性急すぎたかもしれない。女は戸惑いながらも「少しなら」と控えめに答えた。


「それならば良かった。貴方にやる気があるのであれば、うちの職場で働けるように掛け合ってみよう。賃金は安くて過酷ではあるが、それでも良ければな」

「えっ? あ、いや、そういう意味では……」


 女が申し訳なさそうに訂正する。

 どうやら早とちりをしてしまったようだ、慎之助は己の思慮の甘さを深く恥じた。

 自分にはどうにも性急に物事を考えてしまう癖がある。


「……その、気持ちいいことしませんか?」


 非常に気まずそうに女が告げる。

 此処で漸く意図を察した慎之助であったが、「自分の躰を粗末にしてはなりません」と毅然とした態度でお断りする。

 今は女体に興味がない。というよりも女体を抱けるほどの元気がなかった。

 気晴らしに体力を使うくらいであれば布団に丸まって眠りたい。


「私ではいけませんか?」

「そんなことはない」

「ならば、何故?」


 女は慎之助の腕を取って、身を寄せて来る。

 その姿は魅惑的なものであったが、慎之助の心は揺らすほどではなかった。

 慎之助の躰は休養を欲しており、体力を使う行為に向けられていない。

 むしろ金はやるから、追い返したい気分にすらなってくる。


「繰り返しますが躰を粗末にしてはなりません。きっと貴方は今、旦那と喧嘩したことで冷静さを失っている」

「一夜限り、貴方様が私の心をお埋めになっては頂けませんか?」

「そういう話ならば、私は断らせて貰おう。貴方の心を埋めるには私では力不足、今宵はもう遅いが明日に旦那の元に帰って和解すると良い」


 なんだか話が面倒な方へと転がってきた。

 そう思ったのは慎之助だけじゃないようで、女の方も徐々に笑顔が引き攣ってきた。

 慎之助は何気なく、愛刀に手を添える。


「どうして、そこまで誘惑するのか判らぬが、そう躰を粗末にするものではない」

「もう何度も同じことを五月蠅いな」


 遂に我慢の限界に達したか、急に女の口調が悪くなった。


「コロッと騙されろや、不能男めっ」

「騙すには相手が悪い。私はとても疲れているんだ」


 割と切実な想いを吐露し、唐突に振り落とされた女の腕を愛刀で切り落とした。

 女の甲高い悲鳴が上がる、五月蠅いな、と刀を振って構えを取る。


「躰は粗末にするなと云っただろう? 私は強いぞ」

「……ふざけるなよっ!」


 女が膂力に任せて躰を掴もうと伸ばした手を、慎之助は容易く斬った。

 躰が重くて鈍いことに慎之助は首を傾げる、やはり書類と格闘してばかりの日々は着実に躰を鈍らせてきたようだ。

 しかし相手は戦い慣れていないようで、錆びた腕でも充分に戦うことができた。


「嗚呼、もう、どうして今日に限って、こういう奴に出会うんだッ!」


 女が悪態を吐きながらも飛びかかって来た。

 胴体を目掛けて放った突きは彼女の躰に深々と刺さり、やってしまった、と咄嗟に慎之助は愛刀から手を離して躰を仰け反らせた。

 その直後、女の蹴りが鼻先を掠める。そのまま慎之助は二歩、三歩と距離を取って、脇差を構えた。


「……がッ、ぐぅ……ごぱっ!」


 女の口から妖怪特有の真っ黒な血が溢れる。

 愛刀から手を離す時、咄嗟に手首を捻って、内臓を抉っておいたのが功を奏した。

 これは流石に効いてくれたようで女は身を屈めて、しかし闘争心は失っていないようで慎之助を見つめている。

 女が両腕を刀に添える、しかし両手は既に慎之助が切り落としてしまった後で刀は使えない。

 女は悶えるように歯を食い縛り、改めて慎之助を睨み付けた。


「覚えてろよッ! 首を洗って待ってやがれッ!」


 月並みな捨て台詞を吐き捨てると、そのまま闇夜の中に消えていった。

 幸いにも提灯を落としていってくれたおかげで、大浜社中までは道に迷うことはなさそうだ。

 脇差を鞘に納め、この時に愛刀も持っていかれてしまったことに慎之助は気付いた。ついでに云えば、最初に渡した五貫もきっちり持っていかれてしまっている。


「若い頃は突きを放っても、抜けなくなるような下手を打たなかった」


 慎之助は云っても栓なき事を口にして、提灯を拾い上げて帰路に就く。

 提灯一つを買うにしては、あまりにも高すぎる買い物だ。仮にも貿易商に携わる者がすべきことではないな、と慎之助は大きく嘆息を零す。

 はらり、と髪の毛が落ちるのが視界の端に映った。

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