虹色の春

「雪、やっと全部融けたみたいだな」

 柔らかな朝の日差しの中、扉の外に出た日生は綸裳を振り返って笑った。

「そうね」

 夫の肩に被せるべく鹿の毛皮を広げた格好でついてきた妻も目を細める。

 蒲公英たんぽぽの黄色い花が転々と顔を覗かせ、白い蝶が花の間を飛んでは止まる。

 幼子のはしゃぐ声にも似た小鳥の囀りも遠くから聞こえてくる。

「今日は、着なくても大丈夫だ」

 淡い水色の空を仰いで、辺りの空気を推し量るように、両腕を軽く広げると、夫は再び背後の妻に告げた。

 妻も心得た風に頷いて、腕の中に用意した毛皮を畳む。

「すぐに、また薄い衣が要るかもしれないな」

 半ば独り言のように言うと、夫は鉞を取って空の下を歩き出した。

「薪切ったら、昼に一旦戻るよ」

 明るさを増していく青空の下、今一度振り向いて伝える夫はどこまでも晴れやかな表情である。

「いってらっしゃい」

 妻の笑顔にも、一点の翳りもなかった。

*****

「暑いくらいだな」

 頭上で眩しく光る陽を見上げると、日生は額の汗を拭った。

 一枚一枚はまだ新緑の葉でも重なり合うと、色濃い青緑の様相を呈する。

「もう夏みてえだ」

 ぼやきつつも進んでいくと、緑の向こうに慣れ親しんだあばら家が行く手に見えてきた。

 一足ごとに視界を占める葉の緑が薄くなり、青空の下の一軒家が姿を現してくる。

 すぐ後ろで飛び立つ鳥の囀りを聴きながら、日生は微笑した。

「来る日も来る日も 姿を近くで眺めていたい」

 曇り一つない空の下で、妻が自分を待つ我が家。

 男は自分にだけ聴こえる声で、いつもの歌をそのまま続けた。

あでやかなかんばせ まばゆく輝く衣よ」

 ガタン。

 歌を止めた日生の手から、鉞が転がり落ちる。

 雲一つない空の下、聳え立つ家の屋根には、まるで囲い込むように鮮やかな虹が孤を描いていた。

 日生は血の気の引いた顔で、しばらく茫然とその七色の帯を見詰めていたが、急に弾かれたように我に帰って小さく叫んだ。

「綸裳」

 まだ新しい刃の光る鉞を山道に残したまま、日生は家に向かって一目散に駆け出していた。

「綸裳!」

 家の戸口の前まで走ってきて、叫んだものの、しかし、閉ざされた扉に手も掛けられないまま、夫は小声で呼びかけた。

「お前……」

 扉が音もなく開いた。

 日生は我知らず、後ずさる。

 薄暗い扉の向こうから、眩い七色の光が緩やかに差してきた。

 艶めく漆黒の髪を結い上げ、紗に似た虹色の衣に身を包んだ、天女が姿を現した。

 肌も、眼差しも、何もかもが、たった今、蒼穹から降臨して来たばかりのような、煌めきに満ちていた。

 日生は目を大きく見開いたまま、雷に打たれたようにその姿に見入る。

「服を整理しようと思って、あの長持を動かしたの」

 緋色の唇からこぼれる綸裳の声は練り絹のように優しかったが、神々しさそのもののような姿は、「整理」「長持」といった言葉とはいかにも不似合いであった。

「そうしたら板張りから光が漏れていて、その下に衣が入っていたわ」

 しなやかな身に纏ったその衣は真新しい絹より滑らかに輝くばかりで、塵一つ見出せない。

「あなた」

 日が急速に翳ってきて、立ち尽くす夫の顔を黒い影に閉ざした。

「そうだよ、俺だ」

 沈黙を破ったのは、男だった。

「あの日、お前の衣を盗んでそこに隠した」

 女は表情の消えた顔をしている。

「そして、知らない振りをしてお前を助けた」

 女の凍りついた目は変わらない。

「助ける振りをして、自分のものにしたんだ」

 再び薄日が照らし出す頃には、男の顔からも表情が消えていた。

「結局は、何一つ、お前のためじゃなかったな」

 夫の目が妻の顔から虹色に光る衣の肩に滑り落ちる。

「お前としては、一刻も早く帰りたかったんだから」

 サーッと波が退くのに似た音と立てて風が辺りを通り過ぎる。

「もともと、雲の上の人なんだから」

 笑いも、涙も、怒りの色すら示さない天女の面差しは、長く伸びた頸も、雪のような肌も、髪を結い上げたためにいっそう小さく見える顔も、あまりにも端正であるがゆえに、冷厳そのものに映った。

「これからおっそろしい天罰が下るんだろ」

 日生は一転して笑った。

「雷が落っこってきて八つ裂きになるとか、どでかい豺が出てきてガブリと咬み殺されるとかさ」

 口調は哄笑しつつも、体は急速に眩暈めまいを起こした風によろめいて背負っていた薪の束を足許に下ろすと、男の目に一瞬、カッと激しいもの宿って、束を蹴飛ばした。

 ガラガラと音を立てて転がりながら、切ったばかりの薪が二人の周りに散らばる。

 一足遅れて、土にまみれた木の香りが立ち上ってくる。

「卑しい男が天女様を騙したんだからな」

 日生の目は、足許に転がっている薪の一本の、白く生乾きの、角ばった一断面に注がれていた。

 まだ、若い木だったらしく、断面からは年輪を示す縞がうっすら数本確かめられるだけであった。

「長く生きたって、俺はここで一人死んでいくのが関の山なんだ」

 風が音もなく漂ってきて、転がってきた薪に半ば押しつぶされた格好になっていた白い綿毛の蒲公英(たんぽぽ)が、ゆっくりとその頭を切り崩しながら、綿毛を空に散じ始めた。

「お父もお母も墓に入れたから、もう死んで不孝でもねえ」

 変わらず見守る綸裳の白い面の前にも、一本一本傘を開いた綿毛が通り過ぎていく。

 大きな黒い瞳に小さな白い光を映しながら。

「どうして黙ってる」

 男は赤くなった目を女に向けた。

「もう、口も利かないか」

 日生は言いかけたまま、その目を大きく見開く。

 天女の瞳からは、水晶じみた透き通った滴が零れ落ちるところであった。

「ずっと、雲の上から見ているだけだったの」

 二人の間を緩やかに綿毛の群れが漂っていく。

「咲いたかと思えばすぐに散ってしまう地上の花々や、些細なことに泣き、笑い、そして息絶えていく地上の人たちを」

 虹色の袖からすっと伸びた白い手が、日生の土に汚れた面に触れる。

「空の上で哀れんでいたわ」

 細く滑らかな指が、そっと男の涙を拭う。

「でも、地に降り立ってみたら、花の芳しさや泉の清らかさに夢中になったの」

 そう語る綸裳の双眸から再び涙が転がり落ちる。

 だが、紗に似たその羽衣は水を吸わないのか、それとも、天女の涙そのものが人のそれとは異なるのか、まるで葉に生じた露がそのまま落ちるように、光る滴のまま衣を伝い、地に散じていくのだった。

「あなたとも一緒にいたいと」

 まるでめしいた人が、相手の顔に触れて確かめるように、天女はあえかな指先で日生の陽に焼けた面をなぞる。

「だから、このまま、衣が見つからなくても、ずっと……」

 男は急に爆発したように泣き出すと、女に抱きついた。

「どうして」

 結い上げられた漆黒の髪をもみくちゃにするように掴み、陶器じみた白い頬に自らの頬を押し当て、涙を混ぜ合わせた。

「どうしてなんだ」

 虹色の光がき尽くすように強まりながら、抱き合う二人を覆っていく。

*****

 その日を境に、山を降りる若者の姿を目にした者はいない。

 しかし、史書の伝えるところでは、この日、山の頂から一対の鳳凰が連れ立って西へ飛び去る姿を多くの人が見たという。(了)

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天鵝の裳(ころも) 吾妻栄子 @gaoqiao412

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