第7話 死へ向かう冒険者たち

――目眩に見舞われたのは、残暑で燃え尽きた私の身体が原因だったのか。

 それとも死への旅立ちという、誰もが向かう最終の行き先を道案内されたからなのか。

 破壊者、支配欲、欲望、偽善者、心の声、護る者、まだ見ぬ光…… 

 一体、何を信じればいいかわからない。夢かまことか、ここが何処なのかもわからない。

 ただひとつ言えるのは、絶望。

 私がひどく愚かだったということだ――



 カランコロン。

「あ、伊織くん、おはよ。いらっしゃい」

 夏を背に、扉を開けるその筋肉質の腕を私はぼんやりと眺める。今年の日焼けはもう充分。伊織はいつも言葉より先に笑顔を見せた。今日もそうだった。

「あっ、……ローマ? わぁ、いらっしゃい~♡」

 伊織は世話をしている友人の飼い犬、ゴールデン・レトリーバーも連れていた。艶やかなベージュの毛並みで、人懐っこい瞳をしている。

 兄妹犬でミラノというそっくりな女の子もいるため、いつもどちらか一瞬迷う。ただミラノの方が若干毛色が淡く、垂れ目だ。

「あ、はい。ミラノが朝からちょっと出掛けてるんで。ローマだけすみません、お邪魔します」

 暑そうな吐息で、最高の笑顔を見せるローマを店内に入れる。伊織は無言のまま、人差し指のサインだけでお座りをさせた。指のコマンド一つで、犬たちは見事に伊織の言いなりだ。

 そういえば、伊織が謎解きの際に見せる、人差し指を天に向ける無意識の仕草もこのサインからきてるらしい。


「おー、ローマ。暑かっただろ~。お水とおやつあるぞぉ。ふみちゃん、早くほら、リードをフックに繋いでマットに座らせてやれよ。全く。伊織が『もうすぐ昼だぜ、寝ぼけてんのか?』って顔して見てるぞ」

 真綿がキッチンから首を出し、伊織と私を同時におとしめた。

「……ちょっ、あの……思ってませんけど」

「何よ、真綿! あのね、今、まだ十時だよ。れっきとした午前中なんだから、少しくらいぼーっとしちゃうの普通じゃん。ね? 伊織くん」

 私は扉横の壁に設置した犬用スペースのフックにリードを繋げ、クーラーの風があたる場所にマットを敷きながら口を尖らす。

「あ。……はぁ、いいと、思います」


 ボーダーTシャツに紺色のハーフパンツ、スポーツサンダルという姿の彼は、微妙な苦笑いで頷いた。

 長年連れ添った夫婦のような私たちのくだらない会話など、どうでもいいらしい。確かに、そりゃそうだ!

 日焼け肌に茶髪の真綿は、十五歳年上を感じさせないアホな表情でキッチンへ入っていった。これから、伊織のスペシャルランチを用意する。スペシャルといっても、通常のランチに一品プラスするだけなのだが。


 本日のランチは、白身魚の香草焼き、マカロニ・ミニグラタン、湘南野菜の彩りサラダ。食後に、珈琲と真綿特製カスタードプリン付きだ。

 そして伊織にだけ、いわゆるスペシャルメニュー。……揚げたてのほくほくポテトコロッケ♪

 これには普段おとなしく飄々としている伊織も、表情を崩さずにいられないだろう。案の定、嬉しそうに小さく頷くと、オーナーの真綿にはにかむ笑顔で視線を向けた。

「これ、……好きです」

 前に、ポテトサラダの時もそう言っていた。要はジャガイモが好きなんだな、私は納得し欠伸をひとつする。

 ローマもお水とバナナのスライスを貰い、眠たそうに伏せをしていた。


「あ、ふみちゃん。礼美ちゃんに今、電話してみてよ。聞きたいことがあるんだけどさぁ、昨日から音沙汰ないよね?」

「え? ああ、そうなんだよねぇ。……珍しい、会社忙しいのかな。それとも、御徒町おかちまちかも。最近、結構通ってるみたいだから」

 礼美の場合は、会社といっても夜の会社。

 私の親友、星野礼美は銀座のキャバクラでホステスをしている。

 誰もが納得の美貌、大らかで陽気な性格、情にもろく負けず嫌い。そういった天性の資質にこの職業はすっぽりハマったらしく、トップクラスの地位をたぶん現在も確立していた。


 御徒町への用事というのも、仕事用のジュエリーを購入するため時々行くのだ。

 宝石店ひしめく御徒町は、目利きがあればかなりお得な買い物が出来ると言っていた。礼美の知り合いは、ジュエリー関係者も含め幅広い。

 顧客にはここでは名前を出せないような政治家や有名人、富豪や重要人物もいるらしい。日本を揺るがすようなビッグネームのお方とも、可愛い絵文字でメールしてたりする。

「第三次世界大戦は、私が止めてるようなもんだからね」

 礼美は時々忘れられないセリフを吐いた。


 そんな礼美と私の趣味は謎解き。

 ミステリー小説の大ファンなのだ。世界各国の探偵小説に登場する完全無欠の名探偵は、私たちを幾度も魅了した。類いまれなる知性、勇気、その人知を超えた采配さいはいに心動かされた。

 ああ、そして、そんな私たちが密かに敬意を払ってる、現代の名探偵というべきはこの人! 

 天才的推理力を駆使し、そこに居ながらにしてあらゆる難題を解決してきた我らが探偵・加納伊織だ。

 普段はおとなしくて、いるかいないか分からないほど存在を消してるんだけどね。


 彼に会うため毎日、何としてでも寝起き三十秒のボッサボサでカフェにやってくる礼美が昨日から姿を見せていない。電話、メール、一切の音沙汰がなかった。

「……電話してみたけど、出ないよ。ていうか、電源入ってないみたい」

「マジか。俺、礼美ちゃんに頼んでることがあるんだよな。うーん、どうしよっかなぁ……」

 真綿が怪しげな物言いをする。私に内緒で、なにやら最近礼美とコソコソしているのは気付いていた。

「ねぇ、真綿。なんかさぁ、この前から礼美ちゃんとおかしくない? ……まさか浮気とは思わないけど、ちゃんと説明してよ!」


「はぁ? ふみちゃん、何言ってんの。浮気とかないわぁ。礼美ちゃんの知り合いに、御徒町で品物を見繕ってもらってるだけだよ。俺がふみちゃん一筋なのは分かってるくせにー。お望みなら今夜も張り切っちゃうよぉ」

 ごまかしてるのか何なのか、真綿が嬉しそうに絡みついてくる。

「わっ、ちょ、ちょっと! 伊織くん、いるじゃん。もうやめてー」

 ああ、もう、あいつ最悪。

 真綿の重たい腕から逃げて、私は言った。

「私、礼美の家まで行って来る。十分で戻るから。もう、ちゃんと仕事して!」

 素早くエプロンを外し、ローマの頭を撫で、携帯だけ手に取った。

「おー、ついでにこれも渡しといて。この前来た時の忘れ物!」

 宙を舞う物体。

 ローマが本能でさっと顔を上げ、それを目で追う。阿吽の呼吸で、その黒いキャップをキャッチする私。

 私はローマに目配せし、扉へ手を掛けようとしたその時。


 ――カランコロン。

「あ、ごめんなさい。……いらっしゃいませ」

 入ってきたお客様に気付かず、ぶつかる寸前でかち合った。

 長身で小顔、透明感のある極上美肌。アジアンビューティさながらに、外国人モデルを思わせるオーラをまとったお客様だ。私は思わず、後ずさる。

 ここ湘南地区の美意識とはまた違う、都会的な洗練された雰囲気の若い女性。

 ハリウッド女優やファッションモデルと言われても通用する、しなやかな身体付きをしている。手足が細く長いせいだろう。ヒールのないペタンコ靴なのに、足の長さに一目で圧倒された。

 海外ブランドと思われる鮮やかな配色のゆるいチュニック、女らしいテロンとした素材のワイドパンツをブランドの広告塔のように着こなしている。胸元を飾る、輝くルビーもサイズが大きく印象的だ。

 日本人の標準身長の私なら、全てが間違いなく野暮ったくなる代物だった。


 彼女はわざとらしい黒縁メガネも掛けていて、またそれが独特の存在感を醸し出している。レンズから覗く瞳は若干グレー系。きっと、カラーコンタクトを使用しているのだろう。ていうか、黒縁眼鏡にカラコン? 

 一瞬にして、そこまで意識を向けてしまった。これも本能。だって、女は同性の美には敏感だから。

 その時、むくっと急にローマが立ち上がり、女性のもとへ近づく。そして、ちょうど股間の位置へゆっくり鼻先を近づけ顔を寄せた。

「あっ、こ、こらっ。ローマ、近寄っちゃダメよ。もう~、すみませんっ」

 女性は無言でローマを避ける。

 ちょっともう、女性のお客様の股間に顔を近づけるなんてー。君は変態犬なのかっ! 私はペコペコと謝りながら、ローマと女性の間に入った。

 食事中の伊織も、うちの犬が何かしましたか的な感じで振り返った。


「……加納、伊織さん?」

 突然の女性の声に、伊織が食事の手を止めた。

「あ、はい。……えっと、どなた様、でしょう」

 口はまだモグモグさせつつ、伊織は女性を見つめる。女性は表情を変えず黙ったままだ。私もローマもふたりに見入った。数秒後、伊織は首を少し傾けると確信のなさそうな声でつぶやく。

「もしかして、……森田、緑子みどりこさん?」

 女性はかすかに頷くと、手にしていた黒い携帯の画面を上にして伊織に差し出した。

 突如、電話のスピーカーから聞こえてきた声。

 それは聞いたこともないポップな口調の女性だった。


「伊織くん♪ 当ったり~! 私よ、み・ど・り・こ! お元気かしら」

 ん? んんん? 緑子が手にしたから、目の前にいるはずの緑子の声が? ……ど、どういうこと!?

 しかも、目の前にいる女性とは真逆のテンション高過ぎな声。

「びっくりした? あはは……この子はねー、私の双子の妹なの! そっくりでしょ。イチランセーってやつ? 伊織くんも騙されちゃったぁ?」

 ふたご……の妹。だから、伊織も見間違えたのか。

「あ、お疲れ様です。……ちょっとびっくりしました。雰囲気、変わったなと思いまして――」

 伊織がビジネス口調になった。仕事繋がりの知り合いのようだ。それにしても、何か変……。


「雰囲気が違う? そうかなぁ、そっくりだと思うんだけど。……私のトレードマーク、グレーの瞳に黒縁メガネも掛けさせたし。ふ~ん。ま、いいわ」

「そこに突っ立ってる妹はねぇ、朱子あかりこっていうの。今日は私のお手伝いよ。何のお手伝いかって? うふふふ。私、まわりくどいの好きじゃないから、単刀直入に言っちゃうけどぉ――いい? あのね、今、星野礼美さんがどこにいるか知りたくないですかぁ? あー、待って。ダメよ、ダメ。言っとくけど、その子は私と以外、誰ともな~んにも喋らないから。質問しても、誰が何を聞いてもム・ダ。朱子は、あなたたちを監視する役目なの。私の指示に従うように……私ね、自分の手を汚すようなことは決してしない主義なんだ。うふ、カッコイイでしょう? 知能犯はこうでなくっちゃ。伊織くん、私、あなたのお時間を少しだけ、頂戴したいのぉ。ペット捜し……、じゃなくて。今回は人捜しよ。伊織くんたちの大切な、ひ・と。緑子のお願い、聞いてくれるわよね?」


 伊織は何かを感じ、少しだけ顔をこわばらせた。見たことのある表情だった。それは、私に悪夢、嫌悪……その類いのぞっとする恐怖を連想させる。

 そしてそれと同時に、私たちに向けられたこのシンプルな黒い携帯が礼美のものであると分かった。伊織はたぶん……すでに気付いていた。

「……緑子さん、この手の込んだ冗談は一体何でしょうか」

 低い声で伊織は言った。神経を尖らせてるのがわかる。私だって、伊織をずっと見てきたのだ。考えてることはわからなくても、表情や醸し出す空気感は充分理解出来た。


「やだぁ、怖い声出さないで。私、伊織くんとゲームがしたいだけなの。……あなた、最近、ネットざわつかせてるよね? 天才的な探偵が湘南にいるって噂になってるよ。なんかぁ、そういうの、ホントむかつくんだよね。そうそう、刑務所にいる無山くんのことだって、わざわざ大人しくさせちゃってさ。いや、あいつ元々立派なサイコパスだからね! 眉一つ動かすだけで、人殺しが出来る男だったのに……。もったいないなぁ。いい? 究極に、ワクワク出来る……そう、生死を掛けた、楽しいゲームがしたいのぉ! 伊織くん、私のお願い、聞いてくれるでしょ?」

 圧力を自由自在に操る緑子は、最後だけ猫撫で声になり言った。


「生死を掛けたって、どういうことだっ!」

 キッチンから真綿が慌てて出て来た。携帯のスピーカーから響く声に思わず反応したらしい。真綿はすでに声を荒げている。

「あー、その声は真綿さん……でしょ。声、大きいなー。想像してた通り。はい、ここで私、自己紹介しまーす。聞きたい? ねぇ、それともイラついてる、もしかして……?」

 携帯から楽しそうな甲高い笑い声。

 嫌な予感しかしない。

 カフェの中では、みんな神経質にくうを見ている。ローマさえ私たちの雰囲気を察したのか、時折唸るような低い声を発した。

 空気が震える、微かな音色が聞こえた気がする。いや、それが自分の震えている音かもしれないと気づくのに、そう時間はかからなかった。

 目の前にいる朱子はマネキンのように表情もなく携帯を持ち、先程と同じ位置に立っている。この惨めな運命を無条件に受け入れてるといった具合に。


「はーい、皆さん聞いて下さいね~。私はぁ、森田緑子。あ、森田はもちろん偽名だから、ふみさん、姓名判断は無駄よん。歳は……二十五歳。ま、それもホントかどうか疑わしいんだけど。えっとぉ、私と伊織くんはね、一ヶ月前に運命的な出会いをしました♪ なんてね。伊織くんの同業者のふりをして、わざと近づいたの。……伊織くん、覚えてるわよね。『ハロー通り・ミルキーくん脱走事件の謎』。緑子が困ってたら、居場所を見事に当ててくれたじゃない?」

 自分の名前を出されて一瞬緊張する私。……ハロー通りのミルキーくん?

「ええ、……覚えてます。高杉さん宅の柴犬ですね。なるほど、……それも、緑子さんのゲーム、でしたか?」

 伊織は思い出すようにゆっくりと言葉を継いだ。


「そうなの、伊織くんのこと試したくって。うふ。まあ、あのゲームは簡単だったみたいで残念だけど……。あのねぇ、皆さん。海に向かう途中のハロー通りって道路があるでしょ。朝と夕方以外は人も車もほとんど通らなくて、戸建て住宅に挟まれた通学路にもなってるあの道。その通りにね、高杉さんっていうお宅があるの……」

 携帯から聞こえる声はペラペラとよく喋った。


「そこの飼い犬がね、ミルキーくんって言うんだけどぉ、お散歩前に逃げ出しちゃったわけ。ご夫婦が子供代わりに大切に可愛がっていたワンちゃんよ。……その日はいつも家で宝石デザインの仕事をしてるご主人がお散歩の当番だった。準備中、出掛けに家電が鳴ったから、ワンちゃんのリードを門に引っかけて待たせたの。時々そうしてるのね。でもその日はね、なぜかリードが外れて、ミルキーが逃げちゃったんでした~♪」


 自らが起こしたであろう事件を、緑子は楽しそうに私たちに聞かせる。

「その時私は、犬のお散歩専門・ドッグシッターとして伊織くんに近づいたの。伊織くんって本業はペット探偵なんだけど、犬の散歩も請け負ってるでしょ。毎日毎日、暑い中働き者ですことぉ。ね♪ あ、話がそれちゃった……でぇ、高杉さんのご主人は、逃げ出したワンちゃんの件で私を頼ってきたのよ。まあ、そのように仕向けたんだけど。それで、私は困ったふりして、伊織くんに捜索のお手伝いをしてもらったってわけ」


 誰にも言葉を挟ませず、緑子は話し続ける。

「伊織くん、噂通りだったぁ♪ 感激しちゃった。あんなに早くミルキーの居場所を見つけるなんて。かっこよかったなぁ」

 半笑いで多弁の緑子に、私はイライラしてきた。それでも伊織は何も言わず、緑子に喋らせている。


「あの時のご主人の顔ったら! もう思い出すたび、笑っちゃう。……逃げ出したのは、本当はだったなんて。ねぇ、びっくり♪ ほんと、今思い出しても超ウケるんですけど。……えっ、わかりにくかった? だからぁ、奥さんがご主人にうんざりして家出した日、ミルキーも一緒に連れ去ったのよ。脱走って思わせたのは、ご主人に強い失望と罪悪感を味合わせるため……我が子同然の大事なワンコが夜露に濡れ彷徨さまよってるって思ったら、夜もおちおち寝てられないでしょ? 奥さんがご主人を責める問題も追加出来るし……そうよ、もちろん私が奥さんに入れ知恵したの。ラッキーなことにご近所から貰い受けた犬だったから、迷子犬捜しに有効なマイクロチップは入ってなかった。散歩時、電話に出るため一度家に入ったご主人を確認してから、ミルキーのリードを外したのは私。自由になったミルキーは、無邪気にいつも歩いてる散歩道を忠実に進んで行ったわ。マーキングする電柱、マンホール、曲がり角……、確か、そのを伊織くんに質問されたのよね。そうしたら、あっという間に。ねぇ。、言い当てちゃった!」


 現在、DINKSと呼ばれる夫婦ふたり家族がペットを飼っているケースは多い。ペットというより、もはや子供だ。そんな夫婦が離婚の危機になった場合、問題はペットの飼育権だった。子供の養育権同様、愛すべきペットを手放すかどうかは本人たちにとって深刻な事情なのだ。

「……ご主人が受けた家電の通話時間、奥様の地元と職業を確認したと記憶してますが」

 伊織が律儀に言った。


「ああ、そうだっけ♪ ま、そんなの大した問題じゃないわ、わかってるくせして。家電に掛かってくるような電話なんて、どうせ聞く必要のないセールスが大半なんだから数分よ、微差。あ、そっか。彼の場合は家で仕事してるから、仕事関係の電話もあるわけね! なるほどぉ。でもねぇ、あの時のは、私が仕掛けたただの間違い電話だし。しかも奥さんの地元なんて、普通何の意味があるって思う? 職業は宝石加工。ミルキーを連れに来た時は甲府こうふの実家の車、山梨ナンバーだったけどね……うふふ」

 上機嫌で話す緑子に、伊織が言葉を被せる。

「――緑子さん。礼美さんの件ですが。……そろそろ話を聞かせてもらってもよろしいでしょうか」

 それはとても低く、慎重で有無を言わせぬ声だった。


「そうねぇ、別にいいけど。今すぐ? もちろん。伊織くんが私とゲームしたくなったってことよね。うんうん、楽しくなりそう。ワクワクしてきた♪」

 弾けるような緑子の声とは裏腹に、私たちの神経は張り詰めていた。

 うふふ……。緑子の笑い声だけが携帯のスピーカーから聞こえてくる。

「前置き抜きで聞きます。緑子さん、……礼美さんをどうするつもりですか?」

 伊織の質問に私たちは声を押し殺す。数秒が何時間にも感じる。


「私ぃ、昨日、礼美さんをしましたぁ。今はまだどうするか決めてないの。真夏だしぃ、このまま放置でも残酷で楽しいかなぁ……うふふ。人間って水分が多いから、たぶん腐りやすいよねぇ? とにかく、私の気持ち次第でどうにでもなるってことは覚えておいて。それから警察に連絡したら、即、礼美の命はないので。わかってると思うけど。ね、伊織くん?」

 最後の言葉を聞いた途端、真綿が朱子の持っている携帯を奪おうと飛び掛かった。


「待って!」

 伊織が大声を出した。ローマが驚き、激しく吠える。朱子は携帯を落とし、自分の身をかばうように両腕で身体を丸め覆った。

 携帯を拾うと急いで画面を確認する伊織。私は真綿を抱きしめている。彼が背中で激しく呼吸するのを押さえていた。

「ちょっと、何の音!? 何してんの? あんたたち、バカじゃないの! この携帯が壊れたら、礼美の居場所もわからないままよ!」

 緑子の声が発狂するように聞こえてきた。

「携帯は無事ですよ。何ともない。……さあ、早く礼美さんについて教えて下さい」


「……いいわ、ペット探偵。ゲーム開始よ。礼美の居場所を見つけて、助け出してみて! ヒントはねぇ、まだ。うふふ。実は……もう言ってるの。さっき、私が話したことが全部よ。ちゃんと緑子の話を聞いてればって、今頃後悔してる?」


 えっ、さっき話したことって。犬の脱走事件? それとも夫婦の不仲のこと? 

 うるさいお喋りな女だと思って、私は時折耳をシャットアウトしてたかもしれない。ぞっとして、変な汗が出てくる。

「……ハロー通りですか?」

「さあ、どうかしら。んん、そうねぇ。時間もないことだし。いいわ、おもしろいこと考えた。私……礼美をこのまま放置しよぉっと。身動きも取れずに、絶望にくれて死んでいくのねぇ。伊織くん……そうよ、ハロー通りのどこかに、星野礼美はいる。だけど飲まず食わずで何日くらい持つのかしらね、華奢な女って。それから、捜しに行くのは伊織くんはダメ。絶対ダメよ。……ふみさんに走ってもらおうかなぁ。だって、何だか面白そうだし。外、今、すっごく暑いんだから、倒れちゃうかもね。ふふふ」


「お前、いい加減にしろっ!」

 真綿が激しく怒鳴った。拳を震わせている。

「俺がそこへ行く。伊織、いいな。俺を遠隔操作しろ。礼美の居場所を必ず突き止める」

 声を押し殺し、滅多に見ない厳しい顔をして真綿は言った。

 私はこの状況が苦し過ぎて吐き気を覚える。ひとり、何も出来ず唇を噛んだ。


「あっ、そう。ふーん、わかった。……別にいいけどぉ。じゃあ、真綿さんにハロー通りを駆けずり回ってもらいましょうか。ふみさんの携帯と繋げててね、スピーカーにして声が聞こえるようにして。どういう風に伊織くんが謎解きするかを知りたいから♪ 見物みもの……じゃないな。耳で聞くんだから」


 真綿はサーフブランドのデニムのキャップを深く被り、携帯を握った。

 そして私の携帯に真綿の名前と着信音が鳴ると同時に、勢いよく飛び出していった。カウベルが狂ったように店内に響く。携帯をスピーカーに切り替えると、真綿の走る呼吸音が聞こえた。

 伊織は先程の騒動の後、窓側の姓名判断用テーブルに座っている。私がいつも仕事で使っている場所。メモ用紙を前に鉛筆を持ち、目を瞑り、怖いほど静かにじっと考え込んでいた。


「……真綿さんが出て行ったようね。ハロー通りまで、男の足で全力で走って五分ってとこかしら」

「緑子さん、少しだけ質問してもよろしいですか。……ゲームを、純粋に楽しみたいのでしたら、正直に答えて下さい」

 伊織が言った。

「いいわよ、もちろん。ま、内容にもよるけど。……私、思いやりはあるほうなの」

 緑子は優位に立っている人間らしく、嫌みな穏やかさを見せた。


「誘拐した日以外に、礼美さんと会ったことはありますか」


「なぜ僕を敵視するのでしょうか」


「緑子さんの本当の望みは何ですか」


「タイムリミットはありますか」


 黒い携帯は先程とは打って変わって沈黙していた。

 朱子は青白い顔で、今も同じ位置に立っている。私は気の毒に思い、椅子を差し出した。

「あ……の、緑子さん。朱子さんに飲み物を差し上げてもいいですか。顔色が少し悪いみたいだから」

 黒い携帯が即答する。

「ダメ! 絶対ダメ。ふみさん、その場を動かないで。いい? 大丈夫、すぐ終わるから」

「終わるって……?」


 私の言葉を無視して、緑子は伊織の問いに答える。

「最後の質問から答えるわね。タイムリミット……そうよぉ、もちろんあるに決まってんじゃん。朱子が持ってる携帯の電池、あと何パーセント? それが答え。電池がなくなったら、ゲームオーバーよ! 私や朱子に話を聞くことも許しを請うことも、物理的に出来なくなるんだから」


「伊織くん、私、あなたを敵視なんてしてないわ。それどころか、尊敬してるの。あなたに出会えて良かったって本当に思ってる。天才に憧れてるのよ、私。ふふふ……ウケる。天才は天才を引きつけるのかもね。本物かどうか、試さずにはいられない。いい? その天才たる所以を見せてほしいのよ。ペット探偵、そろそろ気づきなさい! 今、この私があなたを挑発してるんだから!」


――プルルルル……


「えー、ちょっと、何なのよ。私が喋ってるのにー。しかも、いいところでぇ」


「あ、ごめんなさい。電話です。店の電話が……たぶん、近所の自治会長だと思います……」

「全くもう。……いいわよ、出て。でも変なこと喋ったら、今すぐ、礼美の命はないからね」

 私は急いで移動し、レジ横にある子機を手に取った。

「……はい、お待たせしました。コットンカフェでございます。あ、ああ。はい、はい。すみません。テイクアウトはやってないんです。あ、そうです。ここまでは辻堂駅から歩いて来られますので、すみませんが……またのご来店、よろしくお願いします」

 自治会長ではなかった。私は子機を置く。ローマがフンっと一度鼻を鳴らした。私は、朱子の顔をちらりと見てから椅子に座った。


「……じゃあ、次の質問ね。えっと。礼美さんと会ったことはありますか……だっけ。んー、直接喋ったのは昨日だけね。はい、正直に言ったわよ。この質問はおしまい」


「そして、最後の質問。私の望みはねぇ、……キラキラした緑の帝国で、女王として君臨すること。『オズの魔法使い』のお話って知ってる? どこよりも美しくて素晴らしい、エメラルド・シティの魔女……に私はなりたいの。だからぁ、私の望みは……逆に言うと、誰であろうとそれを阻むものは絶対に許さないってことね。ふふふ」

 緑子は自信家らしく、端的に半笑い気味で言った。


「さあ、質問、全部答えたわよぉ。伊織くん、礼美さんを頑張って捜して。楽しい~。タイムリミットはあと何パーセントなの? 急いだ方がいいわ。電池が切れたら、もう私に助けを乞うことも出来なくなるんだから♪」

「……十六パーセント」

 私はテーブルに置かれた黒い携帯を見て、愕然として言った。このまま通話状態にしてるとどんどん電池がなくなっていく。心臓の鼓動が早くなる。

 お願い、神様。どうか、礼美を助けて下さい――。


「そろそろ真綿さんがハロー通りに着く頃かしら。……真綿さん、今どこ? どんな感じ~?」

 黒い携帯から漏れる声。同じテーブルに置いた私の携帯もスピーカーになってるので、その声が真綿に届く。

「はぁはぁ……、くそっ、ああ、もう着くぞ。……待たせたな、あー、やっと着いた。真っ直ぐ海に繋がる、ハロー通りのスタート地点だ」

 私は影ひとつないハロー通りを想像する。殺人的な残暑の陽射し。

 真綿は私の代わりに、礼美を助けるため必死で走っていた。

 まるで、それは炭鉱のカナリヤなのだ。毒ガスの在処を教えるために、闇へと向かう逃げられないカナリヤ。


 お願い。――私の仲間、私のすべてを助けて。

 こんな思いをするくらいなら、絶望にも似た叫びをあげたい衝動に駆られる。一秒ごとに訪れる嫌な予感を振り払いたかった。

 私が鑑定してきた姓名判断では、犯罪を犯す人物に一貫性は見られなかった。

 強いて言えば、虚栄心が強く自尊心の高い性質が目立つくらいか。あまり良すぎる鑑定に行き着くと、怖さを覚えることもある。人を認めない、自信家が多いからだ。そして、その自信過剰は人生を狂わせることがあるから。

 それよりも被害者のほうに特徴が現れやすい。早死にや犯罪被害者、殺害された人はほぼ同様に、最悪と予想される字画・陰陽五行の組み合わせを持つ。

 だからこそ私は心を込めて鑑定を続ける。直感を鈍らせないようにして。

 

「……緑子さん」

 私は言った。喉がカラカラだ。

「なに?」

「もし、礼美に何かあったら……私たちはあなたを、絶対に、許さないから」

 少しの沈黙のあと、黒い携帯から音量が壊れたような激しい笑い声が聞こえ出す。

「はぁ? 許さないですって? 花野ふみ、誰にものを言ってるか分かってんの。……ペット探偵は頭脳。真綿は体力。あんたは一体何をしてるのかしら? 口を慎みなさい、私はペット探偵以上の人間なのよ。悪魔も私に魅了されるわ。名前なんか、ただの記号。私こそ、無名の高級犯罪者。無名の偉人! 私に楯突いたら、次はあんたが死ぬ番よ!」

 緑子は荒々しい口調で言った。


「……礼美は何もしてないわ。そうでしょ? お願い、緑子さん。私のこと、気に触ったなら、礼美の代わりに、……私を殺して」

 喉の奥が苦しくて、私は自分の声がうまく出てるかわからなかった。だから、もう一度言った。

「私を、礼美の代わりに……殺して」


「あんたたちって、ホント気色悪い。バカばっかりね。類は友を呼ぶとはよく言ったもんだわ。……でもね、残念ながら、礼美には殺される理由があるの。そうよ、私を差し置いて礼美に関わったバカな奴は、すでに拷問を受けてるんだから。私はねぇ、無差別に人殺しをするような快楽殺人者じゃないのよ! そんな低レベルの人間じゃないの。でも、そこまで言うなら別にいいわよぉ、変な度胸。そうね、この誘拐のきっかけはあんたでもあるんだから。礼美がタイムリミット内に見つからなかった時は、ふみ。お望み通り、あんたを殺してあげる」

「……お前ぇ、俺のふみに手を出したら、絶対に、俺が絶対に、許さねぇからなー!」

 私の携帯から真綿の怒号が響いた。思考が止まる。……礼美が殺される理由、拷問、……私がこの誘拐のきっかけ? どういうことなの。

 直後、私の思考に被せるように、伊織が真綿を諭し指示を出した。


「……真綿さん、落ち着いて下さい! 落ち着いて、ハロー通りを見渡して。……ただ見るのではなく、観察するんです。いいですか? 人通りはありますか。怪しい人、普段見かけないような人物はいませんか。ありふれた景色に潜む悪を見つけるんです。例えば、スーツを着てうろついているような男の人。真っ昼間のこの時間に、犬の散歩をしているような人など。……よく見て下さい。真綿さん、夏の湘南、特にオフィスなどないこのハロー通りで、長袖のスーツを着てウロウロしている人間は逆に珍しい。戸建て目当ての営業目的ならまだしも、目的なくうろついてるような人は泥棒の可能性もある。それから、真夏の炎天下に犬の散歩をする飼い主はいませんよ。肉球が火傷してしまう。……真綿さん、どうですか?」


 伊織が真綿に質問を始めた。伊織はどこまでこの事件を見据えて指示を出しているのか。神に祈るように、私は話を聞いていた。

「あー、そうだな。……いや、庭の花に水をやっている主婦が一人と。あとは、井戸端会議してる、これまた主婦連中が数人か。この時間帯ほとんどこの通りは人が歩いていないな。昼飯の時間っていうのもある。伊織、他になんか指示をくれ」


「そうですか。……では、海の方へ向かって走って下さい。家々を見渡して。人のいる家。留守の家。空き家。それぞれ様子が違うはずです! 開いてる窓、風鈴やピアノの音、洗濯物、車庫に車があるかどうか……。真綿さん、何でもいいんです。気がついたことがあれば、教えて下さい!」


 伊織の焦った声が響く。指示に礼美を指し示すような具体的な案はまだ出てこない。刻々とタイムリミットのパーセンテージが減っている。


「あー、なんだよ。くそっ、全部普通の家に見えるぞ。この通りはコンビニなんかもねぇから、日中は本当に人通りがないんだよ。はぁ、はぁ……。あー、疲れた。ちくしょう。あっ、あの家、カーテンしてるけど窓開いてるな。今時期どこもクーラー付けてるから、普段窓は開けないんじゃないか? しかし、空き家なんかどうやったらわかるんだ、留守の家と変わらねぇだろ」


「窓を開けてカーテンをしてるのは、きっと家の中を見られないように空気の入れ換えをしてるだけです。あと、一階部分のガラス扉にも気をつけて下さい! クレセント錠というレバーで開閉出来る鍵なら、外からでも出入り出来るかどうかが分かります。そして空き家と留守宅の違いは郵便受けを見れば大体わかりますよ。空き家はよくガムテープで受け口を塞いでますから!」


「おー、なるほどね。ああ、そういえば、一軒、ガムテープした郵便受けがあったな」


「そこはおそらく空き家でしょう。その調子です。また空き家があれば教えて下さい。突き当たりまで行って、折り返した際に捜索してもらいます。とりあえず、まだ走って下さい。そしてそのまま真っ直ぐに行くと、低層のリゾートホテルがありますよね。……たぶん、一番可能性がある場所はそのホテルの部屋だと思います」

 伊織がやや低い声で言った。

「ですが、問題はどうやってホテルの内部を捜索するかです。警察でもない僕らは、個人情報の関係で泊まり客の情報を聞くことも不可能ですし……」

 伊織がすぐに言葉を詰まらせる。本気で焦っているのか、いつもの謎解きに見せる、神がかった推理にはまだお目にかかれそうになかった。


「おう、マジか。……なら、伊織。いい考えがあるぜ。俺のさぁ、幼馴染みのあやちゃんに相談したら簡単じゃん?」


「……はぁ? 幼馴染みのあやちゃん!? って誰よ、それ」

 突然の私の言葉に、電話越しの真綿がビクつくのがわかった。

「い、いやぁ、その、あれ、アレだよ。……あやちゃんって話したことなかったっけ? あのさぁ、この辺一帯の地主だった娘の、あやちゃんだよ。そこがホテルになる前の土地の所有者だったんだ。だから確か今も、ホテルの一室はあやちゃんちのものらしいぜ……」

 湘南が地元の真綿の繋がりは、全部ではないが把握してるつもりだった。しかし、女友達の名前は意識的に伏せていた可能性がある。真綿め。


「ちょっとそこぉ、よくわかんないけど、やめてくれる? 早く捜し出さないと、礼美がどうなってもいいわけ?」

 緑子がいらついた声で急かした。いや、別にもめてないですし。


「真綿さん、流石ですね……。ありがとうございます。これで、やっと視界が開けますよ。では、あやさんに早速連絡を取って貰い、ホテルの内部を見せて頂けるように調整お願いします。そして、ホテルへ入ったらすぐに僕の指示に従って下さい――」


 伊織がその時、少しだけ希望の持てる言い方をした。風向きが変わった瞬間だと私は感じる。

「……おう、バッチリだ。あやちゃんにメールしたら、速攻返事が戻ってきた。今、ホテルにはいないが、支配人に連絡取ってくれるそうだぜ。持つべき者は信頼のおける地元の友だなっ! あ~、イケメンでよかったね、俺♪ 空いてる部屋や共有フロアは内緒で好きなだけ見せてくれるらしい」


 イケメンはともかく、元来、真綿の運の良さは折り紙付きだ。私の口元が自然と緩む。

「あんたたちって、ほんとバカね~。おちゃらけてる時間なんてないわよ。まあ、笑えるけどぉ。勝手にやってちょうだい」

 緑子の人を馬鹿にする物言いが聞こえた。私の表情がまた少し堅くなる。


「真綿さん、……まずはホテルの空き室を見せて貰って下さい。それも、女性がチェックアウトしたばかりの部屋をお願いします。なるべく急ぎで」

 真綿が電話越しにゴニョゴニョと会話しているような音がした。

「へい、お待たせ! これからチェックアウトしたての部屋へ急行しますよ~」

 ふざけ気味の真綿をよそに、私と朱子は押し黙っていた。

 黒い携帯のパーセンテージはすでに十を切っている。


「ここが直前にチェックアウトした部屋ですね?」

 真綿が空室に入ったと思われる言葉が、電話越しに聞こえてきた。

「伊織~、チェックアウトしたての部屋に入れてもらったぜ。どうすればいい?」

 少しの沈黙のあと、伊織が言った。

「では、部屋の状態を教えて下さい。なるべく詳しくお願いします」

「詳しくったって、大した部屋じゃないけどな……、あ、いや、素敵なお部屋ですよ~、もちろん。ほんと」

 真綿ったら。言葉に気をつけてよ、もう。


「こぢんまりとしたシングルルームだな。俺が寝返り打ったら床に転げ落ちそうな幅の狭いベッドひとつ、下に人間が隠れる場所はないかぁ……。茶色の小さな机と椅子。おっ、机の中には聖書があるぜ。あとは電話と小さなテレビ。その下に引き出しがある。それから、これまた小さなハンガーラックがついたスペース……伊織ぃ、人が隠れる場所はなさそうだぜ。あのさぁ、もしかして聖書の中に暗号とか隠されてねぇか?」

「真綿さん、……たぶん、聖書の中に暗号は隠されてないと思いますよ。スパイ映画の見過ぎかと。では、ベッドの中、机と椅子の上を触ってみて下さい」

「え? ベッド? 机の上と椅子? ああ、そういうことか……どこもまだあったかいな」

 私もハッとする。直前まで誰かがいたという温もり。証拠。


「ええ。机の上が温かいのは、ノートPCを使っていたからですよ。それでは真綿さん、どんなことでも結構です。従業員の方に話を聞いて下さい。情報を増やして。そこに礼美さんが捕らわれているとしたら、普段、人が近寄らない地下か、もしくは屋上か。地下には何がありますか、厨房、ボイラー室……情報を元に、見極めて捜して下さい。急いで!」

「見極めろったって……。あー、全く。どうすりゃいいんだよっ。従業員に話を聞いたって、本当か嘘かわからねぇじゃねぇか。もしも緑子の共犯者だったら、本当のことは言わねぇだろ」

 真綿の慌てる声が私の携帯から響いた。


「いいですか、真綿さん。落ち着いて。一般的に人間は何かを考えている時、視線は左に動きます。それが嘘をついている時は自然と右に動くんです。それは嘘のつじつまを合わせるために、左脳で考えるからなんですよ。……ちなみに嘘をつく時、男性は視線をそらせがちですが、女性は逆に目を合わせてきます」

「あー、くそっ、わかった。結局、俺が調べるしかねぇってことだな」

 真綿……ごめん。私はここで話を聞いていることしか出来ない。涙が溢れる。

 頼りなくて、本当にごめんね。今は一人一人が必死になって、礼美を捜し出さなきゃいけないのに。


「ヤバそう~。かなり笑えるわね。ねぇ、電池はあとどのくらい? もうそんなにないでしょ?」

 緑子の声だ。笑いを抑えてる。

「……三パーセント」

 死のカウントダウンが始まるように、朱子が小さな声を発した。私は涙に濡れた顔を上げる。

「あと少しで電池が切れる! お願い、礼美を助けて!」

 思わず、私は悲鳴に近い声を出した。


 その時だった。

 私の知っている自信溢れる声、私たちの名探偵。

 迷いのない、比類なきペット探偵の声がその場に響いたのだ――


「……皆さん、お待たせしました。ゲームの謎は、今、全て解明されました。――この謎は、この事件はじゃない!!」

 

 私の頬に、先程とは違う種類の涙がゆっくりと伝った。

 その言葉に私の不安感はかき消されていく。勝負は私たちの勝ち。揺るぎない勝ちが見えた瞬間だった。

 私の携帯から、真綿の笑い声と自信溢れる声も聞こえてくる。それすら頼もしい。


「伊織ぃ、遅ぇよ! 待ちくたびれたぜ。じゃあ、いくぞ。手間掛けさせやがって……おら、驚けよっ! 灼熱のハロー通りを走り回ってるはずの相手はここにいるぜ。……あんたはもう終わりなんだよ、

 

 そして私の目の前にある子機からも、もうひとりの穏やかで優しい声が聞こえてきた。

「お待たせしてすみませんでした。もう、怖がらなくて大丈夫――僕がついてるから。おいで、……」



 私は今、誰もいないカフェの店内を片付けている。

 涙に濡れた顔はもう落ち着いた。

 朱子は姉の緑子が逮捕されたことを聞き、そして私に大切なことを告げ、運命を静かに受け入れるようにして帰って行った。

 テーブルのまわりには、白いメモ用紙が散乱していた。

 ゆっくりとその中の数枚に目を通す。

 

 『予想を超える相手に振り回されないで』


 『緑子を挑発して、情報を引き出して。内容は自分で考えて下さい。そうでなければ、勝つことは出来ない』

 

 これは、伊織が私に手渡したメモだ。

 私が姓名判断で使用するメモ用紙に、走り書きをして渡してきた。

 喋らないで、意思疎通するために。

 

 真綿がハロー通りへ駆け出して行ったあと、少しして伊織がキッチンの奥の扉から音もなく出て行った。外に置いていた真綿の自転車に乗って、真綿を追いかけたのだ。ローマと一緒に。

 その時、例の指のコマンドだけでローマを静かに誘導させた伊織は流石だった。ローマは一度鼻を鳴らしただけ。


 伊織がカフェを出る直前、ここの電話に自分の携帯から電話を掛け、私が子機を取った。緑子に、お客様からの問い合わせと思わせたのは私の機転だった。

 そして伊織にメモで指示された通り、電話を切らずにスピーカー機能に切り替え、みんなの携帯と同じようにテーブルへ並べた。

 外から見たら、スマホや子機が置かれた一つのテーブルを、ふたりの女性が挟んでいるといった具合。


 その後はずっと、緑子と朱子が持つ携帯、真綿と私の携帯、伊織の携帯とカフェの子機が繋がった状態のまま、スピーカー機能で話をしていた。

 迫真の演技は称賛に値する……とは、真綿本人の言葉。

「いやぁ、俺、ヤバくね? 俳優デビュー出来るんじゃね?」が、実際の言葉だけれど。


 緑子は羽田空港にいた。

 私と朱子は演技を続ける真綿と伊織に惑わされ、実際のことは何もわからずにいた。緑子と同じように、ふたりにまんまと騙されていたのだ。

 笑える。

 その時の緑子の驚きようが見られなかったのは残念とさえ思う。だけど……

 今はわかる、男たちふたりの必死の覚悟が。

 緑子が発する驚愕の声と伊織の謎解きに私はただただ満足し、いつまでも頭の中に蘇らせた。


「あんた、真綿……どうして、ここに」


「森田緑子、お前はすでに包囲されている。……なんてな、一回言ってみたかった♪ それにしても、あんたもバカだな。俺らを相手にするなんてさ。百年、早ぇんだよ、勝てるわけねぇじゃん」


「……信じられない。どういうこと、朱子ぉ!! 何してんのよ、これは一体なんなのよー!?」


 子機から伊織の声。

「朱子さんの代わりに、僕から説明させて頂きます。緑子さん、簡単なことですよ。観察し、先回りして確保する。いつものペット捜索の要領です。……まず、ハロー通りに向かう真綿さんを、僕は自転車で追いました。犬のローマを連れて」


「ハロー通りで合流した僕らは、すぐにミルキーを飼っていた高杉さんのお宅へ向かいました。自宅で仕事をしているとのことなので、きっとご在宅だと思いまして。あ、……奥さんとは離婚が成立したようです。彼、今は猫を飼っていましたよ」


「そこで、奥さんの現在の居場所を教えて頂きました。緑子さんは短期間に、高杉夫婦共々かなりの信頼関係を築いたようですね。ドッグシッターの同僚と説明したら、スムーズに話が聞けました。特に奥さんとは離婚のお膳立てまでした間柄……プライベートまでどっぷり浸かったふたりの縁はそうそう切れるものではない。今も継続中だと考えたほうが自然でしょう。奥さんは現在、沖縄で宝石店を始めたと彼は言っていました。もともと山梨県生まれとのこと。甲府は宝石業がさかん。実際、結婚するまでは宝石加工の仕事をしていたとか。――ですが、今は沖縄で宝石店オーナー。普通の主婦だった女性が離婚した途端、リゾート地で宝石店を開業ですか……。僕には莫大な金の動きが背後に感じられました。もちろん、それも緑子さんの筋書きです。緑子さん、……宝石のですよね、あなたの本業は。あなたは、言葉通りエメラルドに魅せられていた。実際は取引のために、沖縄で見せかけの店舗を開業したんだ。そして、礼美さんを誘拐したこともそれに関係したものだった。……緑子さん、言ってましたよね。私は快楽殺人者ではない、礼美は誘拐される理由があると。真綿さんの話とすりあわせると、全てが見えてきたんです」


「その後、真綿さんにはタクシーで羽田空港へ向かって貰いました。緑子さんが携帯の電池が切れると、物理的に話すことが出来なくなるとおっしゃっていたからです。沖縄へ飛行機で向かうのだろうと確信しました。……あ、真綿さんのタクシーの中での演技、素晴らしかったですね」


「おう、まぁな。タクシーの運ちゃんは俺が俳優で、セリフの練習をしてるって今でも思い込んでるよ。しかも撮影現場に遅れそう……なんて言ったら、俺がハラハラするくらいの猛スピードで羽田まで飛ばしてくれてさ」


「……羽田発沖縄行きの空路には、JAL、ANA、スカイマークの三便が運航しています。そして、携帯の電池が切れる時間は……パーセンテージから推計しておそらく午後十二時半過ぎ。電池が切れたあとすぐに飛行機に搭乗すると考えると、一時ちょうど発のスカイマークか一時五分発のJALかに絞られる。そして、それは僕たちにとっては大変な幸運でした。この二社は……旅客ターミナルが同じなんですよ。旅客ターミナル。そこで真綿さんに、緑子さんを捜して頂きました」


「服装は違うだろうが、こっちは双子の妹をさっきまでずっと見てたんだ。見間違うわけねぇよ。しかも美人捜しだろ、まさに俺の得意分野なんだよっ」

 真綿、そこ威張るとこ?

 思わず泣き笑いしてしまう。

 真綿は炭鉱のカナリヤでも逃げられないのではない。選ばれたカナリヤだったのだ。


「加納伊織……。私をバカにしてるの? 嘘よ。礼美の居場所がわかったなんてハッタリなんでしょ、どうせ」


「まさか。すでにこちらの家電から救急車を呼んでいます。窓の締め切ったこんな蒸し暑い部屋の中で、縛られて……かわいそうに。こちらはドッグシッターを頼まれたお宅ですか? ざっと見ると長期旅行中のようですね。犬が見当たらないのは、緑子さんが勝手にペットホテルにでも預けたのでしょうか。信頼して鍵を渡している相手に対して……。お客様の信頼を裏切るような真似は金輪際、絶対にやめて下さい。誘拐の監禁場所に使うなど言語道断です。それと、……礼美さんは熱中症と脱水症状を起こしかけてます。緑子さん、あなたのことは容赦するつもりはありませんよ……そのおつもりで」

 伊織の冷たい声が、子機のスピーカーから聞こえた。


「そんなバカな……バカな。こんな短時間で、私と礼美の居場所がバレるなんて。……あ、まさか……朱子ね、全部喋ったの? そうでしょ? 殺してやるわ、あんたがまさか裏切るなんてー!」


「いいえ。朱子さんは最後まで何も言いませんでしたよ。……ただ、緑子さん、あなたの呪縛から逃れるように僕が少し背中を押してあげただけです」


「訳わからないこと言わないで! 朱子はね、私を裏切ることなんて絶対出来ないはずなの! ……それなのに、バレただなんて。裏切ったとしか考えられない! そうじゃなきゃ、私が仕掛けた罠をペット探偵がなんでそんな早くに解けるっていうの? あり得ない、あり得ないのよ!!」

 

「……緑子さん、あなたが仕掛けたゲームなど、僕らにはどうだっていいんですよ。そんなものに興味はありません」


「はぁ!? 朱子が喋ったんじゃなきゃ、じゃあどうやって礼美の監禁場所を突きとめたっていうの? 答えてみなさいよ」


「緑子さん、僕は元からあなたのゲームに乗る気など全くなかった。ただ、礼美さんを救い出したかっただけです。僕は確実で、最速の方法をとったんですよ。ハロー通りの高杉さんのお宅を出てタクシーに乗る真綿さんを見送ったあと、僕は礼美さんの居場所を突き止めるために、礼美さんの忘れ物……黒いキャップの匂いをローマに。それからは、警察犬さながらの働きでしたよ。ローマも礼美さんのことが大好きですからね。……僕がしたのはそれだけです」


 私の頬にまた涙が伝った。これは嬉し涙。

 犬の嗅覚は人間の百万倍以上ともいわれている。もちろん、浮遊する匂いさえ感知出来るそうだ。

 ローマは私たちの代わりに礼美を捜し出してくれた。

 いつも笑顔で美味しいおやつをくれる礼美のことが大好きで、微かな匂いを辿り真夏のハロー通りを黙々と捜してくれたのだ。

 私たち人間、それから全ての動物。

 長い長い時間をかけ助け合い、私たちは生き残ってきた。淘汰される数多あまたの命を超え、私たちが今、生き残りの先頭。進化したもの。

 私たちは悲観しなくていい。仲間のために走る覚悟があれば、どんな過酷な場所だってのぞんで行ける。その時はきっと、誰もが死へ向かう冒険者なのだ。


「緑子さん、まだ理解出来ませんか。あなたはもう終わりなんです。それが、緑子さんと朱子さんとの違いでもあります。一見、おふたりの外見は似てますが、決定的な違いがありました。……それは、瞳です。刻々と姿、形を変えても、目を見ればわかる。緑子さん、あなたの瞳には……恐怖心が欠けているんですよ。無垢を取り違えた、残酷な子供のような危険な瞳を持っていました」


「そう、加納伊織……。ふーん、わかったわ。あんたのそのうぬぼれた推理にはウンザリだけど、最後にひとつだけ聞かせてもらえる? ……どうやって、朱子の監視の目を逃れてカフェの外へ出たの? 朱子が私に報告するでしょ、普通」


「推理? とんでもない。もっと確実なものですよ。緑子さん、最後の質問に僕が答えて、もう終わりにしましょう。それは……いくら双子とはいえ、犯罪に加担する必要はないですよね、大抵は。だとすると共犯者。もしくは片方が実行犯ならば、この奴隷のような妹の意味は何かと考えた。そうすると思い浮かぶのはです。朱子さんは姉、緑子さんに脅迫されている。何を材料に脅されているのか。……朱子さんがカフェに入ってきてすぐ、僕はローマが朱子さんの下腹付近に近寄ったのを思い出しました。ローマは嗅覚にすぐれ、優しい性格をしています。以前にもそのような場面を見たことがあった。それでわかったんです。朱子さんは現在、していますね。そっくりな二人ですが、あなたにはなくて、朱子さんにあるもの。そして、あなたはそれを……の殺害を、脅迫に使っていたんだ。それを朱子さんに指摘すると、彼女は僕を信じてくれました。……あなたは本当に、最低な人間です」


 緑子は突然、狂ったように電話の向こうで叫び始めた。

 私は手を伸ばし、自分の携帯と子機の通話を切る。私と朱子は静かに向かい合った。

「朱子さん、教えてほしいことがあるの。どうして、礼美は誘拐されたの? 私がきっかけってどういうことですか」

 そう話しかけると、朱子は私の目をみて不思議な表情を見せる。

 そして、言葉を選ぶようにゆっくりと話し出した。


「ふみさんは、本当に気付いていないのね。……そう、あなたは幸せだわ。礼美さんが姉に誘拐されたのはね、どうしても欲しかったエメラルドを礼美さんに買われてしまったからよ。礼美さんは御徒町にある宝石店へ出入りしていた。そこは姉もよく利用している店だった。先日、そこのバイヤーが、希少なエメラルドを通常の商品と間違えて礼美さんに格安で売ってしまったの。目利きの悪さに怒った姉はそのバイヤーを痛めつけ、礼美さんも誘拐してエメを奪い取った。で、その時、礼美さんと交流のある、前々から派手な活躍をしていたペット探偵のことを耳障りだと言ってゲームを仕掛けたの」


「礼美が買ったエメラルドのために誘拐を?」

「いいえ、まだわからない? ……あなたのためよ」

「えっ、それってどういう……?」

「ふみさん、自分の誕生石って知ってますか」

「私は五月生まれですけど。誕生石は、……エメラルド?」

「そう、姉はエメに魅了され執着している。そのためなら、誘拐も人殺しも厭わない。そんな人間がこの世にはいるのよ。信じられないかもしれないけど」

「でも、どうして、私とそのエメラルドが……?」


「……真綿さんが礼美さんに頼んだって聞いたわ。ふみさんの誕生石を買いたいから、いい石を選んで欲しいって。もう、わかるわよね? 真綿さんはあなたに……プロポーズするつもりでいたの」


 そう言って、眼鏡をはずした彼女の瞳は依然として美しく、そっとゆるいチュニックのお腹に手を添えた。

 そういえば、真綿が携帯を奪おうと朱子に飛び掛かったとき、反射神経でとっさにお腹をかばうような仕草を見せていたのだ。

 愛情深い、嘆きの瞳。

 ここにも自分以外のものを護る人がいた。 

 そうか。

 知らなかった――。いつも、いつだって、こんなにも深い愛情に包まれていたのに。

 私は両手を顔にあて、ここにはいない三人を心から想った。


 カランコロン。

 朱子は何も言わず、カフェを出て行った。

 ふいに届く、夏の匂い。

 愛おしい、いつもの海の気配。

 私は嬉しいのか寂しいのか分からないまま、急にみんなに逢いたくなって幸せな子供のように泣き出した。



――手の中にある、白い紙をもう一度見る。


 『大丈夫。君たちの夢は叶える。

  ふたりが出会う夢のこと』


  そう書いてあった。

  ペット探偵の力強い瞳を信じて、

  あの時、私は頷いた。

  深く。

  まだ見ぬ光……

  私はそれを見てみたいと思ったのだ。

  心の底から。


  たぶん、この子の名は希望

  未来を照らす、私の光――   

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ペット探偵と謎解きカフェ 片瀬智子 @merci-tiara

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