第6話 桜の密室

 手のひらに桜の花びらが一片、ふわりと舞い降りてきた。見上げると、そこは空の青と満開の薄紅色うすべにいろ。目が眩むほどのキラキラとした陽光のシャワー。

 この時期になるといつも子供の頃に飼っていた、水色のセキセイインコのことを思い出す。遙かな大空と桜の美しさに魅了され、あの日どこかへ飛んで行った。

 あんなに光り輝く美しい音色で、幼かった私を楽しませてくれたのに……。


 辻堂駅から南へ向かって真っ直ぐの道を歩く。夏を待てないサーファーの青年が、自転車で私を追い抜いた。

 少し冷たさの残る風が、潮の香りを運んで来る。ヘッドホンで世界を遮断する私に、海が近いと知らせに来たのだ。

 その小さなカフェは、白い外観に似合いの名称が付いていた。店先のベンチの横には、黄色とシルバーの自転車が二台。

『Cotton Cafe』という看板と営業中のプレートを確認すると、ハイレゾのヘッドホンを肩にずらして私は白いドアに手を伸ばした。


 ――カランコロン。

「いらっしゃいませ」

 明るい声で、茶色い髪をしたビーチガールが笑顔で振り返った。今はまだ色白だが、夏になれば小麦色に染まるのだろうか。湘南を回遊する、キャミソールのマーメイドたちを一瞬思い浮かべる。

 赤いギンガムチェックのエプロンに、デニムのミニスカート。すらりとした真っ直ぐな足に白いスニーカー。サイドのポニーテールが似合っていた。

「……あの、私、姓名判断の予約をした、瀬戸せとといいます」

 少しぎこちなく私が言うと、その女性は子鹿のような丸い瞳をにこりとさせて、エプロンのポケットから名刺を取り出した。


「お待ちしてました。『ふみの』で鑑定をやってます、花野はなのふみと言います。こちらへどうぞ、すぐにメニューをお持ちしますね」

 私は言われるまま、窓辺のテーブルに着く。

 キュートという言葉がぴったりなその鑑定士はエプロンを外し、すぐに戻って来た。そして、私は思わず胸に目を奪われる。彼女にピタピタのリブニットは罪だ。ボリュームのあるふんわり丸い胸が強調され、女性の私でも目のやり場に困ってしまう。私はわざとらしく目をそらした。


「――この前、購入した絵。こちらに飾らせて頂いてるんです」

 ふみは胸元への視線に慣れているらしい。さりげなく気付かない素振りで、私に話し掛ける。壁には私の絵があった。

「あ、飾って頂いて、どうもありがとうございます……」

「すっごく気に入ってるんです! 私もオーナーも。色彩カラーのセンスが私たちには想像が及ばなくって。芳乃よしのさん、人物画の天才ですよね!」


 ……まさか。それはない。私の画風は、抽象的で挑戦的。

 目の前の絵は、鮮やかに彩色さいしきしたアメリカのポップスターの肖像画だった。

 もちろん、自分の描いた絵を褒められるのは単純に嬉しい。でも、面と向かって言われるのは気恥ずかしいもの。私はショートヘアの耳元に手をやり、視線をそらしてはにかんだ。


 ――カランコロン。

「はあ~い」

 ドアが開き、気さくな挨拶をする女性が入ってきた。白い無地のTシャツにグレーのスウェット。メイクはしておらず、艶のある茶色い髪は無造作にひとまとめに結わえてある。

 私もメイクは苦手で、いつもTシャツにスキニージーンズだ。だが、唯一の宝飾品である美しい腕時計のフェイスを見る。今日の私は、きっと腕時計くらいしか誇れるものがない。

 目の前の彼女は、持って生まれた髪や裸体はだかが自信というタイプなのかもしれない。透明感のある肌質や左右対称の整った目鼻立ちからして相当の美人と思われたが、本人は素顔そのままで一向に構わない様子だった。


「礼美ちゃん、いらっしゃい。今、姓名判断のお客様がいらしてるから、そっちに座って待ってて。もうすぐ伊織くんも来るはずだから、ランチは一緒のテーブルでいいよね? 今日はデザートに、真綿特製のレアチーズケーキが付くよ。楽しみにしてて」

 ふみはスッピンの彼女にそう言うと、改めて私に視線を向けた。

「レアチーズケーキ、オーナーの特製なんです。今日は、デザート付きランチがお勧めですよ。いかがですか?」

 私は顔を上げ、素直に頷いた。


「あれっ!? ……もしかして、画家の瀬戸芳乃さんじゃないですか? ……そうですよね? やっぱり! 黒髪のショートヘアに、ボーイッシュなスタイル! 間違いなかったぁ。都内でやってたポップアートの個展、私も行ったんですよ! 覚えてます? 銀座のホステス仲間と行ったんですけどぉ。わぁ、すご~い。今日は湘南へ遊びに来られたんですか?」

 グレーのスウェットの美女が私に気づき、感激気味に言った。キラキラしたアーモンド型の美しい瞳で私を見つめる。私は頭の中で考えがまとまらず、小声で言い淀んだ。


「今日はちょっと……。あの、」

 すぐさま鑑定士のふみが、私を目で制止させる。そして、スウェットの美女へ微笑みながら言った。

「あのね。この前、絵を購入した時にちょっと芳乃さんとおしゃべりしたの。で、カフェで姓名判断のお仕事をしてるので、湘南に来ることがあったら寄って下さいって言っておいたのよ」

「へぇ~、知らなかった。ふみちゃん、案外抜かりないね。でも、それで本当に来てくれるなんて。……芳乃さんってやっぱり良い方!」


「そんなんじゃないんです……。あの、私、実は、……ちょっと気になることがあって。……占いにでも頼れたらって」

 喉の奥から発せられた途切れ途切れの言葉は、自分が思うよりみじめだった。私はどうも内気なところがある。初対面やそれに近い相手にはなかなか笑顔が出来ないし、気の利いた言葉も言えない。

 それなのに、私の絵画。――そう、あの抽象的なポップアート作品。

 もちろん、ポップアートの巨匠・アンディ・ウォーホル様の作品には足下にも及ばないが、私なりに動物やその人物のストーリーを思い巡らせ、声を聞き、最適な絵の具を選んでキャンバスに魔法をかける。

 原色の絵の具が好き勝手にような絵画は、思いがけず影響力のある人物に見い出され、ここ何年もコンスタントに売れ続けていた。


 世のつねとして、人を成功させるのは人だ。芸術家なら尚更と言える。国内外問わず、中世の時代から芸術家にパトロンは付きもの。

 話題も特異な才能も、例えば破天荒な履歴も持ち合わせていないつまらない小娘に誰が目を向けるだろうか。芸術の神様が、私を選んだ理由は一体何?

 私の絵が美術の世界で認められ、商業的に成功しているのはほとんど奇跡に近かった。

 学生の頃の私を知っている人は、誰もが首を傾げるだろう。なぜなら、私が絵を描き出したのは二十歳を過ぎてから。それも独学。二十歳までは、学校の授業で水彩絵の具を使い切ったこともなかったのだ。


 それなのに今や、私の指先で彩られる人物たちは大きく羽ばたき、お金を持ってくる。そもそも、お金持ち=成功者……? 

 成功の過程に定義があるなら、私が知りたかった。自分の手には負えない、大き過ぎるluckだけでここまでやって来たのだから。

 しかし、それは重苦しいプレッシャーとの出会いでもある。妬みや嫉妬に苛まれもした。出る杭は打たれるとはよく言ったもので、陰険な悪口もあからさまに聞く。親しいと思っていた友人は遠のき、見たこともない親戚が増えた。

 それでも時代の波に乗り、一度売れ出した私の作品の人気は、雪山を転がる雪だるまのように徐々に今も確実に膨らんでいる。SNSという世界的口コミのおかげなのか何なのか、運命の女神は私を放ってはおかなかった。


 ――カランコロン。

「あ、伊織くん。いらっしゃい。礼美ちゃん、もう来てるよ。一緒のテーブルでいいよね」

 伊織と呼ばれた青年は爽やかな水色のTシャツに短パン、日に焼けた足にビーサンというカジュアルな服装だった。ポケットにサングラスが覗く。

 ここ湘南ではよく見かける一般的な男の子といった感じだ。でも、どちらかというと草食系かな。おとなしい印象を隠し得ない。なのに、ゆるいくせ毛と黒目がちな瞳に似合わない、細いながらも筋肉質の腕にギャップを感じた。

「おー、伊織。ランチすぐ出来るから。あ、礼美ちゃん、ちょっ……。この前の、件って……どう?」

 キッチンから出て来たエプロン姿のオーナーに、礼美は目を細めると少しだけ片方の眉を上げた。


「――この前の件って、何?」

 鑑定士のふみが、可愛らしい顔に似合わずクールな眼差しで振り返った。背が高くガタイのいい、自由を存分に謳歌している風の男性が少し顔を引きつらせながら笑う。

「いや、いや……別に。何でもない」

 私が男女の仲に特別詳しいとも思えないが、きっとこの二人は付き合っていて、しかも彼氏が、かなり年下の彼女の尻に敷かれているんだろうなということは容易に想像出来た。両手を振りながら真顔で言葉を飲み込む様は、あやしい以外何ものでもなかったのである。

「まあ、いいけど。真綿、後でゆっくりね……」

 ふみの言葉に、たぶん……若干の戦慄の空気が流れた。


「ところで、芳乃さんってご本名なんですか?」

 先程の恋愛事情における冷ややかな態度とは打って変わって、普段の顔と思われる優しい微笑みでふみは言った。

「そうです。……瀬戸芳乃。本名で活動してます」

 ふみは頷き、姓名判断用の紙に私の名前をさらさらと書いた。そしてその名前の横に、手慣れた様子で数字をいくつか書き出していく。


 天格 二十四、人格 十四、地格 十二、外格 二十二、総格 三十六。


 少しの間、ぼんやりと眺めるようにその紙を観ていたふみの口元が開き、次に焦点を合わせ私を見定める。大体を察したかのように静かに微笑んだ。

「お洒落やセンスに敏感。プライドが高く美人さんも多いですね。一般の仕事には満足しない。芸術家はぴったりの職業だと思いますよ。あと、家族運に恵まれなかった。ん……、精神的に弱いところがあるなぁ、浮気、不倫には要注意。言い寄られると弱いから。人の言葉を打ち消さず、他人に振り回されず、お金や愛をまわりの人に使うようにすれば運が入ってきます」

 可愛らしいビーチガールは、数字を見ただけですらすらとそれらを語った。

「ふみちゃーん、ランチ運んでー」

 空気を変えるように、キッチンから真綿という名のオーナーの声がした。


 本日のランチは煮込みハンバーグ、色とりどりの野菜サラダ、ほうれん草と卵のココット。

 それらはワンプレートで盛られ、女子にはテンションの上がる可愛らしさだ。レアチーズケーキは食後に、珈琲と一緒に運ばれるとのこと。

 このクオリティだと、デザートも本当に楽しみ。まさに、写真を撮って拡散したくなるランチだった。私は黒いエナメル素材のバッグを開け、携帯を取り出す。


 ふいに隣のテーブルを覗くと、伊織のランチには豚の生姜焼きと思われる一品がプラスされている。誰も何も言わないところを見ると、日常のことなのだろう。ふみが隣のテーブルから灰皿を取り、私に見せる。私は首を振った。

「芳乃さん。お食事中、少しお話を聞かせて頂いてもいいですか?」

 私はベジ・ファーストを気にしてサラダから箸を付けつつ頷く。

「今日はどういったご相談なんですか?」

 少しだけ過去を憂うと、私は水を口にした。


「はい。……実は私、結婚が決まったんです。先月、正式に婚約しました。式は六月の予定です。それで彼の両親とお話する機会が増えて、自分の家族や今までのことを振り返るようになりました」

 そこまで言うと、ふみは嬉しそうな顔でお祝いの言葉を言ってくれる。隣のテーブルにいる、例の美女・礼美やいつまでもおとなしい伊織まで祝福してくれた。


「ありがとうございます。それで……あの、私の父は、私が子供の頃に亡くなっているんですが。えっと、……その、自殺でした。あ、それに関しては、もうどうも思っていません。昔のことなので。お気遣いなさらないで、大丈夫です。……ですが、私は自殺の理由を全く知らないんです。母には何度か聞いたことがあるのですが、詳しい理由を言ってくれませんでした。今は県外に住んでいてなかなか聞きづらいですし、他にもう身内と呼べる人はいません。父は心の病気になり、……自殺したのだと。それだけなんです」


「……なるほど。それで、本当の理由を知りたいと?」 

 ふみは考え深げにつぶやいた。

「芳乃さん。……先にひと言、言っておきたいことがあります。私は出来るだけ、芳乃さんのお力になりたいと思っています。ですが、姓名判断という占いは、そういった内容にはあまり向いていないものなんです。お父様のお名前から、悩みの種類や運命などを観ることは出来ますが、詳しい理由を言い当てることはかなり難しいと言えます」

 ひと言ひと言、誠実さを感じる眼差しで私に伝えるふみ。


「そうなんですか。……わかりました。いいんです。私も占いのこと、よくわかってなくて……すみません」

 私はかぶりを振り、無知を詫びた。

「ねぇ。それなら、伊織くんにして貰えばいいじゃん! 伊織くんだったら、そういうの、得意よねぇ?」

 突然、隣のテーブルから声がした。声の主は礼美だ。その時、ライスを無心に頬張っていた伊織が思い切りむせた。


「芳乃さん、こちらの伊織くん。実はですねー、何を隠そう我らがなんです! 専門は、殺人! 話を聞くだけで、ミラクルに謎を解明しちゃいますよ」

 殺人専門の探偵!?

「ちょっと、礼美ったら! 全くもう! 芳乃さん、変なこと信じないで下さいね。伊織くんは名探偵ですけど、ペット専門なんです!」

 ペット専門、探偵……。

「でも、探偵さん、なんですか? ……すごいですね。私、探偵って、物語の中だけの職業って思ってました」

 私がそう言うと伊織は伏し目がちのまま、急いで水をがぶ飲みした。

「……あ、いえ。別にすごくはないです。僕は、……ペットが専門なんで。地味な仕事です」


「またまたー。伊織くんったら、ご謙遜を! 芳乃さん。伊織くんって、こう見えても本当はすごいんですよぉ。まあ、推理においてだけですけど! 普段は無口で、いつも分からない感じなんですけどねぇ」

 楽しくなってきたのか、礼美が話に乗り出してきた。

「伊織くん、今、芳乃さんに推理を披露してあげたら? ね、そうしてよぉ。簡単な推理でいいから。芳乃さんのこと、ちょっと観察しただけでもわかることがあるでしょう。伊織くんならそういうの、出・来・る・よ・ね? ねぇ、お願い~」

 礼美の無茶ぶりが、夜の仕事の片鱗を感じさせる。腕を揺さぶられ、甘い声(どスッピンではあるが……)でお願いされた伊織は、しぶしぶ(女の子のお願いを断ることが出来ないタイプか?)頷いた。


「何々~、楽しそうじゃん」

 今の話が聞こえたらしい。オーナーの真綿が、レアチーズケーキと珈琲のトレイを手にテーブルへとやって来た。彼もこのまま一緒に参加するようだ。

 珈琲の豊かな香りに気持ちが落ち着く。私は伊織に向き直り、推理とやらに興じようと思った。

「私を見ただけで分かることがあるんですか? ぜひ、お願いします。言ってみて下さい、探偵さん」

 私が微笑むと、ペット探偵は顔に手をやりため息をつく。そして、仕方ないな……という表情をした。伏し目がちだった彼の視線が、静かにゆっくりと動いた。


「あの、えっと、じゃあ……始めます。瀬戸さん。今度ご結婚されるということですが、……実際はすでに同棲、されてますよね?」

「えー、そうなの!? なんで、わかるの!!」

「ちょっと、礼美ちゃん、黙って」

 ふみが礼美をたしなめる。

 ……私は伊織の第一声に、言葉を詰まらせた。

「それから、……婚約者の方は、普通の会社員ではなく、瀬戸さんと同じく芸術家か、もしくは家で仕事をしている自由人の部類。現在、彼より瀬戸さんのほうが収入はあると思いますが、彼のご実家は資産家。彼の母親は、思い通りにならない息子が気になっている。あ、ご主人になられる方にくれぐれも言っておいて下さい。タバコを吸うなら、外か換気扇の下で吸うべきだ。副流煙は人間だけでなく、犬たちの健康も害する恐れがあるので……」


「ちょ、ちょっと、待って下さい! そんな……どうして?」

 私は呆気にとられていた。お見事だった。まさに驚天動地きょうてんどうち。一体、どうして、そこまで!?

 推論途中の伊織は先程のおとなしい印象とは違い、驚くほど早口で流暢だった。シャーロック・ホームズの霊か何かが、こっそり乗り移ったみたいに。

「芳乃さん、驚いたでしょ? ねぇ、伊織くん、どうしてわかったの?」

 礼美とふみが嬉しそうな顔をした。

「あの……、えっと、見ただけです」

 伊織がまた振り出しに戻った様子で、ぎこちなく言った。

 何が起こったのか。さっきのホームズの幽霊は、早くも消え去ったようだ。

「いいから、伊織くん。見たままでいいから、どうやって推理したのか教えてちょうだい――」

 礼美の頼もしい?、伊織を操縦する声が響いた。


「あ、はい。え……っと、まず瀬戸さんが同棲してるというのは、……瀬戸さんのバッグでわかりました。先程、バッグを開けた時に、かすかにタバコの匂いがしたんです。無意識かもしれませんが、瀬戸さんがバッグを開いた時、ふみさんも灰皿を渡そうとしましたよね。煙は驚くような場所にも入り込みます。バッグの表面はエナメル素材なので匂いませんが、内側は布が張られています。布には匂いが付きやすいんですよ。……ですが、瀬戸さんからはタバコの匂いがしません。髪にも服にも。バッグの中に匂いが付くほどのヘビースモーカーなら、すでに一服していてもおかしくない。なので、瀬戸さんがタバコを吸ったのではないと仮定した。では、喫煙者と一緒に暮らしているのか。もし、友人と暮らしてるなら瀬戸さんの経済状況を考えても、きっと部屋がわかれているだろう。なら、バッグの中までタバコの匂いは付かない。……そうすると、消去法ですが、ご主人になる方だろうと。……思いました」


「煙の匂い……、さすがね。それで、普通の会社員ではないって、どうして思ったの?」

 相変わらす礼美が上から目線で言う。

「あ、……それは、瀬戸さんのジーンズの裾に、犬の毛が付いていたんです。二色の毛でした。直毛の明るい茶色と、巻き毛の黒。二匹以上の多頭飼いを意味します。……瀬戸さんは人気の画家で個展やイベントもあり、海外にも定期的に行く仕事ですよね。犬がいる場合、ホテルなどに預けるか、ペットシッターに来てもらうか、誰かが家にいて世話をしなければ飼えません。瀬戸さんは泊まりで家を空けることが多いでしょうから、きっと誰か信用できる人が家にいる可能性が高い。唯一身内の母親は、県外に住んでると言っていた。ならば、きっと彼だ。タバコの件からも当てはまる」

 

 オーナーの真綿が、腕を組み唸った。表情を変えぬまま、ペット探偵が話を続ける。

「で、彼の職業は何かと考えました。実際彼はお金に困っていません。実家が資産家で、ご両親は彼にお小遣いをあげることを躊躇しないタイプなんでしょう」

「伊織くん、それを聞いてんの! どうしてそう思うの?」

 腹立たしげに礼美が言った。伊織は無表情で携帯を触ると、指先でタップしながら喋りだした。

「……瀬戸さんの腕時計です」


 私は思わず、左手にしている腕時計に触れた。伊織が携帯の画面を、私たちに見せる。それはスイスの高級時計の公式HPだった。

「瀬戸さんがしている腕時計、シンプルな服装には違和感のあるハイブランドのものです。いくらファッションに疎くても、その有名なロゴを見れば誰でもわかります。そしてそれは、……先月発売の新商品でした。たぶん、婚約の品ではないでしょうか。瀬戸さんは見ての通り、アクセサリーを全く付けていません。髪型や服装の雰囲気をみても、シンプルでカジュアルです。最近は婚約指輪の変わりに、腕時計を贈り合う人がいると聞いたことがあります。……しかも、その時計、HPを見ると高級車が買えるほどの値段。特別な記念のものだと思いました」


「……ええ、その通りです」

 私は驚きを隠せずに返事をした。すごい、この探偵。

「だとすると、かなり稼ぎのある男性か、資産家の息子か。ヘビースモーカーで、家にいて……と考えると。後者と考えるほうが、可能性としては高い。もちろん、可能性でモノを言っていると思われるかもしれません。……しかし今になって、瀬戸さんがお父さんの自殺理由を気にするようになったのも、彼の母親が気にしているからに過ぎない。世間体や体裁が悪いことを気に病む性格、資産家のプライドの高い母親によくいるタイプです」


「伊織くん、……もうその辺りで止めといて」

 ふみが顔を引きつらせながら、私に気を遣い言った。私は気を悪くなどしてない。多少はゾッとしたが、どちらかというと爽快な気分で笑いそうになったほどだ。

「芳乃さん、これが伊織くんの才能。ペット探偵の観察眼や洞察力は、並じゃないの。……もしかしたら、芳乃さんのお父様の自殺理由もわかるかもしれない。よかったら、お話を伺わせてもらえませんか?」

 ふみが私に言った。真綿と礼美は子供のようなはしゃぎ声で、伊織をからかっている。私は何とも言えないあたたかい雰囲気に包まれ、つられて笑みを含んだ。


「ぜひ、聞いて頂きたいです。少しでも何か分かれば、これからの結婚生活で嫌な思いをしなくて済むかもしれない。自分の父親については気にしてないと言っても、多少はコンプレックスに感じていたので。……それから、探偵さん。婚約者の名誉のために言っておきますが、彼の仕事は木版画家なんです。……今はまだ、そんなに売れてませんが。でも、私にはない天賦てんぷの才能と独創的な世界観を持った人です」

 伊織は困ったように視線をそらし、小さく頷いた。


「父が亡くなったのはちょうど今頃、――桜の季節でした」

 私は窓の外の桜をぼんやりと見る。記憶の断片が一枚ずつ重なり、桜の花びらのように密集していく。

「私はまだほんの子供でした。七歳です。ひとりっ子の私は、母親にべったりの甘えん坊で。……あ、私のことより、両親の話をしますね」

 向かい合わせにいるふみが小さく頷いた。


「母と父は学生の頃に知り合いました。お互い一目惚れだったの……と、母は今でも時々嬉しそうに言います。その後、ふたりは付き合い、母は若くして私を身ごもりました。きっと、それは自然な流れだった。でも、当時、母の父……私の祖父はそれを許しませんでした。祖父は開業医。小さな町の医院です。昔は今と違い、そういうことにとてもナーバスな時代だったんです。激怒した祖父は母を勘当し、親に祝福されぬまま母は父と一緒になり私を産みました」


 そこまで言って、私は息をつく。四人は私の話を静かに待っていた。

「……とても小さなアパートで私たち家族は暮らしていました。慎ましく穏やかな日々だった気がします。子供ながら、あまり我が儘を言った記憶もないんです。優しい両親と水色のセキセイインコ。それが私の世界の全てでした」

「セキセイインコ……」

 伊織がぽつりと口に出した。

「はい。レインボーという名前の賢いインコです。私たちは、レインちゃんって呼んでましたけど。母や父の声色を真似してお喋りしたり、童謡を歌ったり。子供だった私にしてみると、もう魔法使いのような存在だったんです。でも、あの日、レインちゃんはいなくなった……」


「インコがいなくなった? 逃げたとか……ですか?」

 コーヒーカップを両手で持ち、軽く小首を傾げふみが聞く。

「はい。母はそう言ってました」

「あの日とは?」

 伊織が真面目な表情で言う。私は顔を向ける。心がざわついた。

「あの日、とは、――です」 


「桜が消えたってどういうこと? 花びらが落ちてしまったの?」

 まず声を発したのは礼美だった。それに続けてオーナーの真綿やふみも、それぞれ声に出して同じようなことを言った。

「……花が落ちたのではなくて、桜のそのものがなくなったんです。私の家のから見えていた満開の美しい桜が一晩で消えて、その日はただの青空だけが見えてました。子供ながらにすごくショックで、その光景は今でもよく覚えてます」

 みんな黙っている。私は当時を思い返しながら、言葉を続けた。


「……両親の話に戻りますね。父は母と結婚後、それまで働いていたパン職人を辞めて、自分で小さなパン屋を始めたんです。住宅街にひっそりとあって、赤い扉がトレードマークの可愛らしいお店。……私は小さな頃から、いつもその店先で遊んでいました。両親は私のことを思って、外に働きに出ることを辞めたのかもしれません。今となっては、それがよかったとは思えませんが……。父はパン職人としては優秀だったと思いますが、経営者としては未熟でした。町に大きなパン屋さんが出来たのと同時に、お客さんがみるみる減っていって。そんな矢先、追い打ちを掛けるように事故が起こったんです」


「事故?」

「はい。……父は食パンをスライス中、電動のスライサーで指を切断してしまって」

「えーっ!」

 礼美が声を出した。痛みを想像するように顔を歪める。真綿も同じような顔つきをし、癒やしを求めふみの二の腕を触った。

「そうなんです。その件があって父はしばらく仕事が出来なくなり、店を畳むしかなくなりました。……そして傷が癒えると、父は県外の工場へ働きに出ることになったんです。もちろん、私たち家族も一緒にです。私は転校することになり、引っ越しの準備をしました。そして、いよいよ明日引っ越すという日、家具や荷物を先に運び出し何もなくなった部屋で一晩を過ごしました。当日の朝、目が覚めると、私は窓の見慣れた景色からことに気付いたんです」


「桜の景色が消えた……と言うの?」

「はい、そうです。アパートは丘の斜面に建っていました。二階の部屋の窓から道路を挟んで、毎年桜が綺麗に見えるんです。前日までは普通に満開に咲いていて……。それが引っ越し当日の朝には、窓の外に桜はなかった。青空しかなかったんです。夜中に満開の桜の大木が切られていたら、音で絶対わかると思います。何度も考えましたが、一晩で桜がなくなってるなんてありえません!」

「お母様は、なんておっしゃっているんですか」

 ふみが鉛筆をもてあそび言う。何となく、なぜそんなことに執着してるのかと思われてる気がした。

「……母は、覚えてないと、言ってます」

 私はうつむき、口ごもった。


「母がそれを覚えていないのは仕方ないと思っています。……引っ越し当日の午前中、父はちょっと用事があると出掛けて行きました。でも、お昼を過ぎても帰って来なかった。私は母とふたり、がらんとした家具も何もない部屋で、小さなおもちゃのピアノで遊んでいたんです。……ずっと父を待ちながら。そのうち、大人の男の人が何人か部屋へ入って来ました。そして、私たちに言ったんです。父が……町はずれの林の中で、首を吊った……と。自殺でした」

「……そんな」

 ふみは言葉を詰まらせた。


「瀬戸さん。ちょっといいですか」

 今まで黙っていたペット探偵が口を開いた。何かに興味を抱いたようだ。先程と違い、嬉しそうに瞳がキラキラと輝いている。

「すみません、時間があまりなくて。これから散歩の仕事が数件入ってまして。……いくつか質問をしてもよろしいでしょうか?」

 無邪気なの? 天然さがもはや笑える。

「ちょ、おい! 伊織、お前、空気読めっ!」

「あ、あの、すみません。……気になることがあったんで、つい」

「お前。だ、か、ら……」

 私は真綿の気遣いを手で制す。もういいのだ。父の自殺の件は、自分の中で片が付いている。

「大丈夫です。何でも聞いて下さい」


 伊織はにやりと口元を歪めると顔つきが変わり、先程のホームズばりに流暢な口調で質問を投げかけてきた。


「桜の景色が消えた後、外へ様子を見に行かれましたか」


「お父さんが亡くなられた後、瀬戸さんたち母子おやこはどうやって生活されたのでしょうか」


「お父さんのご遺体やお葬式を覚えていらっしゃいますか」


「お父さんの切断された指は、どちらの手のだったでしょうか」


「ゆ、指!?」

 立て続けの質問にいささか圧倒されながら、私は当時の記憶を巡らせる。だが、子供の頃の記憶はすでに曖昧で、私は実像と想像の境で揺れた。最適な映像が脳裏に浮かぶが、口に出そうとすると無味乾燥した生気のないものに思われた。

 それを察したのか、伊織は言った。

「考えないで下さい。人が見るものは決して現実ではないんです。人は見たいと思うものを見る。瀬戸さん、いいですか。その日あなたの瞳に、実際に映ったものを教えて下さい。素直な子供の目線で、目にしたものが知りたいんです」

 私が見たもの。あの日、子供だった私が……。


「はい。桜の木が窓から消えた朝、……父は用事があるからと出掛けて行きました。私と母はずっと……、一部屋の和室と小さな台所しかない家の片隅で、おもちゃのピアノを弾いていた。ピアノを習っていたんです。子供の頃の私は、音楽に魅了されてました。ピアノの音色やそれに伴って広がる世界に夢中になり、桜のこともすぐに忘れてしまって。……お昼になると、誰かがお弁当を届けに来てくれたと思います。……そう、お弁当! 牛丼弁当でした。それは何故だかちゃんと覚えてる。母が玄関ドアからそっと受け取り、私たちは食べました。そして、またピアノを……」


「あ、ちょっと待って。お弁当を持って来てくれた人がいたと?」


「はい、そうです。私、見たんです。台所に面してる玄関ドアが開いて、手が……そう、白いビニール袋に入ったお弁当を持った手がにゅっと出てきて、母に渡したんです。顔は私には見えませんでした」


 ペット探偵が頷く。無表情で顔色は読めない。

「話を続けて下さい」


「あ、はい。あの……お弁当を母と一緒に食べながら、その後も私たちは何もない部屋にずっといました。父を待って。午後の眩しい太陽が西へゆっくりと移動していきました。そして、父の自殺を知らせに大人の人たちが現れた。私たちはその後、部屋でまた待機させられたと思います。そして、夜中、車で母の実家へ向かったんです。……あの日、私は桜を外からは見ていません。移動するために外に出たのは深夜ですし、出入りする玄関から桜は見えません。そして、私は……夜はほとんど寝ていました」


「……父が亡くなったと知らされてからは、私たち母子は母の実家、祖父母の家で暮らしました。母を勘当した祖父はそんな事実などなかったように、すごく優しく接してくれました。父が亡くなり、わだかまりがなくなったみたいです。祖父も五年前に亡くなりましたが、当時は開業医をしており、暮らしは以前よりも裕福でした。でも、私は子供ながらに気を遣い、そっと心を閉ざした。……あんなに好きだったピアノもやめました。音を出すのが、迷惑になると考えたからです」


 私は首筋に添う、短い髪を触る。

 目を閉じると、いつもその場所は暗い青。お坊様のお経が、流れるように特定の色をまとう。私は思い出を色で認識していた。

「えっと、ごめんなさい。お葬式……ですよね。少しだけ覚えています。祖父母の家の客間で、ひっそりと行われました。ご近所さんと親戚が少し、来てくれました。信じられなかった。小さな骨壺が、あれが、お父さんだなんて……。私は子供でしたので、結局父の遺体は見ていません。お葬式では私、黒いワンピースを着せられて、ちょこんと大きな座布団にずっと座っていました。母の隣で大人の真似をして、……うつむいて」


「最後は、……父の指ですよね」

 私はふみと目が合い、なぜ、そんなことを聞くのかという同じ思いに囚われた。自分の両手を開いて眺める。確か……。

「左手。……左手の、小指でした」

「お父さんの利き手は?」

「あ、右手ですけど……」


 ペット探偵はすでにわかっているという顔で、私を見た。

 なんだろう、この安心感は。それは動物の仕事に関わる人の、種別を超えた愛なのか。人助けをする魂の、救いの手なのか。

 彼の右手の人差し指がゆるく天を差した。私はその響く声に、光が差す感覚を覚える。薄い金色。シャンパン・ゴールド。そして、燃えるような赤。

「……瀬戸さん、謎は全て解明されました。――この謎は、じゃない!」 


「待ってましたっ」

 ……場が冷えた。真綿が慣れた調子で、古くさい合いの手を入れたからだ。ふみがわざとらしく、ちらりとにらんだ。

「なあ、伊織。桜の木が消えた謎に、なんで昔の葬式やなくした指が関係するんだ?」

「真綿さん。謎を解くには、もちろんそれが重要不可欠だからです。生きていく上で、あまり生活に差し支えないであろう小指の切断。そして瀬戸さんが不思議に思った桜の消えた部屋を、と仮定して考えれば、この謎は解けるんですよ」


「密室!?」

「ええ、そうです」

 ペット探偵はわかりきったように軽い返事をした。残された私たち四人は、顔を見合わせる。

「伊織さん、すべて、って……どういう……」

 片言になる私に、伊織が困ったように眉を動かした。

「瀬戸さん、驚くのは後にしてもらってもいいですか。……時間があと少ししかありません。すみませんが」

「じゃあ、早く解いちゃってよー」

 礼美が慌てて叫んだ。


「では、何から……。あー、まずは、なぜ桜の景色が消失したのか……という謎から解き明かしましょう」

 伊織は核心の謎を、まずは……で始める。

「先程、瀬戸さんの子供の頃の話を聞かせて頂きましたが、内容はとても曖昧で子供らしいものでした」

「え、だって、伊織さんが、子供の目線で……って」

「はい。そうです。僕が望んでいた、目の前そのままの記憶でした。思い出して下さい、キーワードがいくつかありましたね。……家具のない部屋、おもちゃのピアノ、差し入れのお弁当など。子供の目線で見た、紛れもない証言です」


「それが? 桜と何の関係があんの?」

「あ、はい。礼美さん。先程僕は、その部屋を密室と考えて下さいと言いました。密室は定義にもよりますが一般的には、物理的・心理的に人の出入りが不可能な部屋のことを言います。今回、父親が出て行った後、瀬戸さんたち母子ふたりはずっと部屋から出なかった。一晩の内に消えた桜。引っ越し荷物を運び出した、何もない部屋。そこにふたりはずっといたんだ……」

「いや、でも。それは、父親の帰りを待ってただけでしょ?」


「礼美さん、いいですか! もう一度言います。その日は引っ越し当日で、家具や荷物などは前日に運び出していた。全く、何もない部屋だったんです。そして、窓の外にあるはずの桜が消えていた。景色に桜がないのが現実だとしたら、通常、桜の木を切ったか、部屋にいた人間が移動したかのどちらかなんです。――小さな子供だった瀬戸さんは、違いに気付かなかったんだ。! 狭いアパートの間取りなど、家具や物がなければ似たり寄ったりです。そう、その家は別の家。当たり前だ、だから部屋の窓から見える景色が違った。桜の消失など、頭を悩ますほどもない。真実はいつだって、とてもシンプルなんです」


 過去の場面を求めて、私は急速に時間を引き返した。

 あの日、私たちがいたアパートの狭い部屋、何もない和室。小さなおもちゃのピアノ。母の、憂う顔。なぜ憂う?

 そして窓の外を見た。何もない……。青い空だけ、だった。

「違う家……だなんて。なぜ……?」

 呆然としながら、私は母を思い浮かべた。

「母から、そんな話は聞いたことがありません。私たちは確かに父の帰りを待っていました。それから一緒に、引っ越し先へ車で行く予定だったんです。伊織さん、それは絶対に

 私はなぜか、自分の記憶を保持するように強い口調になって言った。


「お母様から瀬戸さんへ、本当のことは告げられないと思います。あまり良い思い出ではないですしね。……引っ越し当日、お母さんと瀬戸さんは家から出たくても出られなかったんですよ。の夜から瀬戸さんたち親子三人は、その部屋にされていたからです」


「……監、禁!?」

 思いがけない言葉に、二の句が継げなかった。私は頭が真っ白になっていた。

「監禁って、よっぽどの事情だぜ。ど、どういうことだよ、一体」

「そうですね。それなりの事情というんでしょうか? 僕はそうは思いませんが……。この世の悩みの大半たいはんは、愛かお金によるものです。瀬戸さんのお父さんが経営していたパン屋は閉店してしまった。作業中に切断してしまった指の事故が原因だと言っていましたね。……それは事実なのでしょうか。その話は、瀬戸さんがお母さんから聞いたに過ぎない。監禁というキーワードを当てはめると、どうでしょうか」

「どうでしょうかって言われても……ねぇ?」

 礼美が私たちを見回し、落ち着いた眼差しで言う。突飛なペット探偵の発想には、きっと慣れてるのだ。


「では、お父さんが経営難による閉店を決断したに、指を切り落としたとは考えられませんか? 人は意外な嘘はなかなか付けないんです。バレやすいですしね。なので、実際の事柄を逆にしただけと僕は考えた。そうすると、おもしろいように謎が解けていきますよ」

 ……固まった。伊織を覗く四人には、おもしろいように謎が解けるという現象は起きなかったからだ。

「ごめんね、伊織くん。もう少し、わかりやすく説明してくれる?」

 ふみがみんなを代弁して言う。伊織は不思議そうな顔をした。なぜ、これ以上説明が必要なのかという風に。


「あー、えっと、皆さん。瀬戸さんのお父さんは事故ではなく、自分の意志で指を切り落としたということですよ。もちろん、保険金のためにです」

「もちろんって……、保険……金?」

 ふみが眉をしかめる。

「パン屋はかなりの経営難に陥ってしまった。最後の足掻あがきから、身元の良くないところからお金を借りてしまったんでしょう。瀬戸さん夫婦はどん底の辛さを味わう。……それで」

 私を見つめる、同情に満ちたみんなの目。父は精神的に参って自殺した……。それがこの物語の結末だ。これ以上、私に何を言うの?


「みなさん。これは、非常におもしろい話なんだ! 瀬戸さん、ああ、素晴らしい行動力です。……お父さんは一世一代の賭けに出たんですよ」

 心底嬉しそうだった。ペット探偵はたまらないといった感じで笑った。

「ちょっと、伊織くん。おもしろいって、さすがに失礼よ!」

 礼美が憤慨してみせる。

 私は呆気にとられていた。何故だかわからないが、怒る気にはなれなかった。伊織の自信満々な表情に、信頼が持てたからなのかもしれない。はっきりとはわからない。だが、私の心は不思議と曇り空を脱しようとしていた。

「いいんです、かまいません。話を続けて下さい。父の話を……」

 伊織はこくりと頷いた。


「……桜の謎は、先程言ったとおりです。の引っ越し前夜、瀬戸さん家族は何者かによって拉致監禁されてしまう。お父さんが自己破産をしないようにさせるためです。自殺で保険金をもらったほうが、奴らにとっては実入りがいいですからね。拉致は深夜だったのでしょう。ご両親は子供だった瀬戸さんを起こさないように配慮しながら、監禁場所へ移動した。起きて泣き叫ばれても困ります。そして、監禁場所に着くとそこはたまたまアパートの一室で、以前の住まいにも似ていた。……平凡な狭いアパート。家具や物のない部屋。子供だった瀬戸さんは、夢にも思わなかったんだ、目が覚めたら違う家にいるなどと。ただ、一晩で桜の景色がなくなったことを不思議に思っただけだった」


 伊織が一息つく。携帯を素早くタップしながら、にやりとした。それを横目で見ると、真綿が腕を組み言った。

「なぁ、自殺で保険金が出るか? いや、素朴な疑問なんだけどさ」

「ええ、真綿さん。自殺でも出る場合があるんですよ。これです」

 指を止めると、携帯の画面をこちらに向けた。

「保険会社のHPですが、こちらに詳しく書いてあります。――保険金を目的としていないこと。精神障害や心神喪失など自殺する意志がないと判断された場合で、一定の免責期間を超えていると保険金が出ます」

 私はハッとした。母から何度も聞かされていたのだ。父は心を病んで、自殺したのだと。

「本当は、保険金目的で父は……死んだのですか。そうですよね、殺されたも同然だわ。借金のために」


 私の心を暗い雨雲が支配し、激しい雷雨に息が苦しくなった。母と私を守るために……そうなんだ、父は。父は自ら指を切り落とし、首を吊った。残酷な結末を、父は苦しみ抜いて選んだのだ。

「……瀬戸さん、僕は先程、お父さんを賛美しました。何故だかわかりますか。お父さん、いえ、ご両親のせいへの飽くなき道、精神を讃えたのです。お父さんの生への貪欲さは、ずっとあなたへの愛に続いている」

 私への愛……、どういうこと? 

「伊織さん。それは、どういう……ことですか」

 伊織が私の目を見つめる。

「瀬戸さん、気付きませんか? あなたの幸せを心の底から望んでいる人物がいるんです。……自分の名前、存在を殺してまで」

 私は思わず言葉にならない声を出した。涙がこぼれ落ちた。


「父は……私のため、家族のために、死を、選んだんですね?」

 溢れ出す涙に遮られ、言葉が途切れ途切れになった。

「ええ、瀬戸さん。……そうとも言えます。あなたを守るための壮大な絡繰からくりが、そこにはありました」

 私はきっと、頬をつたう涙に似合わない顔をしたに違いない。伊織がおかしそうに微笑んだ。

「あなたのために、虚偽きょぎの世界が動き出した瞬間ですよ。例えば、ヒトラーの言葉にもあります。『大多数の人間は、小さな嘘より大きな嘘にたやすく騙される』と。お父さんは、まさに命を懸けてそれを行った」

「……一体、何のことです、か?」


「拉致監禁された瀬戸さん夫婦は、ある計画を練っていたんです。……そこは、桜の消失した密室。監禁場所で朝を迎えた日、お父さんは自殺をするという理由で家を出ました。そこに借金取りたちとどんな約束が交わされたかはわかりませんが、妻と子供は人質になっている。借金取りは父親を外に出した。昼になって、母子に弁当を差し入れたのは借金取りの人間です。監禁しても餓死させるつもりはなかったようだ。その後、父親は無事に自殺を図……」

「無事にって、なによ、それ?」

 礼美がまた目くじらを立てた。伊織が少し口ごもる。

「あ、はい、すみません。……瀬戸さんのお父さんは町はずれの林まで行くと、計画通りに自殺したふりをした。あ、そこでインコのレインボーを空に放したのでしょうね」

「自殺のふり!?」

「ええ、瀬戸さん。そうですよ。もちろんです。お父さんは


 私はあ然とした。口を動かそうとする、ちゃんと。でも、何かを言おうとしたのに失敗した。ふみが私を見て、気まずそうに言った。

「芳乃さん、ごめんなさい。伊織くんの頭の中では、事件がもう全部繋がってるの。すべて解決しているのよ」

 再度、伊織の顔を見る。

「……僕は言いましたよね。これは信じられないほど長い時間をかけた、壮大な仕掛けなんです。仕掛けという名を借りた、偽りのない愛でもある」

「じゃあ、本当に父は生きていると? でも、どうやって? 私たちに黙って、ずっと……。どこにいるの? 父は、今どこに?」


「瀬戸さん、お父さんが今、どこにおられるかは僕はわかりません。すみません。ですが、いつでもあなたを見守っていることは確かです。ご両親だけじゃない……お父さんが自殺者という役割を演じた時、それを証明したのはあなた方を引き取ってくれたです」

「えっ、祖父が……! 祖父もこれに関係しているんですか?」

「ええ。そうでないと、この計画は成り立ちません。お祖父さんは、当時開業医だった。そうですね? お父さんの自殺を証明したのは。――死亡記録の改ざん。そう、記録の操作をしたのがお祖父さんの役割でした」


 私の頭の中はもう真っ白になり、指の先が冷たく感じた。今は亡き、優しい祖父母の顔が浮かぶ。そう言えば、ずっと母は心穏やかに暮らしているではないか。いつも目立たず、控えめに……。今、私の心の中に温かいものが宿った。夢にまで見た父が生きている!

「……瀬戸さんの成長を、家族全員で見守り続けてきたんですよ」

 伊織のその言葉を聞くや否や、私は嬉しさでまた感極まってしまった。


「……私、何にも知らなかった。そんな……、私が、そんなに、愛されていたなんて。どうして、父が、私を見守っていると? 父が自殺して……しまって、私の心は、スレてしまった時期もあったん……です。ピアノをやめて、……高校を卒業して、絵を……絵を描き始めました。下手な自分勝手な絵……が売れ出して、私自身よくわからぬまま、世に出ました。……父はもしかしたら、気付いてくれてる、でしょうか」

 泣き笑いになりながら、私は言った。父が見ていてくれてるかもしれないと思うと、先程とは違う意味で胸が騒いだ。

「瀬戸さんのすべてを知っていますよ、お父さんは」

 伏し目がちになり、ペット探偵は言う。

「何故ならあなたの絵を世に広めたのは、お父さんの力添えもあるからです」


「えっ、……そうなんです、か?」

 青天の霹靂とはこのことだろう。私は唾を飲み込んだ。

「瀬戸さんのスポンサーに、陰で手を回しているのではないかと思います。心当たりはありませんか? ……家族を守るために、指を切断し、狂言自殺までやってのける人物です。自分の求めるものの為なら死をも恐れない。彼なら現実世界において、無から有に変えるほどの熱量で、愛する娘の夢を叶えようとしてもおかしくないんです」

 心当たり……。

 心がバスケットボールのようにバウンドする。思い当たると言えば、私は絵が下手で、こんな早くに有名になる訳がないということだ。追い風は自分のチカラではなかった。おかしいと思っていたのだ、私には才能など一切ない。私なんて……。

「才能がないのはわかっています。こんな簡単に有名になるはずがない。そんなこと、自分でもわかってるのに……」


「ちょ、ちょっと待って。伊織くん、何てこと言うの! 芳乃さんには紛れもなく才能があります! 私、芳乃さんの絵に惹かれて購入したんだから。名声だけで絵を買ったんじゃないわ!」

 ふみが言った。私の肩を持ってくれる。

 ――私の絵。原色に滲んだポップアート。新時代の寵児と持てはやされて、いい気になっていた。才能の欠片もないのは、本当は自分が一番わかってるくせに。

「あの、すみません。言葉が足りなくて……。瀬戸さんにはもちろん才能があります。瀬戸さん自身、おわかりですよね。誰にだって秘密はありますよ。……きっと、子供の頃は簡単に言えてたのかもしれない。でも大人になると言えなくなったりする。人に驚かれ、恥ずかしくなって。例えば、……霊が見えるとか、ね?」

「えっ、芳乃さん、幽霊見えるの!?」

 礼美が顔を引きつらせながら言った。


「礼美さん、それは言葉のあやですから。……瀬戸さん、あの、もう言ってもいいでしょうか。瀬戸さんは、実は……の持ち主ではないですか?」

 みんなが私を見た。伊織は目を伏せて、携帯をいじっている。まさか、この探偵って……。どこまで人を見通せば気が済むんだろう。私の秘密。絵の秘密。

「伊織さん、……そうです。どうしてわかったんですか?」

 こわばってる、私の声。それなのに、伊織は至ってマイペースだ。


「あ、やっぱりそうでしたか。……あのぉ、先程、瀬戸さんの絵をオンラインショップで拝見させてもらいました。デフォルメされた人物画や動物の絵。派手な原色が多い。流れるような曲線が対象物を飾り、躍動感を感じさせる。絵をいくつか見せて頂くと、一定の類型が見られます。男性は暗めの寒色系が多い。女性はどちらかと言えば明るいカラー、子供も明るめの色使いだ。そして、セキセイインコのレインちゃんはレインボーから名前を取った。様々な声色で鳴くのでしょう。……それらから、という概念で推理しました。……以前、どこかで聞いたことがあったんです。絶対音感の持ち主の中には、音を色で感じる能力者もいると。この絵を見て、瀬戸さんもそんな気がしました。音や音楽を聴くと、色を感じる。――色聴と呼ばれる知覚現象の持ち主だ」


「……ペット探偵さん、その通りです」

 私は両手を挙げ、首を傾げた。お手上げ。隠し事など出来そうにない。思わず、笑ってしまう。

「私は絵を見たままに描いているんです。動物やその人の声を聞いて、感じる色をキャンバスに映しているだけ。……子供の頃は、発達した音感からピアニストになりたかった。でも静かにおとなしく暮らす必要性を勝手に感じてしまい、断念した。私は自分が見たままを、そのまま絵にしてるだけなの。秘密がバレちゃった。クリエイティブの欠片もないでしょ? ……皆さん、がっかりさせちゃって、ごめんなさい」


「そんな……、どうして謝るんですか! 芳乃さん、その能力すごいじゃないですか! 私、もっと興味がわきました。人類の神秘だわ。芳乃さんの絵は、動物も人もどれもが情熱的だった。生き生きとして、時に激しくて。……絵を見ていると、私、元気をもらえるんです。もっと、もっと狂おしく生きていいんじゃないかって、自然に思えてくるの」


「ふみさん、そう言ってくれてありがとう……」

 私の絵が誰かを勇気付けてる? つたなく、不安に満ちた絵が。

 壁に掛かった、思い入れのあるポップアートに私は目をやった。

 人型をしたコンプレックスの造形なのだ、これは。まだ夢の途中に過ぎない。

 しかし、隠そうとしても隠しきれないその輝き。私の魅力は、未完成な眼差しによって完成する。コンプレックスさえも価値に変化させ、迷い人の心を動かす。

 ――描き続けていいのだ、私はこの先も。絵は私の手を離れ、いつかきっと誰かの心に残るだろう。その残像は、慈しみ、力強く、永遠に誰かを励ます。

 お父さんが……私に。私に、注がれ続けた愛の泉は二度とれない。それを信じて、描き続けていけばいいんだ。

 私という個性のフィルターを通して。これからも……ずっと。


 空気が緩む。真綿が、大きく伸びをした。

 ふみが思い出したように、真綿の顔をちらりと覗く。

「そう言えば、さっき、礼美ちゃんに変なこと言ってなかったっけ? この前の件がどうした……とか? 何のこと?」

「えっ、べ、別に。何でもないから……。なぁ、礼美ちゃん」

 真綿が礼美に助けを求めて、話を向ける。

「ふみちゃん、本当に何でもないの。心配しないで」

「うそ。いかにも怪しいじゃん?」

 ふみは腕を組み、小悪魔のような瞳で真綿に言った。そして伊織が先程区別した、人生の大半の悩みについて持ち出す。

「ねぇ。それって、愛? それとも、お金に関すること?」


 その時ため息まじりの真綿が、ふみの肩に腕を回し引き寄せる。

「……もちろん、愛に決まってるだろ」

 茶色い髪の後頭部で、ふみの顔が見えなくなった。


 ――弾ける、シルバーの輝き。

 金属音。

 飛び散る光の矢。

 隣のテーブルのフォークが床に落ちたらしい。横を向くとこの日初めて、心底驚愕したペット探偵の表情を私は見たのである。

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