第37話
二〇二三年、八月一五日火曜。東京・立川。
JR立川駅前のコンコースは、アスファルトから立ち上る、むせかえるような陽炎に揺らいでいた。
駅周辺に立ち並ぶ建物の壁面には、無数の組み立て屋台が小さく格納されたまま長い行列を作っている。帰宅途中のサラリーマンたちで賑わう刻限までは幾分時間があった。
コンコース階下の日陰には、バスターミナルが設けられていた。行き先別の停留所には人の群れが並び、緩慢な動きでロケーションシステムを見上げている。
犬を連れ、カートを引いた老婆が竹細工の扇子を広げて、厚化粧の顔をせわしなく扇いでいた。足元に控えた黒犬は熱気に当てられたか、コンクリートに腹を付け、だらしなく伸びている。その傍らで、アロハシャツを二つ釦まで外した青年が携帯端末を片手に止めどない戯言をまくしたてていた。意外にもその会話は一語たりとも理解出来ぬ異国のものだった。どうやら南方をさらに下って東に位置する島国の出身らしい。老婆はその青年の様子が気に入らないらしく、ちらちら視線を向けては、わざとらしい咳払いを繰り返している。
やがて大型バスがターミナルを巡り、辺りにくすんだ排気ガスを撒き散らし始めた。
葵 洋子は、午後三時を数分過ぎた頃に現れた。
明るい花柄のプリントチュニックにデニムのショートパンツ。足元は涼しげなバックバンドのウエッジサンダル。日除けにストロー素材の中折帽を被っていた。
彼女は暑そうに頭上を仰ぐと、その元凶となる太陽を睨んだ。ホログラムの穏やかな青空が懐かしい。
彼女は駅の北側コンコースを進み、多摩都市モノレールの走る立川北駅へ向かった。
南米チリ風の音楽を奏でる四人組の演奏者が、路上で自主制作の音楽ソフトを売っている。プログラムされた土着の4ビートリズムが通り過ぎ、プラットホームに繋がるエスカレーター昇降口で托鉢笠を被った修行僧の脇をすり抜けた。むっとする動物的な体臭が、葵の鼻先を突いた。行者の手にした鈴が振られ、蒸し暑い夏の空気の中、透き通った音が一つ、鳴り響いた。
あの日から一年と数カ月が経つ。
二〇二二年五月三日火曜、午前十一時十分。忌まわしい事件の、公式記録である。
葵 洋子は(月の王冠)崩壊テロ事件の、数少ない生存者だった。彼女と同じように、運良く脱出ポッドに乗り合わせた十人、船外活動でタグボートの操舵を行っていた二人があの現場から生還した。
ロシアの設計した脱出ポッドの完全自動制御は優秀で、乗り合わせた者は一様に命拾いした。この件でソユーズの技術が再評価されたことは言うまでもない。
事故からしばらくの間、葵 洋子も時の人となり、テレビやネットに顔を出した。が、それも数カ月ことで、一年以上経つ現在、彼女の顔を覚えているのは国家安全保障局の人間くらいであろう。
時折、葵は、沢木管理官のことを思った。彼が0・3Gステージ圧壊事故の直後、メディアから追い回されたあの一週間も同じようだったろうか。
(あなたは、命の恩人です)
早乙女が沢木に言った言葉が浮かぶ。沢木管理官の言葉に後押しされ、葵は今こうして地上を歩いていられるのである。
彼が自分に逃げろ、と言わなければ。早乙女一也がテロリストの凶弾に倒れなければ。……果たして自分は生存しただろうか?
立川北駅の高架になったプラットホームに多摩都市モノレールが静かに滑り込んだ。老朽化した車両は反社会分子の長年の落書きによって重さを増したように、息を切らせて停車した。転落防止用の可動柵が開き、一瞬の間を置いて扉が開いた。プラスティック臭い冷気が彼女の頬を舐める。玉川上水方面へ向かう車両だった。
生き残れたか、という問いに答えるならば、自分は生き残れたであろう。繰り返し行ってきた自問自答を葵は冷ややかに反芻した。
あの最後の数分間、彼女は混乱から自暴自棄になったものの、あれは一時の気の迷いに過ぎなかった。目の前で早乙女一也が射殺された衝撃が、自分の判断を鈍らせたのである。
沢木の言葉で我に返った。
その後は……、何はなくとも、逃げただろう。
葵は一度も振り返ることなく通路を走ったのだから。
脱出ポッドまでの数分間は、沢木がテロリストの遺体に行った蘇生術の振幅で引き延ばされた時間である。沢木は葵のために生死を分ける時間稼ぎをした。その事実を葵は如何なる聴聞会でも語らなかった。
(月の王冠)の最後の瞬間に、三人と一人のテロリストが居合わせた事実は闇へと葬られたのである。運良くあのステージは改装中で監視カメラは作動していなかった。
誰の名誉になるでなく、死人に口なしである。
葵は正直、これ以上の面倒は御免だった。
沢木が行った犠牲的な振舞い。彼が右胸部に受けた銃創は致命的なもので、療法士の目から見て、あれはただちにバイオ・ハイブリッド・システムへのプロテーゼ・アプローチを施さねばならないものだった。沢木自身、間違いなく死を覚悟したことだろう。
覚悟の末の、利他の献身。
天国の灯が見え始めた人間に、そうした境涯が訪れることは珍しくない。どの道、己は助からないのである。最後の善行を積もうと、酸欠の脳髄が妄想した。十分あり得る話である。
早乙女一也に至っては、そもそもが自閉症スペクトラム患者なのである。生活習慣に変化を嫌う、その傾向は最後まであったのだ。彼があの非日常の異常事態を客観的に受け入れられたはずはない。身を呈した英雄的行動は、突発的な衝動、パニックと見て間違いないだろう。
(よって私は、献身的な男性二人の自己犠牲の上に生き残ったわけではない)
葵は、そう自分に言い聞かせた。誰も自分の命を引き換えになどしない。
仕方ないのだ。
仕方、ない。
多摩都市モノレールに乗ったのは、わずかに一区間だった。葵は次の駅、高松で降車した。立川の北側エリアは、都庁が移転する以前から、首都機能の予備的な備えとして開発が進められていた区域である。元々高松から立飛の周辺は昭和の戦前より政府御用達の飛行機メーカーが軒を連ねていた一帯で、陸上自衛隊立川駐屯地を筆頭に警視庁第八方面本部、東京地方裁判所などがある。首都圏における大災害を想定した緊急医療を引き受ける独立行政法人も存在していた。
実のところ、葵が(月の王冠)の羽瀬バイオマテリアル・リハビリテーション研究所で行っていた(自閉症スペクトラムへのBMアプローチによる治療)は、ここから依頼された事業だった。地上の某有力医療機関とはつまり、この場所のことだったのである。
葵は自治大前の交差点を緑町方向に曲がり、団地群を挟んだ裏手から敷地内に入った。レモンイエローとオフホワイトでまとめられたエントランスは、落ち着きと国立病院機構としての威厳を示していた。入口の自動ドアの脇に、作り物然とした観葉植物。高い吹き抜けの壁面にはラテン語で彫り込まれた金文字の(ヒポクラテスの誓い)が目を惹いた。緑味を帯びた御影石のフロアは重厚で、外光の反射を鏡面像に写り込ませている。
葵がぐるりと辺りを見渡すと、総合受付カウンターの端に腹の出た小男がいた。頭頂部まで禿げ上がった五十代の男だった。向こうは歩いてくる葵にすぐに気付いたようで、笑顔で右手を振った。葵はそこでようやく気付いた。
その小男こそ、プロジェクト担当医、大崎泰明だったのである。
彼女がパソコンのWebカメラ以外で実際に大崎医師と会うのは、これが初めてのことだった。
「あれから一年になるか?」
大崎はガラスのタンブラーに氷を浮かべ、冷やした緑茶を勧めた。
葵は棟の三階にある大崎の研究室に通された。南向きの間取りの部屋だった。スモッグのない快晴の日なら、西の方角に富士山が見えるに違いない。近くの雑木林から届く、蝉の声が騒々しかった。
「そうですね」
葵は中折帽を膝に置くと、うなずいた。
「仕事の方はどうかね? 療法士には復帰したのかい?」
葵は首を振った。
「地上ではなかなか。……BM療法士の仕事はありませんね。今は千葉の付属病院で臨時の看護師を」
「そうか。まあ、それは何よりだ。数年のうちにはEU連合共同体宇宙ステーションが運営を始める。また大量雇用の話があるだろう。君なら経験を買われて間違いなく……」
「宇宙は、もう」
葵は上目遣いに大崎の顔を見ると弱々しく笑った。
大崎は肩をすくめた。
「そりゃ、そうだな」
二人の間に短い沈黙が流れ、葵は緑茶を啜った。葵は思い立ったように、大崎にたずねた。
「ところで大崎先生。今日はどういった御用向きで?」
大崎は広い額をぬぐうと、言った。
「そうなんだ。実は君に見てもらいたいものがあってね。研究の成果、というか」
葵は目を輝かせた。
「(自閉症スペクトラムへのBMアプローチによる治療)ですね?」
「そうだ」
「私たちの行ったリサーチは実を結びましたか?」
大崎は椅子を回しながら、苦しそうな腹を擦り、指を組んだ。
「君たち、……君と早乙女一也君が行った臨床リサーチは自閉症スペクトラム治療を大いに前進させるものだったよ。……早乙女君の件は非常に残念だったけれど」
「はい」
「我々はデータを元に、あのティアラシステムを開発出来た。ミラーニューロン群活性連携のフィードバックは早乙女一也の脳に劇的な治療効果を上げた」
大崎は、そこで言葉を切った。
「……ところが、だ」
無意識に顎を擦る。
「被験者によってその効果は様々で、ミラーニューロン群活性連携には個人差があることがわかったんだ。それがシステム上、最大公約数を得られるものなのか、それとも一例ずつの個別オーダーが必要なのか。現在、私の研究チームは、その仕分けの最中だよ。つまり君たち二人のシンクロニシティは神に選ばれた……いや、稀に見る偶然の一致だった、ということだね」
葵は、ため息を吐いた。
「そう、でしたか」
「いずれ答えが出るだろうがね。……いずれ」
葵は考えた。しかしながら、その答えが出れば大崎の研究チームもそれなりの社会的評価を得るだろう。何かの医学賞で話題となることは間違いない。大崎泰明と、その研究チーム。当然、早乙女一也の名も、連なることだろう。
私は、関係ないけど。
自分の立ち位置は、わきまえなくてはいけない。
大崎は眉をひそめると、少し不満そうな顔をした。
「この研究は合同プロジェクトなので、我々だけで留まっているわけじゃないんだ」
「そうなんですか。BM関連事業とか?」
「ああ、そう。バイオ・ハイブリッド・システムチームとの連携は大きい。ま、それに伴って高速演算のコンピュータシステムも重要となってくる」
大崎は思い立ったように椅子から立ち上がると、葵を促した。
「こっちに来て」
大崎は続き部屋になった間仕切りを開けた。
葵が覗き込むと、治療椅子の傍に真っ黒い、段ボール箱ほどのハードと、例のティアラシステムがセットされていた。
大崎はあからさまに表情を曇らせ、落胆の声を漏らした。
「これが、そのシステムだよ」
「何ですか?」
「うちのシステム設計と、某大学機関の数学、物理学研究室が協力して開発した。というより、これはティアラシステムのバージョンアップと言った方が早いかな」
葵は苦笑いを浮かべた。またしても、某である。この研究機関には秘密が多過ぎるようだ。
葵は素朴な感想を述べた。
「ハードまるごとなんですね。通常のマシンでは走らないプログラムなんですか?」
「ОSが、そもそも違うらしいよ。その辺は私にはちんぷんかんぷんだ。私の専門は生体システムの方なんでね」
大崎は人差し指を回しながら、言葉を探した。
「コーティコン場とスチュアートン場、って聞いたことある?」
葵は静かにうなずいた。
「量子場脳理論ですか?」
「さすが。BM療法士は博識だね」
「もともと専攻がコンピュータ情報処理だったので。量子コンピュータの可能性の講義で、概論くらいは」
大崎は眉を持ち上げると作り笑いを浮かべた。
「となれば話が早い。この研究チームはコーティコン場とスチュアートン場の量子場の振舞いを数学的に解析し、コンピュータ内にシミュレートしたんだ。コーティコンの凝集体が記憶を形作るという、あれだよ」
葵は眉間に皺を寄せ、首を傾げると言った。
「待ってください、大崎先生。あの理論って、かなりの眉唾って噂ですけど」
「ま、世評は、おっしゃる通りだ。物理世界の生命医学の中で、その実証は難しいだろうね。だが現実世界はともかく、それが成立するようにコンピュータ内に仮想的なシミュレーションとしてプログラム構築させることには成功した」
「量子脳を、仮想的に?」
「そうだ」
「なるほど」
葵は大崎の顔をじっと見詰めた。
「それで? これが私に、どう関係を?」
大崎は目を逸らすと顎に手を添えた。
「彼らは数値化された早乙女一也君のミラーニューロン群活性連携のフィードバックを、このシステムに入力してみたんだよ」
葵は言葉を呑んだ。
「誰もが予想しないことだったが、システム中に朧げながら意識のようなものが形成された。それをティアラシステムで被験者の脳内に送り込み、像を結ばせることに成功したんだ」
葵は、恐る恐るたずねた。
「一也君の意識、ですか?」
大崎は同意した。
「恐らくね。……彼には身寄りがない。彼と最後の数カ月を過ごした葵君、君が一番の近親者ということになる。なので、君にその確認をお願いしたいと思っているんだ」
大崎は葵に治療椅子を指し示しながら言った。
「私が、ですか?」
「その為に呼んだんだよ」
大崎医師は葵を治療椅子に座らせると、ファイバーグラス製の銀色に煌めくティアラをセットした。六本の足を持ち、フラクタルな対称性で拡がる華奢な機械装置は患者用のものだった。
大崎は葵の頭にインパルス発信器を固定しながら言った。
「この装置は我々の研究の副次的な、云わば偶然の産物に他ならない。でも私にはわかるよ……」
大崎は微かに首を横に振った。
「将来性のあるのは我々じゃないってこと。……こっちさ」
葵は反論した。
「でも先生の研究だって、大勢の患者が待ち望んでいるんですよ」
大崎は曖昧な笑みを浮かべた。
「そりゃまあ、そうなんだが。だが、近い将来じゃないね。答えはまだ遠くにある」
「……」
「この、量子脳仮想プログラムは違う。我々が長らく未開拓だった意識の解明に大きく切り込んだんだ。それも極めて具体的にね。汎用性はいくらでもあるよ。悔しい話さ。……頭、きつくはないかい?」
「大丈夫です」
葵はしばらく黙っていたが、口を開いた。
「大崎先生は試したんですか? このシステム?」
「ああ。もちろん」
「どうでした?」
「ま、どうってことないかな。私にはね。脈絡のない映像想起と、ある種の情動が形成される。丁度、夢を見てる感じだね」
「どんな感情ですか?」
「どんなって、……どうかな? それは被験者ごとに違っていたよ」
葵は、それが一大事のように詰め寄った。
「先生は、どう思いました?」
大崎は首を捻ると少し考え、それから言葉を選んだ。
「ある種の、愛着かな」
大崎は皮肉な笑みを浮かべるとシステムを起動し、出力レベルを調整した。
「……まあ、ともかく、この研究は世の中で大成功を収めるだろうね。チームの連中は早速、利権の皮算用を始めてるくらいさ。学会で発表する際の聞こえのいい名称まで決めたらしいよ。連中、これを(模擬人格構造物)と名付けるつもりらしい」
葵は緊張した面持ちで大崎の顔を見詰めた。
大崎は笑って、彼女の肩を軽く叩いた。
「ほんの二分ほどだよ。緊張してる暇なんてないさ。……じゃ、始めるよ」
大崎はそう言ってエンタ・キーを押した。
葵には予感がした。
早乙女一也の心の内を知るべきではない。何か恐ろしいものが待ち構えている、そんな気がした。葵の無意識が理由もなく、そう語り掛けてくるのである。
葵はそれを理性で制した。
所詮はシミュレートされた、早乙女一也のカリカチュアではないか。本物とは違う。死んだ魂に出会うわけじゃないのだから。科学の目で現象を確認するに他ならない。
葵は、そう自分に言い聞かせた。
【再構成シミュレーション・ケース001;K.S;prg】
カウント。3、2、1、スタート。
それは経過も脈絡もない、入り混じった一塊の幻のようなものだった。
一度に葵の頭蓋内に落下し、それが全てを満たした。
小春日和の、午後のぬくもり?
それは限りなく人の体温に近い、何かである。
おぼろげな全体。
だが意識を向けると焦点が定まり明確化された。塵のように空間を満たした一つ一つの微細な要素が、見ようとする角度ごとに切り取られ、結晶し、幾つものパターンを明示した。
全ての構成要素は共通の、(早乙女一也)そのものだった。
記憶と認識。
冬の木立。
X型の羽瀬研の病棟。
小さな噴水池に、赤と白の観賞魚が泳いでいる。
水草の陰。
刈り込まれた芝生の若葉。
風の音が聞こえた。
水面を規則正しく打つ、落水の木霊。
ロベリアの植え込み。
ニャアと鳴く、灰色の若い猫。
両手に降り注ぐ色とりどりの透過光が興味を惹いた。
ステンドグラスを模したアトリウムの屋根。
デザインはジョルジュ・ルオーの「聖顔」だ。
噴水の煌めく放物線。
ブルーとレッドの光芒が、速度差を持って到達する。 青方偏移と赤方偏移。 だが、その考えは間違いだ。
色彩の異なる光の速度は、真空中では同じ、物質中では異なる。
これが正解。
スペクトル偏移を見るには亜高速での移動が必要である。
葵の目の前でキャンバスが構成される。
小振りのF10号ほどの白色下地のキャンバス。 正中線が引かれ、セピアの絵具を乗せた絵筆が動いた。トリミングされたレイアウトは人物の胸像だ。
顎の基点。
鼻と眼窩の位置関係が決まる。
右寄りの射光が織り成す頬の陰影が、最初の立体感の基点となる。
大まかな組み立てが決まると、画面全体が透き通った赤味の絵具で塗りつぶされた。
早乙女のいつもの手法。いつもの手順だ。
そこから描き起こしが始まる。
肩に届くミディアムの黒髪のシルエットで、それが女性像だと理解した。
色白で顎の小さい小顔。
はっきりとしたアイラインの丸い眼。
少し機嫌の悪い、ラディ・ソマリにどこか似ている。
動いていく一筆一筆が、適格に造形を明確化していく。
淡いブルーの看護着は毎日見慣れた馴染みのものだ。
肖像は、葵 洋子の姿に結実する。
重ね焼きされる、最後の瞬間。
テロリストに羽交い絞めにされた葵 洋子の姿。
早乙女はその瞬間を克明に心に刻もうとしていた。
静かに右目を閉じるのがわかる。
彼女を永遠の記憶とするべく。
それは恐怖でなく、憤りでなく。
明鏡止水の境涯。
少し微笑みをたたえた、いつもの葵 洋子が見えた。
葵は治療椅子の上で銀色のティアラを掴んだまま、茫然としていた。色とりどりの配線が、手元から垂れ下がっている。岩崎は無言のまま、装置の横で立ち尽くしていた。
窓から届く日差しが長く差し込み、床面に扁平な四辺形のパターンを描いている。一つの照り返しが乱反射を生み、万華鏡の反復に呑まれる。
葵 洋子の頬を一筋、涙が伝った。唇がわななき、声が震える。
「ご免、……一也君、……ご免なさい」
押し殺した、小さな呻きだった。葵は自分の中を満たしていた、身勝手な釈明を恥じた。大粒の涙が止めどなく溢れた。涙が全てを洗い流してくれると、そう信じるように。
嗚咽に、むせんだ。
早乙女一也の心には、混乱も欺瞞も、何もなかったのである。
人間的な情欲さえ。
あるのは情熱と献身、そして微かな憧憬だった。
早乙女一也は明らかに、葵 洋子に恋をしていた。
見えたのは、シミュレートされた意識の形骸。だがそれは間違いなく、十七歳の(恋)だった。
(彼)は、何度でも彼女に恋するだろう。
ときめきと情熱に身を焦がしながら。
スイッチを入れる度に。
何度でも。
永遠に。
そこは愛で充満し、慈しみが飽和している。
西日のきつい八月の午後だった。
蝉の鳴き声が止まない。
終
月の王冠 梶原祐二 @kajiyuji2019
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