第36話


 君の肉体は(月の王冠)の崩壊とともに、真空の宇宙空間へと投げ出された。

 その時点で君の身体活動は既に停止しており、亡骸であったに過ぎない。しかし君はいつまでも傍に存在したので、(月の王冠)消失の際に、もう一度恐怖を味わったらしい。

 僅か五分ほどの間に、二度、死を体験した者は少なかろう。

 君は身をこわばらせ、真空が襲いかかり血液を沸騰させ、その後フリーズドライになるおぞましい行程に身構えた。

 だが知覚は鈍く、静かな光景を遠く眺めたに過ぎなかった。

 君は落下して行く我が身の、魂の抜け殻を見送った。

 

 君は宇宙空間を漂い、思いがけず温かいぬくもりに包まれた。

 人間早乙女一也として生きた最後の数分、葵 洋子に抱きしめられていたあの瞬間。

 その腕のぬくもりに良く似た、穏やかな愛情だった。


 君は上下のない世界で唐突に方向を見出した。


 重力加速度。


 それが方向を示した。

 君は真っ直ぐに上昇していた。目を開くと星々が落下を始める。

 猛烈なスピード。そのうちに、星明りが筋を引いて引き延ばされていく。

 君の視界は、強制遠近法に似た光のパースペクティブに閉ざされていった。

 前方に近付いてくる光は青く、後ろを振り向けば赤い光芒が遠ざかって行く。


 青方偏移と赤方偏移。


 光速に限りなく近似する宇宙船の窓から外が見えたなら、そのように見えるであろうという、机上の物理現象である。

 青は近付き、赤は遠ざかって行く。

 ついに君は見たのだ。


 君は大いなる真理の腕に包まれ、銀河を旅する。

 君の目の前に広がる星々が、同心円状に虹色に染まった。

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