第35話
早乙女一也と葵 洋子は0・3Gステージでエレベーターを降りた。
青い人型のピクトグラムが見える。靴の磁力装置をオンにして壁の標識、重力方向の壁面に接地した。白とシルバーの移動通路を抜け、フロアAに出た。
「寒いわね」
葵が肩を擦りながら呟いた。薄水色の看護着は殊の外、生地が薄かった。
「エアコンが……」
早乙女は鼻を啜った。
「まだ、調整出来てないみたいですね」
早乙女はぼんやりとそう答えて、はたと自分の身に付けた外出用ジャケットに気付いた。
そうだ。こういう場合は、どうするんだっけ?
何度もあの(アベックシート)で観たじゃないか。
映画ならこんな時、最適な行動がある。
早乙女はぎこちなくジャケットを脱ぐと、葵の肩にそっと掛けた。
「どうぞ……」
早乙女の声は、ちょっと震えていた。
上手く出来ただろうか?
葵は一瞬驚いたような顔をするが、ジャケットの前を引き合わせると嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう、一也君」
早乙女は葵には目を合わせず、照れ隠しにこくりと一度うなずいた。
高い天井のオフホワイトの回廊を進むと、細いスリット型に開いた強化ポリエーテルケトンの展望窓が見えてきた。
内装工事は、まだ完了していなかった。壁面パネルにはブルーの防護皮膜が張り付いたまま。電源の延長ケーブルが通路の端に放置してある。展望窓の脇には、おおまかな枠組みのアルミフレームが組まれていた。どうやらここには喫煙ブースが設置されるらしい。
壁に設けられた配電ユニットから、むき出しのコンセントが顔を覗かせている。これは煙草の自動販売機のための電源である。
そしてその横には、背の高い観葉植物の鉢が置かれる。……早乙女は自分の頭の中で、視覚と記憶が一致していくのがわかった。
ここが、あの現場なのだ。
同じ図面通りに、全てが再構築されようとしていた。規格のユニット、規格の部品が崩壊を逆回しするように元通りに返っていく。
同時に早乙女の脳裏には重ね焼きした幻のように、あの瞬間が蘇って来た。
剥がれた壁面パネル。
隙間から溢れ出す配線、カーボンファイバー。
垂れ下がったダクト。
みるみる白濁していく、ねじ曲がった強化ポリエーテルケトンの窓。
早乙女はあの恐ろしい気圧差を思い出し、思わず両手で耳を押さえていた。葵は早乙女の震える肩に、そっと手を置いた。
「一也君、大丈夫?」
心配そうに葵が覗き込む。早乙女は振り返ると、力なく微笑んだ。そして目を逸らさぬよう、もう一度真っ直ぐに前を見詰めた。恐怖の、その先を見通すために。
すると全てが、映画のように再現された。
僕は窓に近付くと手摺りに掴まり、真っ白い三日月を眺めた。
大気の影響を受けない宇宙空間では、驚くほど細部がくっきり際立って見える。クレーターの一つ一つがジオラマのように見えた。
僕は、この静かな天体を見るのが好きだった。何故だか、気持ちが安らいだ。
月は三十億年以上前に地質活動を終えた死せる天体である。
そう考えると、この乾いた大地が白骨化した頭蓋の白さとどこかで一致するのでは、と思えてくる。
骨を形成するカルシウムの語源は、ラテン語の石、砂利を意味する言葉なのだそうだ。
あの乾燥した灰色の砂漠へ。人は回帰するのかもしれない。 僕は心のどこかで自分の地球への帰還はない、と考えている。 星屑になれば、宇宙を旅することもあるだろうか。
遠い深宇宙の、無限の彼方へ。 僕は右目を閉じ、詳細な記憶を脳裏に留めようとした。
(その時……)
(その時……)
その時。
喫煙ブース脇の煙草自販機の傍に、背の高い観葉植物が見えた。
(背の高い、観葉植物)
そこで何かが動いたのである。
そう感じた。
僕は目を凝らし息を潜める。
しばらくして物陰から現れたのは、少年だった。 自分と同い年くらいだろうか。痩せた華奢な体格。ぴったりとした白のタートルセーターが、余計にそれを際立たせている。
ぼんやりと見詰める僕の視線に、少年は気付いた。プラチナブロンドの巻き毛を揺らし、振り向いたその瞳は、氷のようなアイスグレイである。丸顔の童顔に開いた、はっきりとした眼。透明な若い肌が、発光したかのようだった。
少年は僕に目を止めると、冷たく微笑んだ。
その笑顔は十六世紀隆盛期ルネサンスの画家、ラファエロ・サンティの天使像を思わせた。
あたかも「小椅子の聖母」の、幼子イエスのようだった。
背後に騒々しい物音がして、早乙女の思考は中断された。
何事かと振り返ると、一人の男が通路後方に立っていた。デニムパンツにスニーカー、青いチェックシャツの男だった。右手に黒っぽく平たい機械装置をぶら下げている。何かの武器、銃のように見えた。
男は非常に若く、プラチナブロンドの髪をしていた。(月の王冠)日本エリアでは、なかなか見かけないタイプである。
プラチナブロンドの少年。
早乙女は、その少年の顔を見た。そして、直ぐに理解した。その顔は記憶の全てと一致する、同一人物だったのである。
額に掛る前髪、細くすっきりとした鼻梁、アイスグレイの瞳。
一つ一つが、自分が筆と絵具で再現した、あの似顔絵通りの配分だった。
今朝テレビで見た、月面基地の爆弾犯とは違う。
瓜二つだが、彼は良く似た別人だった。
少年は汗を掻いていた。息も荒れている。何か後ろを気にしている素振りを見せ、早乙女と葵の顔を交互に眺めた。そして早乙女に視線を留めると、にやりと笑った。
「また会ったね。君」
意外にも低く、野太いしわがれ声だった。
沢木の乗った小型カーゴは、0・4と0・3Gステージの中程で静止した。
半壊したカーゴは炎上し、タクティカルベストと防護パッドが燃え尽きる直前で、シャフト内の防災装置、ABC粉末消火剤によって消し止められた。消火剤の霞の舞う中、沢木はハーネスを外した。
カーゴから降りると、炎の熱で歪み、前が見通せなくなったケブラーヘルメットを脱ぎ棄てた。焼け残ったタクティカルベスト、防護パッドもそれに続く。SMGの最後の弾倉は溶けてくっ付いたポリエステル繊維で使い物にならなくなっていた。SMGの装備も降ろした。
沢木はショルダーホルスターから9ミリの自動拳銃を取り出すと、遊底を引いて装填を確かめた。
よし、こいつは無事だ。
それは沢木に残された、最後の装備だった。
中央制御ダクトの作業出入口から、沢木は0・4Gステージに侵入した。
沢木は走った。身体中が軋んだ。磁力シューズが沢木のピッチに合わせ、自動的に牽引を調整する。
作業通路は暗く、狭く、沢木の靴音と乱れた喘ぎが木霊していた。頭の中では、非常ベルが鳴り響くような、締め付ける痛みが脈打っている。
俺は、奴を止めるのか?
止められるのか? ……わからない。
0・3Gステージの手前で、通路に牽引レールが現れた。
有り難い。
沢木は即座にハンドルに摑まると、靴の磁力装置を切った。沢木の身体が水平に浮き上がると、暗い通路内を高速で牽引された。奴の行く先はわかっている。
0・3Gステージの展望通路だ。
改装中のあの場所に、奴の近距離無線通信が隠されているはずだ。そしてそれは何かの起動装置に直接繋がっている。
正面に明かりが見えた。0・3Gステージのプラットホームだった。沢木は移動通路を抜け、展望回廊へと急いだ。
9ミリの自動拳銃を構え、オフホワイトの回廊を慎重に進んだ。強化ポリエーテルケトンの展望窓から暗い宇宙空間が臨める。
近付くに連れ、通路の先から人の気配が伺えた。複数人の動き、である。
沢木は息を殺し隔壁に近付くと、自動拳銃を構えた。頭の中でカウントを取る。
3、2、1、接敵!
「動くな、北上!」
飛び込んだ途端、沢木が目にしたのは、銃を突きつけられた若い女と立ち尽くす少年の姿だった。
一瞬、状況に戸惑った。
「おっと治安管理官、そこまで。……人質ですよ」
低く渋みのある声音だった。プラチナブロンドの色白の外見からは想像出来ない。
北上は女の背後を取り、肩口を掴んだまま、喉元に銃口を押しつけていた。肩に添えられた左手には何やら細長いペンのような機械装置が握られている。
女の背後から冷たい瞳が光った。
民間人の人質が二人。最悪だった。
沢木は自動拳銃を完璧な立射態勢で構えた。そして自分に言い聞かせた。
ひるむな。
沢木はそこで、はたと気付いた。
待てよ、この女、何処かで見覚えがあるぞ。
女は背が高く、薄水色の看護着姿で、猫のような顔つきをしていた。沢木は思わず声を上げていた。
「葵さん!」
女もその声に気付いたらしく言葉を返した。
「沢木さん、……ですか?」
怯えた視線が沢木を捉えた。間違いなかった。この黒髪の少年が早乙女一也であることは確認するまでもない。
沢木は微動だにせぬまま、短く舌打ちした。
「こんなところで、何やってるんです?」
苛立ちも露わな沢木の言葉に、葵は震える声で答えた。
「今朝ニュースを見てたら、一也君が……」
「沢木さん、僕が見たのは、この人です」
早乙女は声高に割って入ると、北上を真っ直ぐに指さした。
「月面基地の人じゃない」
北上は葵の背後を取ったまま、成り行きを伺っていたが、予想外の展開を面白がっているようだった。
「皆さんは関係者? おまけに僕らの秘密にも気付いてる」
沢木は北上を睨みつけると、ゆっくりと言葉を区切り言った。
「北上真悟、お前らの計画はわかっている。第一月面基地の事件は、双子の片割れの犯行だ」
北上は静かにうなずいた。
「さすがは治安管理官殿。ご名答です。……兄貴は立派だったね。最後にガッツを見せてくれた」
沢木は確認するように言葉を繋いだ。
「お前らはジョナサン・リクターの死んだはずの息子だ。一卵性双生児であることを利用し、顔認証システムの弱点を突いた」
沢木は北上に話しながら同時に頭を巡らせていた。
あの左手に握った細長いペンのような機械装置。
あれが起動スイッチなのか? あれさえなんとかすれば。
しかし目の前には、葵と早乙女という障害がある。沢木の手にあるのは、この9ミリの自動拳銃のみだ。
葵の喉元に汗の粒が流れた。白い首筋を滑り、PDWの銃身を伝う。場違いな性的興奮が沢木の脳裏を過る。
沢木は頭を振り、拳銃の照準に集中した。
「一つ聞きたい。お前の目的は何だ?」
沢木の問いを北上は鼻で笑った。
「あなたに聞かせる話は、ないですね」
「旧合衆国自由主義者なのか?」
「そうですよ」
「何かの腹いせか? それとも逆恨みなのか?」
北上は不思議そうな顔をした。
「それはどういう意味です?」
沢木は眉間に皺を寄せた。
「旧合衆国の崩壊は、いわば自滅だ。PKO活動は国内クーデターを鎮静化したに過ぎない。武装勢力の内部分裂から闘争になったんだ。それが全ての原因だろ。それで国が滅んだからって、誰かのせいには出来ないぜ」
沢木はそこで言葉を呑んだ。
「……そもそもだ。お前はその時、幾つだった? まだ子供じゃないか」
北上の氷のような瞳に、小さな発火が生じた。
「戦闘の記憶はありますよ。死の恐怖も。僕らは十歳だった。意味はわからなかったけど、憎しみは覚えてる。我々はやられた。だからやり返すまでだ」
沢木はわざと挑発するように北上をせせら笑った。
「何だ、そりゃ。まるでガキの理屈だな」
北上の顔から表情が消えた。
「それがテロリズムの本質だと思います。アメリカはテロには屈しない」
一瞬、銃口が葵の喉元から離れ、上を向いた。
今だ。
だがそこで、想定外の動きが起きた。
早乙女一也が、北上真悟に飛び掛ったのである。
北上は真っ直ぐに銃口を早乙女に向けると、5・7×28mm弾を三点バーストで発射した。二人に駆け寄る途中で、早乙女の側頭部が飛び散った。脳漿と骨片が湿った音を立て、ブルーの防護皮膜付き壁面パネルを流れる。
葵の絹を裂くような悲鳴。
彼女の肩口から北上の左手が僅かに持ち上がった。沢木は機械のような精度で狙撃した。
九ミリ弾が、握りしめた装置ごと左手首を粉砕する。
北上は痛みと驚きの奇声を上げ、沢木に発砲した。弾丸は右の第四、第五肋骨を粉砕して、肺臓内に到達、広背筋を切断して弾丸が貫通するのがわかった。火箸が差し込まれたような鋭い痛みが沢木の胸部を貫く。
沢木は爆発する怒りによって力を得た。
銃口を北上に向けると、九ミリ弾の連射をPDWを握った右肘関節に見舞った。前腕部が千切れ、壁際に吹き飛ぶ。切断された上腕動脈から鮮血が吹き出し、青い壁面に噴水となって滴り落ちた。
両腕を失った北上は、血飛沫を撒き散らしながら甲高い悲鳴を上げ、床を転げ回った。
沢木は自分の負傷も忘れたまま、北上に駆け寄ると、0・3Gで浮き上がる身体を馬乗りになって磁力シューズで抑え込んだ。
返り血を浴びて、血まみれになった葵が、茫然と立ち尽くしていた。
「葵さん! 大丈夫ですか!」
沢木の大声に、葵が我に返った。
「一也くん……」
葵は壁際に浮き上がった早乙女に駆け寄ると、そっと抱き寄せた。右側頭の大半が銃創で損なわれていた。脈を取るまでもない、明らかな亡骸だった。
「一也君、一也君、……一也君……」
葵の口から魂の抜けた言葉が、意味を持たず繰り返し溢れた。
葵は遺体を抱きしめた。
そして震えた。
それは、悲嘆か? それとも、恐怖?
沢木は北上の額に自動拳銃を突き付けた。
「どうした、テロリスト! 観念しやがれ!」
北上は両眼を見開くと気味の悪い笑い声を上げた。じっと沢木の右胸部を眺め、にやりと笑った。
「あんた、わかってるか、その胸、……助からないよ」
沢木もそれはわかっていた。既に右腕の感覚がなくなっていた。肺を貫通した弾丸は背中に大穴を開け、濃紺の制服がぐっしよりと出血に滴っている。北上を押さえ付けた両膝に、震えが起き始めていた。
酷く気分が悪い。それに寒気がした。
沢木は意識を奮い立たせた。
「お前が道連れだ。後悔はないさ」
沢木と北上は二人の流す、ねっとりとした血溜りの中心にいた。その赤黒い、重たい流れがゆっくりと周囲に広がていく。北上はプラチナブロンドの髪を放射状に広げたまま、意味深な表情を浮かべた。
「あなたの道連れは、そんなに少なくないですよ。……僕の顔色、どうです?」
「十分土色だぜ。直ぐにでもあの世行きって感じだな」
「そうですか……」
そこで北上は耳を澄ませる仕草をした。
小さなピッという、機械的なクリック音。沢木にも聞こえた。沢木は怪訝な表情で問うた。
「何だ? 今のは?」
北上は瞬きもせず、沢木を見詰めた。
「僕の脈拍が四十を切りました」
「ペースメーカーか? そろそろ天国の扉が開く。いや、お前には地獄かな?」
「うまいこと言いますね。でもスイッチを押したのは、あなたですから」
「何?」
北上は誇らしげな笑みを浮かべた。
「僕の心臓には埋設装置が仕込まれていて、条件に応じてスイッチが入るようになっている。筋電位信号のフィードバック装置。……今のは第一段階です」
「何を、言ってる?」
北上は沢木の問いには答えず、真っ青な唇でねだるようにたずねた。
「今、何時ですか?」
「さあて、十一時前くらいか?」
沢木は神経質な声音で大体のところを答えた。北上は満足そうにうなずいた。
「いいタイミングだ。もうすぐ展望窓から面白いものが見える」
数分の後、沢木は強化ポリエーテルケトンの窓を月が過るのを眺めた。
白く乾いた、白骨のような地表。クレーターの凹凸が、浅い太陽光に際立っていた。
朝から中継が続いた(晴れの海)が見える。爆破事件のあった、第一月面基地のあるエリアだ。
突然、音のない空間に閃光が走った。(晴れの海)に、灰塵の散る大きな爆炎が舞い上がった。キノコ雲に良く似た、同心円状の靄がゆっくりと拡がる。
爆炎を背景に、銀色に瞬く小さな反射体が、経度を結ぶ円環状の軌道を直線で通過して行くのが見えた。
沢木は、言葉を失った。
「何を、……した?」
北上は青ざめた顔で嬉々として語った。
「上空約百キロからの極軌道衛星の攻撃です。テレメトリ・コマンド・レンジング系の暗号通信。あなたたちも観測したでしょ?」
霧島局長と西脇の危惧した攻撃衛星、(全方位型支配政策)の忘れ形見だ。
北上は続けた。
「攻撃は槍型貫通兵器です。円周六メートルのタングステンの槍。通称(神の槍)。日本の人には懐かしいかな。……たった今、一万二千人ほど、あなたの道連れが増えたというわけです」
沢木は青ざめた。北上は笑っていた。
沢木はやり場のない怒りを左拳に込め、北上の顎を殴り付けた。だが、少しも力が入らなかった。
「貴様……」
その先が続かない。
北上は沢木に同情するように目を細めた。その表情はどこか憐れみを帯びていた。
「僕のせいじゃない」と、北上。
沢木は出血とともに、気力が萎えて行くのを感じた。
もう、どうでもいいじゃないか。どうせ、俺も死ぬんだ。
北上は真っ青な顔色で、目玉をぎらつかせた。
「さて、後は僕の心臓が止まるのを待つだけだけど、……一応、感想を聞いても?」
沢木は敗北を噛み締めながらたずねた。
「お前の心臓、……心臓が止まったら、……どうなるんだ?」
「この(月の王冠)に、壊滅的な打撃が」
沢木は首を横に振り、疲れた目で北上を見降ろした。
「……はったりだろ?」
「そう、思いますか?」
沢木は何も返さなかった。
北上はアイスグレイの瞳で遠くを見詰めた。沢木の身体の、遥か遠くを見通すように。
「僕らには、無心に魂を捧げるような信仰がないんです。死を恐れぬほどの強い信念を持つことは一朝一夕に手には入らない。……最後の瞬間にスイッチが押せなかったら、意味ないでしょ? そのための安全装置なんですよ」
沢木は無言のままだった。
心停止が起動スイッチ。
恐らく、こいつが言ってることは本当だろう。皮肉にも押したのは自分である。
怒りが殺意に変わった。自分の発砲は北上の殺害を意図したものだった。奴は後数分で、失血死するだろう。
北上は苦しそうに、断末魔の喘ぎを漏らした。
「やっぱり、兄貴は……凄い……」
沢木は慌てて、北上の頭を揺さぶった。
「おい、しっかりしろ! 畜生、どうせ、はったりだ。そうなんだろ?」
北上は閉じかけた瞼を薄く開き、薄ら笑いを浮かべた。
「そう、……思うかい?」
そこで北上は事切れた。
沢木は咄嗟の思い付きで、反射的に北上の胸部に左手を添えると心肺蘇生を行った。
奴が生き返ることはない。だが、言葉通りの仕組みであるならば、埋設装置に贋の信号を送ってやれば、時間稼ぎにはなるかもしれない。
ここにはまだ、生き残るべき人間がいるんだ。
沢木はかすれた声を張り上げ、葵を呼んだ。
「葵さん、葵……さん、……おい、こっちを見て!」
茫然自失した葵が、ようやく泣き腫らした目を沢木に向けた。腕にはまだ、早乙女の亡骸がある。
「沢木さん……」
沢木は北上の左胸部に蘇生術を続けながら、からからの喉から声を絞り出した。
「テロリストは死にました。だけど、こいつの身体には仕掛けがあって、心拍が止まると惨事が、……起こるらしい。この(月の王冠)にね」
葵は上の空で、ぼんやり沢木の施術を眺めていた。そして呟いた。
「その人、もう死んでますよ」
「わかってます。だが、これで……装置に信号を送っている間は、起動しないみたいだ。……何も起きてないでしょ? 何が、起こるのか……知りませんけどね。……だからこれは、時間稼ぎなんです」
「時間稼ぎ?」
沢木はうなずいた。
「この通路の先に脱出ポッドがある。左側面に……赤い枠で、非常用の記しが付いてるからすぐわかります。ポッドの使い方は?」
「もちろん」
「だったら早く行って。……逃げるんです」
「え?」
葵はそこでようやく我に返って、沢木に視線を合わせた。
「逃げろって? あなた、……沢木さんは、どうするんです?」
沢木は力なく笑った。
「俺は、無理ですよ。……この有様だ。もう何分も持たない。あなたなら、わかるでしょ?」
葵は首を横に振った。
「そんなことない。BM療法を使えば、……」
沢木は葵の間の抜けた言葉を遮った。
「いいですか、もう時間がないんだ!」
すると今度は葵が声を荒げた。
「だったらあたしもいい!」
葵は赤く泣き腫らした眼で沢木を見詰めた。
「もう、みんな……みんな、なくしちゃったのよ、何もかも。生きてたって仕方ない……」
葵の優柔不断に沢木の堪りかねた怒声が爆発した。
「ふざけるな! あんた、まだ何もなくしちゃいないじゃないか! 仕事も、健康も、友達も。地上に帰れば親兄弟だっている! それで十分だろ!」
葵は涙声で訴えた。
「一也君が……一也君が、死んじゃったんだよ……」
沢木は大きくうなずくと言った。
「そうだ、彼の、早乙女君のために生きるんだ! 二人でやった研究を無駄にしちゃいけない。……未来のために。……そうだろ?」
葵は泣きじゃくるばかりで、意を解さなかった。
沢木は左腕に痺れるような違和感を感じた。もう長くは、続かない。
沢木は疲弊した、穏やかな口調で葵に言った。
「だったら、俺のために、……どうです?」
葵は、はっとして顔を上げた。震える唇は、閉ざしたまま。
沢木は皮肉な笑みを浮かべ、呟いた。
「俺の人生が、無駄でなかったという、そのために……生きてくださいよ」
葵は下唇を噛み締めた。視線が交錯し、微かな理解が繋がる。
もう不満の言葉は出て来なかった。
葵は最後に、抱きしめた早乙女一也の頭を一度だけ撫でると立ち上がった。
彼女は振り返らず、通路を真っ直ぐに走って行った。
それから数分間、沢木は北上の遺体に施術を続けた。
もういいだろうか。
葵は脱出ポッドに乗った頃だろう。
(月の王冠)の脱出ポットにはロシアのソユーズの技術が活かされている。各フェイズは完全自動制御で、安全圏まで離脱し回収信号を発信する。使い方も何もないのである。乗れば助かる。脱出ポッドとは、そういうものだ。
そして、ついに体力の限界が訪れた。沢木はゆっくりと北上の横に仰向けに倒れた。
もう、無理だな。
疲労からの解放と奇妙な達成感。沢木は不思議な満足に満たされていた。
浅い呼吸で横を向くと、早乙女一也の亡骸が目に入った。ふいに死んだ弟の顔が重なり、まざまざと蘇った。すっかり忘れていた、細部に至る詳細な記憶。
さらさらの黒髪。
人懐っこい瞳。
そばかすと、隙歯。
笑うと割れる、いつも荒れていた唇……。
まるで今、目の前にいるような、鮮明な知覚だった。
走馬灯のような? いやいや、これは単なる、貧血で死にゆく俺の脳髄の悪戯に過ぎない。
だが、沢木の目には涙が溢れた。
(今すぐ、行くぞ)
北上の遺体から、小さな機械的なクリック音が聞こえた。
沢木の耳にも届いた。
沢木は薄れる意識の中、小声で囁いた。
「人生なんて、糞だな」
北上の心停止により発せられた起動コマンドは、Bluetooth(ブルートゥース)を仲介し、シンプルな低容量のデジタル信号を(トロイの木馬)に送り込んだ。
即座に条件付けが整い、ロジックボムが解凍する。3D-CADナビゲーターが異変を起こし、ユニットパージ誤作動誘発プログラムが一斉に作動した。
ロシア中国日本三国連合宇宙ステーションL4、登録記号SSUC3-CJR-L4。
通称(月の王冠)の崩壊は段階的なものでなく、瞬間的に、同時刻にインフラ全体に及んだ。
その様子はあたかも、夜空を焦がす超新星の誕生のようであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます