11.つないだ手
日が沈み、高層ビルを覆う空が青紫色に染まる頃、葉月たちは『コズミック・ジャズ・フェスティバル』の本番を待っていた。
一年前は観客として店の前に並んでいたのに、こうしてステージの上に立ってリハーサルに臨んでいることが未だに信じられなかった。
スタッフの指示を仰いでマイクチェックをしている間も、足元には浮遊感がついてまわった。
階段状になった客席に、他の大学からの出演者が数多く座っている。
ビッグバンドのコンテストで見た顔ぶれや、あちこちのライブハウスに顔を出しているプレイヤーたちが談笑している。
リハーサルの時点で威圧されそうになって息を飲んでいると、うしろからぽんと背中を叩かれた。
サウンドチェックを終えた伶次が、余裕のある笑みを浮かべている。
会場入りしたときから、ひっきりなしに声をかけられていて、彼の顔の広さを思い知らされた。
真夜はというと、落ち着きなくマウスピースを咥えたり、マイクの向きをいじったりしている。
今朝になって、葉月は声を取り戻した。
徐々に回復すると思っていた葉月には、あまりにあっけない終焉だった。高音域はかすれるものの、もう少し喉を温めれば楽に発声ができそうだった。
肩の力が抜けてちょうどいい加減だ、と伶次は言った。
葉月も同じことを思った。
喉の筋肉にかかっていた力みもなくなって、まるで自分の体がひとつの楽器になったように歌声を響かせられた。
テーブル席が整えられ、ステージのまわりに散在していた小道具が片づけられていく。
足元に張り巡らされた蜘蛛の巣のような配線がまとめられていく。
巨大な照明器具が頭上で青白い光を灯す。
葉月はリハーサルの重苦しさから逃れるように、店の外に出た。
薄紫色の下地に白抜きの文字で、ブルー・ノートの看板が掲げられている。
二時間後には、葉月はマイクを握り、真夜はアルトサックスを持って青く染まるステージに立つ。
順番待ちの列の中から風子が飛び出してきた。
全席が自由席になっている今回のライブで、最前列を確保するために開場前から部員たちが並んでいる。
葉月の首からぶらさがっているストラップを見ると、風子は手を取って言った。
「やっぱりテナーサックスで出るのね。葉月の歌、聞きたかったけど、また次もあるからね。次も絶対、聞きにいくからね」
妙ななぐさめかたをされて、葉月は顔をかいた。
「あー声ね。でるようになったの。ちゃんと歌うし、テナーサックスも吹くから」
そう言うと、風子は目を丸くした。
ただでさえ大きいどんぐり眼が飛び出しそうになっている。
「言うの忘れてた、ごめん」と葉月が苦笑いすると、風子は見る間に瞳をうるませて葉月に抱きついた。
「もーどんだけ心配したと思ってんのよ! でもよかった、よかったね!」
人目をはばからず、風子はわあわあと声を上げて泣き出した。
しがみついてくる彼女の体を引きはがしながら戸惑っていると、そばにいた部員が最前列まで走っていき、一緒になって「やったなーばんざーい」と大声で叫んだ。
オフィスビルが多いこの界隈を通過していくサラリーマンや制服姿のOLたちが何事かと視線を送ってきたが、エネルギーの有り余っている大学生たちはここぞとばかりに腕をふりあげて歓喜の声を上げた。
恥ずかしさと嬉しさが入り混じる感情をかみしめながら、風子と手を取りあった。
列の中から強烈な視線を感じてふりかえると、真夜の彼女がこちらを見ていた。
葉月がゆっくり微笑むと、彼女はきつく睨みつけてから顔を反らした。
本番中も不服そうに眉をしかめて見られるのかと思うと、気が重かった。
出演者でぎゅうぎゅう詰めになった楽屋の中で、真夜はアルトサックスをぶらさげたままぼんやりしていた。葉月はうしろから声をかけた。
「あのさ、私ってなんであんなに彼女に嫌われてるのかな。コンボのヴォーカルやってるってだけで、まともに会話したこともないし」
彼女とは誰のことなのかすぐに思い当たったらしく、真夜はふりかえった。
「僕がよけいなことを言ったからだと思う」
「何を?」
真夜はストラップから楽器をはずしてカウンターに置いた。
「葉月さんは僕のこと知らなかったみたいだけど、僕は葉月さんを知ってたよ。去年の学祭で、テナーサックスを吹いてるのを見たんだ。葉月さんがソロを吹いてる時に、あいつも隣にいたんだけど、うっかり『いい音だね』って言っちゃったんだよ。そのことを根に持って未だにねちねち責めてくるんだ。『じゃあ私と入れ替わってもらえば』ってさ。しかもあいつのテナーサックスは葉月さんと同じメーカーの同じ型番。呪われてるよね」
例の幽霊の真似をしながら舌を垂らしてみせた。
葉月はため息をつくしかなかった。
「うっかりって、いい音だってうっかり思ったってこと?」
「違うよ。本当にそう思ったから、うっかり口に出ちゃったんだよ」
緊張でぎりぎりと縛られたようになっていた体から、力が抜けていくようだった。
「あの時、隣で吹いてみたいって本当に思ったんだ。そしたらまさかの歌だったけど」
真夜はひとつ咳をして、ウッドベースを弾く真似をした。
葉月を勧誘したときの、伶次の物真似をしているらしい。
葉月は思わず吹き出してしまった。
「だから自信持って吹いていいよ」
「それ、そっくりそのまま真夜に言いたい」
こみ上げてくる笑いをこらえきれずにそう言うと、真夜も笑いながら「全くその通りだね」と言った。
本番直前になって、真夜が姿を消した。
楽屋にも舞台そでにも客席にもいない。
店の前で煙草を吸っている人たちが数名いたが、そこにも姿はなかった。
予想通りの行動だったが、ひとつ前のバンドの演奏が始まっても戻ってこなかったので、さすがに焦りを感じた。
伶次は舞台下でチューニングをしていたが、高木の姿もない。
どこかに探しにいっているのかもしれないと思った。
外はすっかり暗くなっていた。
店の裏通りに回ると、高木の背中を見つけた。
黒のブイネックシャツにカーキ色のカーゴパンツ姿で、腕を組んで立っている。
声をかけようと近づくと気配に察知したのか、ふりむいて指をさした。
その先には、室外機のかげにかくれて煙草を吸っている真夜の姿があった。
一応、しゃがんで身を縮め、身をかくしているつもりらしいが、立ち上る煙が丸見えだった。
逃亡者みたいだな、と高木は苦笑いしながら言った。
「これ、伶次にもらったのか?」
葉月の左手首には祥太郎の形見のブレスレットが巻かれていた。
兄貴が守ってくれるからと言って、待ち時間に伶次がつけてくれたものだ。
「じつは、俺も」
ロングTシャツの胸元を探って黒い皮のネックレスを取り出した。
ひもの長さは違ったが、もらったブレスレットと同じデザインのようだった。
高木は銀色のチャームをにぎりしめた。
「七年前のコズミックのとき……祥太郎さんが忘れていったものなんだ。ずっと俺が預かってた。伶次には内緒な」
うなずくと、高木は片目をつむって見せた。
必ず戻ってくるよと真夜をその場に残して、二人は静かに立ち去った。
高木が響かせるバスドラムの音と共に、会場内が静まり返る。
となりに立つ真夜がアルトサックスをかまえる。
ステージ上に張りつめる緊張感が足元からせり上がってくる。
マイクを持つ手が震え、黒いブレスレットの上から押さえこんだ。
一曲目から、葉月ひとりきりの『イッツ・オール・ライト・ウィズ・ミー』が始まった。
コーラス最後の小節から伶次のランニングベースがとびこみ、高木がブラシを走らせる。
テンポは元通りの320bpmでテーマが流れていく。
――イッツ・ザ・ワロング・タイム、イッツ・ザ・ワロング・プレイス……
この歌詞を口ずさむたび、夏合宿の夜に出会ったことを思い出す。
あの時間、あの場所でスタジオをのぞいたりしなければ、真夜と共に演奏するチャンスは巡ってこなかったかもしれない。
胸がつぶれそうになるほど泣いて苦しむこともなかったかもしれない。
過去の出来事は全て今につながって、こうしてとなりに立っている。
ステージの下から真夜の彼女が見上げていることも知っている。
――それでも私はかまわない。
真夜と感情を分かち合えるのは今この時しかないのだから。
葉月の声がブルー・ノートを浮遊する。
現実感のない振動が体に押しよせる。意外なほど心は落ち着いている。
高木が叩くドラムのひとつひとつ、伶次の指が弦にふれる音まで聞こえる。
となりで真夜が体を揺らしてリズムを取っている。
ピッチの悪さは完全には治らなかったが、ソロに突入すると、迷いのない音色を響かせた。
たしかに薬を断ち切ったようだった。
アルトサックスの胸をくすぐるような音が高速スイングと共に気持ちよく流れていく。
柱に近いテーブル席に父と母、弟の姿を見つけた。
先ほどまで退屈そうにストローをいじっていた弟が、食い入るように演奏を見つめている。
兄の姿はないようだった。
それでもかまわない。自分が信じた道をやり抜くほかないのだ。
演奏は、葉月がソロを吹いたことのあるカウント・ベイシー楽団の『シャイニー・ストッキングス』、真夜が一番好きな『メイデン・ヴォヤージュ』と続き、伶次が絶対に譲らなかった『ストレート・ノー・チェイサー』へ移っていった。
たった四ヶ月ほどの間に、真夜は見違えるほど安定感を増した。
共にテーマを吹くことで、聞いただけではわからなかった真夜の癖にたくさん気づけた。
真似できないくらい極端な強弱やタンギングのタイミング、うしろすぎるくらいのスイング、大げさで背筋が震えるようなベンド。
決してテンポには遅れず、小気味よく刻んでいるドラムの4ビートへ乗っていく。
まるで夜空を横切る巨大なほうき星のように、真夜の音色はどこまでもかけ抜けていく。
五曲目には祥太郎のオリジナル曲を用意していた。
練習期間は十日ほどしかなかったが、歌とソロを合わせて、六コーラス分演奏する予定だった。
イントロが始まると、どこからか指笛が聞こえた。
歓声が上がった方を見ると、吉川が手を上げていた。
他にも微笑んだり拍手したりしている者が観客席のあちこちにいて、多くの人物が祥太郎を偲んでいることがわかった。
曲の中盤を越えたあたりから真夜の様子が変わった。
視線は店内奥のカウンターバーよりはるか先にむけられ、譜面を見なくなった。
伶次のランニングベースと高木のリズムにはめ込む演奏が少しずつ崩れ始める。
テンポをうしろに引きずる三連符、お得意のレイドバックが小節の頭にかぶさっていく。
真夜はリズム隊に挑戦状をたたきつけるようにうしろをむいて目配せをした。
高木は伶次に目で合図を送り、激しく演奏をあおり――
二人同時に手をとめた。
真夜の高音だけが四コーラス目に突入した。
振動し続けるクラッシュシンバルの余韻が、アルトサックスの音と共に響いている。
突然訪れた静寂に血の気が引いた。まだ曲の途中のはずだった。
真夜のソロはもう一コーラス続き、ドラムソロと、最後には歌もある。
真夜は次のフレーズを忘れてしまったのだろうか。
鼓動が勢いを増す。全身に血がかけめぐる。
真夜は楽器をかまえたまま静止している。
練習中の悪夢がよみがえる――高速パッセージでサイドキィのFだけがかけ抜け、真夜はスタジオを飛び出していった。
汗でにじんだ手のひらを握ると、真夜が葉月を見た。
目が笑っている。光を凝縮した汗がこめかみを伝っている。
真夜はアルトサックスをふりおろした。低音のFが会場を振動させる。
静まりかえった空気を破り、耳慣れないフレーズが始まる。
とらえようのなかったリズムは音と共にまとまりを見せていく。
観客のまばらな手拍子が真夜の演奏と共に統一されていく。
アドリブだった。
ドラムもベースもない、完全に真夜ひとりきりのフリーソロだった。
観客もプレイヤーもスタッフもみな巻きこんで新たな音楽を生み出してゆく。
ハンドクラップが刻むリズムに乗り、真夜は自在にアルトサックスを操る。
何者にも支配されない、真夜だけのメロディがそこにはあった。
コーラス終盤にむかってフレーズが加速していく。
苦手だというくせに、信じられないほど正確で早い音符の羅列を紡いでいく。
低音を混ぜて逸る気持ちをじらしながら、上へ上へと昇っていく。
風のように揺らめく音程――真夜の音色の先に、数えきれないほどの星が輝く夜の天盤が見える。
高木のフィル・インにあわせて、伶次が弦の上で指をスライドさせる。
見事に元の演奏に戻る。六コーラス目から、テンポは二倍の速さになった。
巻き起こる歓声に答えるように、アルトサックスの激しいフラジオが響き渡る。
葉月は我を忘れて、観客と一緒になって声を上げていた。
真夜のソロは止まらない。
予定していたコーラス数を大幅に超えても、誰一人やめようとする気配はない。
真夜は左手でサイドキィを押さえながら、右手の指を四本立てた。
四小節ずつ交代で演奏する4バースの合図だ。これも予定になかった。
葉月は息を飲んでテナーサックスをかまえる。
波に乗った真夜のソロから始まり、高木のドラムプレイ、それから葉月のたどたどしいアドリブに続く。それからまた高木のドラム。
一コーラス分続けたあと、高木のフリーソロに突入した。
先ほどまで隣で静かに笑っていた人とは思えないほど、圧倒的な演奏が鳴り響く。
きっちりとハイハットのペダルを踏みながら、ハイタムやミッドタム、何枚ものシンバルを流れるように叩いていく。
こめかみから汗が流れ落ち、つたっていった首元で黒皮のネックレスが見えかくれしている。
頭の位置をほとんど変えずに腕だけをふり上げ、ドラムセットと一体になって激しいリズムを生み出していく。
高木が巻き起こす竜巻のような上昇気流が、観客席の熱を上げていくのがわかる。
突き刺さるような視線を感じ、ふと観客席の最後列を見ると、そこには兄の姿があった。
眼鏡のレンズが照明を反射して表情は読み取れなかったが、口を一文字に結んだまま、高木に視線を注いでいた。
同い年にして人生を音楽に賭けると決めた高木の姿を見て、何か感じるものはあるのだろうか、と思った。
伶次が頭を指さしてテーマに戻る合図を出した。葉月がマイクを握りなおすと口元に笑みを浮かべてうなずいた。
葉月と目配せをしたあと、真夜もアルトサックスをかまえた。
声援が波のように襲いかかり、鳥肌が立つのを感じながら歌を歌った。
真夜が同じようにメロディラインをかぶせてくると、頭の芯がしびれてピッチのずれなどどうでもよくなった。
葉月の体は真夜の音に満たされていた。
大歓声と共に曲が終わった。
湧きあがる興奮が体の外に溢れ出しそうだった。
真夜は深くおじぎをしながら、肩を揺らして呼吸を整えていた。
観客席の中に、涙をぬぐっている夫婦がいる。
年の頃からして、伶次の両親なのかもしれないと思った。
真っ白の襟付きシャツを着た伶次が、袖で額の汗をぬぐう。
この日、初めてMCマイクを持つと、またどこからか口笛が聞こえた。
「えー……残すところ、あと一曲となりました。ここまで聞いてくれた皆さん、ありがとうございます」
テーブル席からブーイングの声が聞こえる。あの辺りには部員や伶次の知り合いが座っているはずだった。
伶次は、まあまあ、と手をふって笑った。その手で首をおさえて咳をつく。
会場がしんとなった。
「僕が十八のときに結成して以来、四年も続いてきたこのコンボですが、本日の演奏をもって解散することになりました。今まで応援して下さった皆さん、本当にありがとう」
観客の温かい拍手に包まれて伶次が頭を下げた。
「僕とドラムの高木さんはまだしばらく日本でライブをやるんですが、真夜は今夜限りでアルトサックスをやめるそうです。最後に真夜のいかれたプレイを存分に堪能していってください! では、最後の曲は……」
落ち着きかけた脈動が徐々に強さを増していく。
伶次の声がフェードアウトしていく。
葉月の視線に気づいたのか、真夜が背を丸めたまま顔をむけた。
カウントが始まっているのに、葉月はマイクを下げたままだった。
「うそでしょ」
「本当だよ」
嘘ばかりで本音を言わない真夜――なぜこんなときだけ、本当だと認めるのだろう。
歓声が最後の曲『オール・オブ・ミー』へと導いていく。
誰にも、止められない。
全ての演目と後片づけを終え、解散する頃には午後十一時をまわっていた。
演奏が終わってからも、常に誰かが伶次や高木をつかまえていて話しかけることすら出来なかった。
観客席にひきずりこまれた真夜は、それきり戻ってこない。
まとめた自分の荷物を見ながら息をついた。
きっと今夜は仲間と演奏の余韻を味わうこともできないまま、あわただしく終わっていくのだろう。
狭苦しい楽屋を出ようとすると、誰かが腕を引っぱった。
「おつかれさま」
爽やかな笑顔でそう言ったのは伶次だった。
全身にたちこめていた暗雲はすっかり消え去ったようだった。
葉月は扉を閉めて言った。
「お兄さんの曲、構成が変わっちゃってびっくりしましたよ」
「直前になって、真夜が一コーラス丸ごと任せてくれないかって言い出したんだ。戻ってからの倍テン、ドラムソロ前の4バースは予想外だったけど、スリルあったろ?」
伶次はいたずらっぽく笑った。真夜が自分から構成を変えるのは初めてのことだ。
けれどもう、これで最後になる。
「ここまで付き合ってくれてありがとう」
目の前に手が差しだされた。葉月が握り返すと、伶次は肩を抱きよせた。
荒れた指先が首筋にふれる。反対の手が背中を軽く叩く。
葉月の胸に熱いものがこみ上げてくる。
プレイヤーとしての抱擁を交わしたあと、伶次は体を離した。
葉月は腕からブレスレットをはずしてさし出した。
伶次はため息をついて言う。
「いいよ。あげるつもりで渡したんだし」
「これは、もらえません」
葉月は微笑みかけた。伶次は無言で受け取ると、自分の腕につけなおした。
楽屋に入ってきた高木が伶次の髪の毛をくしゃくしゃにしていった。
彼らは本当の兄弟のようにくすぐったそうに笑っていた。
重厚な扉を押し開けてひとりで店の外に出た。
街はすっかり闇に包まれていた。
長い時間、熱気の中にいたせいか、肌にしみるような冷気が気持ちよかった。
頬に手を当てる。体にこもった熱はなかなか引きそうにない。
藍色の空に米粒のように小さい星が見える。
都会の星らしい、弱々しい光を放っている。
店の前の花壇に座って夜空を見上げていると、真夜がうしろから植込みを乗り越えてきた。
頬がずいぶん上気している。
「お酒、だいぶ飲んだみたいね」
「飲んでませんよ」
「じゃあ手に持ってるのは何よ」
「幸福になれる神の水だよ」
真夜の手の中にある瓶には「ソルティー・ドック」のラベルが貼られていた。
酒に強くもないのに、本番後、同じ大学の仲間やプレイヤーたちに浴びるほど酒を飲まされているのを葉月は見ていた。
その後、ひっくりかえってしまって隅の席で彼女に介抱されていたのも知っている。
アルトサックスのように金色の光を反射している瓶を見ながら葉月は言った。
「本当にやめるの?」
「そうだよ」
「どうして?」
「今やりたいことをやろうと思って」
「何をやりたいの?」
「写真とか」
「本気で言ってるの?」
たしかに以前、『パーディド』にはられた写真を見ながら「写真っていいよね」とつぶやいていたことがある。
物事の核心に触れないように、何かごまかしているのだろうと感じた。
真夜は瓶のふたを開けたり閉めたりしている。
「冗談だよ。サックスは好きでやってきたけど、悔しいって気持ちだけじゃもう前に進めないところまで来ちゃったんだ。もっと好きじゃなきゃだめなんだ。伶次さんや高木さんみたいにね。僕には何か足りないんだ。だからこの辺でやめて、新しいことに挑戦してみようかと」
頭を横にふったり揺らしたりと、いつもの挙動不審な動きをしていたが、気持ちに迷いはないことは伝わってきた。
澄んだ真夜の瞳を見ていると、ここで自分が説得しても何の効力もないと、痛いほどよくわかった。
「残念だな。真夜とはまた一緒にやれると思ってたから」
真夜は葉月を一瞥して、どこかに視線をそらした。
返事がかえってこないことはわかっている。
目の前の大通りを何台もの車が通り過ぎてゆく。
足早に横切っていく仕事帰りのサラリーマンが地下道の入り口に吸い込まれていく。
都会のはかなげな星に混ざって、ビル群に点灯する赤い光が存在感を放っている。
変わらない日常の光景――けれど知らぬ間に常に何かが終わりにむかって歩みを進めている。
葉月は終わりを目の前にして立ちすくんでいる。
足元が震えて動けない。
「ねえ、葉月さん」
「なあに」
「一瞬が永遠に感じることってある?」
真夜の横顔が見える。
思い出されるのはあの青い舞台だ。
初めて聞いた真夜のフリーソロ――とどまるところを知らず、誰にも止められず、遥か彼方にかけ抜けていきそうだった。
高揚感が戻ってくるのを肌に感じながら、葉月は言った。
「真夜の音色は、ずっと聞けるものだと思ってたよ。やっと声も戻ってこれからだって。あの練習の毎日が永遠に続いてほしかった」
「僕もだよ」
真夜はいじっていたふたを開けて、酒を口に含んだ。
無理に飲もうとしているのか、口の端から黄色い液体がこぼれ落ちる。
限界の量はとっくに超えているのだろう。
葉月は瓶を取り上げた。真夜は口元をぬぐって言った。
「僕も……あの瞬間が永遠であってほしかった。もう一度生まれ変わってでもやりたいって思う。でもね、高木さんは年内にはニューヨークに飛んじゃうし、伶次さんも来年のコズミックはないでしょ。今がやめどきなんだ」
真夜の広い額を冷たい夜風がなでていく。遠い目をしている。
葉月は瓶のふたを開けると、口をつけた。
グレープフルーツの酸っぱさのあとに、ジンリキュールの苦さが襲ってくる。
喉が焼けるように熱くなった。
思わず「にがーい」と言いながら、真夜の前に瓶をさし出した。
「神の水、飲む?」
「やめときます」
瓶のふたをきつく締めると、手の上で転がしながら言った。
「そういえば薬はやめられたみたいだね。いいピッチしてたよ」
「葉月さんの耳には感服です。神が宇宙の目で僕を見張ってたからね。悪いことに手出しができなくなったんだ」
「なにそれ」
「コスモ教だよ。葉月さんも入るべきだよ」
酒のせいなのか、話がおかしくなってきた。
コスモ教は信じないけれど、薬を絶ったことは信じようと思った。
むかいのオフィスビルの明りがひとつ、またひとつ消えてゆく。
ミッドナイトブルーの空が濃さを増していく。
ブルー・ノートの前以外は、ほとんど人の通りがなくなった。
夕刻時には排気ガスを撒き散らしながらひしめきあっていた車の列も、スムーズに流れ始めている。
街の明かりに負けていた星たちが、少しずつ姿を現していく。
瓶を置いて立ち上がろうとしたそのとき、一本の銀色の糸が空を横切った。
目を疑ったが、楽器の音色のように、夜空にその余韻を残していた。
「真夜、流れ星!」
空を指さしながら反対の手で真夜の肩を揺すると、面倒臭そうに立ち上がった。
「うそ言わないでよ。こんなところで見えるわけないでしょ」
「本当だってば。今、流れていったんだから。くやしいなあ、もう一回流れて……」
不意に真夜が葉月のあごをつかんだ。冷たい指をしていた。
力に逆らう間もなく、真夜のくちびるが頬にふれた。
皮がむけてざらついた感触と吐きだされる息の熱さが伝わってきた。
ぬくもりが胸の底を突き抜けていく。
真夜はあっさり手を離すと、何もなかったように空を見上げた。
葉月はゆっくりと頬を手で押さえた。
「神様に……見張られてるんじゃなかったっけ」
「神はたった今、よそ見をしておられた」
「都合いいんだから」
葉月は頬をなでた。
鼓動が静まらない。真夜は空ばかり見ている。
「その証拠に神はひとつ星を落とされた」
葉月の瞳にはまだ流れ星の残像が残っている。
真夜と初めて話をしたのも、こんな夜だった。
外は寒いのに体は熱くて、星がたくさん流れていた。
握手を求めると応じてくれた。
細い手首に似つかわしくない大きな手のひら――この手がアルトサックスにふれることも、もうないのだろう。
一緒にステージに立つことも、こうして二人で夜の闇に立つことも――
ブルー・ノートの表看板の明りが消えた。闇の中に薄紫色が溶けていく。
無人となったビルディングの輪郭が空と地上の境をふちどっている。
冷たい風が真夜の短い髪をさらい、熱の引かない葉月の頬をなでていった。
握る手を離したくなかった。
もう一度、星が流れることを願って、夜空を見上げた。
(完)
紫音の夜 わたなべめぐみ @picoyumeko
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