10.ブラザー・シップ
山から海に向かって吹きつける北風に思わず身を縮める。
街中がクリスマスにむかってイルミネーションを増やし、行きかう人々がどこか楽しげに見える。
どの店に入っても、うんざりするほどジングルベルが鳴っている。
練習禁止令が出た日、真夜と伶次がどうしているか気になって、スタジオに足を運んだ。
どこのバンドも練習のない日で、音楽練習棟は閑散としていた。
地下に続く階段に枯れ葉が吹きこんでくる。エンジニアブーツの底で踏みしめると粉々に砕け散った。
第五スタジオの前に伶次の姿はなかった。
廊下が妙に広く、奥にあるスタジオの扉がよく見えている。
背後から吹きつける風が冷たく感じた。
帰ろうとすると、廊下の暗がりからライダースジャケットをはおった高木が姿を現した。
「葉月ちゃん? 何してんの、こんな暗いとこで」
「高木さんこそ……。今から練習ですか?」
「いいや、今日はフリー。ここに練習台を忘れていったから、取りに来たんだ。あいつら、来てる?」
「いえ、まだ会ってませんけど……」
楽器も吹けないのに、他大生の真夜が来ているはずがない。
高木は放置されているスティックの練習台をいくつか見比べて、あった、とつぶやいた。
ネジをゆるめながら、ハードケースの上に出しっぱなしになっているレスポールのエレキギターを見つめる。
練習台の脚を閉じて床におくと、ギターを持ち上げた。
「いや……来てるな。これ、祥太郎さんのギターだ。こんなものさわれるの、一人しかいないだろう」
まったく、粗末に扱うなよな。
高木はそうつぶやくと、クロスでギターのネックを丁寧に巻いてケースにしまった。
第五スタジオの中から初心者のようなトランペットの音が聞こえる。
くちびるを上手く震えさせられないのか音が長く伸びない。
リズム感が皆無に近いドラムの音も響いていた。
こんな時期に新入部員でも来ているのだろうか、と思っていると、高木が防音扉を押しあけた。
中では黒いショートコートを着たままの伶次がトランペットを吹いていた。
頬を膨らませて顔を赤くし、足をがに股に広げて立っている。
そのななめうしろで下手なドラムを叩いているのは真夜だった。
一応、同じ曲をやっているつもりらしいが、音もリズムもちぐはぐだった。
視線を交わしてタイミングを合わせようとしている。
高木が葉月を見てからため息をつくと、音が止まった。
「本物のばかだな、おまえら。何やってんの?」
「風を表現しているんです」
真夜はブラシでライドシンバルをこすりながら、口で「しゅううう」と効果音を出した。
徐々に勢いを増しながら、てんでめちゃくちゃにドラムを叩く。
伶次は真夜の緩急に合わせて、トランペットとは思えないくらい息のつまりそうな高音を鳴らした。
「タイトルは、『嵐』」
真夜は曲らしきもののタイミングを取ってそう言った。
伶次はドラムの様子をうかがいながら壊れたチャルメラのような音を出す。
ハイノートを出そうとトランペットを真上にかざすと、かわりに真夜が奇声を発した。
となりに立っていた高木の体がわずかに揺れて、それまでの仏頂面が笑い顔に変わった。
葉月も我慢しきれず、笑い声を上げた。
二人が笑うほど、真夜はドラムと奇声を激しくした。
「もういい、わかったから」
高木が笑いながらブラシを取り上げると、真夜は立ち上がった。
「どうです? 僕のセンス」
「最高だよ。こんなの聴いたことがない」
真夜も高木も笑いあっていたが、伶次は右手にトランペットをぶら下げて黙っていた。
高木は伶次の手ごとトランペットを持ち上げると、そっと指を離させた。
所どころに赤い傷跡が残っている。
「もうやめとけ。体、壊すぞ」
「はい」
「それから祥太郎さんの楽器、ほったらかしにするな。俺たち、触らせてもらえなかったんだからな」
「……はい」
目を細めると、伶次の頭に手を乗せた。少しも怒っていなさそうだった。
伶次はうつむいてしまったが、息をかみ殺して、泣いているように思えた。
高木はトランペットをパイプ椅子の上に置き、真夜と伶次の背中を押した。
二人ともおとなしく従った。
「さっさと帰れ。ばかなことしてないで、家で体を休めろ」
防音扉のそばに立って彼らの様子を眺めていると、真夜が伶次に押し出されながら真新しい譜面をさし出してきた。
「これ、フライミーだけでも」
「ありがとう……あ、他の曲、自分で書きかえるよ」
「そう? 読める?」
デイパックから無造作に取り出された『ストレート・ノー・チェイサー』の譜面は端がちぎれて、表記の違うものが何枚もあった。かなり難解そうだ。
「すぐには読めない……けど、これなら録音もあるし、やってみるよ」
「うん。じゃあ、また明日」
去ろうとした真夜のダウンジャケットを高木が引っぱった。
「そこにいろ」と言って真夜をとどめて、葉月の方にふりむく。
「ちょっといいかな」
伶次が廊下に出たのを確認してから、第五スタジオの扉を閉めた。
譜面から目を離して高木を見ると、先ほどまでとはうって変わって表情が曇っていた。
葉月は息を飲んで言った。
「あの……私も早く治しますから……」
「いや、葉月ちゃんのことじゃないよ。伶次のやつ、煙草やってるみたいなんだ」
――煙草。初めて『パーディド』でライブをしたときは、今は吸っていないと言っていた。
ぜんそく持ちで不健康そうなあの体に煙草は毒以外の何物でもないだろうと思った。
「吸ってるところ、見たんですか?」
「いや、現場は押さえてないんだけど、あいつを見てりゃわかる。でさ、俺が言っても聞かないだろうから、葉月ちゃんから言ってやってくれない?」
「やめた方がいいってことですか?」
「うん。死にたきゃ続けろって」
「わかり……ました」
死という言葉が重くこだました。
兄の祥太郎のこと、伶次の体のことを考えると、その言葉は息がつまるほど現実味を帯びていた。
「それと、真夜もなんかいけないことやってるだろ」
心拍数が一気に跳ね上がる――絶対内緒だよ。真夜の声が頭の中に響いた。
高木には言うべきなのかもしれない、そう思って唾を飲むと、ますます心臓が暴れた。
彼は腕を組んで口の端に笑みを浮かべた。
「答えなくていいよ。ジャズの世界って昔っからそういうの多いだろ? 俺は将来性のあるプレイヤーがそうやって壊れていくのを何度か見てきたんだ。だから何となくわかるってだけ。真夜は……葉月ちゃんがいれば大丈夫かな」
「私には……何もできないんです」
未だに治らない喉をさすりながら高木を見上げると、何も答えず、ドアノブを上げた。
「まだその辺にいるだろう。今日だけ、伶次といてやってくれないか」
優しい声と昨日は見せなかった微笑みが浮かぶ。
高木は廊下で待っていた真夜の背中を押して、二人で帰っていった。
身長差のせいで、真夜が女の子のように見えた。
正門を出たところで、伶次の姿を見つけた。
角の擦り切れたギターケースを下げ、とぼとぼと歩いている。
息を切らせながらかけよっていくと、伶次はゆっくりと顔を上げた。
やわらかい冬の日差しが伶次の痛んだ皮膚を温める。
葉月に気がつくと眩しそうに微笑んだ。
「腹減ったな。なんか買ってくか」
言われるままにコンビニに立ちよったあと、大学から駅までの通学路から離れた小道に入った。
古い住宅が密集する中に、ぽつんと小さな公園がある。
「ここ、穴場なんだ。大学の連中もめったに姿を見せないよ」
伶次はそう言いながらベンチに腰かけた。
となりにギターケースを置いて息をつく。
「ギターの練習してたんですか?」
「再来週の土曜に兄貴の追悼ライブをやるんだ。それで、俺が兄貴の代わりにギターと歌をやって、当時のメンバーで再結成しようって話になって……。歌はかんべんしてくれって言ったけど、声が似てるし、いいじゃんって吉川さんが言うからさ」
喉が焼けつきそうになった時、水をついでくれた姿が目に浮かぶ。
「そんな大事なことを忘れるなんて、ほんとどうかしてたよ」
黒髪が風に揺れる。瞳はまだ色を失ったままだったが、肩の力が少し抜けているようだった。
常緑樹のざわめきの中から、『オール・オブ・ミー』が聴こえる。
よくのびる優しい歌声、胸を震わせるテナーサックスのカウンターメロディ――CDをもらってから何度も聞いたライブ演奏の中に、伶次の理想があるのかもしれないと思った。
伶次はギターケースを開けて、レスポールのエレキギターを見つめた。
内ポケットの中から、黄ばんだ紙を取り出す。
そこには日付とライブの演目がメモされていた。
つづられたアルファベットは伶次の字ではなかった。
「兄貴が事故にあって死んだあと、実現できなかったライブがあるんだ。高木さんも吉川さんも出るはずだったけど、みんな憔悴しちゃって、ライブどころじゃなかった。兄貴が生きてればやるはずだったそのライブを、やっと再現することになったんだ。来年の今頃には俺も高木さんも日本にいないから、いい機会だって」
葉月は目を見開いた。
「高木さんも……ですか?」
「年内のライブが終わったら、すぐにでも渡米するって言ってたよ」
きっとこれが最後になる――真夜の言葉が腑に落ちた。
「さみしい?」
そう言って笑って見せた伶次の方が寂しそうに見えた。
コンビニで買ったおにぎりやサンドイッチを食べたあと、伶次は何やら鼻歌を歌っていた。
ギターで練習している曲なのだろうか。
節回しからジャズの4ビートだとわかったが、曲名を思い出せるほど、はっきりと聞き取れなかった。
冷たい風が葉月の指先を冷やし、伶次の傷ついた肌を優しくなでていく。
首の赤みは引いていたが、乾燥してはがれた皮膚のかけらが、ショートコートの襟もとに落ちていた。
「体の調子はどうですか?」
伶次は首を上げて皮膚を引っぱった。
「子供の頃に首の皮膚がほとんど剥けてしまったから、ここだけ再生能力が異常に高いんだ。ほら、皮が余ってるだろ。あとはそうだな、胸とか腕の内側はあんまりかな」
ショートコートを脱いで、シャツの袖をまくり上げる。
白い肌に赤い発疹が浮かび上がっている。
薬を塗っているのか、不自然に白くなっているところもあった。
「痛そうですね」
「まあ、いつもこんなもんだよ」
袖を下ろすのを見ながら、葉月は意を決して、高木に頼まれていた話題にふれた。
「あの、鞍石さん……煙草を吸ってるんですか?」
「……なんで?」
葉月の目を見たまま、ショートコートをはおった。
こういうときも、伶次は目をそらさない。
気を抜くと、自分自身が彼の空気に飲まれてしまう。
「高木さんが、やってるんじゃないかって」
「……まったく。かなわないなあ、あの人には」
伶次はおどけてお手上げのポーズを取り、視線を空へ逃した。
核心をはぐらかそうとする気配を感じとり、葉月はつめよって言った。
「やってるんですか?」
「う……ん。まあね。でも毎日じゃないよ」
「とにかく吸ってるんですよね。どうしてですか」
さらにつめよると、伶次は顔をそむけた。風に浮く黒髪をいじっている。
伶次は答えない。彼の言葉を聞くまで引きさがるつもりはなかった。
しばらくして伶次は大きなため息をつき、腕をさすりながら言った。
「気が変になるほど、痒みがおさまらない時があるんだ。そうすると、こう、コンパスとかそこらにあるもので、痒いところをギィーって引っ掻きたくなる。そういう時に煙草を吸うと、少し気が落ち着くんだ。それだけのことだよ。無意識に引っ掻いてるときもあって、こんなだけど」
伶次は手の甲を見つめた。いつ見ても知らない傷が増えている。
白い手の上に浮かぶ青い痣が痛々しかった。
「それはどうしたんですか?」
「うーん……明け方、咳がとまらなかったから、壁にでもぶつけたのかな」
伶次は手のひらをふって見せた。
喉を傷めて以来、このつらさを分かちあえる相手はいないと思っていたが、
伶次は葉月よりもずっと長い間、孤独な痛みを抱えながら生きてきたのだ。
そう思うと、気軽には「煙草をやめてください」とは言えなかった。
痣を見つめながら言葉につまっていると、伶次が顔をのぞきこんできた。
「俺のこと、心配してくれてるの?」
「当たり前でしょう。死んじゃったらどうするんですか」
葉月はありったけの声を上げた。
情けなくかすれる声しかでなかったが、顔のすぐ近くで語気を強くしてしまったので、伶次はうしろにのけぞった。
死という言葉が全身に痛みを走らせる。涙がにじみ出してくる。
祥太郎の話を聞いて以来、死はすぐそばにあるものだと、思わずにいられなかった。
目じりをこすってから謝ると、伶次は笑った。
ここ数日見せなかった明るい笑顔だった。
「煙草ぐらいで死にはしないけど、葉月が心配するなら、もうやめるよ」
「本当ですか?」
再び裏返った声を出すと、伶次はベンチに背をもたせかけて言った。
「真夜の心配をして、俺の心配までして、それじゃいつまでたっても喉が治らないよな」
伶次は葉月の首に手をかざした。手のひらの熱が空気を通して伝わってくる。
「今日はずいぶんマシみたいだけど、少しは治ったのか?」
「咳はおさまりました。あの……もし喉が治らなかったら、テナーサックスで出たいんです。真夜にもそう言われて、書きかえた譜面ももらったんですけど」
真夜から受け取った譜面をさし出しながら、自分から伶次に何かを頼むのは初めてだと思った。
「だめだ、そんなの」
伶次は葉月をのぞきこんでそう言った。
視線が胸の底まで突き抜けていく心地がした。
「逃げるようなことを言ってたら、絶対治らない。吹きたいなら、歌もテナーサックスもどっちもやるって言いな」
「吹いても……いいんですか」
「真夜に頼まれたんだろ? あいつがその方がいい演奏できるっていうなら、構わないよ。ただ葉月の負担は増えるけど」
「あの、鞍石さんに負担がかかるってことはないですか……」
テナーサックスを入れることになると、本番の持ち時間に収めるため、歌やソロの都合で構成が変わることになる。
これまで曲の構成を作ってきたのは伶次だったので、それが気がかりだった。
伶次は真夜が書いたくしゃくしゃの譜面を受け取りながら言った。
「いい演奏ができれば俺はそれでいい。真夜と葉月が三倍がんばればすむことだ」
「がんばります。真夜にも、鞍石さんにもこれ以上、迷惑をかけないように」
「だからさあ、伶次って呼んでほしいのに。真夜ばっかりずるいよ」
そう言って苦笑いをした。
伶次らしくないセリフに笑い声を上げると、彼も笑った。
調子の悪そうな体も、笑顔でいると治っていくように思えた。
伶次はレスポールのギターを取り出して、たどたどしい手つきで弾き始めた。
形はエレキベースに似ているのに、弦を探りながら素人のような音を出している。
「ギターを抱えてると、違和感ありますね」
「トランペットも、だろ?」
「あれはかなりおもしろかったです」
思い出し笑いをすると、伶次も笑顔を見せた。
「けっこう吹けると思ったんだけどな」
伶次は照れていた。あんなに不格好な姿を見るのは初めてだった。
プレイ中はいつも冷静で、取り乱すところも見たことがなかった。
何をやってもさまになる人だとずっと思っていた。
不意に何か曲を歌い始めた。先ほど聞いた鼻歌の旋律だった。
あいまいだったAコーラスのあとに、はっきりとした口調でサビにあたるBコーラスが始まった。
伶次の声に交じって、祥太郎の歌声が聞こえる。
会ったこともないのに、ギターを抱える姿まで目の前にありありと蘇るようだった。
ミスの音が混じるとその姿は伶次に戻り、高らかに歌うと祥太郎の表情が垣間見える気がした。
「これ、兄貴が作った曲なんだ。コズミックでやろうかどうか散々悩んだけど、歌がないと物足りないし、これ以上、葉月に負担かけられないしな」
「この曲、最後まで歌えます。必ず喉を治しますから、やりましょう」
CDに収録された曲の中で、最も好きな曲だった。「レット・ミー・シング」という言葉が何度も出てくる。
ミディアムテンポの優しい曲だが、歌いたい、もっと歌いたいという祥太郎の気持ちが強く伝わって、胸をしめつけるようだった。
伶次はうなずいて、再びBコーラスを歌い始めた。
――生まれ変わっても、ずっとこの歌を歌っていたい。
言語は英語だったが、口ずさんでいると、祥太郎が心の中に描いていた風景が眼前に蘇るようだった。
最後まで弾ききると、伶次は顔を上げた。
「こんな歌作るから、あの世に連れてかれるんだよ」
瓦屋根のむこうに陽が傾き始めている。 ベンチのうしろに長い影が続いている。
枯れ葉が足元で遊び、冬の乾いたにおいを乗せた風が伶次の頬をなでる。
夕焼け空を眺める瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。
行く先も決めず、葉月は夜の繁華街をうろついていた。
駅で伶次と別れたあと、自宅の最寄り駅で下車せず、そのままこの辺りでは一番大きいターミナル駅まで来てしまった。
目的は何もない。ただ、家に帰りたくなかった。
葉月が喉を傷めて以来、なぜか兄の風当たりがきつくなった。
夕食を共にしても葉月からは一切声をかけないのに、「学生はお気楽でいいよな」「喉までつぶすなんて本当の馬鹿だよ」と暴言を吐いてくる。
普段は母親にむいている苛立ちのはけ口が自分に移っただけのことだと、頭の中では理解していても、何の手も打とうとしない父親と、助け舟すら出さない母親に恨みが募るばかりだった。
反論すれば、どんな剣幕で襲いかかってくるかわからない。
成人した兄相手に、自分ができることは何もなかった。
まだ十歳になったばかりの弟に、どうか矛先が向かいませんようにと願うばかりだった。
そういえば真夜も、激しい兄がいる、と言っていた。
中高一貫の男子校で目立っていたのなら、真夜も目をつけられたりと要らぬ苦労をしていたかもしれない。
クリスマス用にデコレーションされた靴屋のショウウウィンドウをぼんやり眺めていると、背後で聞き覚えのあるクラクションが鳴った。
誰かが名前を呼んでいる。
ふりむくと、路上にワンボックスカーが止まった。
下りたパワーウィンドウから顔を見せたのは高木だった。
「まだ帰ってなかったのか。伶次は?」
すっかり体が冷え切ってしまったせいか、思考回路がうまく働かない。
もごもごと説明していると、あわただしく高木が下りてきて、「とにかく乗った乗った」と言いながら葉月を車内に押しこんでしまった。
いつもなら心地よいBGMが流れているのに、珍しくステレオを切っている。
「たまに無音にしないと、耳がおかしくなるからな」
心の中を読むようにして高木は言った。
左右に並ぶ車の動きに合わせて、ワンボックスカーが動き出す。
前方に連なる車のブレーキランプを見つめながら、一体どこにむかうのだろうと靄がかった頭で考えた。
「飯食った?」
なめらかにハンドルを操作しながら、高木がつぶやく。
フロントパネルの表示を見ると、午後八時を回っていた。
夕食のことかと思い、葉月は首をふった。
「よし。近くにうまいラーメン屋があるんだ」
低い声でそう言って脇道に入ると、ぐっとアクセルを踏んだ。
疲れ切った葉月に、なぜあんなところにいたのかとは聞いてこなかった。
抑揚の少ない落ち着いた声が、静かに心を緩めてくれる。
中華街でラーメンや飲茶を食べて体を温めると、幾分か平常心を取り戻していた。
早く帰って体を休めなければ、真夜や伶次にますます迷惑をかけてしまう。
真夜から受け取った譜面に目を通さなければいけないし、祥太郎の曲を歌う約束もした。
今頃になって焦燥感が募る中、高木はどこかにむかって車を走らせた。
ライブのたびに通った道だったが、葉月の帰宅コースからはすっかりはずれていた。
高木は波止場に近い路上に停車させた。人気はなく、港から吹きつける風が体温を奪っていく。
ワンショルダーバッグを背負っている高木の背中を追っていくと、潮の香りが鼻をかすめた。
埋め立てて造られた波止場の一画に、大震災で崩壊した沿岸部のなごりが残されている。
来た道をふり返って夜空を仰ぐと、赤く光る砂時計のような形をした塔がそびえ立っていた。
高木はちらりとも見ずに、光の少ない敷地の方に向かって歩いていく。
その先にはただ、暗い海が広がっていた。
右手に見える巨大なホテルが、目がくらみそうなほどの照明を輝かせている。
高木がベンチに腰を下ろして煙草に火をつけた。
葉月は黙って隣に座った。
「夏場はカップルが多くて落ち着かないけど、さすがにこの寒さじゃ誰も来ないな」
そう言って煙を吹き出した。
「伶次はどうだった」
「煙草は吸ってたみたいです」
「やっぱりな。他には何か言ってたか?」
「お兄さんのオリジナル曲をやりたいって言ってました。私もずっとあの曲を歌いたいって思ってたんです」
「それは同感だ」
高木の低い声が静かな波止場に響く。
頬を切るような風が吹き、葉月はダウンコートについたフードを被った。
「鞍石さんみたいに、まっすぐにお兄さんを尊敬できるのってうらやましいですね」
「葉月ちゃんはできない?」
「うちには……ちょっと問題を抱えてる兄がいて……家にいても気が休まらないんです」
「そういうの、俺もわかるけどね。俺んちは親父が最低だったからな」
立ちのぼる煙の中から、高木の横顔が垣間見える。
「俺の親父は重度のアルコール中毒で、おふくろを殴るわギャンブルで借金こしらえてくるわで、何度殺してやろうと思ったかわからない。俺が高三のときに肝臓をやられて、あっけなく死んだときは、正直ほっとしたよ。祥太郎さんが亡くなったあとのことだったし、こんな話、とても伶次にはできなかったけどね」
そう言って口の端を上げた。
いつもの自信にあふれた強気な眉は、どこか弱々しく見えた。
気づくと葉月は家族の話をしていた。
風子や他の友人たちには一度もしたことのなかった、兄のことや家族が壊れていく経緯を事細かに説明した。
高木はただ相槌を打つだけで、批評をはさむことは一切なかった。
「兄は私のことを、学生のくせにお高い楽器を買ってもらって調子に乗るな、女は気楽でいいよなって、顔を合わせるたびにばかにしてくるんです」
そう言いながら、兄の気配を背中に感じるようだった。
震えだしそうなこぶしをこらえながら、声を出す。
「高木さんは……音楽にすべてを賭ける人生に迷ったことはないんですか」
携帯灰皿に煙草を押しこむと、高木はゆっくり話し始めた。
「迷ってばっかりだよ。おふくろのためにまともな職に就くべきだとか、あんな最低な親父の血を引く自分にプロになれる器があるのかとか、金がないんだから留学なんてできない、とかね。結局は親に責任転嫁してるだけだったんだ。俺は俺なんだから、信じる道を行くしかない。いつか死んであの世に行ったとき、胸を張って祥太郎さんに会えるようにやるしかないって……そう思えるようになったのはつい最近のことさ」
海の方から船の汽笛が聞こえた。耳をすませると波の音も聞こえるようだった。
毎日のように大音量のスタジオの中で過ごしたせいで麻痺していた聴覚神経が、徐々に冴えわたっていくようだった。
水平線のむこうから、まばゆくライトアップされた客船が姿を現す。
「祥太郎さんと一緒に、船上ライブをしたことがあるんだ。たしか創立記念パーティの余興だったと思う。楽器を積んで出港したときはいい天気だったのに、どんどん雲行きが怪しくなっていった。演奏をする頃には外は嵐さ。祥太郎さんは外を見ながら、死ぬときはみんな一緒だなって苦笑いしながら言ってた。吉川さんも笑ってたし、その場しのぎの冗談だったけど、この人たちと演奏しながら死ぬならそれも悪くないって俺は思ってたんだ」
高木が指さした客船が、青い光を灯したホテルのすぐ前に入ってくる。
試運転だったのか、下りてくる乗客の姿はなく、この時間には不似合いな明るいBGMが漏れ出している。
「でも祥太郎さんはひとりで死んでしまった。いつどこで誰と死ぬかなんて、きっと誰も決められない。命のリミットがわからないなら、そのとき自分が信じることを必死になってやるしかないだろ?」
遠い目をしていた高木が葉月の方をむいた。
船は停泊しているのに、BGMだけがどんどん近づいてくる。
高木は逆立てていた金髪をかきむしると、あーあ何言ってんだろ、と言って息を吐いた。
それから少し、お互いの家族の話をした。
夜更けの浜風は頬に血をにじませそうなほど強く吹いていたが、冷え切った心は少しずつ熱を取り戻していくようだった。
すべて話し切ったあと、胸の深いところに蓄積していた澱が、溶けていった気がした。
立ち上がって伸びをすると、高木もうしろに腕を反らせた。背負っていたワンショルダーバックに手をいれると、紙切れを何枚か取り出した。
『コズミック・ジャズ・フェスティバル』の前売りチケットだった。
風子に言われるまま部員に配るとあっという間になくなってしまい、葉月の手元には一枚もなかった。
「兄貴にも来てもらいな。ただし、ちゃんとライブ代金を払わせるんだ。これだけの金を払う価値のある音楽を、兄貴の前で見せつけてやるんだ」
うなずいてチケットを受け取ると、高木が手を差しだしてきた。
二本のスティックを自在に操る、力強い手のひらだった。
握手を交わすと、高木は不敵に微笑んだ。冷たい指先の奥に、熱く流れる血を感じる。
「葉月ちゃんの歌にはいつも風景が見える。俺に歌詞の意味は分からないけど、色鮮やかな光景が目の前に広がるんだ。合宿場で初めてあわせたとき、祥太郎さんが舞い戻ったのかと思って背筋が震えたよ。伶次も、同じことを言ってた。真夜もきっと、あの歌声が帰ってくるのを待ってる。きっと祥太郎さんがあの世から力を貸してくれるよ」
葉月は微笑みかえした。これまでやってきた自分を信じて、その時を待つしかなかった。
停泊中の船からジングルベルが聞こえる。コズミックは、もうそこまで迫っている。
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