9.欲求


 五日間にわたる学祭が終わり、大学が元の静けさを取り戻した頃、真夜はまた坂道を転がるように音の質を落としていった。


 ピッチが悪く、同じ失敗をくりかえす。

 すぐにフレーズを忘れてしまう。リズムがずれると元に戻れなくなる。

 集中力もない。


 薬に手を出しているのは明らかだった。

 葉月が何度やめるように忠告しても、約束はその場だけだった。

 口を右下に引きのばす癖はより頻繁になって葉月を苛立たせた。


 葉月の喉も、日ごとに悪くなっていく。

 今日は昨日よりも、明日はおそらく今日よりも悪くなっていくという不安に常にさいなまれていた。


 医者は伶次と同じことしか言わなかった。

 炎症をおこしているからあまり声を出さないようにと表情も変えずに言った。


 忠告を守っているつもりだったが、声を出さないでいるとますます出なくなっていった。

 喉を使えば治らないかもしれないが、使わないまま歌えなくなったらどうするのか――矛盾した焦燥感がじわじわと葉月をしめつけていった。


 真夜はどうして薬をやめないのか――その原因もつかめないでいた。

 やめれば元の調子を取り戻せるのに、なぜ自ら音質を落としていくのだろう。

 薬に何を求めているのだろうか。

 背筋を震わせる音色はもう聞けないのだろうか。


 人気のない生協裏のベンチでひとり座っていると、とめどなく思考があふれ出た。

 枯れ落ちた葉が葉月のショートブーツをなでていく。

 回収し損ねた学祭のチラシが柱にはられたままになっている。

 夕日が西の空に傾いている。

 ロングTシャツ一枚で外に出てきたため、じっとしていると体が冷えてきた。


 ホットミルクティーの空き缶をくず入れに投げ込む。

 乾いた音が響きわたる。首からかけたストラップを見つめて、息を吐いた。


 喉の痛みが消えない今、自分にできることはテナーサックスを吹くことだけだった。


 第五スタジオの前で伶次がウッドベースを抱えている。

 学祭を終えて以来、誰もが気付くほど神経を張りつめていた。

 部員が声をかけても挨拶以外の会話をしない。

 ウッドベースをかまえると周囲の空気を一切遮断して、弾くことに没頭していた。


 葉月が前を通りかかると、空のペットボトルを激しく壁に投げつけていた。


 体をかたくして彼を見ると、そこに葉月がいることにようやく気づいた様子でウッドベースを廊下に寝かせた。


「ごめん。当たらなかったか」


 少し冷静さを取り戻した表情でペットボトルを拾いあげた。

 背中を丸め、そのまま廊下に座りこんだ。

 手の甲に見覚えのない傷があった。


 彼は何も口にしないけれど、苛立ちの原因の半分は自分と真夜にある、と葉月は考えていた。

 しかしそんな考えを抱いても物事は何一つ好転せず、咳が止まらなくなるだけだった。




 コズミック本番まで十日を切った日、伶次の苛立ちが頂点に達した。


 相変わらず真夜は薬をやめず、目の下に隈を刻みこんでスタジオにやってきた。

 立っているのもつらそうな状態だ。練習中も集中力が全くなく、伶次や高木の話を半分も聞いていなかった。


 当然、要求されたことができない。

 それどころか、この日までに完成させてきた部分もできなくなっていた。

 もう一度、もう一度と吹こうとするが、やり直しのたびに別のミスを重ねてしまう。

 見ているのがつらかった。


 伶次は真夜を責めず、辛抱強くアドバイスをくりかえしたが、真夜は応えられなかった。


 一時間ほど練習が続き、修正の仕様もないほど演奏が崩壊すると、伶次はウッドベースを弾く手をとめてしまった。


「やめだ」


 真夜も高木も演奏をやめて伶次を見た。

 ウッドベースを抱えたまま譜面を片づけようとしている。

 真夜の顔にあせりの色が浮かぶ。譜面台をよけて一歩、伶次に歩みよった。


「すいません。ちゃんとやりますから」

「もういい。これ以上やったって無駄だ」


 伶次は真夜を見ずに、ウッドベースを横倒しにした。

 アンプのつまみをひねってシールドを引き抜く。

 真夜が唖然としている間に、ベースのブリッジに取り付けたシールドも抜き、手早く束ねた。

 真夜はさらに近づいて伶次の腕をつかんだ。


「ごめんなさい。次はできます。帰らないでください」

「おまえがそんな状態で、これ以上続けることに何の意味がある?」


 そう言い放って真夜の手をふりはらった。

 本気で帰ろうとしているようだった。


 葉月はどうすることもできず、ただ立って、こみ上げてくる喉の疼きをこらえていた。

 真夜は首からアルトサックスをぶら下げたまま、呆然と伶次の動きを見ていた。


「伶次、次の練習はいつだ」


 それまで黙っていた高木が低い声を響かせた。

 ベースのソフトケースを引きずってきた伶次が顔をあげて言った。


「コズミックの本番まで、スタジオは毎日取ってあります」


「そうか、じゃあ明日の練習はなしだ。おまえら明日一日、自分の楽器にさわるなよ。少しでもさわったら俺はコズミックを辞退するからな」

「な……」


 伶次と真夜が同時に声を出した。

 その先は言葉にならず、顔を見あわせて突っ立っている。

 高木は平然とした様子で立ち上がり、ドラム周辺に置いたスティックをかき集めた。


「一日休んで、頭を冷やせ」

「何言ってるんですか。もう十日もないんですよ。このままでも危ないのに」


 伶次が声を荒げても高木は反応しなかった。

 長身を曲げて床に置いたスティックケースを拾いあげる。

 ちらりと真夜を見たあと、伶次に視線を移した。


「こんな状態でコズミックにでるつもりか。俺はごめんだね。おまえだって相当リズム感が狂ってるんだ。そんなことにも気づいてないんだろ?」


 伶次は息を飲んでうつむいた。葉月は喉を押さえこんだ。

 咳をしたい衝動がすぐそこまで来ている。

 かゆみと痛みが口腔の奥で暴れまわり、平常心をかき乱す。


「明日は休め。いいな」


 高木はそう言い残してスタジオをあとにした。

 取り残された三人は黙って立ちつくしていた。誰も目をあわそうとしない。

 伶次はため息をついてソフトケースのジッパーをひいた。

 真夜はどこを見るともなくアルトサックスを手にしたままだった。


 葉月は第五スタジオを飛び出した。


 乾燥した廊下に出ると、一気に咳が押しよせてきた。

 嘔吐するように、体中の空気が吐き出される。

 そのたびに喉が痛んだ。

 息を吸えば喉元に塵の混ざった空気が引っかかり、酸素が肺に届く間もなく押し出された。


 葉月は両膝に手をついて体を前に曲げた。 足元がふらつき、視界が揺れている。立っていられないほどの脱力感が襲ってくる。

 コンクリートがむき出しになった壁に手をつき、重い足を運んだ。




 第二スタジオのドアノブにすがりついて防音扉を開いた。

 誰もおらず、葉月のテナーサックスが出しっぱなしになっている。

 空のアルトケースが床に転がり、大きなヘッドフォンと無数のスコアが椅子の上に散乱したままだ。


 誰かが使っていたのか、ピアノのふたが開いたままになっている。

 鍵盤のすみに小さなテンポ―マシーンが残されている。


 すべてが静かだった。通気口を出入りする風の音だけが鳴っていた。

 真夜の楽譜をよけて長椅子に腰を下ろす。

 息をつくと、その延長上に咳が出た。


 口に手を当てながら水の入ったペットボトルを探したが、一口分も残っていなかった。

 テナーサックスを吹いている間に飲みほしてしまったのを忘れていた。


 長椅子に戻り、咳をしながら体を折り曲げる。

 すでに咳止めの薬は効かなくなり、自分の体なのに止め方がわからなかった。


 しかしこの咳が体を治そうとしているのではと、なんとなく感じていた。

 喉に居座る具合の悪いものを外に追い出そうとしている――疲弊してしまった心の中からも、全部。


 ドアノブがおりる音に反応して顔を上げると、真夜が体とアルトサックスを半分だけ見せていた。しばらく待ったが、それ以上入ってこようとしない。


「真夜」


 声は音にならず、空気が喉をけずった。咳が誘発される。

 葉月が咳きこみ始めると真夜はスタジオの中に入ってきた。

 楽譜を床に置いて、アルトサックスを持ったままとなりに腰かけた。


「大丈夫?」

「……じゃない」


 顔をむけると、真夜は葉月をのぞきこむような目をしていた。


「咳が止まらないときは、大きくゆっくり息を吸うんだよ。ほら、こうやって」


 真夜は胸をそらし、息を吸いこんだ。

 葉月はこみ上げる咳を飲みこんで、酸素を取りこもうとした。

 腹式呼吸の練習をするときのように横隔膜を使うイメージで限界いっぱいまで吸い、息をとめる。

 一気に吐き出さず、腹筋で支えながらゆっくりと吐き出す。


 真夜は葉月のリズムにあわせて同じように呼吸し、大げさに体を前後させた。

 四、五回くりかえすと全身の疼きがおさまり、呼吸も落ち着いた。

 飲みこんだ唾が喉に痛みを与えて胃に流れ落ちる。


「痛いの?」


 真夜はあごを下げて、右手で喉元を押さえた。

 それを見て、自分の右手が喉を押さえていることに気づいた。

 そうすることで体の内側と外側の感覚が一緒になり、痛みが軽減する気がしていた。

 押さえたまま、痰を切るようにして喉を鳴らした。


 真夜は立ち上がってアルトサックスをパイプ椅子に置き、黒いフェイクレザーのトートバッグからミネラルウォーターのボトルを取り出した。


「飲みかけだけど、いる?」

「ありがとう……」


 ボトルを斜めにしてから、どうやって飲んでいたのか考えた。

 うまく飲み下せない。

 口の端から生ぬるい液体がこぼれていく。

 何の苦痛もなく、水が首筋をつたう。


 ボトルの先から口を離して首をこすった。

 となりに座った真夜の、開いたままの口から白いできものが見えた。


「サックス吹くと、痛そうだね」


 葉月が口元を指さすと、真夜はくちびるを噛んだ。

 組んだ手が軽く震えている。

 華奢で血管が薄く見えている手首を眺めながら、葉月は言った。


「……薬、何てやつ使ってるの?」

「ハイ・トゥリー」

「それ聞いたら、高木さん、怒るよ」

「そうだね。高木さん、怒ってたなあ」


 真夜は苦笑いをして横に寝かせたアルトサックスに視線を移した。

 手を握りしめ、口を右下に引きのばす。

 何度も、何度も――見ていると咳が出た。


 ――どうして。咳と一緒にしぼり出すような声が漏れた。真夜がふりむく。


「何か言った?」

「……どうしてやめないの?」


 真夜は目をそらした。組んだままの手を見つめている。


「どうしてって……僕の意思が弱いからですよ」

「何か苦しいことがあるなら教えてよ。サックスを吹くのがいやになったの?」

「違う。そうじゃない」


 真夜が珍しく大きな声を出した。

 葉月は息を飲み、吐きだし、ゆっくり吸いこんだ。

 体が咳をしたがったが、おさえこんだ。

 唾を飲みこむ音が耳をふさぎ、痛みが脳に響く。


「じゃあどうして薬なんかに手を出すの」

「……眠れないんだよ」


 そうつぶやいたあと、大きくため息をついて頭を抱え込んだ。


「夢を見るんだ。コズミックで大失敗する夢。調子よく吹いているのに、突然フレーズが頭の中から消えちゃうんだ。何も思い出せなくて、僕だけぼんやり立ってる。観客席から物が飛んできて、死ねって言われる。伶次さんと高木さんが冷たい目で僕を見ている。僕は混乱して発狂しそうになるんだ。頭を抱えて叫んで、自分の声で目が覚める」


 真夜は葉月を見た。ただじっと、次の言葉を待った。


「毎晩、何度もそんな夢を見るよ。眠りに落ちるとまた失敗しちゃうんだ。仕方ないから夜中に散歩に行くでしょ。そしたら友達から連絡がくるんだ。遊ぼうって。友達といるときは発狂しないし、楽しい。それに薬をやっちゃえば深い眠りに落ちる。次の日、起きられないけどね。とにかく夢は見ないんだ。深く眠って、全部忘れられる」


 瞳の焦点があっていなかった。

 一体、どれだけの夜を眠れないまま過ごしたのだろう。


 それでも真夜は吹くことをやめなかった。

 ひどい顔をしてスタジオにやってくることはあっても、コンボの練習を休んだことは一度もなかった。


「どうしてそんなにがんばろうとするの?」


 葉月の問いに、真夜は目を見開いた。


「今回は特別なんだ」


 真夜は壁を見つめて組んでいた手をほどいた。


「伶次さんがボストンに留学する話は聞いてるよね。コズミックに出るのはきっとこれが最後になる。お兄さんの祥太郎さんが亡くなったのも、三度目のコズミックを迎えたあとだったんだって。だから失敗なんて、できない。絶対に」


 所在無げに指を動かしながら、そう言った。

 女性のように長くて細い指をしている。

 金色のアルトサックスを自在に操る十本の指――夏合宿の夜、真夜の激しい音色に足がすくんだことを思い出す。


 人を惹きつけてやまない力強さと、両極端な弱さに支えられた音色が体の芯を突き抜けていった。

 伶次に誘われ、真夜のすぐとなりに立てるようになっても、真夜の本音は見えてこなかった。何を追い求め、何を恐れているのか。


 何度も助けられているのに、真夜が失敗したとき、自分には何ができるのだろうか――


「ねえ、夢の中でさ……」

「僕の夢?」

「そう、真夜が失敗したとき……私は何をしてた?」


 真夜が上体を起こした。開いていた口を閉じ、しっかり目をあわせてから言った。


「篠山さんは……泣いてたよ」

「泣いて……?」

「僕は篠山さんに歌ってもらおうと思って横を向くんだ。そしたら篠山さんは首をふるんだ。歌えない、声が出ないからって。それで泣いちゃうんだ。あわてて僕は……」


 ――声が出ない。私には、何もできない。


 青い光の中、アルトサックスを持ったまま行き先を見失った真夜が立っている。

 葉月はマイクに向かって必死に叫ぼうとする。真夜を助けなければと思う。

 今だけでいいから声よ出て、と懇願する。両足が震えて、マイクが手からすべり落ちる。

 ステージに鈍い音が響く。両手で喉を引き裂きたい衝動にかられる。

 声なんて出ない、もう出ない。


 これっぽっちも役に立たない。

 観客のブーイングがほこりを舞い上がらせる。咳が出る。


 ごめん、真夜。歌えない。頭が割れるように痛くて熱くて、涙が――


 咳はすでに吐くという行為に近く、止めようとする意志は無意味に等しかった。

 体がしたいようにさせて、悪いものを全部吐き出す。

 酸素が足りなくて指先がしびれてくる。

 頭の中に黒い靄がかかる。胸が苦しくて喉が痛くて、目頭が熱い。

 視界がぼやけている。


「篠山さん……?」


 真夜の声に反応して、咳と一緒に涙があふれ出した。

 目を閉じる間もなく、しずくが頬を伝っていった。

 止まらない。止め方がわからない。


 顔をこすると頬が熱を持った。

 肺が痙攣したようになって言うことをきかない。

 息を吸おうとするとしゃっくりが出て、排気は咳になった。


 ぶつかりあって上手く呼吸ができない。

 大きく揺れる肩に、真夜の手がふれる。


「ほんとに泣かないでよ。ねえ、咳をするか泣くか、どっちかにした方がいいよ。酸欠で死んじゃうよ」


 肩を持って顔を上げさせようとしたので、両手で顔をおおった。

 涙がとまらない。真夜の力に逆らって首をふった。

 咳に混じって嗚咽が漏れる。飲みこもうとすると、咳。息ができない。

 体が膨張するような錯覚に襲われる。


「これ、篠山さんのタオルだよね。顔を拭いて、体を起こした方がいいよ」


 タオルごしに真夜の指の感覚が伝わってきた。下をむいたまま、タオルに顔を押しあてる。

 顔も手のひらも、涙と汗でべとべとになっている。

 口にタオルを当てて息を吸った。真夜が顔をのぞきこんでくる。


「大丈夫?」葉月は首を横にふった。

「つらいの?」ゆっくりとうなずいた。

「どうしちゃったんだろうね」体が動かない。


 真夜に声をかけられるたびに、涙腺がゆるんだ。


「いつか治るよ。たぶん」


 それは何度も言われた無責任な慰めの言葉だった。

 根拠のない優しさは、葉月の胸にくさびを打ち込む。


「いつかって、いつよ」

「そんなの僕は知らないよ。神のみぞ知る」

「じゃあいつかなんて言わないでよ」


 老人のようにしわがれた声が、無責任に真夜を攻撃した。

 頬についていた前髪をかき分けて、タオルから顔を離して言った。


「早く治さなきゃいけないから黙っているのに……声はますます出なくなる。

いつかなんて日は来ないんじゃないかって、悪い未来ばっかり考えてしまう。

 ……一生歌えなくなったらどうしようって思うと、すごく怖い。真夜には……わからないだろうけど」


 喉をひっかく呼気と一緒に、次から次へと涙があふれ出る。

 怖いと言う言葉が頭の中で響いている。


 ――そう、怖いのだ。歌えなくなってしまうことが。


 自分に求められる存在価値は、ただそれだけだから。

 伶次にとって高木にとって、そしてきっと、真夜にとっても――そう葉月は思った。


「わかるよ」


 葉月を見て、真夜はつぶやいた。にごりのない透き通った瞳の色をしていた。

 本番前、アルトサックスをかまえて天井を仰ぐときに似ている、迷いのない面持ちだ。


 それは一瞬のことで、真夜はすぐに目をそらして落ち着きなく指を動かした。


「ごめん、うそ。わからない。でも、怖いのは僕も一緒だから」


 真夜の声が静かに響いた。

 葉月は両目にタオルを押しつけてうなずくようにかがみこんだ。

 脳が酸素を欲しがって、無理に呼吸運動のシグナルを送ってくる。

 弛緩した筋肉がついていかない。


 ずっと音楽をやっていると、何のためにがんばっているのかわからなくなるときがある。

 初めは楽しいからひたむきだったはずなのに、目標が大きいほど、いつからか苦しみを伴うようになる。


 憧れて思い描く姿と、埋まらない現実とのギャップに悩み、自分を袋小路に追いこむ。

 先は見えず、目の前は真っ暗でも、前に進むしかなくて――


 仲間はいるけれど、最後は自分自身と向かいあい、思い通りにできないなら練習するしかない。

 日々の行動は全てわが身に跳ね返り、失敗して情けない思いをするのも自分次第だ。

 もっと上手く演奏できるはず、もっといいものを本番でできるはずだと信じて疑わない。


 欲求はとどまるところを知らず、また満たされることもなく、常に新たな高みを目指して練習を続ける。

 上手くできないのに時間だけが迫りくる中で、演奏の楽しみを忘れ、仲間のことも忘れ、自分一人がつらい思いをしているようなカタルシスに溺れる。


 すぐとなりに、同じように苦しんでいる仲間がいるのに――


 真夜の手が肩に乗っている。

 咳をすると小鳥のように飛びのいたが、何度か葉月の背中をさすって元の位置に戻った。


 彼の指がリズムを取って、遠慮がちに肩の上を遊ぶ。

 彼の体温を感じるたびに思考が止まって、涙が出た。

 冷えた指先と、熱を持った手のひらが同時に胸を焦がす。


「ねえ、篠山さん」

「……なに?」

「テナーサックスでコズミックに出ようよ」


 葉月は鼻水をすすり上げた。

 真夜は立ち上がって、隅によせていた譜面をあさった。


「ほらこれ、『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』ならミディアム・テンポだし、ソロも長くない。少し練習すれば、すぐに吹けるようになるよ」


 渡されたのは真夜の手書きの譜面だった。

 例によって、書き込みが雑すぎて読みづらい。


 声が出ないなら、テナーサックスでコズミックに――考えもしなかったことだ。

 葉月は首をふった。思考が全く追いつかなかった。


「テナーでコンボはやったことがないし、ソロなんてなおさら」

「僕、好きだよ。篠山さんの音。曲を選んでテナー用に書きかえるから、出ようよ」


 腫れた目でぼんやり譜面をながめていると、真夜は次々に譜面を乗せてきた。

 同じ曲でも何パターンかあるらしく、長くやりこんでいる曲ほど書き込みが多い。


 テナーサックスで出るなら、歌う予定だったテーマを真夜と一緒に吹き、アルトサックスのソロの一部を葉月が担当することになる。

 ビッグバンドの経験しかない葉月には、真夜のかわりに吹きこなせる自信などなかった。


「私が吹いたら、絶対に真夜の足を引っぱってしまう。それなら出ない方がいいよ」


 そう鼻声で言いながら譜面を返そうとしたが、真夜は首をふって受け取らなかった。


「僕と一緒にコズミックに出よう」


 真夜は眉をしかめた。くちびるを噛み、楽譜の両端を握ったままうつむいた。

 返事ができないでいると、そのまま動かなくなった。


「お願いだから」


 消え入るような声でつぶやいたあと、怖いんだ、と聞こえた気がした。


 歌えなくなってから、何のためにコズミックを目指すのか、わからなくなっていた。

 声も出ないのに、どうして出ようともがくのか。

 出ることで私は何を得るのだろうと、ずっと考えていた。


 頭をもたげた真夜のつむじが見える。

 経験も実力も十分あるのに、本番のたびに信じがたい緊張をする。

 そうやって長い間、コンボの看板プレイヤーとしてたったひとりでフロントを張ってきたのだ。


 人を惹きつける音色を放ち、あたり一帯の空気の色まで変えてしまうようなプレイができるのに、失敗の恐怖におびえ、夢にまでさいなまれる弱さを抱えている。

 土色の血の気を失った顔、削げ落ちた頬。

 楽譜を握る手がかすかに震えている。


 前回のライブのときと同じだ。

 あのとき葉月は、失敗の恐れからくるおさまらない震えを、確かに真夜と共有していた。


「……わかった、テナーサックスで出るよ。一緒に吹こう」


 かすれる声を絞って微笑むと、真夜もようやく顔を上げて安堵の色を浮かべた。

 胸のつかえが下りた気がした。体の中に一筋の風が吹き抜けていく。

 真夜は譜面をまとめながら言った。


「明日は練習できないけど……明後日から一緒にやろう。できそうなところ、譜面を書きかえてくるよ。ライブの録音も持ってくるから」


 葉月はタオルで隠していた顔をさらして、うなずいた。

 楽譜と一緒にアルトサックスをしまう真夜を見ながら、葉月も出しっぱなしにしていたテナーサックスを手に取った。


 喉が治っても治らなくても、コズミックに出る。

 このテナーサックスで、あの真っ青な舞台に――真夜と一緒に。

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