8.インプリズン

 真夜が躍っている。

 牢屋の中でアメリカ兵のような友人と手を取り合っている。

 葉月は外から太い鉄柵を揺すって名前を呼ぶ。


「何をしてるの。もうすぐ練習が始まるのに。

 『ティン・ティン・デオ』をやるからって鞍石さんが探してるよ」


 真夜は楽しそうに笑っている。

 甘ったるい香りのする、吐き気をもよおす白い靄が彼らを包んでかくしてしまう。


「どうして出てこようとしようとしないの。私の声が聞こえない?」


 声――声など出ていない。真夜に届かない。

 喉に激痛が走る。鉄柵を握る手の力がゆるむ。

 冷えたコンクリートの床に両膝をつく。

 気持ち悪いほど汗が吹き出してくる。


 喉が燃え上がる。唾が飲みこめない。声が出ない。

 真夜の姿が消えていく――

 



 窓からさしこむ光がまぶたをくすぐり、葉月は目を覚ました。

 視界に淡いベージュ色の天井が飛びこんでくる。


 息苦しいと思ったら、自分の右手が喉をつかんでいた。

 生ぬるい感触が伝わってくる。

 手だけでなく、体中にべっとりと汗をかいていた。


 ベッドに横たわったまま、体を横にむけて息を吐いた。呼吸はできていた。

 カーテンのすきまから漏れ出す光の中に塵が舞っている。


 唾を飲んで息を吸うと、咳が出た。


 声が全く出なかったのはライブの直後だけで、帰り支度をする頃にはかすれながらも会話はできる状態になっていた。


 声を出さないようにしていたが、黙りこんでいたのは真夜も同じだった。


 真夜と伶次が先に家に着き、葉月は最後にワンボックスカーを下りた。

 おつかれさまです、と言うと高木は眉をよせたが、追及はしなかった。


 少し微笑んで、おつかれ、と言ってくれたのが何よりの救いだった。

 声を出したくなかったし、もう喉のことを考えたくなかった。

 激しい運動をしたあとのような疲労感に襲われ、早く眠ってしまいたかった。

 もう三日間、大学に行っていない。


 喉を押さえて声を出してみる。裏返った弱々しい声が漏れ出る。

 痛みはないが、声帯の振動が伝わってこない。

 これが本当に自分の声なのかと疑ってしまう。


 午後からはコンボの練習も、ビッグバンドの全体練習もある。

 スタジオから逃げてばかりできない。

 この声を聞いて伶次がどんな反応を見せるか――それが怖かった。


 シャワーを浴びに一階に下りようかと思ったが、階下から物音がした。

 平日の午前中に自宅にいるのは、大学を休んでいる葉月と兄しかいない。

 冷蔵庫の開閉音が聞こえる。ダイニングをうろついているらしい。


 顔を合わせたくなくて、そのまま息をひそめるようにして横になっていた。




 二限目から授業に出ると、風子は驚いた顔を見せた。


「どうしたの、その声。風邪でもひいた?」


 彼女だけでなく、知人たちはみな同じようなことを何度も聞いてきた。

 その度に答えるのが面倒くさくて、わからない、風邪じゃないんだけど、と返した。

 しばらく会話を続けると、その話題はすぐに消え去った。


 週明けに学祭を迎えることもあって、誰もが浮き足立っている。

 つぶれた声は当たり前のものとして受け入れられ、いつまでも違和感をおぼえているのは自分だけのようだった。


 大学構内の木々はすっかり色づき、枯れ落ちた葉がタイル張りの道を覆っている。

 薄青い空にとどまることなく雲が流れていく。


 屋外の冷たい澄んだ空気を吸っている間はよかったが、教室に入ると咳がこみあげてどうしようもなかった。

 小さな教室で教授の声を邪魔してしまうほど咳が続くときは、うしろの扉から廊下に出た。

 酸素が足りず、ふらついてばかりだった。


「ねえ、葉月ったら。待ってよ」


 座れるところを探して二号棟を彷徨っていると、うしろから声が聞こえた。


 追いかけてきたのは風子だった。

 このところ彼女とは折り合いが悪い。

 会うたびに真夜のことを聞いてくるので避けがちになっていた。


「こないだはごめんってば。もう詮索しないから、逃げないでよ。はいこれ、飲んで。アレルギーとかないよね」


 風子が握らせた袋の中には、栄養ドリンクと咳止めシロップが入っていた。


「なにこれ」


「何って、朝からひどく咳きこんでるから、昼休みに買ってきたの。どうせあんたのことだから、薬とかちゃんと飲んでないんでしょ」


 張りつめていた神経が膨張して、目元が熱くなってきた。

 よく考えれば昼飯も食べていない。

 頭を下げて顔をかくしたかった。

 きっとひどい表情をしていると思った。


「あーもう。上の階なら空いてるだろうから、行こうよ」


 風子に手をひかれてエレベーターに乗るあいだも、葉月は下をむいたままだった。


 十階の窓辺に用意されたカウンターテーブルとイスはどれも空いていた。

 最上階にあたるこのフロアは教授の研究室が並んでいて、授業用の部屋はない。

 葉月はゆっくりと腰かけ、風子にさし出されたサンドイッチをもそもそと食べた。


「土日もずっとライブなんだって? このところ練習しすぎなんじゃないかって、サックスパートの子たちも心配してたよ」


 初めて聞く話だった。

 初心者の一回生から一度は引退した四回生までいろんな立場の人が混ざっているサックスパートの人たちとは、長い時間一緒に練習したこともないし、それほど深く話し合ったこともない。

 曲のたびにメンバーが入れ替わるので、つかず離れずの関係しか築けていない。

 心配したりされたりという気配も感じたことがなかった。


「夏合宿のときだって、みんながお酒を飲んだり外でいちゃついたりし始めても、葉月って最後まで練習してたじゃない。鞍石さんのコンボに入ってからものすごく上手くなったって、先輩たちもびっくりしてたよ」


 そう言ったあと、私はさみしかったけどね、と風子はいつもと変わらない笑顔で言った。


「ごめん」


 取り残される悲しさは痛いほど知っているのに、入学した時からずっと仲良くしてくれていた風子に同じ思いをさせているとは、気づかなかった。


「葉月がそんなにストイックだったなんて知らなかった。喉までつぶしちゃってさ。明日から学祭の準備が始まるし、しばらく歌のことは忘れて楽しもうよ、ねっ」


 さし出された咳止めシロップのカップを受け取って、葉月はうなずいた。


 学祭に出演する数々のバンドは現役優先な上、学祭期間中はスタジオの使用を禁止されている。

 他大生の真夜とOBの高木は明日の練習を最後に、一週間は大学に来ないことになっている。

 しばらく喉を休めれば治るかもしれない、とこの時はまだ楽観的だった。




 三限のあと、音楽練習棟にむかった。

 楽器を吹けるかわからなかったが、学祭限定のビッグバンドでは不慣れな16ビートの曲が多く、全体練習の前にもう一度目を通しておきたかった。


 第五スタジオの前に伶次のウッドベースが置き去りにされている。

 本人の姿はない。


 いつもより重く感じるテナーサックスのハードケースを引きずり出し、分厚い楽譜のファイルを持って廊下に出た。


 第二スタジオに向かう途中、伶次に出くわした。

 口に紙コップをくわえている。

 葉月と目が合うと、片手に譜面を集めて、紙コップを口からはずした。


「この時間、授業じゃなかったっけ?」

「四限、休講になったんです」


 まともな声は出なかった。かすれて空気ばかり吐き出される。

 伶次は紙コップをそばにあったゴミ箱に捨て、葉月を見下ろした。


「喉、どうした。ライブのときから治ってないのか」


 彼に会ったらまず喉の不調を言おうと気負っていた葉月は、言葉を失った。

 やはり気づいていたのだ。楽譜を脇に抱え、かくすように喉をおさえた。

 心臓と連動して、頸動脈が鼓動の速さをましていく。


 伶次は葉月が持っていたハードケースと楽譜ファイルを取り上げて廊下に置いた。


「後半、ちゃんと歌えてなかっただろ。医者には行ったのか」

「いえ……まだです」

「じゃあ喉を見てやるから、口開けて」


 伶次は人差し指を葉月の口の前でふって、開けるように合図した。

 葉月は一瞬尻込みしたが、伶次が真顔で「ほら、早く」と催促するので少しだけ開けてみた。


「もっとちゃんと開けないと見えないって」


 顔を上げると、伶次はかがみこんで葉月のあごを引き上げた。

 口の中をのぞきながら、うーん、とうなっている。

 喉がどんな状態であれ、この姿勢から早く解放されたかった。

 燃え上がりそうなほど頬が熱くなっている。


 伶次は葉月のあごを下げて、口を閉じさせた。


「やっぱり炎症を起こしてるな。そのうち引くだろうけど、あんまり声出すなよ。楽器は吹けるのか?」

「まだ吹いてないんでわからないんですけど、全体練習は出ます。あの、明日の……」

「その声じゃしばらくは無理だろ。真夜中心でやるから、喉を治すことに専念しな」

「ごめん……なさい」


 伶次の言葉が胸に突き刺さり、葉月はうつむいた。

 コズミックの本番まであと三週間を切っている。

 学祭の間、いくつものバンドをかけもちしている伶次も、コズミックを最優先させて予定を組んでいた。


 持ち曲の半分以上は歌ありの構成で作っているのだから、それ以外となると限られてくる。

 特にフロントがアルトサックスだけの曲はアップテンポで難しいものが多かった。

 喉の奥が疼く――真夜も、決して調子がいいわけではない。


「謝るな。三週間あればなんとかなる」


 伶次は葉月の頭の上に手を乗せた。

 ひどく荒れて皮がむけても弾くことをやめない、あの白く細い手だった。

  葉月は葉を食いしばった。うつむいていると涙がこぼれ落ちそうになった。

 

 


 第二スタジオには真夜がいた。背をむけてパイプ椅子に座り、巨大なヘッドフォンを耳に当てていた。

 奥の長椅子いっぱいに譜面を広げている。


 防音扉が閉まる音にふりむいて、ヘッドフォンをはずした。

ずいぶん顔色がいい。久しぶりに見る赤みのさした顔だった。


「元気そうじゃない」

「おかげさまで。篠山さんは声が変だね。僕の真似して薬でもキメたの?」

「ばかなこと言わないでよ」


 葉月が微笑むと、真夜も笑った。

ふと今朝の夢を思い出した。真夜が躍っている夢。

あんなものを見るなんて、どうかしていると思った。


「よかったね。牢屋から出られて」

「警察に連れてかれたけど、牢屋には入ってないよ!」


 いきなり真夜が声を上げた。

冗談のつもりで言ったのに、彼は本気で受け止めているようだ。

 首をかしげると、真夜はしまったという顔つきで口を塞いだ。


「篠山さんこそ、牢屋なんて縁起でもない」

「今朝、見たの。真夜が牢屋に入ってる夢」

「ひどいなあ」

「警察につかまるなんて、何してたの?」

「こないだ友達と夜中にドライブしてたら、パトカーが追いかけてきたんだ。僕が挙動不審なせいで警察まで連れてかれて、人生終わったと思ったよ。運よく薬を持ってなかったから、すぐに釈放された。指紋は取られちゃったけどね」


 葉月はため息をついた。何をしていたらそんなことになるのか、想像もつかない、よほど見た目の危ない友人が多いのだろうか。


「これで僕もアート・ペッパーに一歩近づけたよね」

「どういうこと?」

「薬物がらみで収監されたってことだよ」


 葉月はハードケースを床に置くと、再び深く息を吐き出した。

 目眩を感じながらケースの留め具をはずす。小気味いい音が鳴ってふたが跳ね上がる。

 真夜はヘッドフォンを置いてパイプ椅子のむきを変えた。


「サックス、吹けるの?」

「さあ、わかんない」


 リードを選び、口に咥えて湿らせる。

 楽器を取ってネックを押しこみ、ストラップにかける。

 首になじんだテナーサックスの重さだ。


 ストラップを引き上げて口の高さに合わせる。

 慣れているはずの行為ひとつひとつがひどく新鮮に感じられた。


 真夜は黙って葉月を見ている。

 咳払いをしてから息を吹きこむと、楽器が鳴った。喉に違和感はない。

 声を出す時のような、つまった感じが全くなかった。


 息が気管を通り抜け、素直に楽器本体を震わせる。

 しばらくBフラットを鳴らしてから指を動かした。

 低音から順に半音階ずつ上がっていく。


 テナーに存在するほぼすべての音を丁寧に出していく。

 何の問題もない、いつものテナーサックスの音だった。

 体が元の感覚を取り戻していく。


「普通に吹ける……」


 声が裏返った。一瞬、体の中を風が吹き抜けていった気がした。

 今まで吹くたびに、もっとジャズらしく力強い音を出したいと躍起になっていたが、これで十分だった。

 リードやテナーサックス本体の振動に体が熱を帯びていく。


「へえ、楽器は吹けるんだ。不思議だなあ」


 真夜はアルトサックスを取って、同じように半音階を鳴らした。

 いいピッチをしていた。音色につやが戻っている。

 伶次が学祭バンドに忙しくしている分、真夜が背負っているものも一時的に軽くなっているのかもしれないと思った。


 葉月も半音階をくりかえして高音域で止まった。

 人差し指の腹でサイドキィを押して高音を鳴らすと、真夜はさらに甲高い音を鳴らした。

 テナーサックスでは出せない音だった。


 手を上げて「降参」のポーズをすると、真夜は目をむきだしにしてフラジオを鳴らした。

 口元が緩んでマウスピースを咥えていられなくなり、二人同時に笑い出した。


「よかった。ビッグバンドの練習には参加できそう」


 葉月はテナーサックスのボディをなでた。

 声が出なくても、楽器を仲介すると思い通りに音が出た。

 心地よい深みのある音色だった。

 吹くことがこんなに気持ちよく感じられたのは初めてだった。


 唐突に防音扉が開いて伶次が入ってきた。

 葉月の首からぶら下がるテナーサックスに視線を注いでいる。


「テナーを吹いてたのって、葉月か?」

「はい。楽器は吹けるみたいです」

「そうか、よかったな。まあ、声と楽器じゃ気管の使うところが違うしな」


 伶次はそう言いながら真夜に歩みよった。


「明日は『ティン・ティン・デオ』をやろう。少し構成を変えようと思うんだ。違う音源を見つけたんだけど、これがかっこよくてさ。譜面、出せるか?」


 伶次が差しだしたCDを受け取ると、真夜は譜面をつめこんだファイルをあさった。

 あの中にはおそらく五十曲以上入っているのに、すぐに目的の楽譜が見つけられるのには感心してしまう。


 真夜は二枚ある楽譜を伶次に渡した。

 伶次は五線紙を指さしながら、「ここを削ってこっちに飛んで、ここには4バースをはさんでドラムソロを……」と説明し始めた。

 真夜は小刻みにうなずいている。


 アート・ペッパーの演奏で有名な『ティン・ティン・デオ』は、フロントはアルトサックスのみで歌はない。

 葉月はいつも練習を見ているだけだったので、構成はよくわからない。


 しばらく様子をうかがっていたが、伶次がCDを取り出して真夜に聞かせ始めたので、長くなるなと思った。

 葉月は少し離れたところに立つと、ロングトーンを始めた。


「あっいたいたー。一緒に練習しようよー」


 そういって練習室にとびこんできたのはロングヘアの彼女だった。

 葉月がマウスピースを咥えたまま目を丸くしていると、楽器のハードケースを持った彼女が真夜のすぐそばまでかけよった。


「おまえ、何しにきたんだよ」

「だって真夜くんってば最近ぜんぜん部室にこないんだもん」

「だからってよその大学まで押しかけてくるなよ。おまえは自分のところでやってろ」


 真夜は彼女の肩を押したが、引き下がる様子は全くなかった。


「真夜くんだってよそ者でしょー」

「僕は伶次さんに呼ばれてるからいいんだよーだ」


 真夜が子供っぽく舌を突き出すと、彼女も対抗するように頬をふくらませた。


「邪魔だから出てってくれる?」


 伶次の言葉に二人の動きが止まった。

 彼女が愛想よく微笑むのも無視して、真夜に楽譜の説明をし始める。

 彼女がふりまいていた花のようなオーラが一気に消失していくのがわかり、葉月はほっとした。


 おとなしく帰るのかと思いきや、テナーサックスを吹いている真っ最中の葉月の腕をひっつかんでスタジオから出ようとした。


「ちょっと……何するの」

「あなたも邪魔だから出るのよ」


 彼女の力は思いのほか強くて、葉月はとっさにテナーサックスをかばった。

 防音扉が閉まるのを確認して、彼女は言った。


「何その声。ばっかじゃないの。キャパオーバーのことしてるから足をひっぱることになるのよ」


 薄暗い廊下で勝ち誇るようにして言った。

 全く彼女の言うとおりだったし、何も言い返す言葉はなかった。

 そこへトロンボーンを担いだ風子がやってきた。


「あっ性悪女。またしょうもないこと言いに来たんでしょ」


 ロングヘアの彼女にとって悪態をつかれるのは慣れっこのようで、いーっと歯をむき出しにした。


「うるさい。真夜くんに悪影響を与えてないか確かめにきたのよ。私は隣のスタジオで練習して真夜くんと一緒に帰るんだから、入ってこないでよねっ」

「何言ってんの、部員でもないのに……」


 風子がまだ何か言おうとしていたのも聞かず、彼女はさっさと隣のスタジオに入ってしまった。

 彼女が持っていたのは、間違いなくテナーサックスのハードケースだった。

 ケースを見る限り、葉月と同じメーカーのものらしい。


「ねえ風子、他に空いてる練習室ってあったっけ」

「ないわよ。今から一軍バンドの練習だもん」


 ということは、真夜の彼女と同じスタジオで練習しなければならない。

 六畳しかない狭い部屋の中、よりによって、同じメーカーのテナーサックスで。


 葉月が肺の奥から息を吐きだすと、風子が同情するように肩を叩いた。

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