7.崩れるチューン

 大学構内に植えられた銀杏の木々が彩りを見せる頃、『パーディド』で三度目のライブを迎えることとなった。


 伶次のコンボに加入してからは、週末には必ずライブの予定が入っている。

 ライブ経験の少ない葉月と、コズミックに出演するプレイヤーとの差を埋めるための入念な準備の一環だとはわかっていたが、二軍ビッグバンドの練習はいつもの通りあるし、あちこちのイベントでライブ活動もしている。

 授業、練習、アルバイト、ライブの予定がすき間なくつめこまれ、けずるところは睡眠しかなかった。


 妙に体が重いと感じ始めた頃には、すでに身体も精神もかなり疲弊していた。


 『パーディド』でのライブ当日は、朝から雨が降り続き、街は灰色の冷たい空気の中に沈んでいた。

 高木の車の中も湿気に満たされて、息苦しかった。

 喉に何かが引っかかった感じがする。


 助手席に座った伶次が、この日の出来次第でコズミック本番の曲を決めると言った。

 それから大きくため息をついた。雨はいやなんだ、どうやって運んでもベースが濡れる、と機嫌が悪い。


 大学の音楽練習棟から車にウッドベースを運ぶ途中、のんびりと行動していた学生の団体に行く手をはばまれてしまい、ソフトケースをびしょ濡れにしてしまったらしい。


 濡れたケースに入れたままでは楽器のコンディションが悪くなるのはわかっていたが、ベースをむき出しにして車に積むわけにもいかず、できる限りの水分を拭き取って座席のうしろに乗せた。

 後部座席の上に飛び出したネック部分だけをケースの外に出して、タオルを巻きつけている。


 高木は低い声で、「仕方ないだろ、着くまで我慢しろ」と言ったが、バックミラーには口をへの字に曲げている伶次が映っていた。

 隣に座った真夜は黙ったまま運転席のうしろについたポケットを見つめ、口をゆがませていた。


 息苦しいのは雨のせいではなかった。

 曲の完成度の低さが、それぞれの苛立ちを倍増させていた。


 準備中のあわただしい店内に的外れなBフラットが響く。Eは半音近く低く聞こえた。

 葉月はソファ席に座って歌詞を復唱していたが、ちっとも頭に入ってこなかった。

 譜面を閉じて真夜のそばに行った。

 壁にむかってアルトサックスをかまえ、譜面台の上に置いたチューナーとにらみ合っていた。


「またやったんだ」

「やってないよ」

「嘘つかないでよ。そんな変なBフラットばっかり鳴らして」


 真夜はマウスピースから口を離した。わずかに首をふってあたりを見回す。


「どうしてわかるかなあ」

「音は正直なんだよ」

「もしかして他の人にもばれてる?」

「さあ。わかる人もいるんじゃないの」


 真夜は口を右下にゆがませた。見ていたくなかった。

 手でふさぎたい衝動にかられたが、よく見ると乾いたくちびるが切れて、血がにじみ出していた。


「やめてよ、それ」


 真夜は合点のいかない顔をした。葉月は小声で言った。


「口をゆがませる癖。あれ、やり始めてからだよ。わからないの?」


 目を見開きながら両手で口をふさいだ。

 すぐに手を離してじっと見つめているから何かと思ったら、蚊をつぶしたあとのような血がついていた。


「あーあ、リードにもついちゃってる。ビタミン不足かなあ。篠山さんは欲求不満だね」

「どういうこと?」

「紫は欲求不満を象徴してるんだよ」


 そう言って葉月の服を指さした。

 たしかにコーデュロイ生地の紫色の襟付きシャツを着ている。

 自分が真夜をとがめているのに、逆にやりこめられた気分がした。

 真夜を非難するのが、まるで欲求不満のせいみたいだ。


 当の本人は黒い半そでのTシャツ姿だったが、腰に巻いているのはいつもの紫のストライプシャツだった。

 こみ上げてくる笑いをこらえきれず、吹き出してしまった。


「どうしたの? 頭おかしくなった?」

「どうもこうも、真夜だって紫の服じゃない」


 ストライプシャツを引っぱると、真夜はそれを手に取った。

 恥ずかしそうに笑いながら結び目をほどいて、なぜか頭からかぶる。


「僕はいつだって欲求不満」


 その格好のままでアルトサックスをかまえると、とんでもない高音を鳴らした。

 リードミスの混じる音をわざと鳴らして、二人は笑った。

 ひとしきり声を上げたあと、葉月は笑いを鎮めて、真夜をのぞきこんだ。


「とにかくやめなよ。このまま続けて、コズミックはどうするつもりなの?」

「一発キメてから出るのも面白いと思わない? 最高の演奏ができそう」

「本気で言ってるの?」


 葉月はストライプシャツを取り上げた。彼の顔にかげりがさす。


「ブラックジョークだって。わかってよ」

「やめないとどうなるか、ほんとにわかってるの?」

「わかってる」


 真夜は葉月の手からシャツを取ってテーブルの上に放り投げた。

 壁に取りつけられた間接照明がうつむく真夜の猫背をてらす。

 目の隈が鮮明になり、頬はくっきりと削げ落ちていた。

 真夜だってわかっているはずだ。

 コンボの練習のあと、失敗したフレーズを悲痛なほどくりかえしているのを葉月は聞いている。


 だめになるとわかりながら、なぜ手を出すのか――何が真夜を薬に走らせるのか、それがわからなかった。


「このこと、他に知ってる人はいるの?」

「いない。葉月さんだけ」

「彼女も?」

「彼女はいないってば」


 軽口をたたきながらも、真夜の目は確かに葉月をとらえていた。

 輝きを失った黒い瞳。

 ストラップに手をかけ、壁にむかって静かにアルトサックスをかまえた。


 葉月はその姿をしばらく見つめ、もといた場所に戻って行った。




 リハーサルは『イッツ・オール・ライト・ウィズ・ミー』から始まった。

 最後までアルトサックスのソロが通ったことがなく、一番不安の残る曲だった。


 葉月もこのベリーファーストのテンポには苦戦していた。

 歌いながら次を考える余裕がない。

 次々におしせまってくるライドシンバルのリズムに乗せて早口言葉のように唱えるのが精いっぱいだった。

 さらに曲の後半でめったに使わないハイノートが出てくる。

 無理をせずに発声できるのは調子のいいときだけだった。


 雨のせいか、朝から具合が悪い。

 声を出すたびに咳払いをしないと、喉に引っかかる感触が取れなかった。

 練習のしすぎだとわかっていても、喉を休めている時間はもどかしさばかり募っていった。


 最初のコーラスは低音からヴォーカルのみで始まる。

 十五小節目からベースラインが乗り、ドラムがブラシを走らせる。

 少しでも気を抜くとリズムを見失いそうになる。


 目を閉じて神経を集中させる。

 二コーラス目に入ってから高木がブラシからスティックに持ちかえたので、リズムが取りやすくなった。


 かすれる声をしぼってコーラス最後のハイノートへ向かった。音程が取れない。高音をささえる喉の筋肉に力が入らず、情けなくゆれた。

 かぶさるようにアルトサックスのサイドキィのFが響く。ひどい不協和音だ。


 真夜はしかめっ面でソロを吹く。ピッチが悪いのは今さらどうしようもなかったが、フレーズも4ビートからワンテンポうしろにずれていた。

 伶次と高木が何とか合わせようとすると、真夜はさらに混乱の様相を見せ、音が空中分解した。

 ビートを取る二拍目と四拍目さえあっていれば演奏が保てるのだが、真夜は一拍ずれたまま戻れなくなった。


 伶次と高木は楽器を鳴らしながら顔を見合わせる。

 タイミングをあわせて無理やり一拍増やし、アルトサックスとかみ合うようにした。

 だが、すぐに真夜は遅れ始めた。

 伶次はくちびるを噛んで、曲に無関係な音を激しく鳴らした。


「真夜、止まれ!」


 真夜は楽器をかまえたまま呆然としていた。なぜ止められたのか、わかっていないような顔だ。

 黙ったまま、伶次と譜面を交互に見た。


「表拍と裏拍がひっくり返ってる」


 伶次にそう言われて真夜は譜面をのぞきこみ、それから葉月を見た。

 葉月はアルトサックスの譜面を見て中央あたりを指さした。


「ソロに入った時から少し遅れてたんだけど、この辺から完全に一拍ずれてたかな。鞍石さんと高木さんがあわせにかかったんだけど、またすぐにずれちゃって……」

「そうか……ごめんなさい」


 真夜は深く頭を下げた。顔が見えない。

 アルトサックスを抱きかかえるようにしていつまでも頭を上げなかった。

 こういうとき必ず問題の解決法をあげる伶次も、ベースによりかかって黙っていた。

 高木はスティックをバスドラムの上におき、ブラシを取ってスネアドラムとフロアタムを軽く叩いた。真夜が顔を上げる。


「もう一回最初からだ。テンポを下げよう。240でいくから落ち着いて吹け、いいな」


 これまでこの曲は320bpmでやってきた。80も落とすとかなり曲の雰囲気が変わる。

 同じ歌い方では息がもたない気がした。

 先ほどの勢いのないハイノートを思うと、不安に包まれた。


「葉月ちゃんは休憩。テンポを戻してから入ればいいから」


 高木はテンポマシーンを鳴らしながら言った。

 彼のこういう気遣いにはいつもほっとさせられる。

 真夜と伶次の表情もわずかながら緩んでいた。


 葉月はうなずいて、喉に水を流しこんだ。

 高木はハイハットのペダルを踏み、ブラシでカウントを取り始めた。


「伶次、もっとハイハットを聞け。感覚で弾くな」


 伶次はいつの間にかウッドベースをかまえていた。 口を横に結んで小さくうなずく。

 高木のカウントで練習は再開した。

 葉月は固唾を飲んで真夜の様子を見守った。




 結局『イッツ・オール・ライト・ウィズ・ミー』は280bpmでやることになった。

 リハーサルが終わってからも、真夜はひとり、グランドピアノの裏でアルトサックスを吹き続けていた。

 間違えてはやり直し、引っかかってはまた最初から吹く。


 ため息もなにも聞こえなかった。

 ピッチの狂ったアルトサックスの音色だけが、ステージの隅で絶え間なく響く。


 伶次は寝かせたウッドベースのそばに立って、白い薬を手に塗っていた。

 たっぷりと指先にのせて、指の付け根まで丁寧に塗りこんでく。

 顔や首のまわりの赤身はずいぶん引いていたが、紺のタートルネックの下がどうなっているか、わからなかった。

 ウッドベースを起こし、弦になじませるように、手をゆっくりと上下にスライドさせる。


 葉月は手で喉を押さえた。

 大声を出したあとのような違和感が取れない。

 真夜の失敗を聞くたびに喉の奥がうずいた。声を出した分だけ、悪くなっている気がした。


「食いな。腹減ってるだろ」


 高木の声にふりむくと、うしろのテーブルの上にはピザやスナックが並べられていた。

 彼は口を大きく開けてピザを一切れ放りこむと、咀嚼しながらグランドピアノの方へむかった。

 アルトサックスの音が止まる。

 ぼそぼそと話し声が聞こえ、高木は真夜の腕をつかんで引っぱってきた。

 楽器を持ったままの真夜の肩を押してソファに座らせる。


「もうやめとけ。本番前に口を壊すぞ。飯でも食え」


 真夜は立っている高木を見上げて、はあ、と力なくつぶやいた。

 緩慢な動きでストラップからアルトサックスをはずすと、それを高木がひょいと取り上げた。


 葉月は真夜と向かいあって座り、膝の上に手をおいて料理を見つめた。

 真夜の隣に座った高木はフライドチキンやサンドイッチを次々に口に運ぶ。


「食わないのか。だからおまえらちっこいんだな。こんな細い腕して」


 高木は真夜の腕を取り上げた。

 男にしては骨格そのものが細すぎる腕をしている。


 葉月は自分の腕とこっそり見比べてみたが、そう変わらない気がした。

 真夜はまた、はあ、とつぶやく。

 高木はピザの乗った大皿をひきよせて、真夜に「食え」と合図した。


「調子悪いのか?」

「そうですね」


 真夜は無表情のままピザをつまみ上げた。


「思った通りに吹けないか」

「そのとおりです」


 垂れ下がるチーズと格闘しながら言った。

 葉月はそばにあったフライドポテトを取った。


「別に譜面通りにやる必要はないんだ。演奏の流れの中で思いついたことを好きなように吹けばいい。ほとんどの奴はそうしてる。おまえだって、アドリブできるんだろう?」

「僕のはむちゃくちゃですから」

「怖いか?」

「そう……ですね」


 ピザを持ち上げる動作が止まる。 真夜は存在しないどこかを見つめていた。

 少し開いていた口を閉じて、肩を落とした。


「自分を見失いそうで」

「そうか。おまえがそう言うなら、いいけどな」


 高木は体をうしろにねじって、背の高い男性の従業員に水を三つお願いしますと頼んだ。

 真夜はその人に軽く頭を下げて、動かなくなった。

 高木の大きな手のひらが真夜の頭に乗った。


「失敗を怖がるな。おまえには才能がある。他人がどんなにうらやんだって手に入らない感性だ。偽らず、心のままに吹けばきっといいプレイができる。自分のことなんてわからなくて当然なんだから、たまには見失ったっていいじゃないか」


 高木は微笑んで真夜の背中を叩いた。

 真夜は食べかけのピザを小皿に乗せた。遠い目をしたまま、はい、とつぶやいた。


「今のは祥太郎の受け売りだよねえ」


 頭の上から声がふってきた。

 先ほどの長身の従業員が右手に一つと左手に二つ、水の入ったグラスを持ってきた。

 器用に料理のあいだに置きながら、高木をのぞきこむ。


「簡単に種明かしをしないでくださいよ、吉川さん」


 聞いたことのある名前だと記憶を探っていたら、黒い髪に黒いサロンの彼がにっこり微笑んだ。

 伶次からもらったCDのやわらかい丸みを帯びたテナーサックスの音と、優しい笑顔が一致する。

 葉月は中途半端な笑顔で、初めまして、と言った。


「やあ、新しいヴォーカルさんだよね。伶次から話は聞いてるよ」


 戸惑う葉月の肩を、高木が持った。


「そうそう、この子、テナーサックスもやってるんですよ」

「へえ、奇遇だなあ。今後もよろしくね」


 細い目をいっそう寄せて笑った。

 吉川が右手をさし出したので、つられて握手をした。


「いやあしかし、孤高の高木にこんな可愛い後輩ができるなんてなあ」

「勘弁してくださいよ」


 高木は苦笑して水を口に含んだ。

 吉川が胸の前で腕を組んで目を細めている。


「祥太郎とここでやってたときは、俺もまだ二十歳だったんだ。おまえなんか高校生だったろ? そういや真夜くんはもう二十歳になるんだっけ。早いもんだなあ」


 ひとり言のようにそう言って、真夜を見下ろした。

 当の本人は熱心にピザを切り分けている。

 吉川は厨房から呼ばれるとカウンターの中に姿を消した。


 葉月は高木と目が合うと吹き出してしまった。

 コンボの中では最年長でいつも落ち着いている高木が、後輩らしくからかわれている姿が意外でおかしかった。


「高木さん、孤高の人だったんですか」

「言うなよ、それ。人見知りが激しかっただけだよ」


 高木はまた眉をしかめて苦笑した。

 ウッドベースのセッティングを終えた伶次がテーブルにやってきた。

 それを追うように吉川がグラスを持って近づいてくる。


「よお伶次、元気かあ」


 何度もそう言いながら、子犬をなでるときのように伶次の黒髪をくしゃくしゃにした。

 二人はもちろん、それを見る高木も笑っていた。




 本番中、真夜はかなり汗をかいていた。

 一曲目から広い額にうっすらと汗をにじませ、曲が終わるたびに腕で汗をぬぐった。

 室内はそれほど暑くはなかった。

 薄暗い店内では、ステージ照明がプレイヤーにわずかな光を当てている。


 客の入りは六割程度で、ドアが開くたびに吹きこむ外気が肌寒く感じたぐらいだ。

 風に乗って雨のにおいの混じった夜気が運ばれてくると、喉の渇きがひどくなった。

 客席に立ち上るわずかな煙草の煙さえも、わずらわしく思える。


 ビブラートが思うようにかからない。

 腹に力をこめようとしているのに喉に鋭い痛みが走る。

 肺から送り出す呼気が気管にまとわりつく。


 あごを引ひきつけて真正面を見つめ、気管を広げようとした。

 横隔膜を使って腹式呼吸をする。

 一本の太い管が足の裏から喉元まで通っているイメージを持つ。


 歌のコーラスが終わりに近づくと、真夜は落ち着きなくストラップを上下させた。

 マウスピースに口をつけては離しての動作をくりかえす。

 汗が細い線を描き、痩せた頬をつたった。


 葉月の喉は塞がったようになっていた。

 高木が刻むライドシンバルに乗り、勢いだけで声を押し出す。

 ねばっこい痛みをかき分けてハイノートをふり絞る。


 Fにむかうベンド奏法から真夜のソロが始まる。

 音程が正しいFまで到達しない。

 追い立てられるように指を動かし、息をつぐ。


 真夜を横目で見ながら、足元に置いたペットボトルを拾いあげた。

 水の表面が細かく揺れている。指先が震えている。


 隣で激しくアルトサックスを鳴らす真夜の右手の震えも止まらず、サイドキィをとらえ損ねた。

 また喉の奥が疼く。

 葉月は水を飲んで咳ばらいをした。


 何が喉を支配しているのかわからない。

 コントロールが効かない。

 低音を出そうとすれば筋肉はだらしなく緩み、高音を出そうとすれば縦に細く強烈な痛みが走った。


 首を切り落としたくなった。断面を見て喉を塞ぐ正体を知りたかった。

 真夜が紡いだ音を引き継がなくてはならない――歌をやめるわけにはいかない。

 水を飲んでは痛みをごまかし続けた。

 潤した直後はわずかに調子を取り戻したが、痛みが戻り始める間隔は容赦なく縮まっていった。


 アンコールのときには水もなくなっていた。

 それでも歌うほかない。

 適当に力を抜いて出なくなった高音域をごまかし、マイクから口を離す。


 痛みを越えて、どこから声がでているのかもわからなくなった。

 耳に聞こえる声は自分のものではなく、スピーカーから漏れ出すただの音だった。


 拍手を送る観客におじぎをし、頭を上げた瞬間、目眩をおぼえた。

 マイクを取りつけるふりをしてマイクスタンドにしがみつく。

 喉が焼けるように熱く、水分を欲しがっている。


 唾を飲みこむのも苦痛をともなう。舌で喉の奥を探る。

 風邪をこじらせたときのように、ざらついている。


 葉月は観客をかきわけて奥のバーカウンターに歩みよった。

 吉川が大きなグラスを磨いている。

 葉月に気がつくとグラスを置いてカウンターに身を乗り出した。


「おつかれさま。体は小さいのに、いい声してるなあ。伶次が一緒にやりたがるのがわかるよ」

「あ……りがとうございます。あの、お水……もらえませんか」


 吉川は目を丸くしていたが、すぐにグラスに冷水をついでくれた。

 葉月は一気に飲みほした。

 全身にしみ渡るような安堵感が広がる。

 胃は苦しいが、この瞬間だけ少し楽になれる。

 手の甲で口をぬぐって一息ついた。焼けつく感覚はおさまった。


「喉が痛いのかな、大丈夫?」


 空のグラスをさし出し、大丈夫です、と言ったつもりだった。

 吉川は不安げな顔をしてカウンターに手をつき、葉月をのぞきこんだ。

 水滴のついた銀色の水差しを傾けて、「まだ飲む?」と聞いた。


 いえ、大丈夫です。


 葉月はそう口を動かしてから喉を押さえた。

 気管は毛羽立った分厚いガーゼにくるまれているようだった。

 痛みがない。

 声帯が震える感覚もない――嫌な汗がにじみ出してくる。


「ほら、飲んで」


 言われるままにグラスを手に取り、冷えた水を喉に送る。

 喉に手をあてて腹筋に力をこめた。息はできる。

 腹式呼吸もちゃんとできている。


 なのに、どうして――

 

 声が、出ない。

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