燃えよ拳

伊東デイズ

第1話

 五月も末だった。

 あっという間に終わったゴールデンウイークの記憶も薄れ、間近にせまった二年生最初の中間試験が俺の心に重くのしかかっていた。実際のところ四月の騒動が尾を引いて、二年一学期の前半は勉強どころではなかったのだ。

 結果的に、俺の成績は目下のところ、イメージ的には合格点が山頂なら、俺と谷口は仲良く四合目付近でビバーク中。しかし山を登る気力もないと言うのが現状で、こうしてまた部室に向かっている。

 夕暮れと言うにはまだわずかに早い時刻、俺は用心深く部室のドアをノックした。去年からいろいろあって、俺が突然ドアを開けるとちょっとした騒ぎになるのを学んでいたからだ。

 部室の事務机から顔を上げた、ハルヒはニヤリとわらって、思わずこっちは寒気がした。待ち構えていたな。期待に満ちたその目はなんだ?

「キョン、あんたの中学は学ランじゃなかったっけ?」

 いきなり何のことだか解らない。

 すでにハルヒはかなり熱くなっているのがわかった。

「これ、どう思う?」

 読んでいたらしい薄っぺらい紙をパサリと机に投げた。

 たぶん、俺の感想なんかどうでもよくて、すでにサイコロはぶん投げられている感がある。墨痕瑞々しいが判読困難なそれを読み進むうち、俺は警戒モードに突入、学業のことは脳内キャッシュメモリから速やかにクリアされた。

 所々読めない字をすっとばして意訳すると、だいたいこんな内容だった。

 

 ……先般行われた野球部の交流試合にて、貴校の応援ぶりを拝見したところ、チアリーダーの応援に終始しているようであった。決して女子の応援を貶めるものではないが、当方は正規の男子のみで礼を尽くして応援している。聞くところによると、貴校にも応援団があるとの由。ついては次回の交流試合にて、チアリーダーとは別途、我が校と同等の応援ぶりを示されたい……云々。


 何のことはない挑戦状である。

 文面の最後に、どっかで聞いたような気もする高校名と相手の団長の署名がある。

 今でもこんなヤツいるんだ。なにやら哀れみすら感じる。何が男子のみ、だ。きょうび女性の応援団員も珍しくないというのに。

 だいたい他校との交流行事は、いつもなら生徒会もしくは教職員を通じて行われるはず。校長の許可だっているだろう。なぜSOS団にその手紙が届いたのか?

 表書きには「団長殿」と書かれているだけだった。

「団」と書いてりゃなんでもいいのか。生徒会に届いた手紙がインテリ伊達眼鏡の生徒会長をかすめてここに届いたんじゃあるまいな。ちらっと喜緑さんの姿が頭に浮かんだ。原因はあの人なのか? あるいは古泉か。

 そうなるとちょっとこれは油断できない。

 我が校には正規の、つまり年間を通じて公的に活動する応援団は存在しない。

 開校直後にはそれらしきものがあったようだが、応援対象が万年一回戦敗退してしまう弱小野球部ときては、存在意義がしだいに薄れて自然消滅したらしい。

 だから、こんな勘違いの手紙は相手に、

『まことに遺憾ながら、当校には応援団に相当する団体は存在せず、貴校のご希望には添えかねます……』

 との返事でも出しておけば終了するだろう。

「生徒会に取り次ぎを頼んで断るのが筋だろう。公式には存在しない団から返事をするわけにもいかないだろ」

「キョン、挑戦から逃げるのは許さないわ。こんな面白い挑発には乗ってあげなきゃかわいそうでしょ。この時代遅れの団長さんをからかって、その勢いで応援でも試合でも圧勝よ」

 メイド服のフリルがふわりと視界をよぎったかと思うと、白魔術のように突如出現した茶碗を俺は手に取った。

 柔らかい笑みを俺に投げたのは朝比奈さんだ。

 最近は朝比奈印のお茶をすすりながら、「お、今日の茶葉は雁音ですね」みたいな高尚な会話ができるようになったのに、今日はなんか渋さしか感じない。

「俺はやらないぜ」

 この女は団長だが、応援とは縁もゆかりもない学校非公認団体だ。

 いまだに応援団長は男、という社会通念があるかどうか知らないが、相手は頭の悪そうなむさ苦しい男の集団の長だ。ここで俺が間に入ったら、俺が団長に勘違いされてもみくちゃになりそうな気がする。

「学生服は髪を短くまとめれば女子でも意外と似合うものよ。有希もボーイッシュに見えてある種の人間にはもてるかもね」

「みくるちゃんは……、そうねえ、まずサラシで胸を固定しないとね」

 いきなり、朝比奈さんの胸をむんずとつかんだ。

「ひゃあぁぁ!」

「この胸は応援の精神に反しているわ。みくるちゃん、本番では女を忘れるのよ。なんなら今ここで私がサラシをまいてあげてもいいわ」

 俺は騒ぎをよそに何とかこの災難から回避する方法がないか考えていた。

 岡部あたりに介入してもらうとか、あるいはハルヒに内緒で生徒会長に相手校に断りを入れるとか……駄目だ。バレたあかつきには、火にロケット燃料を注ぐような結果になるだろう。

 超悪天候により試合中止、は遠い未来の地球環境に悪い影響を与えるんだった。どうも長門に頼る癖がついていかん。

 ここは、得体の知れない『機関』の干渉とか宇宙人の超絶パワー抜きで考えたい。もちろん時空テクノロジーの利用は論外だ。

 ごく普通の高校生に解決できる範囲に問題を落としこむには最初から連中に頼ってはダメである。

 今や俺は一年前の自分から見たら信じられないほど現実路線で、かつてのエンターテイメント症候群はどこへやら、非日常的アクシデントにはほぼ回避モードだ。

 四月にもいろいろあったばかりだし……まあ、森園生さんにはちょっとばかり会ってもいいような気もするのだが。



 そこへ恒常的スマイルを貼りつけた古泉が部室に入ってきた。こいつはノックをしないのか。

 ハルヒのハイテンションと俺のげんなり顔でそれと察したらしい。

「おや、またなにか企画でも?」

「まだ何も決まっちゃいないぜ。どこかのカン違い野郎が、手紙を送ってきただけさ」

 俺は半紙に墨で書かれた挑戦状を渡した。

 古泉はさっと一読して(本当に理解しているのか?)、

「これは面白そうですね。以前とは違って応援だけなら僕も何とか」

「でしょ? しばらく退屈だったもの。こんなチャンスはそうないわ。よく言うでしょ。後ろ髪がない幸運の女神は、真正面から押し倒さないと」

 つい最近もあんな出来事があったばかりだというのに、なにがしばらくなものか。この女の時間感覚は今もって理解不能だ。

 それにしても、なんか大きな勘違いしていないか?

 ほかの学校の応援にいちゃもんつける石部金吉な御仁に認めさせようってんだぜ。野球みたいに白黒つくわけじゃない。相手の美的感覚とやらに訴えなきゃならないし、対するハルヒの美的感覚は一般人に訴訟をおこされるようなシロモノだ。

「ですが、相手の意見を尊重して、男子を集めて応援し……」

「私もやるわ。みくるちゃんもね」

 珍しく古泉の言葉をさえぎって、ハルヒは断言した。だから相手の野郎は女子の応援はまかりならぬと言ってんだろうが!

 サラシをここで巻くのはやめたらしいが朝比奈さんの顔色が悪い。TPDDでもなんでも使って逃げた方がいいんじゃないですか。俺も三年前とかじゃなければよろこんで同道したい。

「あの、私はチアリーダーのほうが」

 そりゃそうだ。なぜ朝比奈さんが女を止めなきゃならん。

「却下。ここは相手を納得させないとね。まず、この学校には応援団がないから、野球部の応援は臨時に一年と二年女子の有志でチアをやってきたのよね」

「もうそれで十分だろ」

「だからうちの野球部は初回で負けるのよ。臨時の寄せ集めじゃなくて、正規の“団”として練習を重ねてこそ、勝利に導けるというものだわ」

「今から人をかき集めりゃ寄せ集めなのは同じだ」

「僕も涼宮さんの意見に賛成です。人を集めたら、練習に体育館を使わせてもらいましょう。SOS団だと生徒会を刺激しますから、応援同好会とでも言いくるめて使用許可をもらってはどうでしょうか。臨時の有志の応援は認められているのですから、これなら大丈夫でしょう」

 古泉はあらかじめ用意したかのようなセリフを言った。

 俺の懸念をよそに、さっきよりも力の入った笑みを咲かせてハルヒは言った。

「いいこと言うわね古泉くん。さすが副団長だけのことはあるわ」

 あのな、俺は応援団の経験なんかないし、練習方法だってわからない。そんな練習DVDがあるわけでもないだろう。それに道具は? 衣装は? 人は?

 野球場に行くにしたって太鼓抱えて学生服で徒歩や電車というわけにはいかんだろう。問題だらけじゃねえか。

 ……なにを言っているんだ俺は。もうはまりこんでいる俺が情けない。

 経験上、帰還可能ポイントを通過したことを俺は悟った。引き返す燃料はなし、こうなりゃ目的地まで飛び続けるしかない……が、目的地は知らない。

「足りない人員は谷口と国木田は確定として、そう言えば、以前却下したけどSOS団の入団を希望してた坊やたちがいたでしょう? キョン、再徴募してきなさい。中学時代の学ランがあればなおいいわ」

「あたしとみくるちゃんの衣装は、あたしがなんとかする。古泉君は生徒会への申請と場所の確保を頼んだわ。有希はどうする? なんなら一着、調達してあげるけど」

「用意する」

 長門は本から目も上げずに答えた。

 長門がどうやって準備するのか見当がつかない。あの部屋でひとり、チクチクと生地から学生服を仕立てたりするのだろうか。制服を買いに行ったりもしないような気もする。たぶん、俺が知りたもくないような別の方法にちがいない。

「明日の放課後までにみんな用意してね。こうしちゃいられないわ!」

 ぱっと鞄をとりあげ、勢いよくドアを閉めてハルヒは出て行った。



 部室に残った俺を除く超常的な連中には言いたいことがある。

「こうなった以上仕方がないが、今回こそ人間以上の能力を発揮したり、怪しい組織の力を利用するのはやめてもらおう」

「なぜです?」

「心の平和が欲しい」

 思わず心の深奥からまろびでた言葉に自分でも驚いた。そうなんだよ。俺は普通の人間で、普通の高校生活が送りたいのだ。何か超時空的な出来事があるたびに戦々恐々、人類の運命まで背負いこむのは荷が重い。

「平和を望むのは僕も同様です。ご存じのように僕の能力は閉鎖空間内に限定されていますし、今回は僕の出番もないと思いますよ。まあ、涼宮さんの依頼で生徒会対応くらいはしますがね」

「朝比奈さん?」

「あの、あたしは自分で勝手に時間移動できないので」

「長門はどうだ?」

「…………」

 長門は沈黙のまま首を小さく縦に振った。

「まあ、最初からそんなに警戒していては疲れるだけです。僕は神人暴走と戦争以外なら、涼宮さんの指示に従います。最近はそんな心境になってきました。応援団もなかなか楽しそうじゃないですか」

 古泉はこれまでも、SOS団をめぐる不思議現象――特に時間関係――に解説役を買って出て奇妙な説や予想妄想のたぐいを俺に聞かせていた。だから、俺もちょっとばかり安心したのは事実だ。

 だが、古泉でも大間違いをすることがあるんだな、と後になって思い知ることになる。



 その夜。

 たとえハルヒの勅命と言えど、率直に従うほど今の俺は甘くない。

 足もとにまとわりつくシャミセンを適当にあしらいながら、危機を乗りきるべく無い知恵をしぼっていた。

 シャミセン相手に思案するとなぜか名案が浮かぶような気がする。こいつと喋りながら思案したことも過去にはあったっけ。しかし、かつての言語を解する哲人猫は完璧に猫のふりをしている、というか猫そのものだ。

 ……さて、いま俺が抱えている問題だが。

 俺は応援団のなんたるかを知らない。せいぜい観客席の通路に陣取って奇声をあげて手足をふり回しているいかつい集団、といった実に貧弱なイメージしかない。

 さらに今回の手紙の内容から、えらく頑迷頑固な人間が相手だということくらいか。

 大体、相手の言うあるべき応援の姿、というのが全くわからない。ハルヒは単純に人を集めるように言ったが、そいつらにどう応援で動いてもらうのかも見えない。

 結論。相手の考える応援とは何か、その応援団長の人となりを調べる必要がある。

 お、なんとか方針が見えてきた。ありがとうよ、シャミセン。

 シャミセンは俺の感謝に、にゃあと気の抜けた声を出し、ベッドの下で体を丸めた。

 相手の高校は、どこかで聞いたような気がするのもそのはずで、例のアメフト野郎のいる高校である。以前の貸しもあることだし、情報収集といくか。そう言えばこちらから電話をかけたことはなかったんだった。

 探し回ったあげくようやく発見した昔の学級連絡簿で番号を確認する。電話番号を変えてなければいいが……。



 電話の呼び出し音がとぎれ、落ち着いた上品な感じがする女性が出た。

 中学校の同窓であることを告げ、呼び出してもらう。まあ私立に行くくらいだから、そこそこの家なんだろう。

 中河が電話に出た。

「おうキョンか。お前からかけてくるとは珍しい」

「ちょっとばかり、頼みがあるんだが」

「このあいだは迷惑かけたが、もう前のことだし……まあ内容によりけりだな」

 自分が頼むときとは打って変わって、早くも警戒している。

「実は、そちらの応援団長からうちの学校に手紙が来た」

「確か、おまえんとこには応援団はなかったはずだが」

「それがないんだが、団はある」

「なんだそりゃ」

「応援とは全く無関係な団だが」

「じゃ断ればいいだろう」

 だれだってそう考えるよな。だがその可能性はもう、ない。

 何となく警戒しがちな中河の話によると、こいつの高校は野球でも県内有数の強豪校だが、応援団も演舞に独特のものがあり、上下関係の厳しさも野球部の比ではないらしい。応援に命を燃やす、とでも言うか。それ故、他校のだらしのない応援にはよく抗議するという。

「前にもそんなことがあったのか」

「ああ、そのときの相手は廃団になったとか聞いた。詳細は俺も知らん。まだ入学する前の話だからな」

「話からすると相当コワモテで学校内を強力に仕切ってるってことか?」

「いや、それがそうでもない。非常に規律にうるさいことは確かだが、身内だけだ。特に出場選手が主役、という方針で、どのレギュラー選手にもかなり低姿勢だ」

「お前見たいな新人はそうでもないのか」

「それが聞いてくれキョン。どこの部活でも新人はパシリか奴隷のたぐいと相場が決まっているが、この学校には悪しき伝統があってな。非レギュラーとか新人は応援に回されるんだ。ただの人集めかと思ったら厳しいなんの。一年でレギュラーになれた喜びの半分は、奴らとの関わりが切れたことだ。残りの半分は、まあ色々あったけどな……」

 例の件で、まだ罪悪感が少しは残っているものと見える。

「お前んところの団長、どんな人間なんだ」

「時代錯誤」

 よくわかった。だいだい変なヤツの集まりで、団長は中でもとびきり変態なヤツがなるんだろう。で、その変態が卒業するときに次期団長をより変態から選ぶという選択的淘汰を経て変な方向に進化を遂げ、だんだん世の中からかけ離れていく。よくあるカルトみたいなもんか。

「中河、そこで頼みなんだが、ちょっと探ってもらえないか。今の応援団の状況とか、団長が手紙を送ったいきさつとか。」

「なんで俺がそんなことしなきゃならん」

「たとえばだ、以前の試合中の失態は自分の精神にスキがあったからです。ついては気合いを入れ直すため、もう一度部活と平行して応援団に参加したい。もちろんアメフトの練習には必ずでます……と、こんな感じでどうだ?」

「アホか。絶対にやらん」

「おまえな、あれだけ熱烈なレターを届けさせておいて、このあいだの態度を何とも思わないのか? あとで彼女は悲しそうだったぜ。家に帰ってから人知れず泣いてたかもしれないぞ。繊細な乙女の心を踏みにじったんだよ、お前は」

 ……真っ赤な嘘です。

「それとこれとは話しがちがう!」

「おまけに、このくだらない応援合戦に巻き込まれてだな、無理矢理、学ラン着せられて行った先がまたお前の高校と来た日にゃ、さぞかし嫌な思いをするだろうよ。それでもいいのか」

「おまえが、彼女を巻き込まなきゃいいじゃないか。なんで俺が」

 よーし、まだ抵抗するか。最終手段だ。

「ところでうちの電話には録音機能がついているんだ。大事な話はオンにしておくんだが、前回おまえと超重要な話をしたような気がする……。気のせいかな? せっかくレギュラーになったのに、彼女に送られた超絶ラブレターの内容がなぜかアメフト部内に知れ渡ったりしてな……」

「や、やめてくれ、頼む。それだけは!」

 ほとんど叫び声である。俺だってメモ書き中は何度も叫びたくなったぜ。

「それともうひとつ」

「まだあるのか」

「応援団の応援ってどうやればいいんだ?」

「…………」

 たっぷり四秒ほど意味深な沈黙が続いた後、

「まさか応援でうちの応援団に対抗しよう、とか考えてないよな?」

「考えてる」ハルヒが。

「あのな、自爆するのはお前の勝手だが、あの人はどれくらいこの騒ぎに関係してるんだ? ほんとに応援をやらせるのか」

「お前の働き次第だな」

「だが俺がそっちに出向いて演舞の型を教えるわけにはいかないだろ」

「なんかマニュアル見たいのはないのか」

「口伝、というか身体で覚えさせられたよ。俺はな。ただ型やら心構えを書いた古い小冊子があると先輩から聞いたことがある」

「コピーくれ」

「絶対無理だ。あるとすれば団長室にしかないのにどうやって手にい……」

「頼んだぞ。じゃ」

 俺は電話を切った。

 この子機からは録音機能はオンにできないが、そんなことはどうでもいい。相手の弱いところに一点集中し、相手の文句は聞かないのが説得のコツだ。

 気が付けばこれはハルヒのやり方だった。ああ。



 翌日の昼休みだった。

 いつものメンバーで昼飯をつつきながら、それとなく誘ってみたのだが。

「だから何で俺がお前ら挙動不審団に協力しなきゃならねえんだ? 映画の時もこっちの犠牲の割にはまったくメリットなしだ。ずぶ濡れになったんだぞ? 今度もあの女が発作的に思いついたんだろ? どーして俺が」

「谷口、ここは上級生として指導力を発揮するチャンスだと思ってくれ。だいたいこの学校は上下の感覚が希薄だ。俺はハルヒを押さえるから、一年はお前に任せる。ビシッと指導してもらってかまわない」

 指導で入団希望者があきらめれば、連中の人生はまっとうな方向に向くし、俺たちの負担も減る。

 それでもなお、根性だして入団への野心を燃やしているんだったら大いに応援に力を発揮してもらいたい。

「そうは言っても時間がねーし」

 といって谷口は押し黙った。

 どうやらマンガ的応援団の妄想が頭を駆けめぐっているらしい。

「応援団ねぇ。僕は以前から思っているんだけど、応援団ってさ、一種の雨乞いみたいなものだよね」

 箸を置いた国木田は珍妙な説を展開しはじめた。

「だってさ、雨が降ることと祈祷師が祈ることって完全に無関係だろ。それと同じで応援団が踊り狂ったところで戦うのは選手なんだから加点には繋がらない。勝ったら応援が力を与えたと思いこんで、負けたら応援が足りないと思いこむ。自己欺瞞だよね」

「それは違う!」

 妄想をさえぎられたせいか、谷口はむっとしている。

「俺も部活をやってたからわかるが、こっち側が応援なしで、相手側に観客の声援と強力な応援団がいてみろ。結果は全然ちがうに決まってる」

「それはもともと実力に差があったからで、応援の違いじゃないと思うよ」

「相手にも応援のプロがいる以上、こっちにも必要なんだって。なんというか一種の自己防衛みたいなもんだ。いわば自衛団……」

 と言ったきりまた沈思黙考である。いいぞ谷口、そのままどんどん妄想しててくれ。

「国木田、お前は参加するか」

「そうだねぇ。野球も応援も圧倒的にむこうのほうが上回っているみたいだけど、こっちが勝ったら僕の考えの大いなる反証で、それはそれで面白いよね」

 どうやら二名確保したようだ。

 今日はジャージでいいが、明日の練習からは学生服を忘れんなよ。

「去年の野球みたいに何か勝つ見込みでもあるのかい?」

 それには答えず俺は教室をあとにした。見込みなどあるわけがない。去年だって長門の摩訶不思議チートな力がなければどうなっていたことやら。俺は階段を駆け上って下級生のフロアにいった。

 一年の徴募はなんなく昼休み中に終了した。

 いまだにSOS団に興味を示しているだけで、こいつらの今後が危ぶまれる。

 しかし、その種の人間はやはりマイナーなのか、クラスあたり一、二名程度しかいない。SOS団の女子を勘定に入れるのは今のところ保留しても、俺と谷口たちを含めて10人あまり。これでは相手に数で押される。かといって応援の質で対抗しようにも、どこから初めていいのかわからない。



 午後の授業が始まり――古典だったが――いつものように食後のけだるい雰囲気の中、教師の声はエンドレスな読経と化し、俺の意識は睡魔の囁きとともに妄想へと旅立っていった。

 ぼんやりと今回のことを考えるうち、次々と不安要素が潜在意識の底から浮かび上がってくる。いつもは潜在意識を覆っている壁は、この時間帯には希薄になるようだ。そんな障壁がほぼ無いハタ迷惑なやつもいるが。

 今回は自主映画作りや内輪のミステリごっことはわけが違う。完全に相手は部外者であるし、向こうから持ちかけられた話でもある。

 しかも相手が頑固かつ変態だ。手紙からも解る。自分は絶対正しいと信じ込むのはハルヒに限らず周囲のトラブルを生む。

 もっとも、ハルヒの場合は周囲の(特に俺の)涙ぐましい努力で結果的に“正しい”ことになって、ますます確信を強めるという悪循環が続いている。

 まとめると、それら相容れない唯我独尊団長二人の間にいるのが俺、と言うことになる。

 その上、応援合戦で勝ち、野球の試合にも勝ってもらわなければ、巨大閉鎖空間発生、人類滅亡の危険なしとは言えない。……たった半日でここまで追い込まれるとは。



 不安と焦燥で眠ることさえできない午後の授業を終え、よろめくように部室に入った。中にはハルヒ一人しかない。机の上に大太鼓やメトロノームまでおいてある。吹奏楽部からガメてきたのか?

 そういえば、夕刻になるといつも聞こえるはずのうら寂しい吹奏楽部の演奏が絶えている。気の毒に。

「ちょっと借りてるだけ。古泉君は先に体育館に行ってるわ」

 と言いつつハルヒは何か書き物をしている。

 机の上にある書道セットを認識した時点で俺は理解に到達した。やはりそうか。

「墨書にワープロで返事を書いたら失礼でしょ」

 お前でもそう言った配慮はできることはわかった。が、返事なんか出したら相手のルールに従って挑戦を受けます、と確約することになるんだぞ。

「そんなことは書いてないわ。ほら」

 生乾きのまま放るようによこしたせいか、ところどころ字がにじんでいる。それでも俺より遙かに達筆である。つまり字は性格を反映しないわけだが。

 そんなことより、中身は、


“先日のご指摘に感謝し、次回の貴校との交流試合にて、本校応援団による応援を披露する故、可能ならば貴校も模範に相応しい応援ぶりを示されたい。

                      応援団長 涼宮ハルヒ”


 何のことはない、こっちも本気でやるからおまえらも模範見せろ、の意で、ケンカ売ってんのか。ほぼプロ集団にむかってなにが“可能ならば”だ。

 わざわざ手間をかけて墨書するまでもない内容だ。

「手紙は帰りに投函するとして、これから練習よ。太鼓と小道具一式を持ってきて」

 俺は溜息とともに太鼓を持ち上げた。メトロノームぐらいおまえが持てって。


 古泉が立ち働いてくれたおかげか、体育館での練習許可は下りた。しかし、オンシーズンに広い体育館を丸々割り当ててくれるほど、学校側は甘くなかった。

 奥の半分はバドミントン部の練習に、入り口側の残り四分の一ずつを、チアリーダーと我々得体の知れない団という配分だった。

 バドミントン部の連中は、俺たちのせいで練習場所が狭くなったせいか見せ物でも見るような視線を送っている。確かに周囲から浮いていることは確かだ。

 ジャージを着た谷口と国木田、太鼓を抱えた俺、静かに微笑んでいる古泉、後は期待感だけはいっぱいの一年だ。ハルヒたちは更衣中でまだ来ていない。

 バドミントン部がきちんと目的意識を持って練習をしているのに対し、こちらは何をどうやったらいいのかわからない、絵に描いたような烏合の衆である。

「ちょっと、あんた達ここで何をしようとしているわけ?」

「応援の練習」

 と言ってる自分の声が虚ろだ。

 侵入してきた俺たちにチアの代表とおぼしき女子が話しかけてきた。ちょっと背が高くて俺と同じくらいある。茶の入った髪を後できっちりまとめている。なんとなく目つきは硬派で、全体的にきつい感じがする。特に面識はない。

「応援ならこれまでずっとチアリーダーがやってきたから、正直言っていらないわ。それに練習場所が狭くなって、邪魔なんだけど?」

「使用許可はもらっている」

「許可をどうこう言ってるんじゃなくて、応援するグループは二つもいらない。まさか一緒にやろうってんじゃないでしょうね」

「それはない」

「わたし達は最初から試合の続く限り応援するつもりだけど?」

「それじゃ困る。応援団の演舞はチアと別にやる。邪魔する訳じゃない」

「なら試合が終わってから球場の隅っこでやれば。どうせ応援を見せにいくだけなんでしょ」

 すでに応援合戦の件は校内に知れ渡っているらしいのがわかった。

「終わってからじゃ、応援にならないだろ」

「それなら、こうしてはどうでしょうか」

 それまで黙っていた古泉がにこやかに割って入ってきた。

「試合の後半から応援させてもらえないでしょうか。皆さんが一生懸命応援して順調に勝っていれば最後の数イニングくらい僕たちが応援しても悪影響はないでしょう?」

「じゃ、七回からならいい」

「ではそう言うことで」

「あたしは認めないわ!」

 ハルヒの声が響き渡った。

 ジャージ姿の朝比奈さんの手を引きずるようにしてハルヒが体育館に入ってきた。長門はその後から滑るようについてくる。

「古泉君、勝手に決めないで。私が団長なんだから」

 古泉は気にする様子も見せず、すみやかににその場所をハルヒに譲った。

「うちの野球部は弱小なのよ。七回までにコールド負けしたら応援できなくなる。それこそいい笑いものだわ」

「もともと笑いもの団でしょ? 全員バニースーツで応援したらいいわ」

 ハルヒ相手にたいした度胸だ。恐らくこれまでの熱心な練習がそう言わせているんだろう。だが声が震えているのは致し方ない。

 返すハルヒも、落ち着いたもので、

「あーら、そのポンポン踊りでどんだけ応援できんの? これまであんたたちの応援で勝ったことあったっけ?」

 相手は一瞬言葉につまった。痛いところを直撃するハルヒのやり方は変わらない。が、チアリーディングの女子も負けてはいなかった。

「私たちは絶対、最初から最後まで応援するつもりだから」

「全部とは言わない。前半はあたしの団が応援する」

 臨戦態勢で火花を散らす二人の間に現れたのが、

「鶴谷さん?」

「鶴谷先輩!」

「いゃあ、体育館でもめてるってんで……かけつけたのさ」

 と言ってしばらく息を整えている。どうやらチアの一年が助けを求めにいったらしい。

「二人ともケンカはやめなよ。話は大体聞いてるよ。応援は仲良く半分ずつにすればいい」

「一生懸命練習をしてきたのに、こんな連中に邪魔されるなんて我慢できないんです。先輩だって去年までやってたから気持ちはわかるでしょう?」

「じゃ、前半後半じゃなくてイニングごと交互に応援すれば? それだとお互いに最後まで応援できるでしょ。あと練習の後のモップがけは団の方でやるから。ハルにゃんもそれでいいかい?」

「まあ鶴谷さんが言うなら」

 あっさりハルヒは譲歩した。しかし闘志満々な態度は崩さない。チア女子はかなり不満そうだったが、そこは鶴谷先輩の一言である。

 ほっとした様子で、鶴谷さんは言った。

「さ、二人とも練習、練習! あたしはちょっくらここで見学させてもらうよ」

 あっというまに二人を仲裁した鶴谷さんはきっと将来偉大なリーダーになるに違いない。

 それにしてもハルヒはよく簡単に譲ったな。

「別に。なんか必死で訴えてくるのが伝わって、哀れに思っただけよ。あのまま譲るつもりは毛頭なかったけどね。まあ鶴谷さんの顔をつぶすわけにもいかないし」

 俺の顔はいいのか? 



 チアリーダーたちと俺たちはそれぞれ割り当てられたスペースにもどった。

 チアはさっそく練習を再開、体育館の隅っこに置いてあるコンポから流れる音楽に合わせて踊り出した。応援時間と練習スペースが減った腹いせか、大音量である。まさかあんな曲で応援する気じゃないだろうな。

 俺たちの方は再開も何も、今日が練習初日でなにをするのか五里霧中だ。

「誰か、中学んときに応援やっていたやついないか」

 谷口が早速、仕切りを入れた。

「そいつに実例をみせてもらったほうが早いんじゃねえか」

「谷口にしてはいい考えだわ。誰かいないの」

 おそるおそる手を挙げた男子が一名。

 そこは怖い先輩の命令である。模範例を見せてもらおう。期待はしていないが。

 緊張した面持ちでやおら腕を頭上にあげ、深呼吸とみるや、拍子を取って叫びだした。

 一瞬で館内の全員がドン引きするのを尻目にフレーフレェまでは良かったが、中学校名を絶叫した時点で息が切れてしまい、館内は爆笑である。朝比奈さんまで、かわいらしく笑いを堪えている。

 ある意味別の期待に応えてくれてありがとう、だ。

 ただ一人、ハルヒだけは笑っていなかった。赤面している一年男子、というか泣きそうな中学生にしか見えないそいつの肩に手をかけて、

「ご苦労様。だれもあんたをバカにしちゃいないから。いきなりだったからみんなびっくりしているだけよ」

 と、この俺にはついぞかけたことのないような優しい声だ。

「キョン、この子を見習いなさい。本当に真剣にやってくれたわ。あんたの一年の時とは大違いね」 

「一生懸命やってくれたけど、一人だとどうしてこう不自然なのかしら。本当に心がこもっているなら、大勢でも一人でも通じるはず」

「参考になるかどうかわかりませんが」

 古泉がカバンから取り出したのは一冊の本である。ずいぶん古色蒼然な装丁で『演舞要諦』なる表題が付いている。私家本か?

「僕の遠縁に当たる方で、古書収集をされている人がおりまして。もしやと思って問い合わせたところ、思いがけなく入手できました」

 とあからさまに嘘くさいことをいう。やはりこいつはなんか企んでるにちがいない。

「へえ、こんな本あるんだ」

 ハルヒは単純に感心している。

 そう言えば中河もそんな小冊子がある、と言っていたがこれのことか。古臭い書体で記載されたその内容というのが……。


『演舞要諦』

 一、儀礼編 礼に始まり礼に終わる。

 二、発声編 発声法・呼吸法・音韻

 三、演舞編 基本型、対称型(symmetry)、序盤型、追撃型

 四、構成編 序・破・急 


 なんだこれは。目次を見てもうやる気が失せてきた。

「古泉君、助かるわ。とりあえずこれを教本にして一通りやってみましょう。時間がないから主要なところだけでにしてあとは気合いよ気合い」

 そんなに簡単にできるなら、なんで他校の応援団は猛練習しているのか。そういった儀礼が一朝一夕に身に付かないからじゃないのか。

「まずは基本型の起立姿勢から。アゴを引き、視線は前方十メートル先の地面を見る感覚で手は肩幅なりに、中指はズボンの布目にそって自然に伸展すべし。次に胸郭は……」

 やめないか、ハルヒ。全部読んでいったら日が暮れるぞ。ダイジェストでいけ。

「ならキョン、あんたモデルになりなさいよ。みんなの前で実演すれば解りやすいし」

 時間があってもなくても、どうせ俺はこんな役回りなんだろうよ。

 俺は雑多な感じのする自称応援団員たちから数歩まえにでて、直立不動の姿勢をとった。こうすりゃいいのか?

「あたしは教本を参考にキョンの動きを修正するから、残りはキョンを模範にすればいいいわ。谷口は実際にその子達の手足の位置を直してやりなさい」

 谷口はにやっと笑って、早速一年を横一列に並べ始めた。やはり応援より、こういうことがしたかったらしい。

 国木田は素直に谷口の指示に従って同じ列についた。こいつは指導とか、先輩風を吹かすことには興味はないようで、面白そうにこっちを見ている。

 朝比奈さんはおずおずと、長門はまったく無表情のまま列についた。烏合の衆雑伎団の結成である。

 俺はそのあと、起立・礼・歩行・手の上げ下げなど、一挙手一投足をハルヒにこづかれつつモデルを務めた。この女の言葉より手が早いのにはいつもながら閉口したが。

 俺はハルヒの直接指導のおかげで、古泉はいつものようにそつなく一通りこなせるようになった。谷口は教える立場を肝に銘じているらしく、これも意外にあっさりマスターし、長門は当然だ。一年と国木田はまだまだ指導が必要か。

 朝比奈さん、それナンバ歩きですか。手と足の同期がままならない。本人は懸命に覚えようとしているのだが、一人だけダントツで動きがとれない。いつもの朝比奈さんのふわりとした所作と対極の動きだから、これは仕方がない。大人の朝比奈さんなら別かもしれないが。

「さ、次は発声練習よ」

 あのな、まだ覚えきっていないのに次に進むのは早すぎないか。

「キョン、横になりなさい」

「は?」

「これから発声練習するから」

「横になってか?」

「教本に書いてある通りにするのよ。とってもいい練習だわ」

「腹筋運動をするつもりで膝を上げなさい。次に手のひらをお腹に当てて肘を広げ、かかとを上げる。そう、横から見てVの字型よ。それから……お腹で声を出す」

 この態勢で?

「よく通る声を出すには、腹式呼吸でお腹からだすのよ、さあ声を出しなさい」

「あ゛~あ゛~あっふっれーふぁっ!」

 途中で息が切れた。無理ゲーだろこの姿勢じゃ。

 我に返ると周囲の視線が痛い。鶴谷さんと朝比奈さんは身体を細かく震わせながら必死に笑いをこらえているのが横目で見えた。谷口たちはこらえようともせず笑っている。お前らも横になれって。



「初日の練習としてはこんなものね」

 そこはかとない満足感を顔に浮かべてハルヒは言った。

 俺もこれ以上は無理だ。一年生もちょっと谷口の細かいチェックに飽きてきたのか、うんざりし始めている。

「清掃は一年と二年で交替でやるから、一年は帰っていいわ」

 バドミントン部とチアリーダーたちはとっくに帰っていた。

 すでに陽は傾いて、体育館の滑らかな床に夕日がさしている。横扉から入ってくる微風が俺の身体から熱を静かに取り去っていく。

 閑散とした体育館を縦断方向に幅広モップを押していると、つっとモップを持ったハルヒが横に並んだ。

 しばらく黙って併走した。こんな時は経験上、俺から話しかけちゃいけない。

「キョン、あんたが声をかけて人集めしたけど、一年はそんなに集まらなかったわね」

「大体こんなもんだろ」

「いつもこういったことに興味を示すのはごく少数だわ。ほとんどが無関心。確かに二年のこの時期にやることじゃないかもしれないけど」

「そうかもな」

 間近に迫った中間テストのことを思い出しながら、俺は言った。

「私はいつも少数派だけど、後悔はしてない」

 しばらく俺とハルヒは並列でモップを押していく。体育館の奥のステージのあるところでターンして、しばらくしてからハルヒは言った。

「これが終わったらあたしが補講してあげる。有希にも手伝ってもらうのもいいかもね。場所は部室じゃなんだから有希のうちでやることにするわ」

 そう言うと、俺の返事を待たずに、すっと離れていった。




 練習二日目。

 昨日の腹筋運動、もとい発声練習のおかげで昼過ぎくらいから腹が痛み出した。

 放課後になって慢性の腹痛患者よろしく前屈態勢で這うように体育館にむかった。筋肉痛の今の俺には笑うことすら拷問に等しい。

 特段、今の俺は笑うネタを抱えているわけではないが、他人から見れば笑いの焦点といえなくもない。

 一年男子と古泉達はすでに学生服に着替えている。が、よく見ると一年の数が減っている。つまり、そいつらは本日をもってまっとうな人生に舵を切ったというわけだ。おめでとう。

 残る不幸なチョイスを堅持している一年も、全く学生服に違和感がない。どう見ても普通の中学生であり応援団員にはみえない。

 一方で谷口は新兵訓練中の鬼軍曹のごとく残り少ない一年を整列させている。いつものちょっとダレた雰囲気は微塵もなく、こんなに気合いの入った谷口をみるのはしばらくぶりの様な気がする。

 練習だというのに白い手袋にハチマキまでしている。雰囲気に呑まれるヤツは怖い。平和な時代で本当に良かった。

 バドミントン部とチアの連中もすでに練習していたが、彼女たちの視線は応援団を構成する特定の二名に向けられていた。

 前にも、というか俺の主観的時系列では古泉の学生服姿もこれで二度目だが、あの時のことはあまり思い出したくない。

 改めて見るとこいつは何を着てもよく似合うのがわかった。姿勢の良さと立ち振る舞いがおよそ高校生らしくないから、応援仕様の学生服を着用すると、どこかのエリート士官学校生的ルックスである。まあ、もともと学生服はそういうもんが起源なわけだし。殊勝にも髪まで短めにセットしてある。

 チアリーダーたちの視線が古泉追尾モードになっているのは俺の単なるヒガミではない。事実だからしょうがない。

 そして、もう一人は長門である。

 一体どうやって手に入れたものか、からだにジャストフィットした学生服を着ていた。

 均整のとれた肢体と、短めの髪が服装になじんでいる。さらに仕立てのよい上品な黒の生地が、長門の白磁を思わせる肌と深宇宙色の瞳を際だたせており、わずかに妖しい魅力がある。

 こんな学生が中学の時にいたら、大抵の女子は放っておかないのではなかろうか。たとえ女子と解っていてもだ。バドミントン部の一年が見とれてシャトルコックが顔にあたっても気付かないのも無理はない……などと考えていると、

「あたし達の衣装はまだできていないから、当分練習はジャージで参加するわ」

 というわけでハルヒと朝比奈さんもジャージ姿である。俺もだ。いまさらサイズの合わない中学の制服なんか着られるはずもない。

「早く言ってくれれば、僕が何とか用意できたんですが」

 わかった。お前の縁戚に古着屋でもいるんだろうよ。じゃ、あとで採寸を頼む。

「キョン。今日もモデルをやってもらうわよ」

 モデルというより練習台、木偶のたぐいだろうが。まだ筋肉痛が抜けきってないのに。

 ハルヒは教本を見ながら、古泉に質問した。

「どうしてこんな時代がかった身振りが必要なの」

「諸説ありますが、武道の基本的な型はもちろん、発声も詩吟調だったりバンカラ風など多々あり、それぞれの地方色は応援団ごとに継承されているようです」

 にわか解説者となった古泉が語りはじめた。

「一見単純な動作の繰り返しに見えても、かなりのバリエーションがありますね。しかも一つの型から次の型に移行する流れや、競技が優勢か劣勢かで拍子の取り方や発声にもルールがあるとは僕も知りませんでした」

「こっちは人数が少ないんだから、勝つためには観客全員のサポートが必要だわ。だから応援団だけ小難しくしていてはだめね」

 観客が来るなんて話は聞いてないが。

「競技する人に応援の心が届くように、応援する人全員が一つになれるようにするのが応援団なんですね」

 と朝比奈さん。さすがにいいことを言う。この世の応援団がすべてそんな存在だったらどんなにいいかと思いつつ、モデルのポジションに立った。早いとこすませたい。

「キョン、最初の練習で習った姿勢をもう忘れたの?」

「痛って!!」

 ハルヒは俺の襟首をつかみ、尻にケリを入れる方法で俺の姿勢を矯正した。いや、矯正になっていないって。

 練習を進めるうちに痛感したのだが、太鼓のリズムに合わせて手足を動かすのがこんなにも難しいとは。

「儀礼」、「発声」それぞれの難しさも相当だが、流麗かつ的確な型の演舞はそれら二つを合算しなければならない。気合いだけではなく、微妙な調和感覚が必要なようだ。

 試合は明日だというのに、結局教本は最後までできなかった。

 結局、教本にあった序破急ってなんだったのかは永遠の謎となった。別に知りたくもないが。



 その夜。

 風呂から上がったばかりの俺に連絡が来た。なぜか昨年に続いて中河からの電話は妹がとった。妹も慣れたもので、

「キョン君でんわ-」といいつつ子機とシャミセンを抱えてきた。

「キョンか? いまのは妹さんか。受け答えがはっきりして賢そうだな」

「お前に言われてもな……。で、なにか収穫があったのか」

「別に俺はお前のために調べ回っている訳じゃないぞ。あの人が巻き込まれそうだと言うからやっているだけだ」

「まあそうむきになるなって」

「久しぶりに応援団に顔を出したんだが」

 どうか、相手の勘違いとか応援を止めることになったとか、そんな話を聞きたい。

「それが大変なことになってた。何人も退団して、今はほかの部員の寄せ集めが大部分になってる。俺も即、徴用されて明日からから練習だよ。どうしてくれるんだ」

「そりゃ吉報だ。次回の応援には間に合わないとか?」

「なに言ってんだ? 残った団員で何とか以前のレベルに戻そうとスパルタ度がひどくなる一方だ。この寄せ集め応援団の最初の応援がお前んとことの交流試合だ」

「そいつら、何が原因でやめたんだ?」

「その前に確認したいことがある。こっちの団長の手紙の内容を覚えているか」

「大体な。応援団があるなら、チアリーダーとは別に応援を見せろ、と言うような内容だったな」

「やはりそうか。チアの女子も来るんだな」

「どういうことだ?」

「団長は以前の交流試合でチアをやってたおまえんとこの女子に惚れてるみたいだ。ちらっと話してたんだが、そっちの女子の代表らしい」

「お前の高校はそんなヤツばっかりかよ!」

「応援合戦は単なる大義名分で、実際はその女子にかっこいいところを見せたいだけだと思う。退団した連中も、団長のそんな態度を見抜いて、愛想を尽かしたらしい。やめた連中はそれを根に持って何をするかわらない。キョン、どうもお前に関わるとロクなことがないような気がする」

 相手の団長が惚れたって言うのは、体育館でハルヒと張り合ったあの女子か。あんなキツめのやつが好みだなんて、やっぱり変わっている。当日こじれなきゃいいが。

 まあいい。ようやく相手方の立ち位置がわかった。

 例の小冊子はこちらで入手したことを告げ、今後は携帯で連絡をとることにし、俺は軽く礼を言って電話を切った。



 試合当日。

 今日は俺の淡い期待を打ち砕くような晴天である。

 午後からの試合だが、天気予報のおねーさんが笑顔で語るところによれば、五月末としては記録的な暑さになるらしい。

 相手校は午前中、別の高校と対戦し、我が校とは二試合目である。要は完全に軽く見られているわけだ。

 午前中に応援関係者はいったん学校に集合し、そこから出発することになっている。

 非公式な団体の集まりが、いつの間にかチアリーディングによる応援にまぎれて学校公認行事に昇格している。古泉の暗躍か喜緑さんの裏工作かはともかく、生徒会のあと押しに加えて送迎用に学校のマイクロバスまで待機していた。

 さすがに高校に中学の制服を着てくるのは小っ恥ずかしいので、参加者は制服を持参し、学校の更衣室で着替えてから出発する。

 学校の玄関ではすでに谷口の監督で学生服姿の一年が荷運びをしていた。

 大太鼓やアイスボックス数個、チアリーディングのポンポンの入った大きな段ボールのほか、救急箱など結構な荷物がある。おまけにどこから湧いたのか知らないが引率教師まで立っていやがる。まさにお荷物だ。

 積み上げられた箱が、今日のイベントの大きさを象徴しているようで、なんとなく重い気分で更衣室に向かった。



「おはようございます」

 更衣室ではすでに学生服に着替えた古泉が俺を待っていた。ロッカーに背を預ける姿も俺と違って余裕がある。相変わらず着こなしにスキがない。

「引率やらバスまで用意するとは、ずいぶん大がかりになっちまったな」

「僕のほうでもいろいろとありまして」

 妙に“ほう”を強調しているように聞こえるが、俺と中河のことも知っているのか。知っているんだろうな、と言う気がした。

 気のせいか、いつもの笑みに期待感のようなものがほの見える。なんだろう。

「古泉、このあいだ頼んでおいた学ランは? まさか忘れたんじゃ」

 一瞬、自分を除く全員が学生服の中、ただ一人短パン半袖シャツで応援、という薄ら寒い光景が脳裏に浮かんだ。

「ご心配なく。あつらえるのに少々時間がかかりましたが、用意してあります。昨夜、ようやく僕のところに届きましてね」と、衣装ケースのふたをあけた。

「かなりデカくないか、これ」

「特別仕様ですから」とさわやかに応え、

「袖を通してみてください」

 長ラン? なんか昔のマンガに出てくるようなシロモノで、しかもずっしりと重い生地である。

「何で俺だけこれなんだ?」

「相手が女性を認めないので、男子が応援団長になる必要があります。僕はSOS団の副団長を拝命している以上、応援団長は唯一フリーな立場の男子、つまりあなたしかいない。当然、団長は対外的に他の団員とおなじ学生服というわけにはいきません」

 その考えは論理的に何カ所か破綻しているが、いまさらジャージというわけにも行かない。しかし、これは……。

「残念ながら、SOS団の副団長は他部との兼任は認められていませんので」

「いつからそうなったんだ」

「では、涼宮さんが兼任を認めると思いますか」

 もういい。どうして俺はいつも選択肢がほぼない状態に巻き込まれるのか。

「腕章もバッジも素晴らしい。肩にパッドも入っていますし、体型も見違えるようです」

 腕章は明るいオレンジ色でハルヒの腕章とは違うが、バッジはあろうことか団の公式HP画面そのままのZOZである。古泉、おまえちょっと楽しんでないか? というかこんなものをどうやって入手したんだろう。『機関』には特殊物品を調達する部署でもあるのか。

 こんな服を着た以上、第三者からは団長とみなされ、俺が手紙の送り主の応援団長と対峙することになる。面倒くさいが後悔はない。この一年、後悔なんかしてたら身が持たなかったろう。

 今回こそ、宇宙人や未来人や超能力者の力は借りない。まあ学ランは借りたが。



 積み込み作業で早くもダレぎみの一年の犠牲者達と、二年の疑似応援団員はマイクロバスの後部に乗り込んだ。

 やる気満々の谷口はすでに乗車しており、隣に座った国木田と話し込んでいる。内容は応援の必要性だとかこの間の論議を蒸し返しているらしい。

 バスに乗り込み中、俺は着慣れない学ランの重みでバスの搭乗口で華々しくコケ、周囲のなま暖かい憫笑に体温が二度ほど上がって、すでに汗だくである。

 前の席はお荷物教師とチアリーダーたちが後から乗り込んだ。なぜか鶴谷さんも乗車している。

「こんな面白いことを見逃す手はないからねっ」

 とは鶴谷さんの弁だ。見ているだけでは満足できないのか、チア衣装を着ている唯一の三年女子でもある。俺たちの「団」と競演するハメになって、不安を感じた後輩たちが頼んだのかも知れなかった。去年までやってたっていうから、鶴屋さんなら練習ゼロでもやりこなせそうだ。



「おくれてごめーん!」

 謝罪の色皆無の大声で、ハルヒだとわかった。バスに乗り込んでくるその姿を見たとたん、俺はさらに体温が上昇するのを感じた。それも病的なやつだ。

 ハルヒの服装は確かに生地が黒で学生服なんだが、極薄の生地で、炎天下では背中が透けて見えるにちがいない。本来あるべき学生服のカッチリ感がなく、全体的に柔軟な感じ。風にそよぐ学ランと言うべきか。しかも襟だけはピンと立てて全開襟。

 中に着ているのはド派手な赤いTシャツ、もちろん鉢巻き、白手袋とメガホンは忘れていない。

 お前、相手を挑発してんのか。

 ハルヒはまったく周囲の目を気にせず、ずんずんと後部座席までやってくると、

「どう、キョン。この学ラン。生地を選んで仕立て直したの。この暑いのに化繊混紡なんて着られないからね」

 得意そうに言ったが、俺の服装の一点を見つめて表情がきつくなった。

「キョン、その腕章はよこしなさい。バッジも。それをつけるには百年早いわよ」

 俺は喜んで外したが、古泉はちょっと残念そうである。

 と、気持ちよさそうな笑い声が響いたと思ったら、発生源は鶴谷さんで、さっそく始まった“面白いこと”を記録すべく携帯で写真を撮りまくっている。

 後ろから来た朝比奈さんは重そうなバスケットを持っていた。

 やはり制服はハルヒとおなじなんだが長い髪をきっちりボニーテールにまとめてこれはこれで……。いや、何かが違う。

「なんかちょっときついです」

「きっちり巻いたから腕の可動域が少し狭いかも」とハルヒ。

 朝比奈さんは俺の視線に気が付いたのか耳たぶまで真っ赤にしてうつむいた。俺の中で何か大切なものが一瞬壊れたような気がした。なんてことをしやがる。Tシャツを透かして見える白いサラシに巻かれた隆起物体をしばらく見つめていたい気持ちを無理矢理抑え、これから先の試練に俺は意識を集中させようとしたが、脳裏に刻み込まれた映像はそれを許さない。

 やがてバスは目的地を目指して発車したが、前部座席は後ろの黒ずくめ集団のダレた雰囲気とはうってかわって、ふんわりなごやかだった。さっそくおやつをわけあったりしている。おまえら、遠足に行く訳じゃないんだぞ。

 ……俺もそっちに混ざりたい。



 バスに揺られること四十分、昼前に相手校の野球場に到着した。

 野球場は高校の敷地内にあるというのに、定期的に設備更新されているらしく、全体的に整然としている。

 観客席も古ぼけた木製ベンチなどではなく、コンクリートの打ちっ放しが階段状に作られている。立派なダグアウトも応援席の下にちゃんとある。さすがに金満な私立だけのことはある。

 交流試合だから当然観客は少ないと予想していたのだが、ライト側の応援席は動員でもかかったのか結構な人数である。中には子供連れもいて、弁当を広げ始めている。

 我々の応援場所であるレフト側スタンドには他の学校の応援者がちらほら残っていた。なげやりな撤収作業の様子を見るにどうやら負けたらしい。

 我が校は一般の応援者はいないはずだから、応援場所の確保をするまでもない。が、チアリーダー達は俺たちから露骨に距離をおいて集まっている。

 午後の試合まではまだ時間がある。

 引率教師が、チアリーダーたちに仕合開始10分前には整列、それまでは食事時間と言っているのが聞こえた。こいつも俺たちの方を見向きもしない。

 チアリーダー達は三々五々、グループごとにランチを囲み始めた。


 

 俺の本日の唯一楽しみと言えば、もちろん朝比奈さんのお手製ランチである。高校生なのに食うことしか楽しみがないとはちと哀しい気がしたが。

 今回はバゲット・サンドイッチだった。

 薄切りにしたフランスパンに色とりどりの具材が挟まれており、バスケットから次々と取り出されるうちに朝比奈さんの周囲がぱっと華やかになった。

「試合の前でよかったです。こんなに暑いと傷んじゃうかと心配で」

 いいえ、朝比奈さんお手製なら何を食べても大丈夫ですとも。

「ツナサラダと照り焼きチキンはあたしがつくったんだから心して食すのよ」

 俺はハルヒほど胃が丈夫じゃないし。

 ちょっと堅めのフランスパンは軽くあぶって薄くバターを塗ってあらしく、具はしっとり、パンはさくさくとなんとも絶妙な食感で、しゃくに障るがハルヒの照り焼きチキンもうまかったと言っておこう。

「紅茶と麦茶、お好きな方をどうぞ」

 朝比奈印のほんのり甘い紅茶もサンドイッチにぴったりだった。

 俺たち同様、学生服姿の長門は冷たい麦茶がCPU冷却システムにでも必要なのか何杯もお代わりしている。

「こうやって野外で食事するのもいいものですね。中間試験が終わったら、どこかピクニックにでも出かけましょうか」

「あまり蒸し暑くならないうちに鶴屋山にまた出かけたいですね」

 珍しくリラックスした古泉の提案に、清楚な微笑みで朝比奈さんが答えた。

 なんだなんだこの緊張感のなさは。

「キョン、戦う前から緊張しっぱなしだと、本番でダレて負けるわよ。食べるときは食べることに集中しないと」

 と言いつつサンドイッチをほおばるハルヒだった。

 戦闘に関しては古泉が高度な訓練を受けているのは間違いないし、品よく笑みを浮かべている朝比奈さんにしたって緊急時の訓練ぐらいは受けているかもしれない。長門にはそもそも恐怖という感情があるのかどうか。もちろんハルヒはおよそ恐怖を引き起こすことはあっても、逆はない。

 こう考えると、今俺の感じている不安は正常な人間の反応として当たり前なのである。こいつらが異常なのだ。



 楽しいランチも終わる頃、下の通路側から一人の学ラン姿が近づいてくるのがみえた。体の大きさですぐにそれとわかる。しかし顔色はあまりよくない。昨日言ってたスパルタ式訓練のせいだろうか。気の毒に。

 中河は俺の特製長ランを見つめてから言った。

「冗談じゃなかったんだな」

「応援を手伝いに来たとか? すまんな」

「それはない。だがお前には驚いたよ。以前はこんな自爆的なことをするヤツじゃなかった」

「始まった以上、最後までやるさ」

「キョン?」

 ハルヒの目に警戒心が浮かんでいる。言われなくても紹介するから。

「ハルヒ、こいつは相手の団長じゃない。いつだったかアメフトの試合を見に来ただろ、団の全員でさ」

「あの時の、キョンの友達?」

「そう、中河だよ」

「アメフト部をクビになって応援団に入ったの?」

 いきなりこれだ。

「中河、こいつは俺の所属する団の団長というか、涼宮ハルヒだ。副団長の古泉と朝比奈さん……それと長門だ」

「長門さん? キョン、今日は来ないはずじゃ」

 学生服姿だったせいか長門が視野に入っていなかったらしい。今までのからかい半分の態度をがらりと変え、

「いつぞやは大変失礼しました!」と言ってきっちり頭を下げた。

 長門はさっと観察するように中河を見ていたが、

「…………」

 沈黙で返した。中河もしばらく長門を見つめていたが、とくに電撃的に輝く視覚データに打ちのめされるわけでもなく、安心したようだ。

 それから視線は古泉を軽くスルーして残る二人の女子SOS団員の上にとまった。

「キョンがこんなに活動的な理由がわかりましたよ。お二人のような人たちに囲まれれば誰だって活動的になろうってもんです。こいつの中学時代はなんかさめたところがあったんですが。いゃあキョンが羨ましい」

 またなんか勘違いしてやがる。なにが「いゃあ」だよ。バカか。どうしてそっち方面しか考えられんのか。確かに朝比奈さんはもちろん、ハルヒの外見はそこいらの女子高生が束になってかかってもかなわない。だがこの女の性格を知ればこいつの考えも変わるだろう。

「ところで」と中河は急に真顔になった。

「キョン、この格好で、この人達は応援するつもりなのか」

「俺に聞かないでくれ」

「その服装は止めた方がいい。涼宮さん」

「この暑いのに普通の学ランなんて着られないし、この服装だから応援できないって訳じゃないでしょ?」

「いや、俺が言っているのはそうじゃなくて、我が校の応援は男子が正装、つまり学生服で行うもの、という大前提があって……」

「それはあんたんとこが男子校だからでしょ。応援団に女子がいてダメな理由でもあるの」

「そっちは共学だから仕方がないが、そんな珍奇な服装ではまずうちの団長は納得しないだろう」

 やれやれこれだから女は、といった訳知り顔で俺に同意を求めた。

 周囲に野郎しかいない男子校だから、女の子相手の会話ができないのはわかるが、もうちょっとましな言い方があるだろう。完全に地雷を踏んだぞこの男。

「ちょっとあんた」

 ハルヒはいきなり相手の学生服をつかんだ。

 俺以外の人間にこんなことをするのは珍しい。ハルヒは自分の思い通りにいかないときの集中した顔を見せている。

「あんた達は学ランを着ているってだけで自己満足してるんじゃないの? そもそもそっちから言い出したことでしょ。それで一生懸命練習してきたのに、到着した途端、文句を言うわけ? そこはよく来てくださいましたって頭を下げるべきだわ」

「ハルヒ。中河はかなり協力してくれてるんだ。わざわざ今回のために応援団に入り直して、情報を提供してもらっているし」

「だからってこちらの応援方法に口を出して欲しくないわ」

 中河は唖然として言葉も返せないでいる。まあ、初対面でいきなりこんな物言いをされれば誰だって驚くが。

「あの、紅茶いかがですか?」

 朝比奈さんが紙コップをさしだした。あたりを和らげようとしているのが伝わったのか、ほっとした表情で中河は素直に受け取っている。

「みくるちゃん、あんまり甘やかすんじゃないわよ。こいつは敵の一員なんだから。余ったサンドイッチはもったいないから、一年にばらまいてくるわ。古泉君はバスケットをもってちょうだい」

 ハルヒは古泉をともなって、先ほど羨望の目を向けていた一年に配りに行った。古泉は俺と中河を交互に見て、ちょっと肩をすくめてからハルヒを追った。

 なんか気にさわる。

「キョン。お前も大変だな。いきなり学ランを掴まれるとは思わなかった。年中あんな調子か? まあ昔からお前は変わった女が好みだったが」

「そんなことを言いにここに来た訳じゃないだろ」

「試合が始まる前に、うちの団長に挨拶くらいしておいたらどうだ。もちろん涼宮さんじゃなくてなくてお前が行って……」

 言葉がとぎれた。

 目は一点を見つめたままだ。持っていた紙コップを取り落とし、ショック状態に陥っている。その視線の先には……長門がいた。わずかに長門の瞳が見開かれ、中河を注視している。まさか。

 長門が口を開いた。

「能力が復活している。涼宮ハルヒとの接触が原因」

 中河が倒れ込むように長門の肩をつかんだ。以前の話ではこいつの頭ん中に長門の親玉からの情報の渦がなだれ込んでいるはず。……それは命を削る。このままにしておけない。俺はとっさにヤツのみぞおちにこぶしをめり込ませた。

「おい、中河! 目を覚ませ!」

「あっ痛っ。俺……」

「いいから早く、こっちにこい!」

 この至近距離では本当にパーになっちまうんじゃないのか。俺は朦朧としたままの中河を引っ張ったが重過ぎる。と、長門がいきなり立ち上がった。

「長門!」

 振り向くと長門は全速でダッシュしていた。

 どうやら同じ考えだったらしい。中河の能力が距離の自乗に反比例するかどうか定かじゃないが、距離を開けることにしたのだ。

 俺は応援席から中河を通路側に引きずりおろした。

「そっちを見るんじゃない!」

「あ、あの人がまえと同じに」

 もういい。こいつが本格的にトチ狂う前になんとかしないと。

 アメフト部員を押し戻そうとする背後から、

「キョン、何があったの!」

「ええとだな、こいつがいきなり長門に倒れ込んで……」

 咄嗟に出てきた言葉がそれで、他にどう言いようもない。 許せ中河。

「それで有希は走ってっちゃったの? 有希はあたしがなんとかするわ。あんたはそのバカをつれていって……この!」

 ハルヒは走り出す前にあざやかな蹴りを中河の腰に叩き込んでいくのを忘れなかった。

 痛覚が遮断されたかのような中河は無反応のまま、目は走る長門を追っている。

 しかし、クソ重い学ランが俺の体力を低減させている上、こいつのガタイでは引きずるのがやっとだ。

 ようやくスタンドの入り口まで運んだが、もうどんなに引っ張ろうが動かない。

 長門はどこまで走ったのか。スコアボードの下あたり、長門の小さな身体が辛うじて見える……学ランを翻して走っていたハルヒが追いついた。

 気配を感じて振り返ると、後ろには団員二名を従えた応援団の男が立っていた。腕章には『団長』の文字が見える。

「他校の団員への暴力行為ってやつかな? 涼宮ハルキ君」

俺の右手は中河の胸ぐらをわしづかみのままだった。



 そう言えば、「涼宮ハルヒ」の名で返書したんだった。ところどころ滲みまくりの半紙で。団長イコール男だからハルヒじゃなくてハルキに違いない、というわけなんだろう。

 全体で笑うとダメな規則でもあるのか、片頬だけで軽く笑みをたたえている。明白に見下し目線だ。もちろん見下すには理由があって、まず相手の体格が全然ちがう。連中の一番したっぱの中河ですら、あのガタイである。

 その中河が小さく見える。完全に醸し出すオーラがちがうというか。この目線はそんな体格的優位性から来るらしかった。

 第三者から見れば、おれがヤツを殴り、ハルヒが蹴りを入れ、さらに俺が引きずり回したようにしか見えない。というかその通りなんだが。

 応援団長の声にはまったく怒気が感じられないが、かえって恐ろしい。

「衆人環視の中、理由なく暴行に及ぶとはたいしたものだ。過去の事例では、即、廃団だが? ……どう始末をつけるつもりかな?」

 また静かに微笑んだ。相変わらず半分だけ。

 もうどんな言い訳も思いつかない。そっちの団員がトチ狂うのを避けるため、なんて言っても通じる相手じゃないだろう。ここは真実を語るしかねえ。つまり、いまハルヒが信じている真実をだ。……本当にすまん中河。

「おまえんとこの団員がうちの女子に手を出したからだ」

「そうなのか?」

 団長は中河に視線を向けることなく言った。自分への問いと理解した中河が答える。

「彼女が、いきなり走り出したのは事実ですが……」

 そのまま口ごもった。迷った末、理性が勝ったようだ。今見たものを説明するつもりはないらしい。そりゃそうだ。いきなり女の子が光り輝いたとかいったら、正気を疑われる。

「でも、俺の気持ちは変わりません」

 ……ダメだこいつ。

「そ、そう言うわけで、本人も認めているわけだし……」

「キョン、違うんだ。俺の言いたいのは」

「違わないよ! この人がいきなり抱きついて、有希が怯えて走り出したんだよ!」

 いつの間にか俺のうしろには、鶴谷さんとチアの女子が集まっていた。団長に抗議したのは鶴屋さんだ。

「証人もいるわけだし、どう落とし前つけるつもりだ?」

 やっとの事で言えた。冷や汗だくだくで学ランが汗を吸って重い。

 俺の言葉が耳に到達したのか定かじゃないが、偏執団長の目が一瞬、女子の一人に向けられたのがわかった。団長は俺に背を向けた。

「もういい。中河、落ち着いた場所で話し合った方が良さそうだな」

 立ち上がった中河の背後を素早く控えの団員がカバーする。逃げるとでも考えているのか。偏執団長を先頭に、緊張感をたたえた応援団員が入り口の階段を下っていく。球場の外で“落ち着いた場所“でも探すんだろうか。危機を脱した安堵感はヤツを苦境に追い込んでしまったせいか希薄だ。なんとかしないと……。

 とりあえず、鶴谷さんには礼を言っておく。

「助太刀というか、よくわからんがありがとう」

「キョンくん、なかなかカッコよかったよ。今日は大活躍だねっ」

 ご冗談でしょう鶴谷さん。



 長門がハルヒに伴われて戻ってきた。しきりに、大丈夫とか何ともないとか言っている。

「あいつはどうなったの」

「相手の応援団長に連れて行かれた」

「キョン、あたしの団の一員にあんなことをするなんて、ほんっとあんたの友達にはろくな人間がいないのね」

 今度ばかりは俺もそう思う。でも原因はこちらにある。特にお前と長門にな。

「もうすぐ試合が始まるわ。帰ったらじっくりあんたと話さないとね。有希にあんたからも謝りなさいよ」

 そう言ってから、団員にハッパをかけにいった。俺は長門に謝るべきかどうかわからないまま言った。

「ヤツが自力で復活させたんじゃないのか」

「以前、私が行った干渉は涼宮ハルヒの願望と一致しないため、無効化された。彼女の環境改変能力は依然として活発に活動している。今回の現象から、第三者からの干渉を無意識レベルで排除することがわかった」

 わかった、って今まで解らなかったのかよ。

 お前なら一瞬でこいつを正常化できたはずじゃないのか。

「能力を消去しても一時的に終わるため、抑制するだけにとどめた。今の彼には以前よりずっと少ないアクセス能力しかない。それでも膨大な情報は長期的には悪影響を及ぼす」

 長門は何の感情も込めずに言った。つまりこのままってわけか。

「私の任務は観察だから。そしてあなたと涼宮ハルヒを守ること」

 任務外のことはしない、そう言いつつも、中河から急いで離れたのは何故なんだ。

 ……長門は答えなかった。




 午後一時。仕合開始。

 先攻は相手チーム。わが校の野球部はすでにポジションに着いている。

 交流試合とは言え、公式規定では自校攻撃時にしか応援できないから、しばらくは相手校の応援を様子見することにした。

 相手の黒づくめ集団は、一塁よりやや外野側に陣取っている。人数もこちらの倍はいるだろう。これでも多数の団員が離脱した後だというから、本来は相当な陣容だったに違いない。

 連中の応援が始まってジャスト二秒で、俺の応援へのモチベーションが赤熱するフライパンに落ちた水滴のごとく消失した。

 体格・声量ともに、はなからこちらを凌駕しており、“一糸乱れず”という言葉の実例があるとすればまさにこんな様子ではなかろうか。素人目にも相当の練習を積み重ねてきたことが瞬時にわかる。

 こんな連中と応援で張り合おうなど、無謀としか言いようがない。

 応援の勢いか、競技の実力差かの論議は谷口に任せるとして、試合は開始早々から打たれまくりで、高校野球もいまや苛烈な打撃戦になっているのがよくわかる。

 我が校の野球部はSOS団の草野球練習につきあってくれただけあって、落球の多さはかつての俺たちのチームと変わりない。

 打ち込んでいるのが強豪校だから同情の余地はあるが。

 応援者の少なさを声量でカバーするつもりか、待機中のチアリーダー(とハルヒ)の黄色い声援が凄まじい。

 そのせいかどうか解らないが、わがチームは一回表で四点を許したところでなんとか制止した。


 一回裏、我が校の攻撃で、応援はチアリーダー達が最初だ。

 応援規定にはスピーカーと電子楽器の使用は禁止されていたはずだが、止める者とてなく体育館で使っていたコンポを持ち込んでいる。

 開始早々、これだけ我が校が苦戦しているというのに元気いっばいで、なんか場違いなセーラー服をもって行くとか行かないとかいう踊りをやっている。とても応援とは思えない。

 試合前からの難題と相手の応援をみて俺は厭戦気分満開だ。初回から大差が付きそうな試合に俺以外の応援団員も同様に違いない。

 要はチア女子は目立ちたいだけ、俺たちは早く帰りたいだけで、誰一人応援なんかしちゃいない。我が校の野球部が一回戦必敗のわけが解ったような気がする。

 相手チームのピッチャーは普通に超高校級で、制球、球速ともに我がチームを上回っている。県大会レベルを難なく制するにはこれくらい当然なんだろう。

 まず、こちらが打てない。まぐれ打球は速やかに厚い守備陣にキャッチされる。こちらが弱すぎるのか、外野手はつまらなそうにしている。

 相手校が攻守ともに手堅いことを思い知ったところで、三者凡退。一回の裏は一瞬で終了した。

 チアリーダー達は試合そのものより、あっという間に終了した応援時間に不満げだ。




 二回表。

 相手校は相変わらずの打撃ペースである。午前中に一試合消化した疲れは微塵も感じられない。

 昨日の夜、念のため読んでおいたルールブックによれば、確か五回裏で大差が付くとか、強雨で試合の継続が困難になったとき、その時点での得点でコールドゲームとなるんだった。このままコールド負けしてくれれば、応援の必要は消失するが、世界も消失する可能性もあって応援どころではない。

 二者択一でマシな方を選んだ俺の消極的な祈りが通じたのか、わがチームは二回表で相手の得点を二点に押さえて、六対〇。


 二回裏、いよいよ、我々の臨時応援団の応援となった。

 俺は当然ながら、いや不本意ながら最前列を強制され、その後ろは古泉、長門と続いて、胸を固く拘束された上で学ランを着た朝比奈さんの順番で、ハルヒはナントカと煙は高いところが好きなのか、最上段だった。

 太鼓だけは調子よく響いているが、正確な演舞をしているのは長門くらいだ。

 長門はヒューマノイドとしては究極のシンメトリカルな動作で展開している。太鼓のリズムに完璧にシンクロし、空を切る鋭い手刀の先端からはビシッと鞭がうなるような音しか聞こえない。真空波でも発生しているのではなかろうか。相変わらず沈黙のままだが。

 ハルヒのすぐ下の段で応援していた朝比奈さんは、どちらかと言えば、サラシの抑止効果も空しく、ふるんふるん系の高弾性な身動きで学生服のボタンがはじけそう、こちらも鼻血がでそうだ。

 古泉は軽い感じでそつなく演舞している。

 だが最も応援団らしいのは意外にもハルヒである。

 俺の耳には慣れているはずのあの声も抑制のきいたメリハリがある。動きも敏捷、かつ、長門とは異なる流れのような動きは、練習の成果を余すことなく表現している。

 目があった瞬間、いきなりメガホンをなげやがった。その瞳は「あんたも応援しなさいよ」と言っている。

 仕方なくうろ覚えの動作を太鼓に合わせようとするが、クソ重い学生服のせいで、どうしても動作が緩慢だ。谷口軍曹の指導が良かったのか、隣の列の一年の方がましなくらいだ。

 我が校の攻撃もまぐれシングルヒットで一塁まで出塁したものの、打者が続かずあっという間に終了。やれやれだ。


三回表。

 打ち込まれるボールを追って駆けずり回る外野手を目で追いながらも、女子と一緒に声援を送る気にもなれない。もはや完全に傍観者である。

「わっ!」

 突然、冷たいジュースの缶が俺の顔に押しつけられた。

「気合いゼロってとこね、キョン」

 ああ、暑さでやられたな、と思った。

 いつの間にか俺を覗き込んでいるハルヒの上気した顔がとても美しい、ような気がしたからだ。

 雲ひとつない突き抜けるような青空と強い日差し、野球試合、懸命な応援。隣にはジュースを差し入れてくれる見た目だけは超美麗な女子高生。まるで青春映画の一場面のようだ……こいつが口を開かなければ。

「キョン、まだ始まったばかりよ。倒れるのは勝つまで許さないわ……ほれ」

 また俺の頬に半分凍ったジュースの缶を押しつける。わかったからもう止めろ。

 横に座ったハルヒは、「キョン」と言ったきり、しばらく黙った。

 俺は試合観戦を装って、次の言葉を待った。例によってハルヒが命令を叫んでいないときは何もしないのが一番だ。


 われらが野球部は敵側の激しい打撃によく耐え、一点を許すも何とか三塁で走者を制止、三回裏、攻撃側に回っている。七対〇。


 華やかな女子のチアリーディングが始まり、鶴屋さんが全力で応援を楽しんでいるのが見みえた。あの強気でハルヒに抗議していた子も笑顔で元気いっぱいだ。

 ぼんやりと彼女たちの声を聞きつつ、俺の喉を微細な氷のつぶとオレンジジュースが流れ落ちていく。もう試合なんかどうでもいいような気がしてきた。

「今回、あんたが色々と立ち働いてくれたことは知ってるわ……でも、キョン。勝たないことにはあんたの努力も無駄になる。だからちゃんと気合い入れ直すのよ」

 立ち上がったハルヒは、こんどは俺の耳たぶを軽く引っ張った。

「わかった?」

 そのままくるっと踵を返して、上段にいるすっかりお疲れ気味の朝比奈さんのところへ行き、冷凍缶ジュースで“気合”を入れている。

 入れ替わりに古泉が隣に座った。暑いからそんなに近寄るな。

「まるでほほえましい恋人同士のようでしたね」

 知るかって。



 今回も出塁はなく、立て続けに二人の打者があっさり討ち取られ、三人目は三振。回が変わって四回表になってもまるで少年草野球チーム対大学野球状態で、全力でコールド負けに突入しかけているとしか思えなくなったその時。

 強烈なめまいが俺に襲いかかった。この感覚は以前……。



 いつの間にかついさっきまで閑散としていたレフト側の観客が増え、スタンドの半分は観客で埋まっている。暑さと試合に熱中するあまり、見過ごしたとか?

 いや、絶対に気のせいじゃない。

 ハルヒや古泉と話していたわずかな間、注意がそれただけだ。だいたい俺の目の前の通路を観客は一人として通っていないはずだ。

 チアリーダーには鶴屋さん以外の三年もたくさんいる。

 そうだ、鶴屋さんの呼びかけで今日だけ三年の応援が復活したんだった……違う。そんな事実はない。

 だが確かにそんな記憶があるような気もするし、その感覚が徐々に強固になっていく。

 だが、希薄になりつつも俺にはマイクロバスの前後に分かれてチアリーダーと応援団が乗ってきたというもう一つの記憶もあるのだ。

 隣の古泉を見ると、微笑み半分でフリーズしたような顔をしているが、目は警戒している。俺の表情も警戒心全開だったに違いない。

「気がつきましたか?」

「ああ。観客がいきなり増えて、チアリーダーに三年がいる」

「演奏も」

 言われてみると、貧弱な小型コンポからの音楽が、吹奏楽部の迫力のある生演奏になっている。

「これは去年の夏の再現か? ひょっとして試合が勝つまで続くとか」

 もしそうなら永久にこのままだ。なぜなら、俺たちの努力で試合がどうにかなるわけじゃないからだ。

「僕も一瞬そう思いましたが、むしろ以前映画を作っていたときの感覚に近い」

 かつての経験が無ければ、気付かなかったかも知れない。俺も古泉も、気付きが遅れるほど事態が悪化するのを理解していた。

 

 試合は四回表だが、有り得ないことになっていた。

 我が校のチームは相手の打者を一人も出塁させていない。野球部員の動体視力がいきなり向上でもしたのか、わが野球部にエラーが皆無だ。相手校の打撃ベースは変わらなかったが、着実に打たせて捕って、四回裏に突入した。


 攻守の立場を変える両校の選手を眺める俺たちに、一人のチアリーダーが声をかけてきた。

「次は皆さんの応援の番です……よね?」

 朝比奈さんだった。

 古泉と俺のただならぬ雰囲気が伝わったのか、とまどっている。

「あれ? あの、あたしたちの応援の番でしたっけ?」

 どきまぎしている朝比奈さんの姿は、普段なら愛くるしいことこの上ないはずなのだが、今はかえって不安が増大する。

 まだイニング毎の応援ルールは生きているらしいが、断じて朝比奈さんは、チアリーダーじゃなかった。

「失礼ですが、朝比奈さんは本当に最初からチアリーダーでしたか」

「えっと、あたし、どうしても応援団の練習についていけなくて、途中から鶴屋さんと一緒に応援することになったん……じゃないかしら?」

 なんかおもいっきり自信なさげだ。

 朝比奈さんの姿を見て、俺はふと思いついた。

「ひょっとして、胸にサラシとか巻いていませんよね」

「あっ、あっ、そう言えば」

 顔がみるみる真っ赤になる。思い出したようだ。俺も目に焼き付いている。忘れようもないし、忘れたくない記憶の一つだ。

「つまり、我々にはどちらもそれらしい二つの記憶が存在する、と言うことですね」

 古泉が珍しくシリアス顔で言った。こいつがこんな顔をするときはたいてい事態は相当ヤバくなっている。

 実際、俺が今まで事実だと信じていた記憶の信憑性がどんどん失われ始めている。

 素直な朝比奈さんは、よほどインパクトのある記憶でない限り、ほとんどおぼろげになっているようだ。

こんな時、一番記憶が明晰なのは……、

「長門はどうだ? 記憶に重複はないか」

「43時間17分13秒前からの記憶が重複している。だが意味ある答えを出すにはデータ不足」

 長門は答えながら周囲をじっと見渡している。

「なにやってんの! はやく応援しなさいよ!」

 ハルヒが応援席の最上段からこちらを睨んでいる。こいつ自身は何の異常も感じていないらしい。

 団員が立ち上がり、演舞初動型で調子を合わせはじめて、谷口、国木田の学ランが俺と同じ長ランになっていることに気が付いた。

 しかたなく、なかばやけくそで応援しながら俺は思い出していた。

 去年急に“転校”した生徒の元住居を訪ねた帰り道、ハルヒが言ったこと。あの時……もうずいぶん前のような気がする。

 四年前の「何か」が起こったときより以前、ハルヒが他人とは違う生き方を決意した場所は、どこだったか。ハルヒがそれ以前の幼年時代と決別した場所は?

 野球場だった。

 去年の草野球大会は実は相当危ないところだったんじゃないか。ハルヒは無意識的に応援という形を変えて再び球場に戻ってきた。そして何かが起きようとしている。



 出塁を許すことなく、鉄壁の守りを見せた我がチームは、攻撃となると相変わらず三振、良くて貧打のままだ。どうやっても走者が二塁まで到達しないまま、回は終了した。完璧な守りでも点が取れないようではやはりコールド負けだ。

 怒りのこもったハルヒの叫び声と同時に、また周囲が変容していく。

 まるで世界から俺一人だけが寒々とした空間にふわりと浮いているような感覚。記憶中枢が猛烈に上書きされているとしか思えない盛大な頭痛つきで……。



 俺は応援席でうずくまっていた。古泉が通路側で辛うじて立っている。長門は全く無表情のままこちらを見つめていた。

 まわりを見渡すと高校の球場は跡形もなく、観衆にあふれた大スタジアムになっていた。

 やはりここか。ハルヒの原点となった場所。すべての始まりの場所へ。

「ここにいる理由がわかるのですか」

「何が起こるのかわからんが,この場所である理由は大体な」

「ここでは約一ヶ月以上前から記憶が重複している。我々は無限に存在する平行世界を次々と移動している。涼宮ハルヒが求めている世界に到着するまで継続するものと考えられる」

 相当、体にダメージがあるような気がするが、大丈夫なのか。

「有機生命体の記憶容量は限られている。重複する記憶は次第に自意識の崩壊を招く」

「移動するたびに記憶が過去にさかのぼって重複しているのは何故なんだ」

「涼宮さんの目的とする世界が我々の世界とかけ離れているため、ですね? その世界は我々の世界とは相当以前に分岐した可能性がある」

「そう」

「つまり、このまま移動が続けば、俺は俺でなくなってしまうのか」

「その世界に同化される」

 もう半分がた同化されているような気がする。

 というのは、俺の脳内で過去のアーカイブが解凍されていくような感覚かあり、このスタジアムにいる理由を思い出してきたからだ。

 ここで競技することになったのは、予選レベルで敗退する弱小野球部に、交流試合だけでも本大会の雰囲気を知ってもらうため、とかそんなアホらしい理由だった。

 発案とスポンサーはどっかの大手地元企業で、社長が北高のOBらしい。

 そんなハタ迷惑な思いつきのおかげで、一日だけ、ここで県内最強の高校と最弱校二つが試合することになったんだった。

 棚ボタ試合に応援合戦が持ち上がって、ハルヒが飛びつかない訳がない。

 かなり不愉快な記憶もある。

 応援の練習中、相手校の偏執団長に反旗を翻した元団員達がこちらに乗り込んで、私的に応援協力を申し入れしてきた大騒動や、それにいつも以上に過剰反応したハルヒと生徒会長……。偏執団長のチア女子への告白騒ぎとか。

 なんで俺が巻き込まれるのかわからんようなことまで、次々と想起されてくる。

 俺は屈強の男達と渡り合ったり、生徒会長と古泉と喜緑さん、そのほかの関係者を相手にピンボールゲームのボールのように走り回っていた。

 もちろん操作バーでボールを叩きまくっているのは怪気炎を上げるハルヒである。悲惨の二文字に尽きる。

 この世界の俺はがんばっているようだ。褒めてやりたい。もっとも、褒められてもこの俺はそんな真似は絶対イヤだ。まして褒めるのが俺だけならな。

 古泉もこの世界での記憶にアクセスしているのか、突然ニヤリとした――これは本心からに違いない――が、すぐに笑みを消した。

「これ以上の転位は危険です。僕もどの記憶が正しいか曖昧になってきています。長門さんがいなければ、今の記憶を事実と信じ込んでしまったでしょう」


 試合は五回表だった。

 もう以前の野球部とは別物としか思えない。相手校の出塁を完全に遮断している。われらがピッチャーの制球力がましになったのか、敵チームの打率も下がっているようだ。

 乾いた金属音とともに飛んだ打球も、小学生でもキャッチできそうなセンターゴロで、五回裏に変わるかと思えたその時、球が直角に二回方向転換してグラブを迂回した。

 一瞬唖然とした外野手は、すぐさま球を追って走り出したが……間に合わない。


「長門!」

「私ではない」

「この世界にも情報統合思念体は存在する。“この世界の私”の記憶では、主流派と急進派との対立が激化しており、情報爆発を試みる急進派の改変と思われる」

「つまり、涼宮さんは試合に野球に勝利する平行世界を求めて転位する一方、転位先では敵対勢力が試合を妨害して、情報爆発を引き起こそうとしているということですね」

「そう」

 そいつらはどこにいるのかわかるのか。

「高度な情報封鎖が行われている。進入は可能。しかし私は本来の世界で締結したあなたとの約束に拘束されている」

 そう言った長門は俺を見上げた。一見無表情に見えて、妙に熱のこもった目だ。まさかこいつも“この世界の自分”に影響されているのか。

 ここでは敵が攻撃的な分、守る側もやられっぱなしと言うわけにもいかないんだろう。

 また俺は長門に頼ってしまうのか。

「長門、これから俺たちはどうすればいい?」

「我々はできるだけ同じ場所にいた方がいい。敵性端末除去の後、私も合流する」

「わかった。この世界の急進派を押さえてくれ。これ以上ハルヒに暴走してほしくない」

「了解した」

 その瞬間、今までそこにいた長門の姿が消え、その空間に急激に空気が流れ込んだ鋭い音がした。元の世界の長門なら、こんな人目を引くような移動の仕方はとらなかったはずだ。逆にそれは事態の深刻さを物語っている。


 続く相手校の打者はまたしても、鉄壁だったはずの守備を撹乱し、すでに一塁、三塁に走者がいる。このままでは五回裏で我がチームが無得点だと自動的にコールド負けだ。


「古泉?」

「僕が朝比奈さんを確保してきます。涼宮さんのところへ先に行ってください」

 たまには逆にしないか?

「遠慮させていただきます」といってチアの方に走り出した。

 この野郎。結局俺のすることが無いじゃないか。

 しかし、今はそんなことを言っている場合じゃない。この回はチアリーダーの番だから俺たちは演舞の必要はないが、ハルヒは応援席の最上段でグラウンドを見渡していた。距離があってもその顔はフラストレーション大爆発の一歩手前なのが俺にはわかる。

 古泉が朝比奈さんの手を引いて階段を上ってきた。朝比奈さんは応援中に呼び出されて困惑している。以前の記憶はもう無いのだろうか。

 相手方の応援席で何かがきらっと瞬いた。応援に夢中の観客は気がついていないようだ。まるで結晶が崩壊する一瞬の光芒のようだ。長門が倒した……のか?

 上段から破裂音とともに小柄な学ラン姿が転げ落ちてきた。

「長門!」

「長門さん!」

 俺と古泉が駆け寄って支える。自力で立てないようだ。 

 右袖は裂け、学ランのボタンはあらかた無くなっている。前頭部からの鮮血が目に流れ込んで、そのまま血の涙のように頬を伝い落ちている。

「失敗した」

 そんなバカな。

「除去出来たのは一体だけ。残りのインターフェースは依然活動中……この世界から脱出する必要がある」

「しかし、これ以上の転位は危険じゃないのか」

「ここにいれば、私にも守りきれない」

「どうすればいい?」

「涼宮ハルヒは今も試合に勝つことを望んでいる。試合を中断させれば、別の平行世界に転位する可能性がある……時間がない、直ちに処置する」

 そう言った長門は何かを小声で唱え始めた。

 突然スコアボードの電光掲示が明滅し、我が校の得点が99点になったかと思うと、相手方の得点が75点になっている。学力テストじゃあるまいし。大型スクリーンは曼荼羅のような文様でのたうち始めた。

 これには観客も気付いたらしく喧噪が沸き上がってくる。試合は中断したようだ。審判も右往左往している。

 そしてこんなことに真っ先に過剰反応するヤツと言えば……。




 こんどは断崖絶壁から暗黒面にダイブするような急降下だった。思わずへたり込んで、別の世界の記憶がなだれ込むのを俺は覚悟した。が、何も起こらない。ただ場所が変わっただけだ。

 無傷の長門が俺の顔をじっと覗き込んでいる。

 その視線に気づかいのようなものを感じた。俺の思い込みかもしれないが。

 場所はスタジアムの一階入り口から応援席に登る階段付近で、上の方から歓声が響いている。階段の下から見あげると、切り取られた空は快晴から曇天へと変わっていた。

 古泉が階段の壁によりかかったまま動かない。朝比奈さんの姿はない。応援席にいるのだろうか。

 俺はなぜか北高のブレザーを着ており、長門はセーラー服になっていて、古泉は今も学ラン姿である。場所と服装の変化が今回の転位が大きなものだったことを示している。

「この世界は相当前に我々の世界と分岐している。およそ十一ヶ月前。従って、長くいれば元の世界に戻る可能性は消失する」

 古泉は死んだように眠っている。それとも気を失っているのか。

「以前の世界との断絶が大きすぎ、一時的に意識消失している。目が覚めればこの世界の記憶を受容しているだろう」

「朝比奈さんは?」

「TPDD理論は多世界解釈・分岐理論の局所解に過ぎない。故に朝比奈みくるはこの種の影響に対して耐性がある。すでにこの世界に順応している」

「なぜ俺は気を失わないんだ? 記憶も変化してないんだが」

「ここでは十一ヶ月前の分岐以降、あなたの記憶情報は存在しない。この世界の私は敵性端末の迎撃に失敗している……あなたを救うことができなかった」


 長門の言葉がゆっくりと俺の脳髄に浸透して行くにつれ、言いようのない恐怖がわき起こってきた。

「その後、この世界の私による情報操作であなたは行方不明と言うことになっている」

 自分が存在しなくなった世界に放り出されて、不在中の記憶は当然なし。もとの世界に戻る可能性も消失しつつある。こんな時なんて言えばいい? 

 背後からすすり泣く声が聞こえた。振り返った俺の目にありえないものが飛び込んできた。

 SOS団の万年スマイル少年こと古泉一樹は泣いていた。

 やつれきって壁によりかかったまま涙を隠そうとともしない。俺を見あげて言った。

「お前なんか……今ごろ現れても遅すぎる」

 やおら立ち上がると、足を引きずりながら弱々しく殴りかかってきた。

 シャミセンの猫パンチのほうがマシなくらいな拳を俺は横に流すと、そのまま古泉は崩れ折れた。

 俺は古泉を起こしてやった。なすがままになっている。目はうつろなままだ。

「敵性インターフェースの存在を感知……急速に接近中。情報収集端末とそのバックアップが各二体。この世界でも急進派と戦闘が行われている」

 長門は、俺をまっすぐに見つめた。

「涼宮ハルヒの能力が彼らに使い尽くされてしまえば、元に戻るすべはない。あなただけが涼宮ハルヒを取り戻せる。そのあいだ、私はあなたを全力で守る」

「でもさっき、お前は勝てなかったんじゃないのか?」

「今度は負けない。相手の処理能力を把握した」

「長門、お前の親玉は情報爆発が起こった方が都合がいいんじゃないか? なぜお前は俺たちを守ろうとする」

「私の世界の情報統合思念体はそう考えない。私もそうは思わない」

 も、と言うところに微かに力がこもったのは気のせいか。

 気配を感じて見上げると、階段の上に二人の少女が立っていた。背の高い方がチアリーダーの格好をしており、もう一人は北高の制服を着ているようだ。逆光で顔はよく見えない。

「もう手遅れね。あなた達がどんなにがんばっても止められないの。もうすぐ始まるわ。これまでにない情報爆発が」

 この声は……?

 別の一人が言った。

「ここは我々の情報制御下にあり、お前達は脱出できない……抵抗は無意味だ」

 後ろを振り向くと出口は消え、壁になっていた。左右の壁も徐々に変化し始めている。

 長門が俺たちを壁に叩きつけるのと同時に、二人の両手から白い光撃がほとばしった。

 手を伸ばした長門を中心に光束が屈曲していく。

俺たちの周囲の空間を歪めて回避したようだ。が、その領域は徐々に狭小化している。

「無駄なの。あなたには学習能力がないのかしら?」

 北高の制服を着た方が言った。もうこいつが誰か俺はわかった。まさかこんな場所で出会うとは……

「そいつらを守りながらじゃ勝てないってまだ分からないの?」

 いきなり出力をあげたらしい。もうほとんど固体化したと言っていいほどの鋭い四本の光束が長門の防護球面を叩いている。

 俺たち三人を包む球面が見る間に小さくなっていく。

 と、長門が何かをつぶやき、もの凄い力で俺と古泉の位置を変えた途端、壁が突然鏡面化した!

 防御球面で一本の光条が鏡面に反射し、一体の端末の頭部を直撃、眩しい光の粒があたりに飛散する。

 残る制服姿の端末は臆することなく、まばゆい檄光を放ちながら飛びかかってきた。防護球面をぶち破って長門の肩を一本の光条が貫いた瞬間、古泉の手が俺と長門を掴んだ。

 古泉は凄惨な笑みを浮かべている。……こいつ本当に古泉なのか?

 全身をスキャンされるような感覚がした途端、俺は暗闇に投げ出された。



 階段の上から、微かに燐光を放つ空が見える。

 ほかに光源はなく、物音ひとつしない。……閉鎖空間だった。

 薄暗がりの中で、長門がひどい状態なのに気がついた。セーラー服は右肩から断ち切られ、露わな肌がどす黒く焼けただれている。俺の視線に気付いたのか、顔色一つ変えずに「へいき」と言った。腕の色が徐々に白く戻っていく。

 暗がりから姿を現した古泉が言った。

「あんたをここに連れてこられるとは思わなかったよ。長門さん」

「…………」

 長門は答えない。何事か考えているようだ。

「キョン。さっきはすまない。何でお前が突然現れたのか分からないが、涼宮ハルヒはまだお前を必要としている。だから、お前と長門さんをつれて閉鎖空間上で移動し、通常空間の涼宮ハルヒの近くで実体化する」

「私が閉鎖空間に進入できたということは、この世界のインターフェースも進入能力を獲得しているはず」

 古泉の目つきが変わった。一瞬で周囲が赤い光で充満する。以前より遙かに強力そうな近紫光である。

「早く俺につかまれ!」

 先ほどの虚脱状態からいきなりぶっ飛んだハイテンションで、もうこれは俺の知っている古泉じゃない。

 古泉は俺と長門の腕をつかんで、球場の空に急上昇した。上空からは青い光柱が球場を囲むように立ち上がっているのが見えた。

 誰一人観客のいない球場を青い光が照らしている。その光源は球場の周囲をぐるっと取り囲む巨人だった。全部で四体。まるで何かを待っているかのように。

 そして俺たちの存在に気が付いた!


 巨人のうち一体が片足をスタジアムに乗り入れ、見るまにライト側の観客席を突き抜け、ダグアウトが粉砕された。

「確か涼宮はこのあたりのはず」

 俺と長門をつれたままスタンドに降り立った。

「キョン、いまからお前達を向こうに戻す。そこから先は自分で考えろ」

「私も残る」

「だめだ、長門さん。あんたには神人は倒せないと思う」

 長門はそれには答えず、だまってスタンドの一番下にある通路を指さした。

 3つの光点がゆっくり人型に実体化しつつある。対ヒューマノイド・インターフェース。そのうちの一つはあいつにちがいない。

「彼らを除去しなければ、試合に勝つことは出来ない」

「そういうことかい。じゃそっちはあんたに任せるぜ」

 古泉は俺の手を握って叫んだ。

「キョン、行けっ!」

 俺を突き放し、光につつまれた古泉はすさまじい雄叫びをあげ、巨人に向けて飛翔していった。

 最後に見えたのは、恐ろしい速度で階段を駆け上がってくるインターフェースと、それを迎え撃つ小さな長門有希のうしろ姿だった。



 俺は応援席の中段あたりに立っていた。やはりレフト側だった。

 スコアボードを見ると、九回裏、八対七で一、二塁に走者がいる。我が校の打者がバッターボックスに入った。

 応援席には吹奏楽部、チアリーダー達、そして学ラン姿のたくさんの応援団員がいる。

 ハルヒは、ハルヒはどこなんだ?

 俺の近くにいるチアリーダーの連中がひとり、また一人と応援の手を休めてこちらを見始めた。そうする内、全員が俺を見つめていた。谷口も、国木田もいる。みんな口をあけて等しく驚愕を絵にかいたような表情だ。

 いきなり腕をつかまれた。振り向くと涙で顔をぐしゃぐしゃにした朝比奈さんが立っていた。

「いっ、一体今まで、ど、どこに行っていたんですかぁっ!」

 こんな時なんと言えばいいのか。「ただいま」では軽薄すぎるし、そもそも俺はこの世界の人間じゃない。

 ハルヒの姿が見えた。最上段で団旗を高く掲げている。初めて見たときより、ずっとやせている。髪は初めて会ったときの長いままだ。大きな瞳が鋭い。

 ゆるくヒラヒラしている学生服のせいで、なんだかとても小さく見えた。静まりかえった応援席にいる俺に気付いたハルヒは団旗を取り落とした。

 見覚えのあるような気がする髪の長い上級生が言った。

「何やってんだよ。はやくいってやんなよ!」


 バッターが打った金属音が響く。熱狂する観客の歓声が勝利への決定打であることを告げている。勝った。


 その歓声もハルヒの大音声にかき消された。

「バカキョン! 今までどこにいってたのっ」

 ハルヒが階段を飛ぶように降りてくる。

 こうしている今も、古泉と長門が死にもの狂いで戦っている。お前は自分の願望を満たすためにどんだけ周囲を苦しめるんだ。お前のために古泉たちは命がけなんだ。もうぼろぼろなんだよ。

 もうたくさんだ。お前に翻弄されるのは。

 俺のネクタイをつかみかけたハルヒに思わず手が出た。

 軽い平手がハルヒの頬から鼻をなでるように一閃した。ハルヒは電気ショックを受けたかのように息を止めている。

 もう勝ったんだ、戻ろう。古泉、長門、そして朝比奈さんを連れて。俺たちの世界へ。

 ハルヒが俺に飛び込んできた。世界がぐらりと変容した。




 喧噪が俺の耳を打った。

 俺はハルヒの両肩を思いっきりつかんでいる。周りは元の高校球場だ。

 ハルヒは涙でいっぱいの目を見開いて、周囲を見渡している。その手は俺の学ランを掴んだままだ。

 だんだん頭がはっきりしてきたのか、俺をつかんだ腕に力がこもってきた。

「キョン。これ何のまね?」

 慌てて手を放した。でも真上に上げることはないだろう、俺。これじゃハルヒの前で半泣きでバンザイだ。我ながらアホだ。

「いや、その、試合に勝ったもんだからつい……」

「アホらしい。試合に勝つのはあたしが応援を決めたときから決まってたのっ。驚くことはないわ」

 とは言ったもののほおは赤く染まっている。ハルヒにこれまでの記憶はあるんだろうか。

「じゃあその涙はなんなんだ?」

「決まっていたことでも嬉しいことは嬉しい。それだけよ。なんか野球のことだけじゃないような気もがするけど」

 そこへ鶴屋さん、朝比奈さん、チアリーダー達が駆け寄ってきて、ハルヒに深く考える余地を与えず、あとは大騒ぎだった。



 日が傾いて、そろそろ後片付けをしないといけない。みんなはまだまだ勝利の余韻に浸りたいらしく、騒ぎは続いている。

 俺はアイスボックスからすっかりぬるくなったジュースを取り出して、古泉に投げてやり、となりにすわった。古泉は弱々しい笑みを浮かべたままぐったりとしている。学生服姿の長門がその横で文庫本を読んでいた。撤収作業中の野球部員達を眺めながら、どちらともなく言った。

「おつかれ」

「お疲れ様でした」

「…………」

 しばらく黙ってジュースを飲んでいたが、古泉が先に口火を切った。

「僕は今回、とても得がたい経験をしました。そのおかげで、涼宮さんや僕にとって、あなたがどんなに大切な人か再認識しました」

 気持ちの悪いことを言うな。

「僕には壮絶な戦いの記憶がある。あなた亡き後、涼宮さんの精神は荒れ狂う砂嵐でした。『機関』のメンバーは次々と神人に打ち倒され、最後は僕がたった一人で戦っていました」

 あの蛍光を放つ空の下、飛翔した古泉の最後の雄叫びが耳にこだまする。俺はずっとあとになっても忘れないような気がする。あれが本当の古泉の姿なのか。あの世界の古泉だけなのかはわからない。

「僕が心底願っているのは、涼宮さんがいる限りあなたにはずっと部室にいてほしい、と言うことです」

 まあそんなことはどうでもいいが、一つだけ謎が残る。

 野球に勝利したから戻ってこれたのは解る。だが向こうの世界で勝ったからと言ってなんでこっちでも勝っているんだ?

 それに俺の不在は野球部の勝利条件とは無関係だぞ。なぜ俺がいない世界に飛ばされたんだ。

「確かなことは僕にも解りませんが」

 前置きして古泉は言った。

「おそらく、これは勝利を求める我々の涼宮さんより、あなたを求める向こうの世界の涼宮さんの望みの方が大きかったんでしょう」

「それぞれの世界の涼宮ハルヒを情報の通路として平行世界間に膨大なデータストリームが発生していた」

 相変わらず長門の言葉はさっぱりわからない。

「あなたがいない世界で涼宮ハルヒが引き起こした事象は量子爆発とでもいうべきものであり、数千の世界の涼宮ハルヒが連携して近隣の平行世界へも影響を及ぼした。これは情報統合思念体にも予測できなかった」

「これは僕なりの解釈ですが、言い方を変えれば、あなたがいなくなった世界の涼宮さんが、あなたを召喚した。同時に猛練習した世界にいた野球部員の技能を、この世界の野球部員が共有したと。平たく言えば、彼らは平行世界から勝利のコツを獲得してきたんですよ。あなたがここに戻ってくれたように」

 ところで、向こうの世界のお前は、かなりサイコな感じだったぜ。

 古泉はすっと目を細め、遠くを見るような顔をした。

「それが僕の真実の姿かも知れません。まあ、その時のことはまたいつか話す機会もあるでしょう」

 古泉はわずかに寂しそうに微笑をみせた。


 携帯が鳴った。

「キョン。俺だ。すまんが今すぐ球場の中央出口まで一人で来てくれないか」

「わかった。今行く」

 思わず長門の方を見ながら俺は言った。中河からだ。まだ一つ大きな問題が残っていた。俺の責任だ。

「僕も手伝いましょうか」

 古泉はいつもの営業スマイルにもどっている。立ち直りの早いヤツだ。しかし、この件ばかりは俺の責任だ。おまえはゆっくりしてろ。まだダメージが残っているみたいだからな。ああ、それから……。

「長門」

「なに」

「また、助けてもらったな」

「いい」

 いつか時間のあるときに、閉鎖空間でどんな戦いが繰り広げられたか、きいてみよう。決して教えてくれないかも知れないが。

 俺は、空き缶を段ボールに投げ入れ、出口に向かった。



「中河。その顔どうした?」

「ちょっと転んだだけだ」

 俺たちは球場出口すぐの支柱の影で向かい合っていた。そろそろ傾きかけた日差しが俺たち二人の影を床に長く落としている。周囲は撤収する野球部の選手たちがバスにつぎつぎと乗り込んでいた。

「やられたのか?」

「そうでもない。まだ表向きレギュラーの端くれだからな。いつまでもつかわからんけど……そんなことはどうでもいいんだ。キョン、もう一度、彼女に釈明させてもらえないか」

 こいつにしてみれば、なにがなんだか解らないうちに加害者になっている訳で、それもほとんど俺のせいだ。しかし、この男にどこまで話していいものか。

「いまでも長門に、後光のようなものが見えるのか?」

「ああ。以前のほどではないけどな。キョン、お前はどうなんだ?」

 確かに俺も長門に影響はされているさ。ある意味、お前以上にな。だがそれは言えない。

「長門はそれがお前に悪影響を及ぼすと言っていた」

「それで俺から離れてくれたのか……俺を守るために」

「そうだ。それにこればっかりは長門にもどうにもならないとさ」

「キョン、俺はこんなことを言うガラじゃないが、……笑うなよ……彼女を通して見える光はとても善いもの、と言う感じがする。勘違いかも知れないが」

 俺は笑わなかった。いや笑えない。

 中河の今の気持ちが長門の影響なのか、それとも本当の気持ちなのかは俺にも、そしてこいつ自身にもわかってないような気がする。

「どんな影響があるとしても、今の俺には自制できる……たとえ思いが届かなくても」

 最後は独り言のように言って、俺に背を向けた。

 もう何も言うことはない。覚悟は出来ているということか。お前をハルヒに会わせるんじゃなかった。

「俺になにか出来ることはないか?」

 以前のような役回りはゴメンだが、これくらいは言うべきだろう。中河は振り向きもせず、例の録音を消去してくれるだけでいい、と言って去っていった。


 ……すまない。




 北高に戻るマイクロバスの中で、俺は斜め前に座っている長門をながめていた。

 薄暗い車内で分厚い文庫本を読んでいる。ハルヒと朝比奈さんはバスが動き出すとまもなく仲良く寝入ったようだ。二人とも今日は疲れたんだろう。

 古泉は右端の席で窓ガラスに頭を傾けたまま、すこしやつれた感じで熟睡している。バスの中で目を覚ましているのは、運転手を除けば、たぶん俺と長門くらいだろう。

 俺は一つ前の座席へ移動し、通路をはさんで長門と並んだ。

「長門」

「なに」

「中河のことなんだが、一時的でもまた正常に戻してやった方がよかったんじゃないか? あいつは俺の友達だし、もちろん俺に出来ることがあったら……」

 ついさっきも同じようなことを言ったような気がする。俺が長門にしてやれることなどあるのだろうか。

 しばらく長門は黙っていたが、突然堰を切ったように話し出した。

「あなたに出来る選択がかつて一つだけあった。しかし、あなたは選ばなかった。だから私を思ってくれる人が一人くらい、いてもいいと思った」

 一瞬、長門は驚くほど人間じみた視線を俺に向けたあと、目を伏せて、何事もなかったかのようにまた文庫本を手に取った。まるで俺がそこに存在しないかのように。

 俺は黙ってうしろの座席に戻り、窓のそとを見ていた。もう真っ暗で、窓ガラスに映るのは自分の顔だけだ。


 疲れているはずなのに、こんな時に限って睡魔は訪れてくれない。

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