『英雄篇』第1話 痩せこけた兵士 

七つの鍵の物語 -『英雄』-



 およそ、一千年前、旧文明は神焉戦争と呼ばれる大戦争によって滅んだ。

 辿りついた者に、あらゆる願いを叶えるとされる世界樹。

 彼の地へいたる扉を開く、七つの鍵を巡って諸国は争い、致命的な災厄を呼び込んでしまった。

 ミズガルズ大陸。神焉戦争の後、人工の浮遊大陸を除いて、ただひとつ残された地上の大陸。

 この大陸もまた、神焉戦争で隆起した大断崖によって、東西に分断されてしまった。

 大陸西部を治めるは、『西部連邦人民共和国』。通称、共和国。

 大陸極東部を治めるは、『ガートランド聖王国』。通称、王国。

 けれど、世界に存在するのは、そんな巨大国家ばかりではない。どちらにも属さぬ国家群がひしめきあい、日々を生きていた。


 アレックス=ブラウンの生きるナラール国も、そんな小国家のひとつだった。




 ナラール国首都、ヨンハンは荒廃していた。

 国を治める大元帥、ユーリ=オールドマンの住む中央部はともかく、郊外の農村地区は、数年前に首都を襲った未曾有の大洪水から未だ復興していない。

 少し畑を歩いてみればわかるだろう。

 刈り入れた麦は、穂が短く粒が小さく、栄養不足で未発達な茎は中ほどから折れてしまっている。

 極度な密植が災いしたのか、畑の土はやせ細り、ひび割れした大地は、種を蒔き、苗を植えても実ることはほとんどなくなった。

 洪水をきっかけに起こった飢饉は、農地崩壊とあいまって、瞬く間に全国土へと広がった。

 ”偉大なる指導者”ユーリ・オールドマンは比較的荒野に強いとされる、ジャガイモや豆類などの作付面積を増やすように命じたが、彼も彼のブレーンたる官僚も、掛け声ばかりが大きくて、具体的な支援政策を何一つ立案できず、施行する事もなかった。

 そして、飢饉の被害を受けたのは人間だけではない。 

 飼料の不足は農家の家畜を次々と餓死させ、あるいは食料へと換えられた。

 家畜の死は畑の肥料となるたい肥の生産量を減らし、たい肥の減少が更なる生産量の減少を招く。

 まさに、悪夢のような、抜けられない窮乏のスパイラルにナラール国は陥ったのだ。


 あるいは、共和国のように広大な領土と莫大な人口を有するか、王国のように外交貿易で培った潤沢な資金があれば、このループから抜け出す事もできたかもしれない。


 だが、ナラール国の元帥は致命的な程に内政手腕に劣り、外交においては喧嘩を売るしか能の無い無能者だった。

 ナラール国の斜陽は加速する。

 ユーリ=オールドマンは、外交上の後見人にあたる共和国に援助を求め、外貨を得るために阿片やタバコの栽培を進めて、密貿易へと踏み込んだ。

 よく知られているように、阿片は貪欲な食物だ。土地の栄養分を根こそぎ吸い取り、死の大地に変えてしまう。

 阿片に侵され崩れ行く大地と、麻薬に汚染された国家上層部。

 内政においては、ナラール国の窮乏と崩壊がいよいよ進み、外交においては、国家が犯罪を後押しするという宣戦布告ものの愚策に大陸の諸国は激怒した。

 それでも元帥は止まらない。

 大陸最強の軍事国家である共和国の後ろ盾を使って周辺諸国を恫喝し、国内で反抗するものは片端から憲兵に捕らえさせて収容所に送り、重労働で使い潰した。

 彼にとって重要なのは、自らの権力を維持する事であり、国外の風聞などまさに蛙の面に小便をかけるようなものだった。

 元帥にとって、国民は死ねば替えのきく都合のいい道具に過ぎず、そして、ナラール国の国民は…。


(何もかも王国が悪いんだ)


 アレックスは、ヨンハン郊外にあるスラムの、半ば崩れ落ちた家々の間を歩いていた。

 彼の赤い短髪は栄養失調でくすみ、頬はこけて、手足はまるで針金のように細い。

 十三歳のときに徴兵されて、およそ5年を軍で過ごした。

 毎日の過酷な軍の調練とは裏腹に、最低限の食事しか得られなかったため、アレックスの身長は目に見えて低く、鍛え上げたはずの肉体も、どこかひょろひょろとして、もやしのように見えたる。

 アレックスの着る軍服は、質が最悪で所々ほつれ、ズボンも穴だらけだったが、この冬の寒さの中何も着ないよりはマシだ。

 ナラールの国民は一部の富裕階級を除いて、ほとんど半裸で暮らしていた。

 火を焚く練炭はとうの昔に尽き果て、石炭や油はすべて軍の幹部が掌握している。

 ナラール国の危難は大陸の各地に知れ渡り……。

 毎年王国や他の国々から、毛布などの防寒具や食料、粉末化したミルクなどの支援物資が届いていたが、これらは軍需物資に変えるために、共和国に売り渡されていた。

 必要な…事なのだ。

 すべては諸悪の元凶である王国を討つ為に。

 豊饒な大地と富をナラール国が得るために。


(僕たちの国が貧しいのも)


 ヨンハン郊外のスラム街に、アレックスの目的地はあった。

 軍人は、ナラール国では憲兵と共に、最も怖れられる存在だ。

 20歳に満たない若造に過ぎぬアレックスが歩くだけで、人々は家の扉を固く閉じて息をひそめる。


(彼女が……ったのも)


 凍死した死体の転がる裏道を歩き、入り組んだ路地裏を潜り抜ける。

 スラムの奥、朽ち果てた家々の中に隠れ潜むように、その男は住んでいた。

 取っ手の壊れたドアを叩いて声をかける。


「こんにちは、今日はいい天気ですね?」


 しばらくして、聞いたこともない訛りの、低い声が返ってきた。


「……ええ、読書日和です」

「百科事典はご入用ですか?」

「是非」


 ドアが、微かに開けられる。

 アレックスは身を滑り込ませるように、家へと入り込んだ。

 腐り落ちた床に横たわる、四つ足の折れたテーブル、粉々になった椅子やたん笥の残骸。

 中央には、それらをくべて焚いたらしい火の跡が残っていた。

 薄暗い部屋の中、頭まで毛布をすっぽりと被り、口に木の枝を咥えた得体の知れない男が立っていた。


「あなたが噂の”逃がし屋”か?」

「”逃がし屋”とは人聞きが悪いが、君が探していたのは、おそらく俺だ」


 アレックスは、腰に縄で縛り付けた支給品のナイフを、いつでも抜けるように気を引き締めた。

 緊張に震える手で、軍服のポケットから大事に畳んだ紹介状を取り出し、彼に見せる。

 これを入手するだけで、給料の半年分が消えていた。


 そして、この依頼で、すべての貯蓄が消えるだろう。


 次に頼む金は無い。

 そもそも事が露見した時点でアレックスの命は無い。

 国外脱走は重罪で、見つかったものには酷い拷問が課せられる。

 二度と逃げられぬよう、手を砕かれたものや足をくだかれたもの、半身不随になるまで弄びながら壊されたものもいる。

 それでも、彼は探し出した。

 囚われた…を救うため。

 身元、正体、一切不明。

 しかし、めっぽうに腕が立つという外国人の”逃がし屋”を――。


「お願いだ。ナーシャを、テムスンの収容所からナロール国へ逃がしてくれ」

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七つの鍵の物語【神話編】 上野文 @uenoaya

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