第10章

 買い物帰り、藤田さん宅の前を通ると、今朝まで外壁を覆っていた工事用の養生シートが取り外され、以前の佇まいとはまた一味違った、お洒落な外観に生まれ変わっていました。


 玄関に差し掛かったとき、ちょうど中から出て来た寿恵さんご夫婦と出くわし、笑顔で声を掛けて下さいました。



「あ、松武さん、こんにちは!」


「こんにちは。工事、終わったんですね」


「ええ、つい先ほど。ちょうど良かった。ねえ、もしお時間があれば、中を見てって頂けません? 是非、感想もお聞きしたいし」


「そうですか? 私なんかで良ければ」



 そう言うと、寿恵さんはにこやかに笑いながら、まだ養生を外したばかりの真新しい室内に招き入れてくれました。




     **********




 藤田さんご夫婦の離婚が正式に成立してから、およそ3か月が過ぎようとしていました。


 当初は揉めることを予想していた離婚交渉も、ご主人克明さんの母親、和子さんの認知症や、妻幸恵さんの怪我によって状況が変わり、あっけないほどスムーズに進みました。


 また、事前に幸恵さんが負債(住宅ローン)を含めた資産や家財の詳細なリストを作成していましたので、曖昧になりがちな名義や権利等も明確になっていて、穂高弁護士の立ち合いのもと、お互いに、きちんと納得した上で合意することが出来ました。


 一番問題になるのではと懸念されていた『自宅』をどうするかについても、幸恵さんは住み続ける意思はなく、克明さんも実家に同居して母親の介護をすることになったため、売却する方向で話を進めていたところ、それに手を挙げたのが寿恵さんご夫婦でした。


 いまだ拡大を続けるこの新興住宅地は、マイホームを希望する人々にとって、市内でもかなり人気の高いエリア。週末になると、分譲地の見学がてら、そこに隣接する既存の住宅地の中を歩き、実際の街の様子を伺う転入希望者がたくさんいました。


 新築を希望するものの、資金を始めとした様々な問題から、現実的に手が届かないという人も少なくなく、また、夢のマイホームを手に入れたものの、様々な事情で手放さざるを得ない人もいらっしゃいます。


 寿恵さんご夫婦が提案しているリノベーションは、安価に入手した中古物件を、住人のライフスタイルに合わせて希望する形に作り変えられるという、中古故のデメリットが解消されることで、この街でもそうしたニーズに応える仲介業者さんも増えていました。


 そこで、寿恵さん夫婦の会社でこの家を買い上げ、お客様に実際の施工を見てもらうためのモデルルーム兼商談スペースとして活用しようということになり、再度リノベーションをしたところでした。



「高い買い物だったけど、この場所なら、十分採算は取れると思うし、いずれ希望者があれば、売却しても良いかなって考えているんですよね」


「大人気のリノベーション建築家のお家なら、どんな注文でも聞いて貰えるから、買う側も安心よね」


「それに、姉のことを考えて、出来れば長引かせない方が良いかなって」


「藤田さん…じゃなくて、幸恵さんはお元気?」


「ええ、とっても。こっちは、毎日締め上げられてますよ!」



 離婚後、再就職を考えていた幸恵さんでしたが、このご時世、年齢的なことも手伝って、なかなか就職先が見つからず、実家のお世話になっていました。


 家族からは『遠慮するな』と言われていましたが、このままズルズルというわけにも行かず、長引くにつれ、本人的にも申し訳ない気持ちが募り、さて、どうしたものかと悩んでいたところ、長年、実家の工務店で事務をしていた女性が、家庭の事情で退職することになったのです。


 急な話だったため、次の人が決まるまでの繋ぎとして、事務経験があった幸恵さんがヘルプに入ったところ、前任者よりもスムーズに事務処理が回るようになり、それならばということで、正式に実家の工務店で働くことになったのだそうです。


 もともと真面目で几帳面な性格だった彼女、妹のようなクリエイティブな才能には恵まれませんでしたが、逆に事務的な作業が苦手な妹夫婦にとって、姉のスキルは会社を経営する上での強力な補佐として、今では必要不可欠になっていました。



「その後、あちらのことは、何か聞いてらっしゃいますか?」


「先日、偶然スーパーでひろみさんとお会いしてね」



 その後、実家に戻った克明さんは、仕事が終わって帰宅すると、昼間介護をしているひろみさんと交代し、母親のお世話をしていました。


 とは言っても、専ら話し相手が彼の専門で、ひろみさんにはあれこれと手を煩わせることが多い和子さんも、克明さんにかかると別人のように穏やかになり、幸せそうな顔をしている時間が多いのだとか。


 一度機嫌を損ね始めると、どうやって宥めても手に負えないときもあるのに、あっさりとそれをやってのける兄に、ちょっとジェラシーを感じることもあると、ひろみさんは笑いながら話していました。


 当の和子さんは、徐々に認知症の症状が進んでいるらしく、ぼんやりしたり、混乱することも増えてはいますが、子供たちの顔だけはちゃんと認識出来ているようで、克明さんのコントロールのおかげで、十分な満足感を味わっているようでした。



「ひろみさんも、幸恵さんたちのこと、気にしていたみたいよ。何も知らなかったとはいえ、本当に申し訳なかった、って」


「そうですか…」



 もし、和子さんの過去にそんな経緯がなければ、また、克明さんに虐待による『負の連鎖』がなければ、あるいは、克明さんと幸恵さんが出逢うことがなければ、今とは違っていたでしょう。


 ですが、それぞれが別々に新しい道を歩きだした今、前を見て進めば良いのだと思います。ネガティブな記憶は、記憶として心に留め、もう二度とそれに縛られることなどないように。


 そんな話をしながら、一通り屋内を見せてもらい、簡単なアンケートに協力したお礼にと、可愛いフォトスタンドを頂きました。



「ありがとう! かえって申し訳なかったかも。これ、オープンしてからお客さんに渡すプレゼントだったんでしょ?」


「気にしないでください。もうすでに、何人かの人にお渡ししてるから」


「すでに先客が? 一番最初のお客さんって、ひょっとして?」


「ええ、葛岡さんのおばあちゃんです」



 予想通りの答えに、思わず同時に吹き出してしまい、ひとしきり笑った後、幸恵さんに宜しくと伝言をお願いし、寿恵さんの事務所を後にしました。




 その葛岡さんのおばあちゃんはといいますと、相変わらず、周囲の人々の詮索に余念がなく、毎日ネホリーナ家業に邁進していらっしゃいます。


 今回ばかりは、おばあちゃんの活躍が大きく貢献したことに、誰もが賞賛していました。当の本人にとってもこの出来事はかなりの衝撃だったらしく、未だに色んな人に言って回っており、まだまだ彼女の中でブームが続いているようです。


 ただ、ちょっとだけ困ったことに、高齢者ゆえ、カタカナの使い方が少々苦手なことから、正確に『モラルハラスメント』と言うことが出来ず、あれこれ変換された結果、最終的に『モルモルスント』に落ち着いてしまい、初めて聞いた人は、何を言っているのかわからないことも。


 他にも、そうしたおばあちゃん語録は数知れず、先日も『インフルエンザ』のことを『インフレ』と自由変換されていて、以前、お知り合いの方がインフルエンザで亡くなったとのことで、切々と予防接種の大切さを語るものの、



「その人も、最初はすぐに元に戻るだろうって、安易に考えてたみたいでね~、もっと早くに何とかしてれば、死なずに済んだんだけどねぇ~」



 途中から話に加わっていた椎名さんは、なぜその方が亡くなったのかよく分からず、



「それで、その方は、どうして亡くなられたんですか?」


「インフレが原因だったのよ~。気が付いたときには、もう手の施しようがなかったらしくてね~」



 もの凄く驚いた顔をして、おばあちゃんの顔を見詰めていた椎名さん。それに対し、大きく頷いて見せるおばあちゃん。でも、その言い方では、全く意味が違って聞こえてしまいます。


 得意げな顔をしているおばあちゃんのほうは訂正せず(しても、すぐに戻ってしまうことが目に見えているため)、後ほど椎名さんには説明をしておきました。


 色んな騒ぎを起こすこともありますが、彼女のおかげで、退屈することはありません。愛すべき我らがアイドル、葛岡さんのおばあちゃん。この街にとって、いまやなくてはならない存在です。




 寿恵さんの事務所を出て間もなく、百合原さんのお宅の前を通り掛かると、ちょうどご主人とふたり、お出かけになるところに出くわしました。こちらに気づき、笑顔で手を振る百合原さん。車に荷物を積み込むご主人にご挨拶をし、少しだけ立ち話。


 いつもは、国際学会にはご主人一人で出席するのが通例となっていましたが、今回は百合原さんも同行することになったと、しばらく前に連絡を受けていました。


 学会が終わった後は、観光がてら、長男の蓮くんのいる街に滞在し、学校がクリスマス休暇に入るのを待って、三人一緒に帰国する予定だそうです。



「少し長く留守にするけど、宜しくお願いね」


「OK! たまには、親子水入らずで、羽を伸ばすのもいいわね」


「ちょっと、ちょっと、松武さん! 僕は一応、学会なんだからね!」


「それは、あなたのお仕事だから、仕方ないでしょ?」



 妻の冷たい言葉に、大袈裟にしょげて見せるご主人。ふたりの息の合った掛け合いに、思わず笑ってしまいました。何より、久しぶりに会う息子蓮くんへの逸る気持ちが伝わってきます。



「愛子ちゃんは?」


「主人のご実家でお留守番」



 愛子ちゃんとは、蓮くんが留学した後、百合原家が迎え入れたフレンチブルドッグ。息子がいなくなった寂しさを補って余りある、百合原家のアイドルです。


 今回、少し長い留守になるため、ご主人の実家で預かってもらうことになったのですが、大の犬好きの理事長(ご主人のお父様)に、『猫可愛がり』ならぬ『犬可愛がり』されているそうで、じいじに甘やかされて、帰国後、どれだけ駄目ワンコになっているか、今から心配しているのだとか。


 お土産のリクエストを問われ、帰国後、山ほどの楽しいお土産話を待っていると答えた私に、走りだした車のミラー越しに手を振るふたり。私も手を振り、道中の安全を祈りながら見送りました。




     **********




 私が住むこの新興住宅地は、元は荒れ野のようだった土地を造成してつくられました。


 開かれた土地に、定規で引いたようなマス目状の道路が通り、整然と区切られた分譲地には、次々と瀟洒な住宅が建てられて、僅かな時間の間に、突如として美しい街並みが出現した、不思議な空間です。


 それはまるで巨大な生命体のように、今尚、その規模を拡大し続けながら、刻々とその姿を変化し続け、そこに住む私たち住民は、さしずめ巨大なサンゴ礁に寄宿する生物のよう。


 多くの人にとって、マイホームを手に入れることは、人生の中で大きなイベントであり、そこに託す夢や幸せへの願い、またそれにより圧し掛かるローンや、複雑な人間関係など、一見して目には見えない雑多な想いが渦巻いています。


 そんな人間たちの様々な思惑など知る由もなく、巨大なこの新興住宅地には、日々変わらぬ時間が流れ、気付かないうちに、ゆっくりと時の彼方へと運ばれて行くのです。


 ふと振り向いたとき、そこに残した自分の痕跡を見て、人は何を思うのか。


 さっき、寿恵さんから頂いたフォトフレームを、窓際に飾ってみました。まだ何も入っていない写真立てに、いったいどんな風景が刻まれるのか、これから先が楽しみです。




     **********




 その年の暮れに、友人を訪ねてこの街にやって来た、とあるひとりの少年。


 外国から来たその少年は、十数年後、とんでもないミラクルを巻き起こすことになるのですが、それはまた、別のお話。



終わり

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インナーペアレント 二木瀬瑠 @nikisell22

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