現代あやかし創作論

 みっちがスマホの画面いっぱいに広がった漢字一文字を全員に見せて、真剣な顔で口を開く。

「さて御一同」

 もったいぶった第一声に、部長がすかさず目もくれずに綺麗なフォームのツッコミを入れる。きちんと眼鏡がずれるように当てる箇所と力を計算しているのだから、職人技と言ってもいいレベルだ。

 みっちはずれた眼鏡をいつも通り直し、部長に不平を垂れながらも、第二撃がくる前に本題に入る。

「これ、なんて読みますか?」

「よう」

 全員がせーのと息を合わせたかのように同時に答える。

「うわあ……そういうことしちゃいます?」

 みっちが軽蔑するように一同を見回す。

 スマホには、「妖」という漢字がでかでかと表示されていた。

 素直に考えて、この漢字の読みは「よう」でいいはずだ。それで合っている。漢字テストなら花はつかないだろうが丸はもらえる。

 ただし、この場の面々を考えると、この解答はやっぱり、恐ろしくひねくれている。

 ひねくれている人間なら、この漢字を見て別の読み方を提示する。ところがこの場の面々は、そこからさらにひねくれて、本来の読み方で解答しているのだ。いや、あるいは、みっちの魂胆を最初から看破し、機先を制して議論の余地を粉砕しているのかもしれない。

「漢和辞典を引けば一発ですよ」

 にーこが穏やかな笑みでそう告げる。

 というわけで僕はこの空き教室の黒板の横に置かれた漢和辞典を持ってきて、「妖」を引いてみる。

 読みは音読みの「ヨウ」のみで、訓読みは載っていない。字義は「なまめく」、「あやしい」、「わざわい」の三つ。

 そういうことじゃない――それは全員が理解した上での、しかし必要な確認。

 みっちはやりにくそうに眉をひん曲げる。

「そうです、載ってないんです。しかしそれは想定内ですとも。すでに布石は打ってあるのですよ!」

 みっちは全員に見えるようにスマホを操作する。よく見るとこの「妖」という漢字は、まだ変換からの確定がなされていない。つまり、取り消しすれば、もとのひらがなに戻るということだ。

 で、みっちがッターンと音でもしそうな勢いで画面をタップすると、「妖」はほどけてその正体を現した。

「あやかし」である。

「へえ、変換できるIMEもあるんだ」

「それはちょっとどうなのとも思うけどね」

 感心するいっちゃんと冷ややかな笑みを浮かべるにーこ。

「そう、『あやかし』ですよ」

 全員が、そうだと思ったと言わんばかりの達観した目でみっちを優しく見守る。

「『妖』と書いて『あやかし』と読ます――あるいは、『あやかし』とひらがな表記で、なにを表しますかっ」

「国語辞典を引けば一発ですよ」

 というわけで僕は再び黒板の横から、今度は国語辞典を取ってくる。

 あやかし――意味はそのものずばり、航海する船にやってきてえらいことをする、正体不明のもの――である。

「石燕も『あやかし』はそう描いてるもんな」

「『うしおととら』でも、そのデザインの『あやかしという妖怪』を登場させてますね」

 なんというか、みっちが凄まじくかわいそうに思えてきた。

 いや、相手が悪い。悪すぎるのだ。いっちゃんとにーこにこうした話題で上手を取れる道理は全くない。

 結果的に、思い切り上滑りする。みっちとしては相手の常識を覆してやるぜ、なんて思っていたのかもしれないが、こといっちゃんとにーこは、曰く僕との交流のせいで、「常識なんぞ糞食らえ」という常識とそれを補完する知識を得てしまっているのだ。

 まあつまり、勝った負けたの話ではなくて、可能な限り建設的な議論をしようと申し出るべきだった。話の種を思い付いてそれでマウントを取りにいくことはしてはいけないし、する相手を間違えている。

 というわけで、のっぺらぼうになったことで何にもなくなった僕が、みっちの期待する対応を取るべきだろう。

「あやかしというと、つまり妖怪のことなんじゃないのかい」

 いっちゃんとにーこが、凄まじい軽蔑の目を僕に向けてきた。まあ二人に言わせれば、僕のせいでこんなひねくれた思考に陥ってしまったということなので、その当人がまともっぽいことを言うのは複雑なのだろう。

 対するみっちは待ってましたとばかりに胸を張り、YO妖怪もののけ怪異ばけものザッツあやかし――と節をつけて並べ立てる。

「そうなんですよ。というかなんで誰も指摘してくれないんですかー! あやかしは今や一大ジャンルなんですよー」

 なるほど、確かにライト文芸といった小説では、「あやかしもの」といったジャンルが成立しているし、小説投稿サイトなどでも作品につけるタグに、公式からの推奨として「あやかし」というタグが提示されている。

「でも辞書的にはさっき二人が指摘した通り、個別の妖怪――あるいは海上で起こる一部の怪異の総称っていう意味しかないんだろ?」

 部長の指摘に、みっちはうんうんと頷く。本来ならここでみっち自身があやかしの字義について説明するつもりだったのだろうが、そう簡単に話が運ぶメンバーではない。

「辞書的な意味をもう少し掘り下げると、能面に『あやかし』というものもありますね」

「あれは武士の怨霊を表すんだったけ? 意味は近いけどイコール妖怪の総称には繋がらないよな」

「そもそも妖怪には『あやかしという名前の妖怪』という先客がいるわけだから、総称として使うのは混乱が生じるだけなんじゃ――」

 そこでにーこははっと顔を上げる。

「妖怪っぽい――ですね」

 情報の錯綜、混線、統合、乖離――それはつまり、今まで妖怪が辿ってきた道のりである。

 それに気付いたことで、いっちゃんとにーこはやおら乗り気になってきたようだった。

 こうなってようやく、みっちの弁舌が機能し始める。

「あやかしという言葉が広まったのは、多分『しゃばけ』からだと思うんです」

 妖と書いてあやかしと読む――前例があるのかは観測できていないが、とにかくこれは『しゃばけ』が大きな影響力を持っている。それには全員異論はないようだった。

「そもそも『しゃばけ』以前には、『妖怪が登場人物として活躍する小説』自体がまるでなかったという指摘もあるよな」

「ライトノベルのほうでは『妖魔夜行』とかがあったと思うけど……まあ当時は今より垣根が大きかったからね。あれはシェアードワールドでTRPGのほうにも展開してたそうだから、『小説』という旧来の無意味なカテゴリでは『しゃばけ』の力が大きいのは間違いないと思う」

「で、です。このあやかしという言葉に、現行の意味を付与したのは――」

「やっぱり『夏目友人帳』なんじゃないか?」

 みっちの台詞を掻っ攫った部長は、抗議の暴力に訴えるみっちを何食わぬ顔で返り討ちにする。

「確かに『夏目』の作中の妖怪の呼び方はあやかしだけど……」

「あれには伝承妖怪も画像妖怪も出てきませんよね?」

 それを聞いてついさっきまで暴力の応酬を繰り広げていたみっちと部長が顔を見合わせ、二人を指を差して笑った。

「アカデミック! 悪いアカデミック!」

「意識高い! 駄目な意識高い!」

 笑い合うみっちと部長は、いっちゃんとにーこの表情が険しいなどというレベルではなくなっていることに気付くと、それでも完全には笑みを消さずに咳払いをする。

「妖怪は創作物です。なら、それを扱う創作物において、妖怪はどんなふうに定義されてもいいと思うのですけどー」

「ぐう」

 ぐうの音も出ないのを表明するためにいっちゃんとにーこはそう声を漏らす。

 確かに、『夏目友人帳』には伝承が残っている妖怪や、画像として残っている妖怪は出てこない。一応河童はいるが、ここでは無視できるものとする。

 では『夏目友人帳』が妖怪漫画ではないのかと言えば、そんなことは全然ないのである。

 なぜなら、作中で「妖怪」と呼ばれる存在が出てきて、それを主題に据えているのだから。その妖怪がどんなものであろうと、作中で妖怪だと定義されているなら、それは疑いようもなく妖怪なのである。

「まあでも、その点で『夏目』は大きな役割を果たしたと思いますー。つまり、伝承妖怪、画像妖怪からの解放ですねー」

「それが――あやかし、か」

「そうですねー。あやかしという言葉の含む範囲は、妖怪よりもちょっと広いんですー。なんとなく不思議なものは、全部あやかしに突っ込んでしまえるんですねー」

 なんとなく――なんとなく――なんとなく――いくつもの性質を上げてみっちは語る。

「これが、いい具合に小説というメディアにマッチしたんです。伝承も画像もない妖怪を登場させるには、それっぽい設定とデザインを考えなくてはいけません。ところが、小説の場合はこのデザインをすっ飛ばせるんですねー。もちろん文章で描写しなくてはいけませんけど、漫画と違って労力ははるかに少ないです。『しゃばけ』の場合は登場する妖怪がほとんど『画図百鬼夜行』の妖怪で、デザインの説明は描写プラス共通認識に任せていたんですが、なんとなくですませてしまうなら、共通認識は機能しないし、無意味ですらあります」

「作者だけじゃなく、読者もなんとなくってことか」

「まあ、それでいいならそれでいいとは思うけど……」

 なんとなくではない妖怪は、正直ハードルが高い部分もある。共通認識が前提で書かれるものはやっぱりわからない人には伝わらないし、それならいっそ、どちらもなんとなくという前提で作品に臨んだほうが建設的だ。

 あやかしはそもそも妖怪と同義ではなかった。それがいつからか妖怪とイコールで結ばれていたと思ったら、いつの間にか妖怪の上位概念になっていた。しかし――

「これ、割合危険じゃないか?」

 いっちゃんの言葉に、にーこが頷く。

「創作物が妖怪の性質に与える影響は、無視できないものがあります。塗壁や一反木綿のデザインは完全に水木デザインで固定されたと言っていいですし、意図せず誤謬をキャラクターの設定に盛り込んでしまったことで、その元の妖怪の誤謬が定着してしまった例もあります。なんとなくなんとなくですませていけば、どんな影響が出るか――」

「その点、『夏目友人帳』は徹底しています。既存の妖怪を出さないことで、作中設定を盤石にし、妖怪を作中だけで完結させ、外部への持ち出しを無効にしています」

「なら、もう全部それでよくね?」

 部長が悪意のある笑みを浮かべて言い放つ。

「あやかしを出すなら、何も調べるな。参考にするな。妖怪とあやかしは全く異なるものだと理解せよ――で」

 妖怪とあやかしを断絶させる。案外それはいい方策かもしれない。あやかしが妖怪の上位概念になったのなら、さらに上へと浮かばせていけば、やがては妖怪という言葉から乖離する。

 なにしろ、妖怪という言葉は強い。妖怪という概念はほぼ固定されている。その隙間を埋めるために持ち出された「あやかし」ならば、いっそそれ自体が単独の意味、ジャンルを表す言葉になってしまえばいい。

「つっても、当分は無理だろ。まだあやかしの中には妖怪ががっちり組み込まれてる。最悪、食らいついたまま共倒れなんてことになりかねない」

「書き手の意識――結局はそれに尽きてしまうんですよね。残念ながら」

 書き手自身が、あやかしと妖怪を隔てることを意識することは果たして可能なのだろうか。妖怪は創作の題材としてまだまだ現役だ。そこに適当な理論を振りかざして水を差すことは有益とは言いがたい。

 その行き着く先は、妖怪という創作の停滞なのではないか。

 警鐘を鳴らすのも逆効果、放置するのも危険となれば、結局できることはこうして結論の出ない会話を繰り広げることだけなのだろう。

 なにせ、僕たちは「サザエさん時空」に囚われた、恐らくは登場人物なのだから。そのことを伝えるためにみっちをここに呼んだはずだったのに――と、僕はここでようやく先刻――恐らくは一話か二話前の会話を思い出したのだった。

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のっぺらぼうとぬらりひょん 久佐馬野景 @nokagekusaba

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