#1:半面の猟犬 - 3

 翌朝、リアンは体を満足に動かせるほど回復していたことに驚いた。

 ルーシーの手によって包帯が解かれると、久々に皮膚の感覚が戻った。


「はい、これ。あなたの着替え」


 クニークルスから折り畳まれた服の束が手渡され、その上にブーツが乗せられた。

 リアンは状況がよく飲み込めず、キョトンとした。


「まさかその、砂でボロボロになったぼろ雑巾を纏ったまま過ごすわけじゃないでしょう? 助けたついでだから取っておきなさい」

「あ……ありがとう」


 呆然と礼を返したリアンはふと感じた。クニークルスは言葉がきついが、わりと面倒見のいい女の子なのだな、と。

 ……そういえば、包帯を巻いたのも彼女だった。何から何まで世話になりっぱなしだ。


「……アレだけ酷いことを言ってしまったのに、キミは構わずぼくを助けるんだね」

「わざわざ助けたんだから当然でしょ? そこで見捨ててどうすんのよ」クニークルスは目を逸らし、口を尖らせて言った。「べ、別に、あなたの境遇がかわいそう……だなんて思ったわけじゃないんだから」


 しかし、その瞳はまた、寂しげな影を宿した。


「……哀れに思うとしたら、あなたが世間のことを……いや、自分についてさえ何も知らないってこと。……ただそれだけよ」


 そう言うと、クニークルスはリアンに背を向けて自分の居場所へと帰った。

 少なくとも、機嫌が悪いというわけではないらしい。


(何も知らない……? どういうことだ?)


 考えながら周りを見渡していると、コシュカの様子に目が止まった。

 身支度を整え、手鏡を見ながら髪を整えている。

 こんな時制でも見た目を気にするのか、などと思っていると……。


「あ……!」


 途端に思いついてぼろ布姿のままコシュカに近寄った。


「ん? どうした、新入り?」

「ちょっとそれ、貸してくれる?」

「いいぜ」


 コシュカは特に渋る様子もなく、快く手鏡を差し出した。


「…………」


 おぞましい変貌ぶりに声を失った。

 鏡に映る左半分が、まるで自分の姿ではないようだ。

 長い前髪をかき分けると、ただれたような皮膚が現れた。

 その顔に触れる左手も、その先の腕も、肩も、同じだった。

 それに、一時は見えなくなっていた左目も、白目は黒に、瞳は赤に染まっている。


「……なんだよ、これ…………」


 化け物だと言うしかない。クニークルスが哀れだと言った理由がよく分かった。

 それなのにコシュカは……いつものように笑いもせず、平然とした表情でリアンを見つめるだけだ。


「キミもぼくの事、カワイソウだとか思ってるんだろ?」

「いいや。そんなこと思っちゃいねーよ」

「嘘だ!」

「嘘じゃねーって。大体、そんな姿でも生き残れたんなら喜ぶべきだろ。違うか?」


 喜ぶ……?

 どういう意味で言っているんだろう。これ以上の不幸はないというのに。


「分かってねーようだから言うけどさ。お前、死ぬはずだったんだよ」

「……え?」

「クニークルスの言う通りだぜ。本当に何も知らないんだな。……だとしたら、ある意味カワイソウなのかもしれねーけど」


 コシュカはクニークルスの方へ顔を向けた。

 どうやら家具の影から見ていたらしい彼女は、仕方ない、というように溜め息をついて、もう一度リアンの所までやってきた。


「砂を浴びるとどうなるか、本当に知らないの?」

「それぐらいは知ってる。砂になるんでしょ?」

「そう。それが一般的な解答。……けど、例外があるのよ。つまり、あなたみたいに、致死量の砂を浴びておきながら生きられた場合ね」


 致死量、という言葉にリアンは背筋が凍った。

 本当に死ぬはずだったのだ、という実感が、今になって少しずつ湧いてきた。


「生きられた場合……どうなるの?」

「その場合、生きているというか、生かされている状態だと聞いたわ。人間でも獣でもない体になって、少しずつ、人間から遠ざかって行くの……」


 自分が自分で無くなっていく──そう自覚した瞬間、リアンの頭から急激に血の気が引いた。

 平衡感覚が失われたまま、頭が傾いでいく。


「お、おい、新入り……!」


 視界にノイズが広がり、色という色が抜け落ちていく。

 全身から力が抜け、五感さえも失われるようで──どこか心地良くもあった。そんなはずはないのに。


「ルーシーを呼んで! 早く!」

「お、おう!」


 ぼくがぼくでない……? だったら、ぼくはいったいだれなんだ──




 ──結局。

 父さんや母さんを護らなくちゃ、なんて思っていたけど、体だけは正直だった。

 いざとなったら、ほらこの通り、自分の身を守ろうとするじゃないか。


 ……悔しい。本能には抗えず、恐怖にも勝てないということを、身を以て知ったのだ。

 なのに父さんは、自分の死をも省みずぼくの事を助け──最期は笑って死んでいった。

 どうしてそんなことが出来るのだろう? ぼくは父さんみたいになれないというのか。


『……哀れに思うとしたら、あなたが世間のことを……いや、自分についてさえ何も知らないってこと。……ただそれだけよ』


 クニークルスが哀れだと言っていたのは、何も体の傷や、失った両親のことだけではない。

 これから、化け物として生きなければならないという現実レッテルそのものだった。


 ………………ちくしょう。そんなの、嫌に決まってるじゃないか。




「……良かった。気がついたみたい」


 今度はルーシーの顔がそこにあった。

 前みたいな厳しさはなく、穏やかに安堵した微笑みを浮かべている。


「あなた、思ったより繊細なのね」


 その後ろからクニークルスが呆れた顔を見せた。


「やっと安心したわ。人間っぽくなって」

「こら、クニークルス。それは言い過ぎよ」


 たしなめられ、クニークルスは首を窄めた。


「……ぼく、これからどうなるの?」

「それはさすがに答えられないわね。前例を知らないから」

「化け物になる?」

「かもしれないわ」

「……きっとみんなに殺される」

「いい加減、そのマイナス思考をどうにかしなさいな。折角生きているのに、無駄に早死にするわよ?」


 ……だって、死んだも同然じゃないか。

 クニークルスがあんな目で見ていたのも、ぼくが化け物に変わるかもしれないからなんだ――


 リアンの心はズタズタに傷ついた。


「こんな顔じゃ、殺されても当然だよ……」

「だったら、縁日の仮面でも用意しましょうか? 確か、そこの山積みになっているゴミだめの中にあるはずよ。……そうよね、コシュカ?」


 ゴミだめと言われた持ち主は渋い顔をした。


「……後で片付けるよ」

「直ぐにやりなさい。忘れるんだから」

「へーい」


 コシュカは諦めたようにもそもそと、物置という名義のゴミだめへと這っていく。

 このままだと本当に縁日のお面を被せられそうなので、リアンはむくれた。


「……ぼくはそこまで子供じゃない」

「大人だったらそんな些細なことは気にしないと思うけど? 面白がって被ることもあるわ」


 途端に揚げ足を取られ、ハウンドはほぞを噛んだ。


「要は子供っぽくなければいいんでしょ? 大人でも被るようなカッコイイ仮面でもあればいいかしら?」

「そんな仮面、どこにあるんだよ……!」


 リアンは話題がすり替えられたことに気付かず張り合った。

 傍から観察していたクニークルスは顔を隠してニヤついている。


「まぁ、ここにはないわね」ルーシーはさらりと答えた。「でも、職人さんならそこにいるわよ?」


 そう言ってルーシーが目を向けた先には、お馴染みの金の瞳がぱちぱちと瞬いていた。


「スクァーレルが?」

「あの子はとてもシャイだから普段は顔を見せないけど、仲良くなれば作ってくれるかもね」

 

 そんなまさか。自分よりもずっと幼い子なのに?

 ――そんな疑問も見透かしてか、ルーシーは軽く微笑んだ。


「あの子の芸術的才能は誰もが認めてる。とても手先が器用なのよ。……ほら、露店用に作ったアクセサリを見たでしょ? あれは全部、彼女が作ったの」


 その一例とばかりに、ルーシーが手首に巻いているミサンガを見せてもらった。

 独創的なデザインで、幾何学模様を何色もの紐であしらっている。


「スカーは私達の家計を支えてくれている、とても大切な仲間よ」


 家計を支えられる……つまり、独りでも生きられる力を持っているということだ。ただ、幼いから保護者が必要ってだけで。


(……ぼくと、そんなに変わらない……?)


 ルーシーは言っていた。リアンは、本当は独りで生きられるほどの技量を持っているのだと。

 スクァーレルとは歳が違うだけで、条件は同じだ。

 レゴの家族は他にいないし、あの子もきっと孤児に違いない。


「さて。まだ日用品で買わなくちゃならないものが沢山あるんだけど」


 ルーシーの口調はもはや確信犯だった。


「クニークルスとコシュカは手伝うとして、あなたはその顔じゃ出られないわよね?」

「……」


 ――訊かなくたって分かってるクセに。

 リアンは心の中で毒づいた。


「家族になるかどうかの判断も後一日よ。……どうか、よく考えて頂戴」


 最後に放った一言は、忠告と言うよりは懇願のようにも聞こえた。

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