#1:半面の猟犬 - 2

 ──初めに見たのは、白い背景に落とされた、一粒の鮮やかな赤だった。

 輪郭はハッキリせず、ただそこに佇んでいる。

 頭の中で変化を求めると、それは滲むように大きく円形に広がった。

 そこへ黄色や青といった様々な粒が次々と隙間を埋めて加わり、互いに混ざり合って補色となり、視界はどんどん色鮮やかになっていく。


 キャンバスは一つの光景を生み出した。何処だか、見覚えはない。

 記憶なのか、はたまた想像の産物なのか。それにしては具体的で、鮮明に描かれているのが不思議でならない。

 そこは決して、見慣れた砂漠や荒地ではない。起伏のある地面に、鮮やかに揺らぐ「花」が、絨毯の如く敷き詰められている。


 ふと顔を上げると、ずっと向こうに死んだはずの両親が立っていた。心なしか、リアンが知っているよりずっと若く見える。


(父さん! 母さん……!)


 大声で呼びかけたつもりが、声にならない。

 両親はリアンに気付かないまま幸せそうな笑顔で手を繋ぎ、リアンに背を向けて歩き去っていく。

 いくら動こうとも体を動かせず、また、いくら声を上げても声にならない。

 それどころか、足が地に着いている感覚がない。空中に繋ぎ止められているようだった。


 やがて、これが夢の世界であることに気付くと、景色は急激に色を失い、元の白へ変化し――終いには光まで失い、闇へと変わった。




 カタカタと、風が戸を叩く音が聞こえた。

 目を覚ますと、目の前に二つの金の瞳がリアンを覗き込んでいた。


「……え?」


 リアンが完全に目覚めるより早く、瞳は素早く何処かへと身を隠した。

 ……だめだ。何が起きたのかよく分かっていない。

 今置かれている状況を頭の中で整理していく。

 ここは車の中で、命を助けられたから、ここにいるのだ。

 何で助けられたのか? ……そう、砂渦に襲われたからだ。

 それに、大事な家族まで失った。──そこまで思い出すと、冷たい喪失感が頭から足の爪先にまでじわじわと駆け抜けていった。

 空になった心を抱くべく、膝を抱えて丸くなる。

 傍に誰かいないということが、こんなにも寂しいだなんて。


 リアンは膝の中でむせび泣き、毛布をきつく握りしめた。


 ふと、温かい感触がぺたりと頬に触れた。

 腫れ上がった瞼を開けると、金の瞳がまたそこにいた。


「……キミは……」


 柔らかい手が頬をなぞる。

 金の瞳はパチパチと瞬き、今度は荷台の奥へと移動した。

 しばらくして、カチャカチャと乾いたリズムを携えながらリアンの傍へと戻ってくる。

 カチ、カチ、と音を立ててランタンの明かりが灯された。

 燃料である豚油とんゆの温かく香ばしい匂いと共に、ようやく金の瞳の正体が明らかになる。

 それは、フードを被り、全身をすっぽりと覆う外套に身を包んだ、小さな子供だった。

 僅かに覗く顔は、自分よりもずっと幼い──少女らしい。

 彼女は、ぶかぶかの袖を引いて白い手を覗かせると、フードをおもむろに後ろに引いた。


「…………あ」


 リアンは思わず声を洩らした。

 肩口まで切り揃えた、夜の闇を思わせる群青の髪。

 側面には大きなクセ毛が……と思いきや、そいつはピクピクと生き物のように動いた。良くみると、横に張り出した大きな「耳」であることが解る。

 おまけに、外套の裾からも長い「尻尾」が顔を出している。人間らしからぬ外見に、リアンは目を丸くして絶句した。


「…………っ!」


 少女は、そんなリアンの反応に眉を潜め、慌ててフードを被り直そうとした。


「ま、待って!」


 リアンは思わず手を伸ばし、少女のか細い腕を握った。

 少女はびくっと震え、抵抗もなく動きを止めた。


「キミが、スクァーレル?」


 手を放しながらゆっくりと尋ねると、少女は無言で小さく頷いた。

 どうやら、とても内気な子らしい。我の強いクニークルスやコシュカとは全くの正反対に感じる。……それが、リアンの硬くなった心を、ほんの少しだけ動かすきっかけになった。

 前に父さんから聞いたことがある、とリアンは思い出した。獣のような特徴を持つ、人ならざる人の話だ。


獣人レゴ……)


 確か、そう呼ばれていた。

 どんな運命の悪戯なのか。耳や尻尾といった部分以外では人間と大して変わらない容姿のはずだが、時には、その変わった姿から迫害に遭ったり、闇商人に売られるといったケースも多いと言われている。

 そのため、レゴはなるべく俗世から離れ、同じレゴ同士で村を形成して隠れ住んでいるらしい。


 ……だとしたら、この子は一体何故、ここにいるのだろう?


「……キミは……」


 リアンは問いかけた言葉を途中で切った。

 砂漠では他人の事情を詮索するなかれ。他人ひとと関わるということは、家族を危険に晒すことをも意味する──そんな当たり前のように染みついているはずのタブーを、リアンは破ろうとしていた。

 スクァーレルは、不思議と不安が入り混じった顔でリアンを見つめている。


「……お父さんやお母さんに、会いたい?」


 スクァーレルの瞳孔が狭まった。

 ──どうしてそんなイジワルなことをきくの?

 そう言いたげな困り果てた顔に、やはり訊くべきじゃなかった、とリアンは後悔した。


(……何を期待してこんなことを訊いたんだ、ぼくは)


 その答えは分かりきっていた。ただ、頭の隅へと追いやっていただけなのだ。


 ここへ来て、リアンは自分と全く同じ境遇の人間がいないことに気付いていた。

 当然のことだ。家族が変われば立場も変わる。この世に同じ人間などいるはずがない。

 だが、それでもすがりたかった。境遇を共にし、気持ちを分かち合える仲間──そのように心から信頼できる友達が、リアンには必要だった。


「…………いや、忘れてくれ」


 ──結局、ルーシー達が戻るまでの間、スクァーレルは何も話さずに自分の居場所へと帰り、リアンから進んで話しかけるようなこともなかった。

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