#3:夢見る兎 - 2

 アステリオンは自分で気付かないうちに目を覚まし、自然に身を起こした。眠ったのがいつ頃か、どれくらい寝ていたのかも覚えていない。

 顔を上げながら扉をそっと開くと、空は青みが掛かった灰色の雲で覆われていた。乱暴だった雨は幾分か大人しくなったが、今もしとしとと降り続けている。

 ただ、雲は昨晩よりも薄くなっている。雨はまだ降り続けるだろうけど、一旦は止むかもしれない──とアステリオンは思った。

 降りしきる雨を追うように視線を落とすと、不思議な光景が広がっていることに気付いた。砂漠には付き物の砂の山々は崩れ、等しく平らに地平が続いている。サラサラだった砂の地面は波打つ湖と化し、空と同じ色をゆらゆらと映し出していた。


「……すげぇ」


 いつの間に起きていたコシュカが後ろから囁くような感嘆を洩らした。

 やや遅れてコシュカから少し離れた位置にクニークルスもやって来たが、興味がないのか、珍しくもないのか、口を噤んだままよそよそしい顔で佇んでいた。


「今何時かな」コシュカは自分の腕時計を確認した。「あれ、まだ五時なのか。ずいぶん早起きなんだな、アスティ」

「自然に目が覚めただけだよ」


 そう言ってコシュカの顔に向き直ったつもりが、コシュカを挟んで向こう側に立っているクニークルスと目線が合ってしまった。

 クニークルスは何故か困ったような表情を浮かべ、慌てて目を逸らした。別にアステリオンとは何もなかったはずなのだが、今は誰に対しても気まずいのだろう。その空気はアステリオンにも伝染した。

 コシュカにとっては、ことさらにクニークルスといる時間がとても重苦しく感じられた。心の中がそわそわし、黙っていられなくなる。


「……オレ、先に朝飯の準備してくるよ」


 顔を隠すように雨合羽に身を包み、コシュカは誰の返事も待たずに開け放った扉から外へ飛び出した。薄い膜のように張りつめた水たまりがぴちゃぴちゃと音を立て、遠ざかっていく。それを横目で見たクニークルスは鼻を軽く鳴らし、自分の寝床に戻りながらこう言った。


「……アスティ、扉を閉めて」


 聞き間違いかと思ったアステリオンはクニークルスの方を振り返った。


「何言ってるんだよ。あいつ、外にいるよ?」

「バカね。鍵掛けろなんて言ってないわよ。雨が入っちゃうでしょ。特にスカーのところは寒いはずだわ」


 それもそうだ、と納得したアステリオンは、直ぐに扉を閉めた。スクァーレルの寝床に目を向けると、あの大きな金の瞳がパチパチと瞬いていた。


「寒かったかい、スカー」

「ううん」


 そう言いながらも本当は寒いらしく、毛布をぐるぐると体に巻き付けて座っている。

 アステリオンは少し考えてから、自分の毛布をスクァーレルに渡した。


「使ってていいよ」

「……仮面のおにいちゃんは?」

「ぼくはいいんだ。そこまで寒くないから」


 実際のところは少し肌寒いのだが、ここでやせ我慢しているのを気付かれては本能的にカッコ悪い気がした。


「……おにいちゃん、ありがとう」


 スクァーレルは相変わらず表情が見えないところに隠れているが、きっと嬉しそうに微笑んだに違いない。アステリオンはそんなことを考えながら、さりげなく自分の外套に身を包んだ。




 コシュカは車の助手席に近づいたが、戸を叩こうとしたところで一度手を引っ込め、わざわざ反対側に回り込んでから運転席の方を叩いた。驚いたデュランが戸を開ける。


「おはよう、デュラン」

「やけに早いな。眠れなかったのか?」


 コシュカは軽く肩を竦めた。


「半分そうだけど、もう半分はアスティが起きたから」

「そうか」


 デュランも雨合羽を着て静かに運転席から飛び下り、一度だけさっと振り返った。それから口元の前で指を立ててみせ、静かにするようにと促す。コシュカは頷き、小さく笑った。


「おっと、天幕を出さないとな。食事をするにもびしょ濡れだ」

「じゃあ、アスティにも手伝ってもらおう」

「クニークルスにもな」


 そう言われると、途端にコシュカは気まずい顔を見せた。デュランはコシュカの肩をポン、と叩く。


「さ、呼んできな。俺が組み立てる準備をしておくから」


 どうやら昨日の一件はデュランにも知られているらしい。それでもルーシーを起こすよりはマシだと自分に言い聞かせ、コシュカは地団駄を踏むように足音を鳴らしながら荷台に戻った。


「みんなで手伝えってさ」コシュカは扉を開け放ち、ぶっきらぼうに言った。「天幕を建てるんだ」

「みんな? スカーもかい?」


 分かってて悪戯をしているわけではない。アステリオンはごく自然な疑問を口にしていた。


「スカーにはまだ早いだろ」コシュカはイライラしながら応えた。「スカー以外だ。それぐらい分かってくれよ」


 コシュカはそれだけ言うと、直ぐにデュランの所へ駆けて行った。


「……あいつ、どうしたんだ?」


 と、アステリオンはごく自然な流れでクニークルスに尋ねた。


「それをアタシに訊く? バッカじゃないの?」


 クニークルスは雨合羽を着込みながら、わざと水たまりをはねとばすように車から飛び降りた。

 ……なるほど、ピリピリしているのはコシュカだけではなかったのだ。こんなケンカは、アステリオンにとって初めてのことだった。


「おにいちゃんは、わるくないよ?」


 慰められたみたいで苦笑するしかない。アステリオンは何も知らない自分に対して恥ずかしくなった。




 屋根代わりとなる大きな天幕は、車の荷台にぴったりと繋ぐ形で取り付けられた。荷台の前方にある小さな物置から折り畳み式のテーブルや椅子、食糧が取り出され、子供たちの手であっと言う間に並べられる。

 一方、途中で起きたルーシーは鼻唄を歌いながら、石を組み立てて作った簡易的なかまどの上にフライパンを置き、何かを焼き始めた。昨晩のことについて問いかける節はなく、コシュカとクニークルスはいつ話題に出されるのかとハラハラして待ち構えていた。


「何か美味しそうな匂いがするね、ルーシー。いったい、何の肉を焼いているの?」


 昨晩の事件に関係がありながら全く手を出さなかったアステリオンが、ルーシーの横に立って何気なく話しかけた。

 ルーシーはそれについては何も答えず、代わりに楽しそうな微笑みを浮かべたまま横目で指示を出した。


「アスティ。倉庫の乾物置き場に青い袋があるから、それを取ってきて」

「え? うん」


 言われた通りに倉庫に向かうと、確かにそれらしい袋があった。何度か倉庫を使ってはいたが、いつの間に増えたのか、見覚えのないものだ。持ち上げると、中に何やら長いものが入っているのが手に伝わる。アステリオンは中身を確認せず、そのままルーシーに差し出した。


「持ってきたよ」

「それをテーブルに出してちょうだい。こっちはもうすぐ出来るから」

「うん。分かった」


 コシュカやクニークルスもその袋の事を知らないらしく、興味津々でアステリオンの手元を覗き込んでいる。

 慎重に手を伸ばして掴んだものをテーブルに乗せると、子供たちは皆、口を揃えて同じ言葉を叫んだ。


「「長パンだーっ!!」」


 その声を合図に、デュランはテーブルの真ん中の席にどっかりと座り、取り出した小さなナイフを太い指で器用に操りながらパンを斜めに分厚く切っていった。


「デュラン、パンなんていつ買ったの!?」


 コシュカはテーブルに両手をついて勢い良く何度も飛び跳ねながら尋ねた。


「昨日さ。ルーシーが宿を探しに行ったついでにな」

「それと、これは油豚のベーコンよ」


 ルーシーはデュランの言葉に合わせるようにフライパンをテーブルの上に差し出し、空いた皿の上にこんがり焼いたベーコンを次々と乗せていく。子供たちは匂いに釣られ、生唾を飲み込んだ。


「さ、みんな皿に乗せたパンを持って順番に並んでちょうだい」


 子供たちはデュランから次々とひったくるようにパンを一切れずつ受け取り、皿に乗せ、テーブルをぐるりと回ってルーシーの前に並んだ。


「オレ、マスタード付きな!」真っ先に列に並んだコシュカが言った。

「ええ。分かってるわ」


 ルーシーは更にパンを二つに切ってから、調味用の香油を薄く塗り付けた。その上に既に用意されていたマスタードを塗り、カリカリに焼けたベーコンと、その上には栄養が偏らないように先日作ったばかりの乾燥野菜と酸味のあるドライフルーツを乗せ、最後にもう一枚のパンを乗せてから串でそれを刺した。


「うっまそおおおおっ!!」


 コシュカはそれを受け取って大はしゃぎだ。すぐにひとかじりし、その美味しさを足踏みで表現した。


「ちょっと! 止めなさいよ! 水が跳ねるでしょ!」


 と、後ろに並んでいたクニークルスが抗議するも、


「クニークルスは何がいい?」


 ルーシーの一声で簡単に注意は逸らされる。


「アタシもマスタード!!」

 

 思わず勢いで答えてしまったクニークルスは、さすがに大人げないと感じてか、恥ずかしそうに目を逸らした。彼女はサンドを受け取ると、何も言わずにそそくさと席に着いた。

 ルーシーは特に気にする様子もなく、次の順番であるスクァーレルに手を差し出した。スクァーレルはその手の上にぽん、とパンを乗せる。


「スカーはマスタード抜きね。ドライフルーツはどうする?」


 スクァーレルは人指し指を口に当てたまま空を見上げて考え、ややあってこう答えた。


「……パインがいいな」

「あるわよ。……はい、完成」


 両手でパンを受け取ったスクァーレルは、尻尾と耳を忙しなく動かして喜びを表現した。

 その様子に、アステリオンは笑いを堪えるので必死だった。


(すごいなあ。ルーシーにはみんなの欲しいものがちゃんと分かってるんだ!)


 ルーシーは最後にアステリオンに尋ねた。


「アスティはどうする?」

「ぼくはその……こういうのは初めてだし、ルーシーに任せるよ」


 ルーシーは乾燥野菜とドライフルーツの他にフライパンから何かを取り出して間に挟むと、串を刺さずにパンだけで軽く綴じてアステリオンに手渡し、小声で囁いた。


「この中身は秘密よ。でも、食べる前にこっそり確認しなさい。あなたに対するちょっとしたメッセージだから」


 何を入れたんだろうと思いながらも、アステリオンは黙って頷いた。

 子供たちはルーシーにこれまでに見せたことがないぐらいにお礼の言葉を並べた後、食事にありついた。昨日あった出来事なんて、頭の中から吹っ飛んでしまったようだ。

 アステリオンだけは、食べる前に皆の様子を伺ってから、そっとパンに挟まったものを確認した。


(うわあ……!)


 それは半熟の目玉焼きだった。砂漠では鮮度を保つのが難しい食材なのでこれ以上にない贅沢なものだが、いつの間に焼いたのだろう。

 だが、気になるのはルーシーが言っていた「メッセージ」の意味だ。


(目玉焼き……目玉? どういうこと?)


 ルーシーの顔色を伺うと、彼女はニコニコしながらアステリオンの手元を指差し、それから口元に指を当てた。


(……もしかして……)


 アステリオンは夢中でサンドを食べているクニークルスとコシュカの様子を目で追い、それからもう一度ルーシーを見た。

 ルーシーは小さく頷いてみせた。


(二人のことは、何もせずに見守ってろってことか)


 改めてルーシーの洞察力の凄さを実感する。夜の間は一度会ったきりだと言うのに、二人の間で何が起きたのか、何で気まずいのかまで分かっているようだった。

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