第二図書室の彼女

カツラギ

第二図書室の彼女

 扉を開けると、部屋の中にきらきらと光の粒子が舞った。夕暮れの鋭い光が部屋に差し込んでいて、空気中に浮かぶホコリを輝かせている。光の微粒子の集まりみたいな空気が、長い時間をかけながらゆっくりと空間の隙間を埋めていく。

 退廃的というか、なんというか、一瞬我を忘れるような幻想的な光景だった。そんなのを見せつけられて、僕は動くことができずにいた。思わず見惚れてしまっていたから。だから、そのホコリに満ち満ちた空気から身を引くことも考えつかなかったし、むせ返ってしまうまで煙たい空気を吸い込んでしまった。

 喉の奥をふわふわの羽先でくすぐられているような息苦しさがきて、我慢できず何度も大きな咳をした。

 呼吸に苦しむ僕の頭上、部屋名を示すルームプレートはすっかり変色してしまっているけれど「第二図書室」という文字はなんとか読み取ることができるだろう。しばらく掃除らしい掃除をしてなかった上に春休みをまたいだから結構ホコリが溜まっちゃってるな。通気性が良くないからだろうか。

 ホコリにやられないよう制服の袖で眼と鼻をかばい、一歩二歩、後ろへ下がった。眼を守るため、涙までにじんでくる。ぼやけた視界をさらに細め一気呵成、入口の対面に位置する窓へと駆けて遮光用のブラインドを上げた。三日月の形をした錠を外して、アルミサッシの上を滑らせ窓を開ける。ガラガラガラと鈍い音が響き、そしてふわっとした暖かい風が僕の隣をすり抜けていった。

 窓から新鮮な風が吹き入り、埃だらけの空気がはるか後ろに、部屋の外、廊下へと押しやられていく。

 マスク代わりに押さえたままだった腕を下ろし、ようやく僕は一息つくことができた。新鮮な空気を胸いっぱい吸い込み、汚れた空気を絞り出すよう吐く。一通り呼吸を落ち着けたところで、ようやく気がついた。そうか、これは花の匂いか。いくつもの花の匂いが風に紛れ、この図書室に流れ込んでくる。春の訪れを感じた。

 旧校舎二階のこの第二図書室は、我が深草高校文芸部の部室で、活動場所でもある。

 そして僕は文芸部に残った唯一で最後の部員だった。ちなみに部長でもある。

 僕が入部したとき、部員は三年生の門脇先輩の一人だけだったし、先輩が卒業して僕が部長の座を継承してから新入生は一人も入っていない。活動認可されているのがおかしいと思う。だって部員が僕ひとりしかいないのに。

 先輩は卒業するとき「だいじょうぶ。きっと後輩が来るよ。わたしを信じて。ね?」と笑っていたけれど、来年に誰も来なかったらいよいよ廃部となる。大丈夫なんだろうか。

 まあ、それをいま考えたところでどうすることもできないんだけど……。

 不安げな考えはため息にして吐き出し、手に提げている鞄を机に置く。代わりに入口近くで壁に立てかけてあったホウキを手に取る。簡単な掃除をしよう。そう思い、片手で取り回せるくらい短いホウキで、そのまま机に積もった埃をざっと払い落とす。換気しながらだったから、今度はむせずに済んだ。

 本棚にハタキをかけ、床に落ちたホコリを廊下に追いやり、それらをチリトリですくい上げて近くのゴミ箱へ捨ていれる。よし、まあこんなもんだろ。ホウキを本棚に立てかけた後、埃が落ちた机へ鞄の中から引っ張り出したノートを広げる。続けて、この部屋の両壁を埋め尽くす大きな本棚からケースを抜き出した。

 パッと見、漆塗りみたいに見えるこのケースは僕の原稿入れだ。僕は家では小説を書かない。アイデア帳のノートにいろいろ書いたりしているけれど、原稿を書くときはいつもこの部室でやることにしている。

 ケースの中に入っている全部の原稿がちゃんとクリップ留めされているのを確認して、僕は一番上の束を取り出した。春休みに入る前にちょっとだけ書いて、行き詰まってから放置していた作品だ。付け加えるためのアイデアがようやく浮かんだから、これでようやく書き進められる。

 窓際に立てかけてあるパイプ椅子を机のそばに引き寄せて腰掛ける。腰かけたあと、椅子を引き寄せた指にホコリが付着しているのに気づいた。しまった、椅子まではホコリ取りしてなかったか! 反射的に立ち上がり、椅子と自分の尻を何度かはたく。ちくしょう、面倒に思わずさっきの掃き掃除ついでにやっとけばよかった。ホコリを落としてから、また座り直す。

 ……まあいい。小説の続きを書こうじゃないか。

 ぱらぱらと原稿用紙をめくりながら文字を目で追う。大まかな話の筋を思い出したところで鞄からペンケースを取り出した。そして愛用のペンを抜く。ウッドグリップのシャープペンシルを。高校の入学祝いに親戚から贈ってもらったもので、本体部分は光沢を放つシャンパンゴールド、グリップ部分は手になじむ木製のペン。これが僕の相棒だった。

 原稿用紙に強めにペン先を押し当て、書き出す最初の一文を少し考えた。

 目を閉じ、脳裏に言葉が浮かび始めるのに合わせてペンを走らせ始める。

 時間が、遠くなる感覚がした。



 ふと、ひんやりした風を感じ、我に返った。首をひねり、僕から左手側にある窓を視線だけ動かして見る。教室に入った時と比べ、かなり日が傾いていた。太陽もオレンジ色というには少し赤くなりすぎている。右腕の動きもさっきから止まっていたので、ペンを転がし執筆を中断することにした。

 同じ姿勢で固まっていたせいか、あちこちで軋むような痛みを感じる。こわばった体が悩ましい痛みを主張している。

 身体を休めるため、うんと手を上に伸ばす。筋肉が伸びる心地よさに思わず声が出てしまう。そのままぼんやり正面へ視線を移すと、ぼやけた少女のシルエットがあった。

 ぎょっと目を見開く。いつからいたのか、僕の対面にしれっと座っている彼女。物音ひとつ立てず、ハードカバーの本を読んでいる。

 驚きのあまり反射的に距離を取ろうとして、地面を蹴った。椅子ごと体が後ろへ退がる。勢いのままに椅子の背が当たったのか、背後の本棚からガタガタと抗議の声があがる。僕の立てた騒音に反応して、彼女の視線が上に向けられる。その瞳が、僕を見据える。見据えて、動かない。

 ……さっきまで誰もいなかったはずなのに。

 窓からわずかに開け放された入口へ、僕と彼女の間、机の上を風が横切っていく。首あたりで切り揃えられた彼女の髪が揺れる。

 互いに本棚を背にしながら、僕は彼女と向かい合っていた。

 耳に聞こえていた金属の軋む音が小さくなっていく。ひずんだ音が消え去り、本棚の揺れる気配も収まって、やがて部屋は静かになった。

 目の前の少女が、口の端をちょっとだけ上げて笑った。

「驚きすぎ。口、開いたまんま。ふふふ」

 持ち上げた本で口元を隠して笑う少女。彼女には見覚えがある。

「椎名、お前、いつ、いつ来た?」

「神出鬼没の椎名ちゃんは、今日だって神出鬼没なんですぅー」

 僕の驚きようがそんなにおもしろいのか、椎名はぷっと吹き出しながら、笑い続ける。分厚い本を持っているのは疲れたのか、彼女は本を机に置いた。

 椎名がニヤニヤ笑みを浮かべながら話しかけてくる。

「傑作だったよ今の夏目くんの顔。パチパチまばたきしたあと、……こうなんていうかなあ、いい表現できないや。とにかく、くわ! って感じの顔してたよ。くわ!」

 くわ! と口にしつつ勢いよくグーパーする椎名は、いかに面白かったかを僕に伝えたいらしい。が、残念なことにボキャブラリーが追いついていない。ちいさな両手を懸命に開いて閉じてを繰り返すことで、僕へ自分の感情を伝えようとしている。

 ばつの悪さをかき消すように、落ち着き払った態度で僕は言った。

「び、びっくりするからさ、ノックしてから入ってきてくんないかな……」

 声が震えたのが自分でもわかった。ああ、椎名の笑いが治まりかけてたのに、僕の震え声のせいでまた笑いだしたよ。

「部活動を邪魔するわけにもいかないでしょ。私、部員じゃないし」

 おかしさを懸命にこらえるように、くっくっと息苦しそうにしている椎名。そうかい。もう好きなだけ笑ってくれよ。

そう。この女子、椎名真琴は文芸部の部員じゃない。にも関わらず、僕のいるこの第二図書室に寄ってくる変な子だった。

 帰り道は遠くなるわ、本校舎からここに来るまで階段を余計に上り下りしなきゃいけないわ、いるのは僕っていうつまらない奴だけだわ。「わわわ」の三重苦を乗り越えさせるものがあるとも思えないのに、こんな倉庫同然のところへわざわざ来るヘンなやつだ。出会ってすぐの頃、文芸部に入らないかって聞いたことがあるけれど呆気なく断られた。なのになんで椎名はこの部屋に来るんだろう。

 それを考えるたびに、僕は息苦しさのような、胸を走り回るざわざわした感触を感じる。

 僕の正面で動く気配があった。視線を再び椎名に向けると、彼女はけだるげな様子で、机へ突っ伏すところだった。肘をつく椎名の重さに机が甘く軋んだ音を鳴らす。彼女が「ふぅっ」と短く漏らした吐息は、窓からのゆるやかな風にさらわれて消えてしまった。

 女の子とふたりきりって状況は、男子にとって心揺さぶるシチュエーションだ。ドキドキする。椎名のことを意識してしまうと、手をあげたり椅子にもたれかかったり、そんな何気ない動作でさえ「椎名にはどう見えるんだろうか」ってことをいちいち考えずにはいられない。それが自意識過剰なんだってのはわかる。わかるけど、どうしようもないんだ。気楽に自然にふるまえるコツを誰か僕に教えてくれ。

 机に伏せた椎名の手がこっち目がけてゆっくり伸びてくる。長袖の制服、紺色の袖のすき間から意外に白い肌が見えてしまった。その袖の奥、隠された彼女の腕、青い静脈がうっすら見えるくらい色白な彼女の細腕。そこからつながるのは、椎名の肌、そしては、は、裸……目の前の彼女の裸体をあやうく想像しそうになって僕は慌てて想像を消した。体が熱くなったような気がする。心臓から全身へ、中心から末端へ、そしてある部分へと血流が集まっていく感覚がする。まずい。意識をそらせ。別の、別のものを考えないと……。

 椎名の制服の袖から視線を移した。移した先では突っ伏した椎名の胸が机に押し付けられている。やわらかそうに形を変えた椎名の胸……べ、別の場所、別のところを見ないと。見ていたそこから少し上、襟元からのぞく柔肌。折れてしまいそうな細さの鎖骨と、その中央からつながる胸の谷間……黒い影……椎名の胸、男子の妄想ってのは留まるところを知らない。まるで柳の下の妖艶な幽霊のように、白くて華奢な椎名の存在から僕は意識を逸らせない。

 ああ、もし僕の脳内を覗かれたら。僕が椎名のドコを見てたかって彼女に知られてしまったら。

 僕は最終的に彼女の髪へ視線を留めることで、リビドーの暴走をなんとか止めた。もうすぐ下校時刻になる。その時に立ち上がれなかったら、とても困った状況になるのがありありと予想できる。危ないところだった。

 そんな僕の内面で起きた壮絶な葛藤とは正反対に、椎名は動く気配をなくしていた。春の暖かさに眠気を誘われたのか、腕を枕にして窓のほうを向いている。

 何を見てるのか知りたくて、同じ方向を見てみると、橙の光に透かされた桜の花が落ちていくところだった。ひとひらの花びらが風にくるくると遊ばれながらゆっくりと落ちていく。花弁に色を添える陽光は鋭く、そのまぶしさに目を細めるほどだった。

 真っ赤な太陽がいよいよ鮮やかになっていく。

 僕は、椎名に気づかれないよう、視線をそっと彼女に向けた。

 はずだったのに、突如、椎名が頭をぐりっと回したせいで、視線と視線がばっちり合った。そのまま見つめ合うこと数秒、椎名は「ん?」と眉を寄せながら首をかしげる。

 何も言わない椎名。何も言えない僕。沈黙をたっぷり何秒間も感じたあとに、ようやくしゃべる言葉を見つけた。

「……そろそろ、帰ろうか」



「戸締まりするから外に出といて」

 僕が指図すると、机に突っ伏していた椎名は、さっと立ち上がる。この辺りの機敏さも、猫っぽいと思わせる一因だった。てきぱきと物を片付け、僕よりも先に帰宅準備を終える。

 僕が窓の施錠の確認をしたころには、彼女の姿はなくなっていた。彼女のカバンも、その姿も。

 いつものことだ。椎名は僕を待たない。

 部室の鍵に垂れ下がる安っぽいキーホルダーに指を引っかけて弄びながら、部屋の外へ出る。閉じられた引き戸に細長い独特の鍵を差し込み、大きく捻る。

 ガチャン! と大きな音が鳴ったのを確認して、僕は身を返す。そして電気のついていないかろうじて残る陽光を頼りに薄暗い廊下を通る。電気のスイッチを付けなきゃ見えないほどでもないし、スイッチを探すのが面倒だった。

 目指す先は本校舎一階、職員室だ。部室の鍵を返却しなきゃならない。

 僕は暗い廊下へ歩き出す。足音がやけに大きく廊下へ響く。旧校舎は建物自体が古いのもあるけれど、それ以上に人の姿がない。なにせ大半の生徒地学教室や物理教室などの移動教室でしか寄ることがない。それくらいしか僕は知らないし、大半の生徒も同じようなもんだろう。文芸部があるなんて何人が知っていることか。

 詳しい時期は覚えてないけれど、文芸部の部員が僕一人になったことを友達と話していたとき、冗談めかして「部活たちの墓場だな」なんて言われたことがある。

 笑えねえよ、僕の代で廃部になるかもしんないって考えたらさ。

 階段を下りるだけのわずかな間で太陽が沈んでいくのがはっきり分かった。薄暗い廊下をどんどん暗い影が侵食していく。人の寄り付かない旧校舎には、当然だけど、廊下の電気をつけてくれる人もいない。人の気配が全くない。

 ほんとうに何か出そうな雰囲気だった。そう想像した瞬間、確かに聞いた。

 旧校舎の階段が軋む音を。

 時間が止まったような錯覚をし、僕の足はコンクリートで固められたみたいにガッチリ固まってしまって、動かせなかった。

 ギィ、ギィ……その足音はゆっくりと上へ上へ、僕から遠ざかっていく。そして、音が止んだ瞬間、僕は駆け足で旧校舎の出口を目指した。階段を駆け下り、音のした方から離れるように、少しでも遠ざかるように!

 背筋に走った寒気に身を震わせる。部活の墓場。墓場。真っ暗闇の廊下。夜に階段を上る足音。さまざまな単語を打ち消すように、足を動かす。中庭の外灯の明かりが見えた時は、情けないとは思うけど泣き出しそうなほど安心した。内心、ビビッて泣き出す寸前だった。

 姿の見えない誰かの足音に恐怖を感じた僕は、怯えながら、それでも旧校舎を振り返らずにはいられなかった。そうしないと、後ろに誰かが立っていそうで、僕の家までずーっと付いてきそうで……。僕はゆっくり、後ろに何かがいたとしても、それを直視しないよう、視界の端をじわじわ動かして、ほんとうにゆっくりと振り向いた。

 振り返って見えたのは、変わりのない旧校舎だった。辺りに人影はなく、並んだ窓にひとつも電気がついていない。風は止み、辺りに音はなく静まり返っている。

 夕闇に沈んだ旧校舎。年季の入った木造校舎。それが、僕には人に見捨てられた哀しい廃墟に見えた……。



 学校の敷地を抜け、日の落ちた駅までの坂を一人で下っていく。これから電車を乗り継いで家まで帰らなきゃならない。でも点々とした明かりがあるだけでこんなにほっとする。

 僕の通う深草高校は山の中途にある。学校から伸びる坂をまっすぐ下れば駅の方へ。途中で左に折れれば東福寺って大きな寺が構えている。観光客も結構多いので、駅から東福寺までの道には街灯も多く設置されている。

 地面に落としていた視線を上げると、もう空に赤色は残っていない。地平線にかすかな白い夕暮れの名残りがあるばかりで、ほかは全て星空の紺色に染められていた。その空の下、遠くに光の粒が散らばっているのが見える。ひときわ高く、赤く輝くのは京都タワーだ。夜の闇のなかに負けじと輝いている。すると、京都タワー近くのまぶしい光の集まりは京都駅周辺の明かりだろう。

 何度見ても、きれいだと思う。僕の帰り道、太陽が落ちたあとはこんなにキレイな景色を見ることができる。みんなはもう見飽きたっていうけれど、僕はこの眺めに飽きることはなかった。

 そして、この景色を見るたびに、僕は自分が「ひとり」だってことを強く意識してしまう。僕の下校はほとんど一人っきりだからだ。部活をしていると教室の友達とは時間が合わないし、部室で顔を合わせる椎名は勝手に帰ってしまう。だからこの景色を胸に刻む時間も、回数も、十分に有り余っていた。

 茜色に染まる坂、茜色に染まる町。秋には紅葉の鮮やかな赤に、うっすらと夕焼けの色をつけた土塀と瓦の色合いを見ると、とてもキレイだと思う。

 椎名はこの景色を見て、どう思うんだろう。ほかの生徒と同じようにどうでもいいと思うんだろうか。それとも、僕と同じように感動してくれるんだろうか、それを聞いてみたい。椎名……。

 長い坂を下りてから家に帰るまで、僕は椎名との出会いを思い返した。



 椎名と出会ったのは、今年の春だった。

 去年の秋に文芸部の部長を引き継いでからというもの、それまで部員が二人しかいなかったってのに前部長の門脇先輩が姿を見せなくなったのだ。三年生の彼女には受験が控えていたし、そのために勉強をしなくちゃいけないし、だから部活に顔を見せている暇が無くなるってことくらい僕にだって分かっていた。教室に知り合いはいたけれど、彼らは既にグループを形成していたし、そこに混じっていくことが僕にはできなかった。

 例えるなら、仲を深めることは地面を掘る作業みたいなもので、僕たちは他人と地面を一緒に掘っていく。同じものを見て、同じ音を聞いて、同じ感情を共有しながら地面を掘る。そうしてどんどん地下へ潜っていく。お互いの情報を、感情を、そして絆を深めていく。僕が門脇先輩と一緒に地面を掘っていたとき、同じように彼らはグループで地面を掘っていた。覗き込まなきゃ見えないくらい彼ら同士は地下深くまで潜っていった。その彼らを遠い場所、ほとんど地表と変わらない場所から眺めている自分に気づいたとき、僕は彼らと必要以上に交流するのをやめた。

 秋になり、先輩がいなくなって、文芸部の部室に一人で取り残された僕はしばらく穴掘りを休むことにした。気づけば教室も穴ぼこだらけになっていて、僕の入っていけそうな穴はどこにもなかったし、部室に掘った穴にはもう僕しかいない。そのまま秋から冬まで部室で一人で過ごした。寒くなってきてブレザーの上にマフラーを着け、もっと寒くなってコートを着るようになって、それらが必要なくなるまで一人で過ごした。原稿を書き、必要以上の会話を交わすことなく、黙って帰宅する生活を送っていた。

 それからすぐ終業式が終わり、卒業式が行われた。卒業式の日、僕は家に閉じこもっていた。門脇先輩が卒業するって現実に実感が湧かなかったのもあるし、自分が卒業式に行かなければ――自分の眼で確かめることなく今日が終わってしまえば、始業式の日に門脇先輩がまた部室に来てくれそうな気がして。

 そんなことあるはずもないのに。今でも後悔するばかりだ。行っておけばよかったって。

 結局、僕は門脇先輩の門出を祝えないまま二年生になり、僕は彼女に連絡が取れなくなった。僕は穴の底から空を見上げていた。僕は進学コースだったからクラス替えがなく、そこになじめない僕は部室に籠もるしかなかった。居場所の無さ、門脇先輩がいなくなった空虚さと後悔とに押し潰されそうになって、ただ穴の底で膝を抱えうずくまるしかなかった。

 そうしていたある日、気づけば隣に少女がいた。しゃべらず、息をしているのか分からないくらい静かで、僕と同じように穴の底で膝を抱えてじっとしている女の子が。

 それが椎名真琴だった。



 自宅最寄りの駅名がアナウンスされる。帰宅する人の群れに紛れて電車を降り、改札を通学定期で抜けながら、僕は携帯のアドレス帳を開いた。いくつかリストをスクロールして、目的の人物にメールを送る。

 返事はすぐに返ってきた。全文英字のエラーメッセージ。

 それが意味するところは……。

 暗い夜道、夜の紺色の中、電信棒の陰で白く発光する無機質な画面を見つめながら、僕は門脇先輩のことを考えた。彼女が今頃なにをしてるんだろうってことを想像し、想像することができないくらい門脇先輩のことを知らない自分を知って、無性に泣きたくなった。

 見上げた空には針のように細い下弦の月が浮かぶ。そして少しにじんでいた。

 椎名真琴。僕は、彼女のメールアドレスさえまだ知らない。

 僕は中央校舎の脇をすり抜け、その先の中庭の芝生を越えて僕は旧校舎に向かう。

 木造っぽさと古っぽさが入り混じるレトロな見た目の旧校舎。年季が入ったといえば聞こえはいいが、言い換えるとボロイってことでもある。一段のぼるたびに軋んだ音を鳴らす階段。木製の窓枠にたまったホコリの層。僕はそういう古臭い雰囲気を愛していたし、第二図書室という名の蔵書室――図書室で入れ替えた本を置くための物置みたいな場所だ――に漂う日に焼けた本たちの甘く乾いた匂いも好きだった。そしてそれを知っているのが門脇先輩と僕だけという事実も。

 四月も末になって、二年生初の中間試験が迫っていても、僕は第二図書室に通う毎日を送っていた。

 深草高校では試験の一週間前から部活動が禁止される。いまが二週間とちょっと前だから、あと数日の間に次の小説のアイデアを考えなくてはいけないというのに。

「うぅ……むむ……?」

 先ほどからノートに文字らしきものを書いてはいるが、断片的な単語ばかりでちっとも形になりやしない。ふとすると怪しげな呪文に見える。少女、解体、キマイラ、幽霊、世界終末。これで何をしようってんだ僕は。首をひねり、体をひねり、立ち上がって奇妙なポーズを取ったりしてみたが、閃きがまったくやってこない。頭を使いすぎて右のこめかみ辺りに頭痛がする。

「ふぬぬぬぬぬぬ」

 一時間も考えっぱなし、それなのに成果ゼロ、おまけに頭痛ときたら呻き声だってあげたくなるさ。

 湧かないアイデアの泉を掘るのは、一旦投げ出すことにしよう。頭痛を抑えるため、こめかみを指で揉んでいる最中、椅子に座って中空を睨む人物を見つけた。椎名だった。唇に指を当てて、何事かを考えている様子。

 今日、第二図書室の鍵を開けたときには僕ひとりだったのを確認している。ということは、僕が思考錯誤している最中にでも入ってきたんだろう。

 ちなみに今、僕は「間違えちゃった斬新なヨガ」みたいなポーズをしている。したままである。椎名に見られてるかもしれない、いや見られてるだろ。そう考えたらなんかめちゃくちゃ恥ずかしくなってきちゃったけど、ここまで来たならもういっそジョークの一つでも言ってごまかした方がいいか。いや、どうなんだ?

 そんな事を心配しながら結局同じポーズをとったままの僕を見ているのかいないのか、椎名のぷるぷる光るピンクの唇が動いた。

「……ジェントルゴースト・ストーリー」

「……何の話?」

「夏目くんが前に書いた、小説の話」

 揺れないはずのパイプ椅子を後ろに倒してバランスを取りながら椎名が話す。目的外の使われ方をしているパイプ椅子ごと、まるっと後ろに倒れてしまいそうでハラハラする。でも椎名は中空を見つめたままで、僕はポーズを取ったままだ。なんだこの空間。カオスだなぁ。いや、僕がおかしいポーズ取ってるのが変だってのは重々分かってるけどさ。

「幽霊が出てくるような話ってさ、基本ホラーになっちゃうんだよ。それも当然、そもそも死霊なんだから。日本だと『リング』とか『呪音』とかがそれかな。アメリカだとちょっと変わって『13日の金曜日』とか『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』とかチェーンソー怪人やらゾンビやらそっち方向に行っちゃうんだけど。ただイギリスのほうだと、ちょっと珍しい話があるみたいだね。幽霊すなわち悪者だー、って考えばかりじゃないんだってさ」

 表情をゆるめながら椎名が続ける。あれー、僕のポーズにツッコミなし?

「イギリスって貴族さまってのが割と多いらしくって。だからなのかな、お家柄っていうのか、歴史あるおうちには幽霊なんて居て当たり前。むしろご先祖さまは素晴らしいものだ、きっと助けてくれるに違いない! ……そんな考えがあるらしくってね。ほら、やさしい幽霊が助けてくれるって話、夏目くんも聞いたことくらいあるでしょ?」

「まあいくつか思い当たる節はあるよ。幽霊とはちょっと違うけど、鶴の恩返しとか笠地蔵とか、そういう話だろ」

 部室内をウロウロ歩き回ったりしていた僕の現在地は椎名の後ろ側、大きな本棚の陰で椎名の座る席からは少し見えにくい場所となる。一貫して僕の様子は無視したままの椎名。ひょっとして、椎名マジで僕に気づいてない? いい加減、足が辛くなってきた。 片足立ちのフラミンゴみたいなポーズのせいで、右足が軽い痙攣を起こし始める。

「そうそう。そこで、ですよ」

 紺色のスクールバッグをゴソゴソやる椎名の近くに、二足歩行に戻って近づいていく。「はいこれ」と椎名から差し出されたのは一枚のルーズリーフだった。

「なにこれ」

 僕は受け取ったルーズリーフの紙面に大雑把に目を走らせる。人名、題、カッコ書き……書名と作者名、のリスト?

「興味もったついでに色々読んで、参考になりそうなの探してきたってわけ。同じようなパターンの小説をさ。まずは先人の路を辿れ、ってね」

 驚いた。何を驚いたかって、彼女が僕の手伝いみたいなことをしてくれるのが意外だったからだ。今までこんなこと無かったのに。それに椎名から手渡されたルーズリーフに書かれた文字、それが女子高生特有の丸文字じゃなく楷書で整えられた文字ってのにも驚く。

「その、なんていうか……ありがとう、椎名」

 素直に、そう言葉が出た。

「ふふ。いいえ、どういたしまして」

 椎名の小さな笑い声が僕の耳をくすぐる。優しげでやわらかくって、暖かい……そんな笑い声だった。全身までくすぐったくなってきて自然と笑ってしまうような、例えるなら母親が浮かべるような母性愛に満ちた笑いというのか。そういう笑いを浮かべた椎名を見て、僕は椎名のことを急に意識してしまった。

 黙々と本を読んで「じゃ」の一言もなくいつの間にか消えてしまう椎名とは思えないくらい、僕のことを考えてくれているのが伝わったし、空気の温度が上昇したような気もする。脈拍も上がってそうだ。

 椎名のその笑顔と笑い声で、僕はとてもあったかくなった。

 幸せってものの感触がもしあるとするなら、いま僕が感じているこれが、これこそが幸せなんじゃないか。何もかもが溶けそうな、ぽわぽわしたあったかい感覚。

 生きてるって、なんて素晴らしいことなんだろう。ほんとに最高すぎて消えてしまいそう。

「でさ、夏目くん。一つ聞いていい?」

「なに椎名? なんでもどうぞ!」

「隅っこでやってたあのポーズとかって新しい筋トレとか?」

 笑顔を強張らせた僕は、幸せなんてすぐ消えてしまうものだと知った。恥ずかしさで死ねるなら今すぐ死ねそう。いや死ぬ。



 中間試験が終わるのと同時に春も終わってしまったようで、夏の季節が少しずつ近づいてくるのが肌でわかる。梅雨の湿気で肌がべたつくからだ。

 深草高校は衣替えの時期を明確に定めていない。生徒それぞれの判断でいつ夏服に変えてしまっても構わない。だからみんな上着なんて脱ぎ捨てて、シャツの長袖を肘までまくり上げている。暑がりの生徒に至っては半袖のカッターシャツで登校してくるくらいだ。

 かくいう僕も、第二図書室でシャツの袖をまくり上げて蒸し暑さにうなだれている。冷房を入れたのがついさっきで、まだ部屋内には蒸し暑い空気が漂っている。机に置いた腕と机との接地面がべたついて鬱陶しい。

 何もする気が起きないでぼーっとしている僕の耳に、慌ただしく廊下を走る音が入ってきた。足音はどんどん大きくなる。そしてぴたっと止んだかと思った瞬間に、驚くほど力なく引き戸が開かれた。

「あっつーい……」

 腕をだらんと下げ、スクールバッグを振り子のように揺らしている椎名がふらつきながら入ってきた。見るからに憔悴している。ふらふら左右に揺れる椎名は、僕と差し向かいの席に着いて、エアコンの位置を見上げ、しんどそうに立ちあがり一番風の当たる席へ移動し直した。

 そこ、僕の隣なんだけど。

 エアコンから吹き出す冷風を浴びて、椎名が目を細める。

「すずしーい……」

 冷房の風を分け合って、僕と椎名はしばらく涼んでいた。うなるコンバーターの音。規則的な掛け時計の音。冷やされていく部屋の空気。そんな音を聞きながら、お互い何も言わずに。

 しかしエアコンだけでは火照った椎名の身体を冷やしきれないらしく、彼女は自分のうちわを取り出して扇ぎ始めた。それを見て、僕も下敷きを取り出す。

 パタパタかわいらしい音で椎名は扇ぎ、ぺこんぺこん間の抜けた音で僕は下敷きを振る。

 パタパタパタパタ、ペコンペコンペコン……。そうしてたっぷり五分くらい涼んでから「私たちも、なんだかんだで進路を決めるときなんだね」と感慨深そうに椎名がつぶやいた。僕はそれに生返事を返しながら、今日渡されたプリントのことを思い出す。

 高校二年、大学受験、進路選択――。去年まではずっと遠くにあると思っていたことが、一気に目の前に現れたような気がする。先生たちは「すぐだすぐだ」と言っていたけれどその時にはまだ実感なんて全然なくて、だから今どうすればいいのかを考えなきゃいけない。

 でもそういう真面目くさった事を考えることを、僕たちはあまり経験してこなかった。誰かに手を取られ、みんなが進む方に行くように教えられてきた。選ぶことをしなくたって、勝手に進むことができたのに。

 僕は何になりたいのか、そしてどこに向かえばいいんだろう……。

「……椎名はもう決めてある?」

 他人はどう考えているのか知りたくて、僕は椎名に尋ねてみる。だけど腕を抱いた椎名の口からは、言葉は何も出てこずに、ただ唸り声だけが漏れていた。

「こんな状況で進路希望出せって言われてもねえ……」

「進路希望?」

怪訝な表情を浮かべた椎名は小首を傾げている。

「あれ、そっちのクラスはまだ配られてないのか」

 僕のクラスに今日配られたのは、進路希望調査票だった。区切られた枠の中に卒業したらどうするのかを書かなきゃいけない。記載されている進路は大まかに分けると、進学と就職の二択で、その他に丸をつけるなら担任に別途相談となっている。

 調査票を鞄から取り出して広げる。乱雑に詰め込まれた教科書たちに圧され、手に持つ志望校調査のプリントにはシワがより、角がクシャクシャに折れていた。

「こっちのクラスは、ホームルームで配られたけど」

 椎名は調査票を見てから、何もしゃべらない。指を唇に当て、考え込む様子を見せている。

「椎名?」

「……あ、ああ。ごめん。ちょっと考えごとしてたよ」

 早口でそう言うと、椎名は僕のほうを見た。

「ねえ、夏目くん」

 椎名の瞳には、何か戸惑いが浮かんでいた。言いにくそうに口をもごもごさせて、閉じて、またもごもごさせて――それを何度か繰り返して、椎名は決心したように、僕を見据えた。

「あのさ、最近ここに幽霊が出るってウワサ、知ってる?」

「幽霊? ……ううん、初めて聞いたな」

「そう――」

 僕の返答を聞いて、椎名は視線を机に落とした。眉を寄せてなにか考え込んでいるようだった。

「椎名?」

「……今日は帰るね」

 椎名が席から立ち上がって僕が止める間もなく部屋から出ていく。開けられた扉をそのままにして、彼女の足音がだんだんと遠ざかっていく。



 椎名と気まずい雰囲気で別れてから数日が経った。けれども未だ梅雨空は明けないまま、どんよりとした曇りが続いている。

 あの日から椎名の姿を見かけていない。僕は彼女がどこのクラスの生徒なのか聞いてなかったし、椎名に僕のクラスを教える機会がなかったから、彼女も僕のクラスを知らないだろう。お互いに知っているのは名前だけだ。例えば僕と椎名の出会いが、同じクラスで自己紹介と挨拶から始まるような出会いだったなら、ここまでズレが生じることはなかったと思う。

 だけど僕には一つ気がかりなことがあった。クラスの中で耳にした一つの噂話だ。

『旧校舎に幽霊が出る』

 旧校舎の屋上に、飛び降りた男子生徒の霊が出るとか、男子じゃなくて女子だとか、後者の中をさ迷っているとか、いろいろなパターンの噂が流れている。一貫しているのは旧校舎に幽霊が出るってことらしい。

 ばかばかしい。そう思った。なのに、どこか引っかかる部分があった。

 思い返してみれば、僕は椎名の名前しか知らない。出会って二月も経つのに、だ。きっと僕の気のせいだろう。そう思おうとしても、なぜか素直に飲み込めない自分がいる。

 僕の脳内に沸き起こるイメージ。

 木造の古ぼけた旧校舎。うす暗くて人気のない廊下。闇に軋む階段の音。学校に存在していない女子生徒。いつの間にか現れて気づかぬ間に消えている、神出鬼没の少女。そういえば春先に怖い思いを僕はしていた。まさかな……。

 それから数日、梅雨の蒸し暑い気候の中、椎名を探して学校中を回ってみた。一学年七クラス、一般・進学・特進コースに分かれてるせいで中央校舎と本校舎に分離してしまっている二年生の全部のクラスを、廊下から覗いてみたり学年集会のときにそれとなく見回したりして探した。だけど椎名が見つからない。僕は椎名が二年生だと思い込んでいたけれども、思い返してみると僕は椎名のことをほとんど何も知らないのだ。二年生でないなら、下級生か上級生だ。そう目星をつけて他学年の生徒の名前を知ることができるものを考えてみた。そうやって思いついたのが、全校生徒の名簿だった。だけどそれは一介の生徒が見られるようなものじゃない。たぶん駄目だろうと思いながら職員室の担任に頼みに行ったら、担任は椅子に座ったまま、プライバシーと個人情報保護の問題から僕には見せられないって言う。やっぱりね。じゃあ、と僕の代わりに調べてもらおうとしたら断わられた。

 本来ならそこで手が尽きていたはずだったけれども、僕にはあと一人だけ頼れそうな人がいた。文芸部の顧問である国語教師の田中先生だ。顧問を引き継いだばかりの二十代半ばというフレッシュな先生は、野球部出身らしく良くも悪くも真っ直ぐな性格をしている。だからきっと真っ当な理由があれば生徒の頼みを無碍に断らないし断れないはずだ。そういう打算的な考えとゲスな微笑みを浮かべて、僕は全校生徒の名前を調べるための「真っ当な理由」を生みだすのに専念した。苦労の甲斐あって田中先生は快くオーケーしてくれた。



 そこから三日ほどおいて、田中先生に廊下で僕は呼び止められる。

 立ち話をするのも目立つので、先生に目配せをして階段のほうへ二人して移動する。周囲に人がいないことを確認してから、田中先生が切り出した。

「あのさ、調べ物の話なんだけど。ほんとうに『椎名真琴さん』で間違いないんだよね?」

 田中先生の顔に浮かぶ困惑が、僕の胸をざわつかせた。背筋を走る悪寒に髪の毛が逆立つ錯覚を覚える。

 先生の口がスローモーションで動く。その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。



 椎名真琴という名前の生徒は、深草高校に在籍していない。

 そして彼女は五年前の卒業生――。

 田中先生が発したその事実、僕に去来した衝撃が、あちこちの記憶や思い出を巻き込んで僕の頭の中を掻き回す。

 予鈴のチャイムが鳴った。頭の中が衝撃で何もかも弾き出されたみたいに何も考えることができない。田中先生が次の授業のために、駆け足で遠ざかる。先生の姿が見えなくなるまで僕は動くことができなかった。

 そしてチャイムの残響音も消えたころ、四時間目がすぐはじまるというのに、僕の足は職員室に向かって動いた。一人になりたかった。一人になって考えないと、頭の容量いっぱいに情報が詰め込まれ過ぎてて、今のままじゃパンクしそうだった。

 職員室に到着し入り口近くにいる先生に適当に言い訳をつけて第二図書室の鍵を入手する。ふらふらする体をなんとか倒れないようにするのんで精一杯だった。

第二図書室内、僕の正面、ガラス窓の上に取り付けられている掛け時計が、十一時六分を差している。世界史の授業はもう始まっている時間だ。

 パイプ椅子を引き、ドサッと倒れこむように腰を下ろした。じーんとした痺れが尻から伝わるが、そんなのに構ってる暇はない。

 椎名が五年前の卒業生だって? この学校に在籍してない? じゃあ、彼女は――僕の知っている『椎名真琴』は誰なんだ?

 さまざまな疑問が浮かんでは消える。田中先生からの情報だと『椎名真琴』って名前の女子は今の深草高校には存在していない。また『真琴』という名前の生徒もいなかったらしい。家庭内の事情で苗字が変わって『××真琴』になった可能性もないわけだ。

 僕は椎名と過ごした時間を振り返って考えてみる。記憶を掘り起こせば掘り起こすほど、想像が悪い方向に傾いていくのを止められない。思い返してみれば、椎名は僕と一緒に下校しようしたことはなかった。むしろ避けようとしていたようにも思える。それに登校のときだって、一度さえ見かけたことがない。

 そこからむくむくと非現実的な想像。

 幽霊――。

 首を振って僕は否定する。いや、そんな事はありえない。だけど。いくつものイメージが頭の中をぐるぐる回って僕を混乱させる。



 昼からの授業には出席し、放課後になって僕は動いた。

「そういえば四時間目サボったんだって。何してたんだい」隣を歩く田中先生が尋ねてくる。

「ああ、ちょっと腹痛でトイレに籠もりきりでした。古い牛乳飲んだのが悪かったみたいで」

「ああ、なるほど。そりゃ保健室にも行けないわけだ」

 なごやかに話しながら、田中先生と一緒に図書室へ向かう。

「腹痛。今はもう大丈夫なの?」

「ええ、おかげさまで」

 だって仮病だから。すみません田中先生。

「それにしてもビックリしたなぁ。てっきりうちの学校の生徒だと思ってたから、もう卒業してるなんてね」

 田中先生はとぼけて笑いを誘う。

「でもなんだって図書室に。前の調べものと関係あるのかな」

「ああ、はい。ちょっと見せてもらいたいものがあって。でも書架に入るのには先生の許可が必要らしいんです」

「それも『椎名さん』と関係があったりするの?」

「まあ……そんなところです」

 僕たちは本校舎の最上階突き当たり、図書室の書架、蔵書室と呼ばれる部屋に向かった。

 図書室の書架は過去の卒業アルバムや資料を所蔵しているはずだ。だったら過去の卒業生について何らかの情報を得られるかもしれない――。そう考えた僕は放課後の蔵書室に入ろうとして、司書の先生に止められたのだ。「許可証の提示」か「教師の同伴」でないと生徒は入室できないと。

許可証を作ってもらうのには時間が掛かる。そう判断して、僕は職員室にいた田中先生に同伴してもらっているところだった。

「そういえばさ、文芸部って今は君だけだったよね」

「そうですけど」

「他に誰か部員がいたり……なんてしないよね?」

 とっさに反応ができなかった。先生は、何を言ってるんだ?

「や、やめてくださいよ先生。最近はやりの旧校舎の幽霊ってやつですか。そんなのいるわけないでしょう。脅かさないでくださいよ」

 意識してないのに、早口でまくし立ててしまう。幽霊なんているわけがない。椎名はきっとこの学校のどこかにいるはずだ。

「いやーごめんごめん。ちょっと確認したかっただけだから」

「びっくりしたじゃないですか」

「じゃあ僕は行くけど、あんまり変なことはしないでくれよ」

 蔵書室から出て行く田中先生の背中に礼を言う。笑顔で振り向き右手を上げる田中先生に感謝しながら、僕は明かりの少ない蔵書室を探索することにした。窓は書物や書類の日焼けを防止するためだろう、遮光カーテンが垂れ下がっている。蛍光灯の光量も十分とは言いがたく、部屋のうす暗さを完全に振り払うことはできていない。数列のメタルラックに並ぶ大量の書籍。僕は本が好きだからこういう空間にいると興奮してくる。

 いけない、いけない。僕がするべきことを思い出せ。

 棚はいくつかのジャンルに分けられているらしい。ありがたい事に背表紙に「二○○一年度文化祭予算」など細かく書かれてファイリングされている。僕が探すのは二○○八年度の卒業アルバムだ。高校の卒業アルバムの作りがどうなっているのか細かい仕様までは知らないけれど、僕が中学のときにもらったものとそれほど変わりやしないだろう。きっと顔がわかる写真くらいは載っているはず。

 目的のものはすぐに見つかった。立派な紙のケースに収められたアルバムを抜き出し、ケースを棚の上隙間に一旦差し込んでからアルバムを開く。目次から数ページめくると、ビンゴ! 生徒の顔写真が名前付きで載っている。それに、最初のページを見た時点で、僕は椎名が五年前の卒業生、あるいはその幽霊でないことを確信した。

 制服のデザインが、僕たちの着ているものを異なっていたからだ。

 今の僕たちが着ているのはおとなしめで、女子のスカートは暗いグレーにグリーンのチェック模様が入っている。けれども僕の見ている卒業アルバムの生徒たちは、暗いグレーに明るいオレンジのチェック模様が入っている。男子のほうも、同じオレンジのチェックの入ったズボンを穿いている。上着はおとなしい色のブレザーだけど、それゆえに制服の下の柄がすごく目立つ。僕ならこんな目立つ制服で登校したくない。五年前に入学してなくてよかったと心から思った。

 地味な制服に変更されたことに感謝しながら僕はアルバムをめくっていく。一組から順繰りに生徒の名前をざっと目で追い、椎名の名前を探す。椎名真琴、椎名真琴――。六組、椎名真琴。あった!

 アルバムに写る笑みを浮かべた少女は、やっぱり僕の知ってる『椎名真琴』じゃなかった。かわいいのはかわいいけれど、エネルギッシュに溢れてそうで社交的な性格をしているように見える。僕の知ってる椎名とはどちらかというと正反対だった。

 これで、旧校舎の幽霊と椎名真琴が別人であるということがわかった。いや、僕の知ってる『椎名真琴と名乗った少女』だな。

 だけど新しい疑問が湧き上がる。どうして彼女は名前を騙るなんて事をしたのかって謎が。スパイの潜入工作や結婚詐欺じゃあるまいし、一般の公立高校で、偽名を使わなきゃならない理由。

学校にいる以上、戸籍上の自分の名前を知っている相手は必ずいる。教師なんてのがその最たる例だ。そして教師が知ってるって事は、教師に偽名が使えないことを意味する。使ったとしても、訂正されるか否定されるか、あるいは冗談と取られるか……使うだけの理由が発生するとは考えられない。

 次に、教師に偽名が使えないって事実から推測できるのは、おそらくクラスメイトも椎名真琴の本当の名前を知っているだろうということ。教師に偽名が使えないというのは、教師の目の前で使えないってことと同じだ。教師と触れ合う機会の多い教室で、その目を掻い潜りながら知られず偽名を使うのは難しいだろう。使ったところで、自分の名前を呼ばれるときにバレるから使う意味もない。

 偽名を使う目的。それは自分の本名を知られたくないという点に尽きる。じゃあ教師の目が届かず、クラスメイトも近寄りそうにない場所――それはどこだ。僕くらいしか寄ることのない第二図書室。それはまさに偽名を使うのにうってつけってわけか。

 だけど。

 だけど、僕に偽名を使ってそれが何になるっていうんだ。

 椎名真琴が僕に本名を知られたくない理由。それが僕たちを取り巻くこの奇妙な状況につながっているんだと思う。

 それに名前を騙るなら、わざわざ同じ学校の生徒を名乗らずに中学の同級生とか、知らない名前を使えばよかったのに。どうして『椎名真琴』を選んだんだ。

 他に過去の椎名真琴に関する手がかりはないか探してみた。運動会、文化祭、修学旅行――そうやって調べていった先に、僕は決定的な手がかりを見つけた。

 過去の椎名真琴と、現在の『椎名真琴』をつなぐ手がかりを。

 僕の頭の中にいくつかのイメージがフラッシュする。旧校舎の一室。うす暗い廊下。いつか聞いた足音。幽霊。椎名真琴に感じた同族の匂い。教室の穴ぼこ。自分の居場所。『部活たちの墓場』――。

 それらが一つの線としてつながった瞬間、僕は走り出していた。

 蔵書室の扉を乱暴に開ける。突然の物音に、廊下にいた生徒たちが僕のほうを見る。けれどそんなのに構っちゃいられない。駆け抜ける僕を避ける生徒たち。突き当たりを右に折れてか階段を一段飛ばしで駆け下りる。手すりを強く引き寄せ、体を遠心力に任せて踊り場をターンする。三階、生徒の姿はない。二階、邪魔な奴らの脇を抜ける。一階が見えてきた。最後の数段を力任せに一気に飛ぶ。着地する。足に鈍い痺れが走る。構うな。構わず走るんだ。運動靴のグリップを利かせて、学校の敷地内を全力で走り抜ける。石畳の固い感触が芝生の柔らかい感触に変わって、旧校舎の軋む廊下にたどり着く。靴を脱ぎ捨て、僕は走る。速く、もっと速く。何が自分を急かしているのか分からない。けれども今は、体を流れる熱さに身を任せるのが一番だと知っている。門脇先輩のときの失敗が、僕の体を駆り立てる。走れ、走れ、走れ――。

 一歩ごとに床板を踏み抜けそうなほど、力強く僕は木製の階段を一段飛ばし、二段飛ばしで駆け上がっていく。

 目的の部屋はもうそこにあるはずだ。三階にたどり着く。息が切れて、胸に空気が入っていかない。頭が熱にぼうっとする。けれども僕の体は止まることを知らない。視線が壁を、教室の扉をなめるように走る。

 見つけた、あの扉だ!



 扉を開けると、窓際に一人の少女が座っているのが見えた。

 僕は彼女を知っている。

 椎名真琴。僕は彼女のメールアドレスを知らない。

 本当の名前さえ知らなかった。

 椎名を見つけたことにほっとして、すると途端に体が重くなった。膝に手をつかなきゃ今すぐ倒れてしまいそうだった。汗が吹き出て滴り落ちる。死ぬほど息苦しい。椎名が僕を見て驚いた表情をする。だけど何も言わない。言えそうにないほど硬直している。僕のほうから話さないと、状況が進みそうにもなさそうだ。

「はあ、はあ、はあ……」

 でも、ちょっとだけ息を整えさせてくれ。僕にだって、体力の限界がある。

 呼吸を整える間、僕は部屋の中を見回した。

 板張りの部屋で大きさは第二図書室より広く感じる。部屋の大きさは変わらないはずだけど、本棚がある分、第二図書室は手狭に感じるせいかもしれない。壁際にはダンボールがいくつか積まれていて、何に使うのかよくわからないポールみたいなのが、口を開けたダンボールのひとつから飛び出ている。きっと小道具だろう。机の上に冊子が散らばっている。部屋の備品はそれくらいだ。部屋の中にいるのは僕と椎名だけで他には誰もいない。

 もしかしたら人払いや場所変えをしなくちゃいけないかも、って考えてたけど杞憂で済んだみたいだ。

「なんで、ここに?」

「なんでって、そりゃあ……」

 椎名の顔が青ざめたように見えるのは、たぶん気のせいじゃないだろう。

「しばらく会ってなかったし、謝りたいことがあったから?」

 僕が一歩足を踏み入れると、椎名が距離を取るように身構えた。

「まあまずは、色々こんがらがってる僕たちの状況を整理していきたいとこなんだけど……その前に名前を聞いてもいいかな」

「……もう、何もかもお見通しってわけ?」

「そうでもないけれど……、まずは自己紹介からかな、って思って」

 これだけ堂々としてる女の子が、入って二か月かそこらの新入生だとは僕に思えなかった。

 椎名はため息をついて、首を振った。動きに合わせて短い髪が揺れる。

「私は後回しにしてもらえる? それに名前を尋ねるときはまず自分からでしょ」

「それもそうか」

 まあ順番が前後するだけだから、変わりないっちゃないし、いいんだけど。

「じゃあ、改めまして。二年七組で文芸部の――越水九太郎です」



「初めは冗談のつもりだったんだよ。ええと……君が僕の名前を勘違いしてることに気づいたとき、すぐに教えておくべきだったのかもしれなかった」

「まず聞きたいんだけど。夏目――じゃなかった、越水くんって幽霊なの?」

「やっぱりね……。ちがうよ、ほら足だってあるだろ」

 右足を軽く上げて、ちょっとおどけてみせる。

「逆に訊きますけど、そっちだって幽霊じゃないよな?」

「そんなわけないじゃない。ほら」

 そう言って彼女は足を振り子みたいに前後へ揺らした。

「よかった。……僕が思うに、こんな状況になったのも幾つか偶然が重なった結果なんだよ。幽霊の正体見たり、枯れ尾花って言葉に聞き覚えはないか。椎名が……君が、『僕のことを幽霊だと思ってる』んじゃないかってことに気づいたのが、ほんのついさっきのこと」

 僕がこの部屋に入ってきたとき、彼女が青ざめた理由もきっとそれだろう。旧校舎に現れる幽霊。その噂では、幽霊は男だったり女だったり、話す人によって様々だった。

「僕たちが文化部で、あまり交流がなかったのも悪い方向に進んだ原因だと思う。運動部なら部室棟――そう、あの校庭にあるコンクリ打ちっぱなしの部室があるから、多少なりとも近所づきあいがあったかもしれないし、吹奏楽部とか軽音楽部なら人の出入りも激しいから、顔を見かけるくらいはあったと思う。だけど僕たちがいるのはこの旧校舎だった。廃部寸前の部活ばっかりが集められた墓場みたいな場所だよ。僕も文芸部以外の部活があるなんて今日まで知らなかった」

「ひどいね、新入生の部活紹介見ててくれなかったの?」

 彼女が文句を言う。表情はずいぶん不満げだ。

「一年も前のこと、そうそう覚えてらんないよ。それに僕は最初から文芸部に入ろうと思ってたし、たぶん部活の紹介はほとんど居眠りしてたんじゃないかな」

「呆れた。今年だって体育館で紹介あったのに」

「文芸部が人前に出て話すことなんて何もないよ。しゃべりで面白がらせるのは苦手なんだ」

「だから今年は出なかったのね。はー、そりゃ部員も入ってこないわけだわ」

 納得したように頷きながら彼女は僕を皮肉る。その言葉にむっとして僕は言い返した。

「そういうそっちだって、潰れかけてる弱小部には違いないだろ。文芸部があるなんて知らなかったんじゃないか?」

「さあ。それはどうでしょう」

 僕の問いかけは、意味深な笑みで返された。

「まあ要するに、第二図書室ではじめて会ったとき、椎名は僕の名前を『夏目九朗』だって思い込んだ、って考えたんだ。……ほんとうに冗談のつもりだったんだよ、最初は」

 冗談にしては、随分と尾を引っ張ってしまったものだと思う。

「だけどネタ晴らしする機会を伺ってるうちに、いつからか学校内に幽霊の噂話が出回ってしまった。それだけならどこの学校にだってある七不思議系のホラ話で済んだんだろうけど、幸か不幸か、僕と椎名はお互いに偽名を名乗っていた。これが奇妙なねじれを生んだんだ。田中先生に頼んで『椎名真琴』って名前で全校生徒の名簿を見てもらって、名前が載ってないって言われた時は、びっくり仰天で心臓止まるとこだったよ。五年前の卒業生だって。加えて旧校舎に幽霊が出るなんて言われたら――椎名真琴は幽霊なんじゃないか? ってちょっぴり信じるくらいはしてもおかしくないだろ」

 蔵書室に向かう途中の、田中先生の様子を思い出す。

「ついさっき田中先生に『文芸部にほかの部員はいないか?』なんて訊かれて僕は死ぬほど怖かったよ。椎名のことを幽霊だって信じかけてたから。卒業した椎名さんの載っている卒業アルバムが見つからなかったら、本当に椎名のことを幽霊って完全に思い込んでたね。アルバムの最後のほう、演劇部の集合写真に椎名さんが写ってたのが幸いして、椎名が――ああもう、呼びにくいな。とりあえず、椎名がここにいるってわかったわけ」

「でも、もし椎名さんが演劇部じゃなかったらどうしてたの? 部活動の写真に写ってなくて、集合写真だけだったら?」

「たぶんその可能性は無いよ。だってもし卒業してった椎名さんが演劇部じゃなかったなら、椎名は他の部員の名前を使えば済みますし。偽名が椎名からナントカに変わるだけだ。それに、話を戻すけど卒業アルバムだぞ。たとえその場の写真に写らなかったとしても、別の日に撮影するか、あるいは右上に切り抜きで貼られるかの違いはあるにしろ、部活に所属してる人間が卒業アルバムの部活動の写真に載らないことはあり得ないって。途中で退部したりしなければね」

「途中で退部してた場合は?」

「それはもうお手上げ――って言いたいところだけど、実は、まだ探すことはできそうだった。田中先生から聞いたんだけれど、椎名さんは『五年前』の卒業生だって言ってた。それが分かるってことは、それを知ってる人がいるってことだろ。だから椎名さんの事をその人へ訊きに行けばいいだけだ」

 唸るようにして考え込む椎名。どうやらそれなりに、僕の考えは正しかったらしい。

「……なるほど、演劇部まで来た理由はだいたいわかったよ」

「もうここまで来たら直接訊いちゃうけどさ、椎名も僕のことを探したりしてなかったか。『夏目』って名前で」

 椎名の口元をきゅっと引き結ばれ、彼女の眼が僕を睨みつける。見抜かれてしまってちょっと悔しいらしい。へへん、どうだ。

「……なんで田中先生は、君のペンネームを知らなかったの。顧問でしょ、なら発行した冊子のチェックとかあるんじゃないの」

 言葉の端に椎名の怒りがにじんでいる。おお怖い。けれど、僕は手を緩めることはしない。抗戦するなら徹底的に、だ。

「来年だったなら先生もすぐに分かったかもしれない。もしくは前の顧問の先生のままだったなら。でも田中先生は『今年』文芸部の顧問を引き継いだばかりで、年度末以来、まだ冊子は作ってない。だから原稿のチェック――僕のペンネームを知る機会もなかったんだ。僕みたいなのが書いた雑文もどきじゃ、あえて読みたいなんて思わないだろうし」

「夏目――じゃなかった。越水くんだっけ。よく頭が回るんだね」

「……テストじゃ散々だけど、ミステリ小説をいくつか読んでて、こういう推理ゲームにたまたま慣れてただけだよ」

「おみごとおみごと」

 小さくパチパチパチと拍手をする彼女。

「それで、そろそろ名前を教えてもらってもいいか。なんて呼べばいいのかわからなくって。つい、いつもの癖で話しちゃったけど。もしかして先輩だったりする? それとも後輩?」

「……いいよ。教えてあげる」

 彼女が椅子から立ち上がる。ただ立ち上がっただけなのに、妙に姿勢がキレイだ。さすが演劇部ってだけあるね。

 息を吸い、かつて椎名真琴と名乗っていた少女が、僕をまっすぐ見つめて名乗りを上げる。

「二年四組、門脇かなえ。どうも、お姉ちゃんがお世話になったようで」

「……えっ?」

 二年、だって? それに門脇って。

「改めてよろしく、越水くん」

「ちょ、ちょっと待ってくれ」

「はい、なんでしょう」

 とぼけた様子でそっぽ向く椎名――いや、門脇かなえだって言ったか。

「僕は二年生のクラスを全部探した。そのはずだ。全部のクラスを見たはずなのに、どこにもいなかったぞ!」

「……それはそうだろね」

「じゃあ一体どこに居たっていうんだ? 何回も偶然に僕の目を避けてたっていうのか? 一回や二回じゃないぜ。十回まではいかないにしても、移動教室で廊下を渡ったりするときに、ちょっと覗いたりはしてた。七、八回は探したはずだ。偶然にしては出来過ぎてるよ」

 僕は喚いたが、彼女――門脇かなえは冷ややかに見つめてくるだけだ。

「お手洗いに行ってたんだよ」

「僕が行く毎回毎回にか? 嘘だろ?」

「嘘じゃないよ」

 そこで一旦、かなえは大きく息を吸う。そして吐いた。いかにもこれから重要なことをしゃべりますよーって感じの間の作り方だった。

「……ここまで推理できた越水くんに一つ質問。ある生徒が休み時間や休憩のたび、毎度お手洗いに行くのはなぜでしょう?」

 休み時間のたびにトイレに行く理由。いきなり言われたってそんなの分かるか。特殊体質だとでも言うつもりか。それとも病気とかか。

「文化部の人間なら大体わかってくれると思うんだけどね。特に旧校舎に暇さえあれば立ち寄る越水くんなら、きっとよく分かってくれると思うんだけど」

「おい待て、それって僕に友達がいないって言ってるのと同じじゃねえか。暴言に等しいぞ」

「ちがうの?」

 僕は反論できなかった。

「気がつけばこうなっちゃったんだよね。なんか友達と疎遠になっちゃってさ。新しく作ろうにも話しかけてももうグループ固まっちゃってて割り込めないし、部は廃部寸前で部員もいないし。だから、知り合いが欲しかったのもあるし――こんな私を見られたくないってのもあったかな」

 門脇かなえは、普段僕としゃべっていたいつもと変わらない調子で話している。

 いや、あえてそう話そうとしている。何気ない風を装って重要なことを話すんだ、僕たちは。

 その中で、自虐する一言一言を言うたびに、門脇かなえの笑顔がどんどん固まっていくのを感じ取れた。目で見えない、触れもしない、けれど確かに存在する僕たちの柔らかな部分を、アスファルトに擦りつけられるような、あるいはナイフの切っ先を体感で感じ取れないくらいゆっくり深く刺し込んでいくような――、そういうタイプの自傷を感じていた。

 笑顔が、偽者の笑顔になっていく。

 痛みはない。

 けれど、平気なわけでも、ない。

「偽名を使うってのはさすがにやり過ぎだったかもしれないよ。でもさ、教室にいてみんなグループ同士で楽しそうにおしゃべりしてるのにさ、自分だけ一人でいるとこを見られるのって……それってさ、イヤっていうか……」

「……門脇、あのさ」

 それ以上言わなくていい。そう言おうと思ったのに、言葉が口から出てくれない。

 僕には彼女が何を言おうとしてるのか分かった。同じ経験をして、同じような境遇にいる僕たちは、似た感覚を持っている。

 だから頼む、それ以上言わないでくれ。

 だけど僕の声にならなかった願いは届くわけもなく、彼女は口にしてしまう。

「みじめじゃない……。そんなの」

 僕も、本当はそう思っていた。

「……本当は友達がほしいし、甘えてくる後輩も、頼りにできる先輩もほしいよ。でもないんだもん。手に入らないんだもん。じゃあ諦めるしかないじゃない……でも、諦めきることもできなくて……だから……だから私は……」

 僕には門脇かなえが感じてること、感じてきたこと、そして彼女がいま思っていることがちゃんと分かった。

 僕たちにはただ友情ってやつが手に入らなかっただけなんだ。

 でも、世間じゃそれを宝物のように喧伝している。恋だの愛だの友情だのって大声でうるさく喚いて触れ回っている。それがない奴は駄目人間だ、人間失格だって。気にしないでいようと思っても、僕たちはまだまだ弱いし影響されやすい。だから理想の頂点に置かれる恋愛どころか大多数が手にしてる友情さえ持っていない自分を、とても不安に思ってしまう。「これでいいのだ」の一言がいえない。

 ドラマみたいな熱烈な青春、ニュースになるような苛烈な境遇。そんなのはいらない。でも人並みには友情とか欲しい。僕たちが部室に立て籠もるのは、そういう欲望から目を背けるためなのかもしれない。せめて部活動をすることで、自分に彼らの持っていない何かがあるように思い込んで「自分にはクリエイティブな才能があるから、お前達にはないものがあるから、だから友達なんかいなくたって構わないんだ」ってポーズを取りたかっただけ……。

 気づけば、彼女の眼には涙が浮かんでいる。僕ももらい泣きしそうだった。ただ冗談だったはずなのに。笑える冗談から始まったはずなのに、哀しくて、虚しくて、何もない自分がイヤでたまらない。だけど泣きたくなかったから、ぐっと堪える。話をしただけで泣いてちゃ、この先どれだけ涙を流さなきゃいけないのか。僕は涙もろい方だからきっと干からびるくらい泣くにちがいない。だから、僕は耐えなきゃいけないんだ。

 そんな僕の決意とは裏腹に、門脇かなえの方はあっというまに涙がポロポロこぼれ出した。こういう時、女子はすぐ泣けるからいいよな。かなえちゃんよ。そんな事を考えて、笑えることを考えて泣かないよう、我慢しようと思っていたのに、かなえちゃんの泣き顔を見ていた僕の頬にも、温かいものが落ちる感触がした……。



「……あー、いっぱい泣いたらおなかすいた! なんか食べて帰ろ」

 散々泣き散らした門脇かなえは、色々吹っ切ったのかスッキリした顔をしている。眼は赤いけれど力に満ちていて、横顔は凜としていた。もう大丈夫だと思える輝きを放っている。

 だけど、僕のほうはというと……恥ずかしさで死にそうだった。女の子に号泣とはいかないまでも啜り泣きしてるところなんて見られたのは久しぶりだったし、どんな顔をすればいいのかわからない。あんまり顔を見られないようにうつむく感じで地面を見てはいるけれど。

「ああ……じゃあ、その、また明日な」

 そう言って僕は椎名が立ち去るのを待とうとした。彼女の足元、ピカピカのローファーを見ながら。

 だけどローファーに動く気配がない。気になって視線を上げてみると、椎名は「何を言われてるかわからない」といった感じのきょとんとした表情を浮かべていた。

「え、一緒に行かないの?」

「え、なんでそうなるの。一人で行くんじゃないの」

「えっ、私『なんか食べて帰ろ』って言ったよね」

 それって意思表示っていうか、独り言じゃなかったのか。

「いや、すごく自然に『さー食べに行くぞー』みたいな雰囲気だったし、一人で行くんだと思ってたんだけど」

「なんでそうなるの、越水」

 呼び捨てにされた。しかもすごく自然に。

「空、見てみなよ」

 彼女の言葉にしたがい、窓際に近寄ってカーテンの隙間から空を覗いた。

重たそうな雲が浮かんではいるけれど、その隙間を縫うようにして輝くのは、見るも鮮やかな夕焼けの太陽だった。オレンジというより紅に近い。

 刺すような光のまぶしさに目を細め、室内に退避すると、僕を出迎えたのは門脇が偉そうな顔。

「ふふん。日暮れに食べるラーメンはおいしいぞ」

 なんでこいつ、こんな偉そうにしてるんだ。

「ってことで、行こーか越水」

「いつの間にか呼び捨てなんだ……」

「そっちも好きに呼んでいいよ」

 いきなり呼び捨てにされて、しかも偉そうな態度を取られて腹が立たない人間がいるだろうか。僕は彼女のその言葉に、意地悪い笑みを浮かべ、からかってやった。

「じゃあ早く帰ろうか、『かなえちゃん』」

 その日、ラーメン二杯分の金が僕の財布から消えることになった。



「ん、なに?」

「なんでもないよ。かなえちゃん」

 僕がそう呼ぶと、彼女はラーメンを啜りながらぷくーっと頬を膨らませる。器用な芸当ができるもんだ。かなえちゃん呼びにはまだ慣れてないらしい。

 僕たちは通学に使っている駅前最寄りのラーメン屋に来ていた。駅前の立地だけあって客も多く、カウンター席もテーブル席も小さな店内いっぱいになっている。カウンターに二人並んで、僕は醤油ラーメンを、彼女はチャーシュー麺大盛りを頼んでいた。どうにもかなえちゃんには年頃の女子高生って自覚が足りないらしい。

 演劇部部室でかなえちゃん呼びした時にさんざん喰らわされたキックのせいで、右の太ももがまだ痺れている。カウンターのクッションがうすっぺらな椅子だと、足先がじんわり痺れてくるので、時折腰を浮かせて調節しなきゃいけない。

「なにモゾモゾしてんの、気持ち悪い」

「ちょっとこの前までと態度違いすぎない? かなえちゃん」

 こう呼ぶとかなえちゃんは黙り込むので、今のところは便利に使わせてもらっている。

 彼女がこの呼び方に慣れてきた時が恐ろしいことになるのは分かってるけれど。

「……『このとき彼は知らなかった。このかなえちゃん呼びが大きな悲劇を招くことを』……」

 隣で僕の方を見上げながら、何かを期待している門脇かなえ。

「変なナレーションつけるなって」

「ふふふ」

 こういう野暮なツッコミでよければ、いくらだってしてやるさ。



 かつて僕の隣に座っていたのは門脇先輩だった。その彼女はもういない。

 いまそこに座っているのはかなえちゃんだ。

 門脇先輩に比べると、髪が短くて、視力がよくて、残念なことに結構うるさい。一人だった穴の底はいくらか手狭になったし、出費も多くて意外と大変。

 けれど、僕の隣に座ってくれている。僕が彼女に合わせたり、彼女が僕に合わせたり、……僕が合わせることが大半だけど、それはそれで上手くやっていけるので不思議だ。

 二か月でこんな事があったんだから、これから先にはもっと大変なことがあるのかもしれない。体育祭、文化祭、修学旅行だってある。

 僕が彼女を待っていたように、彼女も僕を待っていたのかもしれない。だから彼女は第二図書室に来たんだと思うし、僕も彼女を迎え入れたのかもしれない。

 たぶん、いや、きっとそうだったって確信がある。

 だって僕と彼女は同じ嘘をついて、同じ事を考えるような、似た者同士なんだから。

 そんな事、隣で幸せそうにラーメンを啜るかなえちゃんの前じゃ、口が裂けても言えそうにないけど。

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