PTA~ヒーローオブジャスティス

山田佳江

第一話 最後の戦い

 二〇一〇年、P.T.A.(サイキック・タクティクス・アソシエイツ)一期生である本郷恵は『麻薬密売組織ファンシャン』解体の任務を担っていた。二年に及ぶ長い諜報活動と潜入捜査ののち、『実体のない男』の二つ名を持つ『ワン・ジョウシン』のアジトを突き止める。恵を崇拝する二期生の倉田光太郎とともに、異国のアジトに潜入した二人であったが、そこにいたのは……。


 第一話 最後の戦い


 非常ベルの音に動揺して逃げ惑う観光客に紛れ、本郷恵と倉田光太郎は堂々と正面玄関からホテルに潜入した。

「它不得進入!」

 ホテルマンには似つかわしくない屈強な身体つきをした男が、二人に気づき咎めようとする。恵はゆっくりと振り向き、男を見上げる。

「私たちにかまわないで」

 恵はまっすぐに男の目を見つめ、落ち着いた声で命令をする。彼が日本語を理解できているのかは不明だったが、通じていようが通じていまいが関係はない。

「宿泊客を全員避難させなさい。そして、私たちのことは忘れて」

「是的」

 ホテルマンは傀儡のように従順に、恵の指示に従う。だれかに雇われている人間を操るのは簡単だった。厄介なのは自分の意思で行動している人間だ。

 混雑しているフロント横のエレベーターを通り過ぎ、避難経路図を見て従業員用のエレベーターを探す。すれ違う宿泊客が、漆黒のジャンプスーツに身を包んだ二人を見て怪訝な顔をするが、自らの避難に忙しく、二人に構うことはなかった。


「やっぱりないですね、九階」

 搬入用エレベーターのボタンを眺め、光太郎が小さくため息をつく。このリゾートホテルの八階までは客室、十階はレストランとバー、屋上はプールと展望浴場になっていた。ホテルの内側からも外側からも、九階に行く手段はないように思えた。

「ワンがこんな搬入用エレベーターを使うと思う?」

「分かんないですねえ。だれも正体を見たことがないんだし、意外とスタッフに紛れて……」

「やつはそんな男じゃない。このアジトを見ればわかるでしょう。成金趣味でプライドの高いかっこつけよ」

 恵は長い廊下を眺める。客室の扉と扉のあいだには飾り棚があり、それぞれに絵画や陶芸品が飾られている。芸術的価値は分からないが額装だけはむやみに豪華に見える。

「うーん」

「プライドの高いかっこつけなら、秘密基地にどうやって行く? 光太郎」

「なんで僕に聞くんすか。恵先輩」

 不満気に口を尖らせながらも、光太郎は考えてみる。自分が巨万の富を得た麻薬密売組織のボスだとしたら。この都市の裏社会を牛耳り、一等地にある高級リゾートホテルの全てを好きにできるのだとしたら……。

「ロビー、かな」


 二階のフロントから一階のロビーまでは吹き抜けになっていて、壁側は滝を模したオブジェになっている。二階から微かに人々の声が聞こえるが、ロビーに人の姿はなかった。恵は滝の脇に置かれた彫刻に触れる。

「これ、指紋認証パネルかな」

「それっぽいですね。指紋認証か静脈認証か。触っても反応はないけど」

 彫刻の天使が持つバイブルに、黒いガラス板が埋め込まれている。手のひらを置いても、エラーメッセージなどは表示されない。恵は流れ落ちる水に手を伸ばし、その向こうの大理石の壁に触れる。

「ここに、継ぎ目がある」

 ホルスターから拳銃を取り出し、滝に向けて数発撃つ。サイレンサーが鈍い音を発しただけで、壁には傷一つつかなかった。

「ただの壁じゃないですね」

「光太郎、頼んだわ」

「えー、しょうがないなあ」

 迷惑そうな口調とは裏腹に、光太郎は誇らしげに両手を組み合わせる。レザーグローブのまま滝に手を入れ、壁の継ぎ目に指先を当てる。

「ふっ!」

 華奢な光太郎の三角筋が幾分膨らんで見え、壁はめきめきと音を立てて崩れていく。破壊された隙間を手がかりに、引き戸のように壁を横に動かす。

「秘密基地への専用エレベーターね」

「ほんとにあったとはなあ」

 水の壁を通りぬけ、二人はエレベーターの中に入る。恵がエレベーターのボタンを調べているあいだ、光太郎はボディバッグからプロテインバーを取り出し包装を破って食べ始める。肉体強化能力を発動すると、体力が尽きる前にまめに補給食を摂取する必要があるのが、彼の弱点だった。

「このエレベーター動くわ。ねえ、光太郎」

「ふぁい」

 恵に話しかけられ、光太郎は慌てて口の中のものを飲み込む。

「多分、九階に行けると思う。でもこれは罠かも知れない。そして、私たちは二度と戻って来られない可能性もある」

「覚悟の上ですよ。二年前に恵先輩と組んだときにね」

 恵はふっと力の抜けたように微笑んで、『9』と書かれた丸いボタンを押す。光太郎が破壊したせいか、エレベーターの扉は立て付けの悪い雨戸のような音をたててゆっくりと閉じる。

「色々あったけど、光太郎と一緒でよかった」

「えっ」

 思わぬ言葉に光太郎は心動かされる。恵はそんなことを言う女ではなかった。どのような任務に就こうとも、常に冷静で感情を廃した行動をとっていた。そんな彼女を光太郎は尊敬し崇拝していたのだ。だが、目の前にある恵の笑顔は、まるでごく普通に生きてきた二十代の女性のように映った。

「恵先輩! この戦いが終わったら俺とっ……」


 ド オ ン !!


 光太郎の言葉は爆発音に遮られた。地響きとともにエレベーターが停止する。光太郎が扉をこじ開けると、エレベーターはフロアとフロアのあいだに止まっているらしく、目の前は壁だった。上部にようやく通れる程度の隙間が開いていて、そこから霧のようなものが流れ込んでくる。

「煙……?」

 毒ガスの類ではなさそうだったが、二人は念のため首から黒いマスクを引き上げ鼻まで覆う。壁を這い上がると、そこは広いスイートルームのような部屋だった。白い霧が充満していて視界が悪い。恵は拳銃を構え部屋の奥へと進む。光太郎も全方位を警戒しながら恵に付いていく。

 奥には木製の机が、部屋の中央に向けて置かれていた。霧の向こうに人の姿が見える。椅子に座った人影に、銃を向けたまま恵は歩み寄った。スーツを着た男が革製の椅子に座っている。頭からすっぽりと、犬のマスクを被り俯いている。

「あなたがワン・ジョウシンね」

「んんんっ!」

 犬の額に銃口を突きつけると、その男は呻き声を上げた。

「えっ」

「す、鈴木博士!?」

 恵は犬のマスクをはぎ取る。その男はP.T.A.ラボの研究員、鈴木聡だった。乱暴にマスクを取ったためか眼鏡がずれ、口は粘着テープで塞がれている。テープを剥がすと、聡は絞りだすように言葉を発した。

「恵、光太郎、私に触れるんじゃない。直ちにここから逃げなさい」

「どうして……」

 恵は聡のそばに歩み寄る。グレーのスーツを着た両手は行儀よく両膝の上に置かれていて、微動だにしない。右側の袖からは青い導線が、左の袖からは赤い導線が、木製の机の引き出しに向かって伸びている。

「これ、爆弾……ですか?」

 光太郎が静かに引き出しを開けると、そこにはいかにも典型的な形の時限爆弾が入っていた。聡の袖から伸びる赤と青の導線と繋がり、液晶画面に赤い数字で『6:03』と表示されている。そしてその数字は一秒ずつカウントダウンしていた。

「こんな、こんなことって」

 恵は博士のずれた眼鏡をそっとなおし、スーツの前ボタンを開ける。二色のごく細い導線は複雑に身体に巻きつけられていて、少しでも動くと切れるか外れてしまうように見えた。

「博士はワンに会ったんですか」

「顔は見ていない。だが……」

 聡が恵から目を逸らす。彼がなにかを隠しているように感じた。聡に対して力を使いたくはなかったが、迷っている時間はなかった。恵は能力を発動する。

「鈴木博士、本当のことを言いなさい」

「……ワン・ジョウシンは『赤い導線を切れ』と言った」

「はあっ!? なんだそれ、ふざけてんのか!」

 恵に行動操作された聡は、眠気を振り払うように首を振る。その瞬間、再び爆発音と地響きがする。フロアの天井にひびが入り、水が漏れてくる。

「展望浴場からの水かしら」

「この湯気も上から降りてきてるみたいですね」

「ワンはこのアジトを捨てる気だ。時限爆弾も君たちをここに足止めするための時間稼ぎだろう」

「なんてやつなの。馬鹿にして」

 恵は怒りを抑えるために深く呼吸をする。敵のペースに乗せられてはいけない。ようやく奴のアジトを突き止めたのだ。このままワンを逃がすわけにはいかない。

「あと数分で、充分に逃げきれる自信があるってことか」

 これはワンの仕掛けたゲームだ。使い古された陳腐なクライマックス。『赤い導線を切れ』と言う指示に従うのか、裏の裏をかくのか、恵は逡巡する。

「もしワンの言葉を信じるのなら、一つの導線はタイマーに繋がっていて、もう一つの導線はトラップね。だけどどちらを切っても爆発する可能性だってある」

 天井がたわみ、ひび割れから熱い湯が雨のように降り注ぐ。部屋は水蒸気に満たされ、ミストサウナのようだった。

「二人とも逃げろ! この建物はもう保たな……」

 ズドオン! と大きな音とともに、天井が落ちてくる。

「ぐっ……!」

 降ってきた分厚いコンクリート製の天井を、光太郎は支えていた。聡の座っている机と、そばにいた恵はかろうじて無傷だった。ぎりぎりの力で支えてはいるものの、巨大なコンクリートの板を押し戻す体力は、光太郎に残っていなさそうだった。恵は彼のボディバックから迅速にプロテインバーを取り出し、それを口に咥えさせる。

「ぇうみふぇんふぁい!」

 プロテインバーを咀嚼しながら、光太郎は恵に告げる。

「ふぉれをっ、俺を操作してください!」

「でも、あれは危険だって!」

「今のこの状況の方がもっと危険ですよ!!」

 恵が光太郎を操れば、その肉体は限界を超え危機に瀕するかも知れない。だが、このままでは天井に潰されて死ぬか、時限爆弾が爆発して死ぬしかない。恵は自らを律し、冷静な判断を下す。

「光太郎」

 光太郎の頬に両手を添え、まっすぐにその瞳を見つめる。

「光太郎、あなたは無敵よ。その両腕は天をも押し返し、その両足は地を切り開くわ」

「恵……せんぱ……」

 光太郎の頬が紅潮し、恍惚とした声が漏れる。両腕の筋肉が肥大し、咆哮とともにコンクリートの板を跳ね除ける。

「奴だ!」

 十階の床はほぼ抜け落ち、鉄骨が剥き出しになっていた。更にその上の屋上にも巨大な穴が開き、展望浴場からの湯が流れ落ち、星空が見えている。屋上には今まさに、ヘリコプターに乗り込もうとしている男の姿があった。

「あいつが、ワン・ジョウシン……」

 聡が被せられていたのと同じマスクを被った男が、ヘリコプターから三人を見下ろす。気のせいか、恵には犬の面が笑っているように見えた。長い間追っていた敵をみすみす逃がすことになる、しかし、聡を見捨てていくわけにはいかなかった。

「もう床が持ちそうにない。導線を切るわ」

「どっちを?」

「どちらかはタイマーを切断する、どちらかは起爆装置オンにする、それなら……」

 ヘリコプターが飛び立つ音が聞こえる。恵はデスクトレイに置かれていた鋏を手に取る。

「両方を同時に切れば!」

 赤と青の導線を掴み、その両方を束ねて鋏で切断する。

「爆発、しない?」

 聡が震える両手を持ち上げる。切れた導線が袖からぶら下がっている。

「よかった……」

「でも、タイマー止まってないですよ」

「えっ!」

 赤いデジタル文字はカウントダウンを続けていた。『0:16』と表示されている。

「光太郎!!」

「うわああああああっ!!」

 恵に命じられるより先に、光太郎が動く。引き出しから爆弾を取り出し天高く放り投げる。それはミサイルのような速度で空を飛び、海上に向かって飛んでいたヘリコプターに命中する。


 ドオン!

 遠くで爆発音がする。光太郎が瓦礫を駆け上がり屋上から様子を伺うと、炎上したヘリコプターが黒い海に沈んでいくのが見えた。

「あ、あーあ」

 恵と聡も屋上に登ってくる。屋上のプールサイドは床が抜け、パラソルや椅子が散乱している。

「光太郎、ヘリを狙ったの?」

「まさか。市街地に落とすわけにもいかないですし、海に向かって投げようと思って」

 狙ったわけではないにせよ、結果的にワン・ジョウシンの乗ったヘリコプターは爆発し墜落した。もう、生きている可能性は低いだろう。恵は脱力して聡のそばに座り込む。

「……私、P.T.A.を抜けます」

「恵せんぱ……」

「どうしてそんなことを」

「この戦いが終わったら、生きて帰ることができたら、鈴木博士に告げようと思っていました。私、お腹の中に、あのときの子が……」

「恵……!」

「はあああっ!? なにそれ! いつのまにそんな関係に!」

 聡がひざまずき恵を抱き寄せる。二人のそばに歩み寄ろうとした光太郎が、膝から崩れ落ちる。限界を超えた能力を出した後だということを思い出すが、補給食を取り出す余力も残っておらず、光太郎はそのまま気を失った。

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