#022 悪いんだけど、もう手遅れ
デラックスダブルと言うより、単にスイートと言った方がわかりやすそうな部屋だった。洋風の小綺麗な、私の住んでいるワンルームをふたつ並べても足りない部屋の一角で、私と
「睦人くん、悪いんだけど、もう手遅れというか、これから私がいくらがんばっても二位にしかなれないと思う。」と言うのはゲームのことだ。「というか、どうしてこんなことに?」「朔良が、対戦ってやつをしてみたいって言うから。」具体的には、いただきストリートをしている。私の得意なボードゲームだ。モノポリーに似たもので、なるほど、お金を稼ぐゲームなら朔良ちゃんの才覚が光るということか。これまで朔良ちゃんの二戦二勝、どうしても三連敗は避けたいと思った睦人くんが、私に(連帯責任による)代打を頼もうとしたのが流れで、しかし私が着いた頃には時すでに遅し、睦人くんの三連敗は確定的になっていた。
わざわざ
「連帯責任はもういい、最後まで俺がやる。」と、睦人くんは意地を見せるらしかった。力強くコントローラーを握るが、画面では朔良ちゃんの高額物件から逃げるのがせいぜいで、それが正解の判断なのだから、すでに勝負は決している。
「兄貴は銭湯に行ったよ。駅前の、深夜もやってるやつさ。二年半ぶりにな。」と、睦人くんは聞いていないことに答え、「素直に泣いたらいいのに。あー、睦人さん、あたしとふたりきりじゃないと?」と、朔良ちゃんはボタンを押しながら戯けて、睦人くんは「うるせえ。」と、応じた。名称に“さん”は付くものの、朔良ちゃんの言葉遣いは私に対するのと違って、とても気安い。「ったく。連日で泣いてたまるか。」連日でなければ(たぶん、ふたりきりなら)泣くらしい。何だろう、むしろ睦人くんのほうがリードされているような。
「なんで銭湯?」と、問うと、「信じられるか? あの人、サウナで作品の構想を練るんだぜ。だから、二年半ぶりだ。」つまり、
「兄貴は、神を見たと言う。」結局、ゲームは朔良ちゃんの三戦三勝で終わった。「神と言っても、宗教的なやつじゃない。神性と言うほうが近いだろうな。」私の左隣、ダブルベッドの中央に腰掛けた睦人くんは言う。私は続きを聞くのを少しばかり恐れ、しかし何ができるでもなく、手もとにあった缶の烏龍茶で軽く喉を湿らせた。「その神性が何をもたらすかと言えば、兄貴の言うところ、救いなんだそうだ。」
私は拙く反論を試みた。「だからって、それで烏海奈尋の価値が失われるわけじゃ――」「わからないか?」睦人くんは立ち上がり、窓辺に寄り、光の点々と灯る街並みを見やった。「兄貴自身が、その神に救われたんだ。」コーラを
「兄貴は身をもって知ったんだよ。誰かを殺す自分の小説とは違う、誰かを救う小説ってものを。」ほのかなやりきれなさと共に、睦人くんはオレンジジュースをぐいと飲んだ。「正体はわからない。兄貴はとりあえずそれを神と呼んだ。自分には書けないそれを。」
押し黙って話を聞いていた朔良ちゃんが、ようやく口を開いた。「何か、わかります。」朔良ちゃんは缶の緑茶をちびりと飲んだ。「あっちゃん先輩の小説が、誰かを救うって、そのこと。」「これ以上は蛇足だ。」睦人くんは話を切った。「結局、誰もわかっちゃいないんだ。藤ノ木篤芽の小説が誰かを救うってことはわかっても、藤ノ木篤芽の小説に何が棲んでいるのかってことについては。」
せっかく取ってもらった部屋なのだからと、私はホテルのシングルルームにいた。布団もかけずにベッドに仰向けになり、天井の照明を見つめている。自宅ではないどこかで、環境を変えて、思いを至らせたいのはあった。
自覚はなかった。自分の小説が誰かを救い得るなんて、これっぽっちも。しかし、認めないわけにはいくまい。それがために、真滉さんは救われたというのだから――
瞬間、
息を呑んだ。
――ヒロ兄ね、篤芽ちゃんが本気で死ねって言ったら、絶対にすぐ死ぬから。
いつか言われた、カゴ先輩の言葉を思い出す。
私はずっと、ずっと、真滉さんの神であり続けているんだ。睦人くんは神性と言った。それは正しい。けれど真滉さんにとっては違う。私は、真滉さんを狂瀾の渦中から救った藤ノ木篤芽は、神そのものなんだ。だから、だから、私の意思が絶対の
――ややこしい関係になってんね。
カゴ先輩はそう言った。思わず乾いた笑みが浮いた。そりゃあややこしいだろう。自分の恋人に、自分を救った神が同居しているのだから。
真滉さんの気負いを思うと、今度は本当におかしく思った。幽霊どころじゃない、真滉さんは、自分を救った神に勝たねばならないのだ。
――俺は、昔の俺を棄てなきゃ勝てない。
真滉さんは言った。そうだろう。私に神を見たままでは、勝てる勝負にはならない。
勝とうとしている。
神の
神様よりも恋人としての私が優先されたことに安堵して、そして気づけば、私はそのまま眠りに落ちていた。
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私は欲しい。
それはあの人とひとつになれることではなく、約束ではなく、祈りではなく、さらには、ふたりの愛でもなく。
ずっと結び続けようと思える
私はまた結おう。
解けていい。
また結おう。
そうして、そうやって、無力を思い知りながらも、私は結い続けていたい。
綺麗な赤色はしていないだろう。
――――藤ノ木篤芽『
時雨心地がぬぐえない 香鳴裕人 @ayam4
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