#022 悪いんだけど、もう手遅れ



 デラックスダブルと言うより、単にスイートと言った方がわかりやすそうな部屋だった。洋風の小綺麗な、私の住んでいるワンルームをふたつ並べても足りない部屋の一角で、私と睦人むつとくん、そして朔良さくらちゃんは液晶テレビを並んで見つめている。

 「睦人くん、悪いんだけど、もう手遅れというか、これから私がいくらがんばっても二位にしかなれないと思う。」と言うのはゲームのことだ。「というか、どうしてこんなことに?」「朔良が、対戦ってやつをしてみたいって言うから。」具体的には、いただきストリートをしている。私の得意なボードゲームだ。モノポリーに似たもので、なるほど、お金を稼ぐゲームなら朔良ちゃんの才覚が光るということか。これまで朔良ちゃんの二戦二勝、どうしても三連敗は避けたいと思った睦人くんが、私に(連帯責任による)代打を頼もうとしたのが流れで、しかし私が着いた頃には時すでに遅し、睦人くんの三連敗は確定的になっていた。

 わざわざPSピーエスoneワン(要するに小型のプレイステーション)を買って持ち込んだというのだから、だんだんと朔良ちゃんが四番目だというげんが怪しく思われてくる。「うわぁ、素人相手に、わざわざ助け呼ぶ?」と朔良ちゃん、「うるせえ。ゲーム初心者のくせにやたら数字には強い四番目が悪い。」と、睦人くん。こうして見ていると(いくら埋め合わせだからってデラックスダブルの部屋を取ることといい、涙を見せることといい、烏海ううみ奈尋なひろの名を出すことといい)、実では朔良ちゃんが一番目のように思えてくるのだけど。照れ隠しとか、四番目にしていても逃げられないだろうとか、そういうのを背景に。

 「連帯責任はもういい、最後まで俺がやる。」と、睦人くんは意地を見せるらしかった。力強くコントローラーを握るが、画面では朔良ちゃんの高額物件から逃げるのがせいぜいで、それが正解の判断なのだから、すでに勝負は決している。

 「兄貴は銭湯に行ったよ。駅前の、深夜もやってるやつさ。二年半ぶりにな。」と、睦人くんは聞いていないことに答え、「素直に泣いたらいいのに。あー、睦人さん、あたしとふたりきりじゃないと?」と、朔良ちゃんはボタンを押しながら戯けて、睦人くんは「うるせえ。」と、応じた。名称に“さん”は付くものの、朔良ちゃんの言葉遣いは私に対するのと違って、とても気安い。「ったく。連日で泣いてたまるか。」連日でなければ(たぶん、ふたりきりなら)泣くらしい。何だろう、むしろ睦人くんのほうがリードされているような。

 「なんで銭湯?」と、問うと、「信じられるか? あの人、サウナで作品の構想を練るんだぜ。だから、二年半ぶりだ。」つまり、真滉まひろさんが作品の構想を練ること自体、執筆に前向きになること自体が、二年半ぶり、睦人くんにとって涙に値するような嬉しい事態だということ。「そりゃあ、不安はあるさ。どうしても。けど今回はあんたがいるから、少しは安心していられる。」と、睦人くんがどこか悔しげに言うそばで、朔良ちゃんは株で大儲けをしていた。


 「兄貴は、を見たと言う。」結局、ゲームは朔良ちゃんの三戦三勝で終わった。「神と言っても、宗教的なやつじゃない。と言うほうが近いだろうな。」私の左隣、ダブルベッドの中央に腰掛けた睦人くんは言う。私は続きを聞くのを少しばかり恐れ、しかし何ができるでもなく、手もとにあった缶の烏龍茶で軽く喉を湿らせた。「そのが何をもたらすかと言えば、兄貴の言うところ、なんだそうだ。」逢館おうだてにいた誰かが言い出した“伝説”、それを真滉さんは神と呼ぶ。おそらく、幽霊には違いない。

 びんのコーラをぐいと飲んでから、睦人くんは続けた。「絶対に、圧倒的に、自分では持ち得ないものを藤ノ木ふじのき篤芽あつめは持っている、兄貴は早くからそれを見抜いた。」ひと呼吸の間に、部屋はしんと静まり、空気が沈殿するように感じられた。「兄貴は言う。俺の小説は切りつけるだけで、誰かを救うことができない。けれど藤ノ木篤芽は違う。を持っている。誰かを救いうる小説を書く才能を。」血の気が引く思いだった。他の誰でもない、私はそれを、烏海奈尋に言わせしめたというのだ。「兄貴だって、それが何なのか、結局のところはわかっちゃいない。知れば真似をするだけだからな。ただ、を見たのは確かなんだそうだ。」

 私は拙く反論を試みた。「だからって、それで烏海奈尋の価値が失われるわけじゃ――」「わからないか?」睦人くんは立ち上がり、窓辺に寄り、光の点々と灯る街並みを見やった。「。」コーラをあおる。「あの時の兄貴がどれだけの奈落に落ちていたか。それを、たったひとりの高校生が書いた小説が。」睦人くんは部屋の隅の冷蔵庫を開けて、「酒は趣味じゃない、仕方ねえ。」と言い、オレンジジュースのびんを取り出し、栓を開けた。

 「兄貴は身をもって知ったんだよ。誰かを自分の小説とは違う、誰かを小説ってものを。」ほのかなやりきれなさと共に、睦人くんはオレンジジュースをぐいと飲んだ。「正体はわからない。兄貴はとりあえずそれを神と呼んだ。自分には書けないを。」

 押し黙って話を聞いていた朔良ちゃんが、ようやく口を開いた。「何か、わかります。」朔良ちゃんは缶の緑茶をちびりと飲んだ。「あっちゃん先輩の小説が、誰かを救うって、そのこと。」「これ以上は蛇足だ。」睦人くんは話を切った。「結局、誰もわかっちゃいないんだ。藤ノ木篤芽の小説が誰かを救うってことはわかっても、藤ノ木篤芽の小説に何が棲んでいるのかってことについては。」



 せっかく取ってもらった部屋なのだからと、私はホテルのシングルルームにいた。布団もかけずにベッドに仰向けになり、天井の照明を見つめている。自宅ではないどこかで、環境を変えて、思いを至らせたいのはあった。

 自覚はなかった。自分の小説が誰かを救い得るなんて、これっぽっちも。しかし、認めないわけにはいくまい。それがために、真滉さんは救われたというのだから――

 瞬間、

 息を呑んだ。

 ――ヒロ兄ね、篤芽ちゃんが本気で死ねって言ったら、絶対にすぐ死ぬから。

 いつか言われた、カゴ先輩の言葉を思い出す。

 私はずっと、ずっと、。睦人くんは神性と言った。それは正しい。けれど真滉さんにとっては違う。私は、真滉さんを狂瀾の渦中から救った藤ノ木篤芽は、なんだ。だから、だから、私の意思が絶対のめいになり得る。

 ――ややこしい関係になってんね。

 カゴ先輩はそう言った。思わず乾いた笑みが浮いた。そりゃあややこしいだろう。自分の恋人に、自分を救った神が同居しているのだから。

 真滉さんの気負いを思うと、今度は本当におかしく思った。幽霊どころじゃない、真滉さんは、自分を救った神に勝たねばならないのだ。

 ――俺は、昔の俺を棄てなきゃ勝てない。

 真滉さんは言った。そうだろう。私に神を見たままでは、勝てる勝負にはならない。

 勝とうとしている。

 神のめいではなく、恋人からの要望として、それはある。

 神様よりも恋人としての私が優先されたことに安堵して、そして気づけば、私はそのまま眠りに落ちていた。




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 私は欲しい。

 それはあの人とひとつになれることではなく、約束ではなく、祈りではなく、さらには、ふたりの愛でもなく。

 ずっと結び続けようと思えるひもが欲しいのだ。

 あわに解けてしまっていい。

 私はまた結おう。

 解けていい。

 また結おう。

 そうして、そうやって、無力を思い知りながらも、私は結い続けていたい。

 綺麗な赤色はしていないだろう。錆朱さびしゅに染まったその糸を、解けては拾い、拾い、また結い続く。拾い、結う。それが私の愛。

 錆朱さびしゅひもが欲しい。




 ――――藤ノ木篤芽『錆朱さびしゅ涓滴けんてき』より抜粋ばっすい




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時雨心地がぬぐえない 香鳴裕人 @ayam4

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