天地および責任の創造
はじめに神は天と地とを創造した。動物と、植物と、ひとつがいの人間を創造した。男はアダム、女はイヴと言い、彼らの住む園はエデンと言った。
アダムとイヴは裸であったが、服を着ている動物はいなかったため、恥ずかしいとは思わなかった。
それよりも問題は目下の空腹だった。今しがた創造されたふたりの原始人は、胃袋の内容物までは創造されなかったため、猿のようにウッホウッホと
神はアダムとイヴに言った。
「どの木からでも、心のままに取って食べてよい。ただし、あの知恵の木の実だけは、食べてはならぬ」
ふたりは言われたとおりに、そこら中の木の実を取っては食べ、取っては食べた。またたく間に周囲の食物を食べ尽くしてしまい、知恵の実だけがひとつ残った。それは食べてはならぬ実だ、と誰かに言われたような気がしたが、生まれたばかりのふたりの脳はいまだ不明瞭で、満足を知らぬ腹はあまりに
知恵の実をもいだふたりは、互いに顔を見合わせて、相手の判断を
「やあ、君たちは人間だね。その実を食べるかどうか迷っているのかい? 知恵の実はとても美味しいんだよ。食べると神様のように賢くなれるんだ」
その言葉に
知恵の果汁が
しばらく後、神が現れて、ふたりに言った。
「お前たちは私の言いつけに
だが、すでに全身に知恵を
「お待ち下さい、神様。なぜ私たちが罰せられるのですか。知恵の実を食べる以前の私たちは、いまだ衣服を知らぬほどに
イヴもこれに応えた。
「アダムの言うとおりです。はじめから神様が、ご自身の言いつけを
被造物が急に知恵をつけたことに驚いて、神は言った。
「もっともだ。では、お前たちは免罪とする。かわりに、お前たちを
というと、神はすぐさまに蛇を見つけ出し、その身を
「蛇よ。お前は自身のしたことの罰を受けねばならぬ。お前は地を
だが、蛇はエデンでもっとも
「おお、偉大なる神よ。確かに私めはあの人間たちに、知恵の実を食べるように仕向ました。しかしこの私自身、
これを聞いた神は、自身の行いを嘆いて言った。
「そのとおりだ。では、一体だれがこの世界で、罪の責任を負うだけの能力があるというのか。罰するべきは、この私自身しかおらぬではないか」
神は自身を罰することに決めた。こうして神は死んだ。
■
管理者のいなくなった楽園は、見る間に荒れ果てた。冷たい風が吹きすさび、ふたりは寒さに震えた。アダムは枯れ木を集めて火を起こし、イヴはその灰に火種を残した。こうして人は、かつて神がそうであったように、世界に光をあらしめる力を得た。
やがてアダムとイヴの間に、カインとアベルという息子が生まれた。息子たちは両親から知恵の実の力を継承し、生まれながらに人間の知恵を得て、神のいる世界を知らずに育った。
ふたりが成人する頃、いよいよ食料不足が深刻となったため、兄のカインは木を植えて、人類最初の果樹園をつくった。弟のアベルは羊を囲い、人類最初の牧場主となった。
その年の秋、ふたりは最初の成果物を両親に捧げたが、カインの果実を見てアダムとイヴは絶句した。彼の果樹園からもがれたそれは、かつて神に食べてはならぬと言われた知恵の実だったのだ。カインはそれと知らずに、両親の吐き捨てた種子をどこからか得て、栽培してしまったのだ。
アダムとイヴは、今や亡き神の言いつけを思い出し、果実を避け、羊だけを食した。これを見てカインはアベルに嫉妬し、野に連れ出して、アベルを殺した。
驚いたアダムとイヴは、カインを見つけて木に縛りつけ、なぜ弟を殺したのかと問いただした。するとカインは答えた。
「あなた達が私を愛さず、アベルだけを愛したからです。あなた達が私を愛してくれれば、このような事にはならなかった。アベルの死は、あなた達の罪です」
これを聞いたアダムとイヴは困惑した。ふたりはすでに知恵を得ており、「知恵の実を食べるなかれ」という神の言いつけを守るだけの能力を持っていた。したがって、それを破ることは許されないはずだった。だがカインは、罪の原因を作った自分たちこそが罪だ、という。
「おお、神様、どうすればいいのですか」
アダムは天に祈ったが、そこに神はなく、被造物である太陽が
日が暮れるまで考えても、両親は判断を下すことができず、茂みの奥へと隠れてしまった。縛られたままのカインの元に、一匹の老いた蛇が現れ、こう言った。
「やあ、困ったことになったね。君の両親は、責任を負うという力を神様から与えられなかった。だから今、この世界には、罪の責任を負える者が誰もいないんだ」
空腹ゆえの幻覚か、とカインは思ったが、蛇は話を続けた。
「君たち人間は、知恵の実によって神と同等の知恵を与えられた。だから君たち兄弟は今や、畑を耕し家畜を育てるという形で、生命を創造するという神のごとき力までも手にした。でも、神様のいない世界でやっていくには、知恵だけでは足りないんだ」
「蛇よ、私にどうしろと言うのだ」
「ちょうど君が縛られているこの木は、責任の実のなる木なんだ。思いきり踏ん張って、木を揺さぶってみるといい」
カインが力のかぎり木の幹を揺さぶると、頭上からひとつの木の実が落ちた。見たことのない実であったが、カインは足でこれを
エデンに日が昇るころ、アダムとイヴが目をさますと、縄をほどいたカインがふたりの前に立ってこう言った。
「父アダムよ、母イヴよ。私はいまから自分自身に、弟アベルを殺した罰を与えます。これから私はこのエデンを出て、ひとりで生きていきます」
罪の
こうしてカインとその子孫たちは、知恵と責任の力を得て、荒廃したエデンの外で生きていくことになった。神が死んだ近代社会では、個人がこれらの力を持たねば渡っていけないのだ。
石油玉になりたい(短編集) 柞刈湯葉 @yubais
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